桜井《さくらい》花音《かのん》は昔から「鶴の一声」扱いされることが多かった。
子供同士の口論が始まったとき、ふと気づいたことを桜井が言うと、みんなが納得することが多くて、問題が丸く収まることが度々あったからだ。
中学のときは、そのおかげで困ったことがあったら桜井に話を聞いてもらいたいと信者みたいな同級生もいたことがあった。
そんな桜井は高校に進学し、同級生たちともバラバラの進路になった。
相談役の役目も終わりだろうと思っていたところに届いた一通のメッセージ。
アプリで送られたメッセージの送り主は、普段あまり関わりのなかった元クラスメイトからだった。
久しぶりの声掛けから始まり、お互いの近情のやり取りをしたあと、その人はようやく用件を切り出してきた。
『実は桜井も知っている人のことで相談したいことがあるんだ』
桜井はその文面を見て、思わず苦笑してしまった。
どうやらお役目はまだまだ続くらしいと。
※
桜井花音は休みの日になると、いつも図書館にいるらしい。
工藤《くどう》穂乃花《ほのか》は、彼女に会うために自転車を走らせる。
今日は清々しいほどの晴天だ。透き通った空の青が、頭上にいっぱい広がっている。
春の穏やかな日差しは、道端の新緑を瑞々しく照らす。暖かな風が花の匂いを穂乃花のところまで運んでくれる。
それでも、塞ぎ込んだ気持ちまでは陽気にはならなかった。
だからこそ、彼女に会えば、穂乃花は気分が元に戻りそうな気がしていた。
図書館の駐輪場に到着して、心なし速足で入口へ向かう。
自動ドアを通り過ぎると、開放的なエントランスホールが広がる。
その先には広い通路が続き、両脇にはジャンルごとに本棚がいくつも置かれている。様々な年齢層の利用者を見かける。
穂乃花は彼女との待ち合わせ場所に向かう。
机と椅子がある利用者スペースだ。
案の定、本を読む彼女がいた。一人で黙々と。
長いストレートの黒髪をいつもどおり簡単に後ろで一つに束ねている。彼女の髪は、いつも羨ましいくらい艶々として、天使の輪みたいな光沢がある。
化粧っ気のない肌は、白く透き通り、滑らかだ。
高校生になっても相変わらずだなぁと、一か月ちょっとぶりに会う元クラスメイトを穂乃花は懐かしく感じる。
「ごめん桜井さん、待った?」
穂乃花が声をかけると、彼女はちらりと眼鏡のレンズ越しに視線をこちらに向けた。
切れ長の綺麗な瞳と目が合う。
「あれ、工藤さん? 眼鏡じゃないんだ?」
「うん、コンタクトにしたの」
穂乃花は中学まではずっと眼鏡だった。強い近視と乱視が入っていたため、牛乳瓶の底みたいな厚さのレンズだった。
ドジだからレンズを失くしそうとの理由で許可が今まで出なかったが、高校に入って親からやっとコンタクトレンズの使用を許してもらえたのだ。
「そうなんだ。まるで別人だね」
中学卒業後に穂乃花はバッサリと髪をショートボブにカットしていた。だから、桜井が言うとおりイメージはかなり変わっていた。
桜井はすぐに興味をなくしたようで視線をすぐに本に戻し、再び読み続ける。
「ごめん、もうちょっと区切りまで待って」
彼女のマイペースさも変わらない。
背筋がピッと一本通ったように、綺麗な姿勢をしている。
彼女の読書姿には、邪魔をしてはいけない尊さがあった。
「うん」
穂乃花は答えながら彼女の横の椅子に腰かけた。
今日は日曜日なので、お互いに私服だ。
先月までお互いに中学校のセーラー服姿だったから、彼女のパーカーにジーンズの格好は珍しい。
穂乃花を別人だと言う彼女こそ、装いを変えて化粧をすればファッション雑誌に載っているような美少女になると思った。
穂乃花はスマホをバッグから取り出して、時間を潰す。
ネットを閲覧していたら、パタンと本を閉じる音が隣から聞こえた。どうやら読書を中断したらしい。
「珍しいね、工藤さんから会いたいだなんて」
桜井は机の上に本を置き、穂乃花のほうを向いた。
先日、穂乃花は彼女にメッセージを送っていた。会って話がしたいと。
「だいたい私たちはクラスは一緒でも、特別仲が良かったわけじゃないよね?」
その彼女の率直な反応に穂乃花は苦笑いを浮かべる。
「うん、今日はわざわざ来てくれてありがとう」
桜井とは仲良くするグループが違っていた。彼女は文化部系。一方で穂乃花は帰宅部系だ。
桜井のこういう歯に衣を着せぬ物言いを穂乃花の親しい友人が苦手にしていた。だから、在学中は桜井とそれほど親しくなることはなく、今まで個人的にやり取りをすることもなかった。
彼女の連絡先を知っていたのは、クラスで連絡用のグループを作っていたからだ。
それなのに桜井に突然連絡をしたのは、穂乃花にとって重大な理由があったからだ。
「でも、どうして変に思っても来てくれたの?」
大して親しくもない人間からの誘いだ。断れるかもしれないと思っていた。
桜井は質問を聞いて、ニヤリとほくそ笑む。彼女の白く綺麗に揃った歯が見えた。
「ちょっと個人的に工藤さんの行動を疑問に思ったからだよ」
穂乃花は彼女らしい答えを聞いて、頼もしく感じた。やっぱり彼女に思い切って連絡して良かったと思った。
「実は、そういうところを今回期待して、相談したいことがあったの」
「やっぱりね」
桜井の口元が弧を描く。楽しそうに両目が輝いている。
彼女は興味のない話題だと、すぐに本の世界へ戻っていく。
中学卒業の寄せ書きにまで「いつも本を読んでいたね」って書かれるほど夢中だった。
「工藤さんの相談相手に指名されたことは光栄だけど、どうして私を頼ろうと思ったんだい?」
「だって、桜井さんは謎を解決したことがあったじゃない」
「私がそんな探偵みたいな真似をしたことがあった?」
桜井は考え込みながら首を傾げる。
「あったよー。不良のA谷くんに資料室の鍵紛失の疑いがかけられたときに真犯人を見つけたのは桜井さんだったでしょ?」
「あれは、ただ単に鍵の貸し出し履歴を追っただけだよ」
桜井はあっけらかんと事も無げに言う。
「で、でも! みんな最初からA谷くんを疑っていて、調べようともしなかったよ?」
「はいはい」
その桜井のそっけない態度に穂乃花は少しだけ不安を感じる。彼女を頼った理由に根拠がなければ、相談を断られるかもしれないと思ったからだ。だから、もっと納得できるだけの理由を述べなければと焦った。
「まだあるのよ」
「なに?」
「うちのクラスで大事なファイルがなくなったとき、あれも桜井さんがあっという間に見つけていたよ」
今度こそ穂乃花は自信を持っていた。
「あれって、白い分厚いファイルのこと?」
「そうそう!」
「あれは似たようなファイルがあったから、紛らわしいなぁって覚えていただけだよ?」
桜井は呆れた様子だ。
「と、とにかく。桜井さんの観察力や分析力はすごいなぁって私は思っていたの」
穂乃花は断られてはまずいと思い、必死になっていた。
「う、うん。分かったから、もうちょっと声は小さくね。今のあなたは、そうでなくても目立つから」
穂乃花は慌てて自分の口を押さえた。どうやら話に夢中になり過ぎて、声が大きくなり過ぎていたようだ。
「そうだね。場所を変えようか?」
穂乃花は桜井の提案に素直にうなずいた。
向かった先は、上階にある休憩スペースだ。空いているテーブルが一つだけあった。そこに座ると、さっそく桜井が期待に満ちた目を向けてくる。
どうやら穂乃花が抱えている問題を聞きたくて仕方がないらしい。
断られることはないようだと、少しだけ安心できた。
穂乃花はここの自販機で買ったお茶のペットボトルを桜井に渡す。
「これ、あげる」
「え、いいの?」
「今日来てもらったお礼」
「そっか、ありがとう」
桜井は遠慮せずに受け取り、さっそく飲み始める。
「で、工藤さん。話はなんだい?」
穂乃花は座りながら、口を開く。
「実はうちの高校で変な噂が流れているの」
「噂? 工藤さんがストーカーに遭っているわけでもなく?」
穂乃花はこちらをじっと見つめる桜井に黙ってうなずいた。
※
「芹沢《せりざわ》って、粕谷《かすや》先生と不倫したらしいぜ」
ある男子生徒が面白そうに放った一言は、教室中に響き渡った。
ちょうど今は昼休み。クラスメイトたちが雑談している中、よく通ったその声は皆の耳に入ったのか、一瞬でその場は静まり返った。
穂乃花も、その声を聞いた一人だ。
投じられた爆弾の威力は大きい。次の瞬間には、「え? 嘘、マジ?」と一斉にその話題に食らいつく。
「○×遊園地ってあるじゃん? あそこで二人抱き合っていたらしいぜ」
「ええ! 本当?」
「見た奴いてさ、直接そいつから聞いたから間違いないって」
「真面目そうなのにね」
「そういう奴ほどやばいんじゃない?」
高校生活が始まって一ケ月が過ぎた五月。最近の教室は、互いの会話にぎこちなさが無くなっていた。
けれども、穂乃花でさえ同じクラスの人の名前と顔を辛うじて覚えたばかり。芹沢の純朴な人柄までは知れ渡っていなかった。そのせいか、不在の彼に対して言いたい放題だ。
一方、相手の粕谷先生は多分三十代くらいで若くはないけど美人な女性だ。
入学式に穂乃花の母親も粕谷先生を見てびっくりして、ひそひそと話しかけてきたくらいだ。
「あの先生、すごい美人ね。誰かに似ている気がするんだけど、誰だったかしら?」
「うん、女優さんみたいだよね」
みたいなやり取りがあったくらいだ。
とにかく綺麗なので、印象に残る女性だ。
だから、遊園地という不特定多数がいる場所で、見つかってしまったんだと思う。
先生は左手の薬指に指輪をしている。しかも、保育園に通う幼い子供がいると先生自身が話していた。
穂乃花はそんなことを思い出しながら、卓上に伏せていた上半身を起こしたとき、動揺で胸がドキドキしていた。
(ちょうど芹沢くんがこの場にいなくて良かった――。)
まだ芹沢の話題でクラスメイトたちは盛り上がっている。
彼らと同じ空間にいること自体が苦痛になり、穂乃花が席を立って教室を出た矢先、廊下で一人の男子とぶつかりそうになった。
慌てて相手の顔を見上げると、噂の渦中その人だった。
「あ、芹沢くん! ごめんね」
「こちらこそ、ごめんね」
彼も申し訳なさそうな顔をしている。サラサラで清潔そうな短い前髪が、彼の瞳の上で揺れている。
彼に間近で見つめられ、相変わらずイケメンだなぁってしみじみ感心する。しかし、すぐに現実を思い出し、慌てて彼の手を掴む。
「く、工藤さん?」
「ごめんね。いきなりで悪いけど、ちょっと来て!」
穂乃花は芹沢を強引に引っ張って教室から遠ざかる。
「どうしたの、工藤さん?」
穂乃花は廊下の突き当りまで小走りし、戸惑う芹沢の声と共にようやく立ち止まった。非常階段と書かれた扉が目に入る。
人ごみの廊下を通り抜け、やっと辿り着いた僅かな空間。そこで穂乃花から解放された芹沢の頬は、上気して見るからに赤い。それは穂乃花が無理やり走らせたせいだろうと思い、少し申し訳なくなった。
廊下の壁一面に設置された窓ガラスからは、まぶしいほどの春陽が差し込んでいる。開いた窓から涼しい風が吹いてくる。
「なにか大事な話でもあるのかな?」
何か期待を込めたように瞳を輝かせて芹沢は穂乃花を見つめている。その状況にそぐわない彼の表情から、彼が噂について何も知らない可能性に気づく。穂乃花はますますばつが悪い感じがした。
「ごめんね、急に連れて来ちゃって……あの」
穂乃花は言いかけて、すぐに口ごもる。嘘をついて芹沢に知られないように気遣うべきか、正直に話すべきか迷ったからだ。けれども、いつものように優しげな笑みを浮かべて言葉を待つ彼を見て、すぐに答えは出た。
「その、芹沢くんに変な噂が流れていたから、教室にいないほうがいいと思ったの」
偽りのない説明に芹沢の二重の綺麗な瞳が何度か瞬きした。そして、彼の顔が不安そうに少し歪む。
「噂って?」
穂乃花は先ほど聞いた話を芹沢にも話した。
すると、彼は眉を寄せ、悲しそうな顔をした。
「気を遣わせてごめんね」
申し訳なさそうに謝る彼を見て、穂乃花はますます彼に同情した。
「ううん、あんな噂ひどいよね。全然信じてないから!」
穂乃花がそう強く励ますと、芹沢はなぜか顔をこわばらせた。
「……でも、先生と遊園地にいたのは本当のことなんだ」
彼の挙動不審な目は、穂乃花の顔色を明らかに窺っていた。予想外の反応に今度は穂乃花の目が瞬く。
「……じゃあ、抱き合っていたのは?」
「それも本当」
彼の言いにくそうな様子から、冗談ではないことはすぐに伝わった。
噂が本当だった――。
その事実に驚愕して、彼に返す言葉が見つからない。ただ彼を見つめ返すことしかできない。辛い沈黙が二人の間に訪れた。
周囲のざわめきが、この瞬間だけは嫌に耳に付く。
やがて、穂乃花の戸惑いに気付いたのか、芹沢は視線を外した。伏せられた長い睫毛が暗く下を向く。その彼の顔は、背筋がひやりとするくらい感情が削ぎ落されていた。
何か言わなくてはと穂乃花は焦るが、彼は無言で教室に戻っていく。その背中がとても悲しそうに見えたのは、きっと気のせいではなかった。
※
芹沢と気まずいまま放課後になった。なんとかしなければ。
下校するときが、芹沢と二人きりで話せるチャンスだ。彼も部活に入っていなかったはず。同じ地元出身だから、途中までは帰宅経路が同じだった。
穂乃花は芹沢が教室を出るタイミングを見計らっていた。
彼は自分の席でカバンに教科書を詰めていた。ふたをしてリュックを肩にかけたとき、他の男子が彼に話しかけてきた。
「なあ、芹沢」
「なに?」
「芹沢が粕谷先生と不倫しているって噂が流れているんだけど、本当?」
またクラスの視線が集まった。
みんな芹沢の返事に期待している。息をのむ音が聞こえそうなほど、静まり返っていた。
芹沢はみんなの視線に気づき、不快そうに眉をしかめる。
「違うけど。そんなサイテーなことしないから」
そう一言吐き捨てると、教室から足早に去っていく。
「お前、なに聞いているんだよ!」
「本当のこと、言えるわけないだろ?」
芹沢がいなくなったあと、周囲にいた男子たちが突っ込みを入れている。まるで冗談を言い合うような軽い口調だ。
悪意はないかもしれない。
それでも他人事とはいえ、穂乃花はとても嫌な気持ちになった。それが当の本人だったら、どれほど針のむしろだろう。
穂乃花は慌てて彼を追いかけていった。
ところが、芹沢の歩みはいつもよりも速く、穂乃花がやっと追いついたときは下駄箱の前だった。
「あの、芹沢くん!」
「なに?」
振り返った彼からとげとげしい雰囲気を感じた。ピクリとも笑っていないからだ。
「え、あ、工藤さん?」
けれども、話しかけた相手が穂乃花だと分かると、少し表情が和らいだ気がした。それでも、まだ怪訝そうに眉をひそめている。
「芹沢くん、一緒に帰らない?」
「え……?」
芹沢が戸惑った表情をする。いきなり誘ったから驚かせたのかもしれない。
「あの、話があるの。昼間の件で……」
穂乃花の言葉に芹沢は見るからに嫌そうな顔をした。
思ってもいない相手の反応に血の気が引く思いがした。
自分はまた何か間違えた対応をしたのでは。そう不安になった。
そのとき、こちらに他の生徒たちが賑やかに近づいてくる。彼らは穂乃花と芹沢に気づくと、不自然に足を止めた。
「あれ」
「あの噂の」
「一緒にいるの誰?」
「いいよな、モテる奴は」
穂乃花たちを見ながら、ヒソヒソと内輪で話している。
でも、声を潜めているみたいだが、興奮気味なので、こちらまで丸聞こえだ。
彼らの口調に含まれる好意的ではない、僻みのようなニュアンスは、穂乃花の体を無意識に竦ませる。
とても感じが悪かった。
けれども、相手は穂乃花よりもガタイの良い男子三人で、どんな人なのかも知らない。「止めて」という、たった三文字が怖くて言い返せなかった。
「工藤さん、僕に近づかないほうがいいよ」
「えっ!?」
聞こえた芹沢の声に驚いて、穂乃花は慌てて彼のほうを向く。彼は歯を食いしばるような顔をして俯いていた。こちらを見ようともしない。彼からとても強い拒絶を感じた。
「じゃあ」
芹沢は逃げように外靴を持って穂乃花から去っていく。
彼から避けられた。
冷や水を浴びたような辛い気持ちが襲ってくる。足元が震えそうになる。
穂乃花はショックのあまり、彼に何も言えなかった。
※
「と、いうわけなの。ね、色々とおかしいでしょ? こんがらがって訳が分からないから、桜井さんを頼ったの」
穂乃花は言いながら、思い出して泣きそうなほど悲しい気持ちになっていた。
「私のせいで芹沢くんを怒らせちゃったし、それに事実だけど不倫は事実じゃないって、どういうことなんだろう?」
芹沢の無実をきちんと証明したかった。
変な噂を止めたかった。
彼と仲直りもしたかった。
「うん、話はだいたい分かった」
工藤さんの必死な理由もね、と桜井は呟く。
「それで、桜井さんはどう思った?」
「いや、別に。それよりも、芹沢くんってかなりのヘタレだね」
「芹沢くんはヘタレじゃないよ」
「ヘタレだよ。私は彼と中学校から一緒だったけど、彼ってモテるくせにずっと好きな人がいるって断っていたらしいね。確か工藤さんは芹沢くんと昔から知り合いだから、その話は知っているよね?」
桜井の言うとおり、穂乃花と芹沢は幼稚園の頃からの付き合いだ。一度彼が小学校の途中で転校していなくなったが、三年後に中学校で彼と再会し、それから志望した高校も一緒だった上に偶然今は同じクラスだ。
「そうよ。だから、ヘタレじゃないって知っているの。それよりも、別にってどういうこと?」
穂乃花が話を戻すと、桜井はなぜか疲れたようにため息をついた。
「芹沢くんは不倫をしていないって言ったんだよね? それが真実じゃないのかな?」
「で、でも、粕谷先生と抱き合っていたのは事実だって……」
「それで工藤さんは信じたわけだ? その噂を」
「え、違うよ! でも……」
穂乃花は言いよどむ。
「抱き合っていたのは本当って言われて、びっくりした……。てっきり嘘だと思っていたから」
思い出して、穂乃花の胸の奥がざわざわしていた。
唇を思わず噛み締める。
「ふーん、脈がないわけじゃないんだ」
「え、どういうこと?」
「いや、こっちの話。ところで、相手の粕谷先生って何か処分とかあったの?」
「ううん、何も。普段通り授業をしているよ」
「そっか。それなら噂の件は、ミスリードが原因だと思うよ」
桜井はさらっと「肩に糸くずがついていたよ」くらいの軽い口調で、噂の説明を始めていた。
そのため、穂乃花はきょとんとするはめになった。
「あの、ミスリードってなに?」
「推理ものの小説でよく使われるんだよ。読み手にAだと思わせておいて、後半でBだと真実を出すんだ。要するに誤解させる方法」
「誤解? あ、もしかして」
「そう、始めに不倫というインパクトのある単語が出てしまった。そのせいで、抱き合うという動作が、男女の交際という意味に限定されてしまったんだと思う」
「でも、普段の生活で抱き合ったりしないよ? 特に先生と生徒なら」
「そう、だから誤解されるきっかけになった。誤解であって事実ではないのに、そんな噂が立ってしまったんだと思うけど。工藤さんは芹沢くんと幼馴染なら、彼の家について何か知ってる?」
「近所でもないし、特に何も聞いてないから知らないよ?」
「工藤さん自身が知らなくても、あなたの両親――特にお母さんは何か知っているかもしれないよ? お母さんは先生を誰かに似ているって言ってたんだよね?」
なぜ桜井がこんな質問をするのか、穂乃花は理解できなかった。
「答えは、工藤さんの過去にあると思うよ」
「過去……?」
「そう。私からはこれ以上この件については言えない。それはただの憶測になってしまうからね」
「でも」
「何か分かったら、また相談に乗るよ」
桜井はバッグから本を取り出した。しおりを挟んだページを開いて読み始める。
「う、うん……。分かった。今日はありがとう」
桜井は相談に興味を完全になくしていた。そんな彼女と会話は続けられない。
答えは自分の過去にあるなんて、意味が分からない。煙に巻かれたような気分だった。
穂乃花は図書館を去り、乗ってきた自転車で自宅に向かう。その帰路は、来たときとは違って、やたらペダルが重く感じた。
※
穂乃花は帰宅後、自室にいた。六畳のほどほどに片付いた部屋にあるのは、学習机と戸棚。さらにローベッドが壁際に置かれていて、その上で穂乃花は転がっている。何も手がつかない。
(桜井さんに会えば、きっと問題解決すると思っていたのに)
穂乃花の目の前にはスマホがある。今からでも芹沢にメッセージを送れば、彼と仲直りできるかもしれない。
(でも、どう言えばいいのか分からないよ。)
芹沢の暗い顔を思い出す。また間違えた対応をしたら、再び彼から拒絶されるかもしれない。取り返しのつかない状況だけは絶対に避けたかった。
『僕に近づかないほうがいいよ』
芹沢の声が脳内によみがえり、思わず涙が出そうになる。
桜井はミスリードだと言っていたが、他に理由が分からなかった。
芹沢と先生が二人抱き合っている姿を想像するだけで、穂乃花の胸中は複雑になる。
結局、何も言葉が浮かばず、彼にメッセージを送れなかった。
「私の過去にある、か――」
桜井の言葉が気になって、穂乃花は自室の戸棚にあったアルバムを取り出した。
ベッドに寝転びながら開けば、そこには中学時代の写真が収められている。
彼とは中学の頃に委員会が同じで一緒に活動したことがあった。環境整備という名のもと、もっぱらの仕事は花壇の手入れだった。
学校の中庭で、その委員全員並んで撮った写真の中にジャージ姿の穂乃花と芹沢もいる。
彼は笑うと目尻が下がるのだ。その優しそうな笑顔がいつも素敵だと思う。
「彼にはいっぱい助けてもらったんだよね」
穂乃花は独り言を呟きながら、当時の出来事を思い出していた。
夏休みに入る前、委員会の活動で学校の花壇の手入れをしていたときだ。
穂乃花が抱えていた肥料の袋を、すぐ傍でしゃがんで作業していた芹沢に掛けてしまったのだ。穂乃花は慌てて肥料を彼から取り除くが、鶏糞の臭いは相当きつい。
「工藤、何やってんだよ~。芹沢が可哀想だろ」
他の男子から文句を言われて、穂乃花は消え入りたい気分になった。
そんなとき、芹沢が穂乃花に笑顔を向けてくれたのだ。「工藤さん、気にしないで」と。
彼は優しく微笑みながら、自分の髪に掛かっている肥料を落としていた。
あのとき、彼があっけらかんと笑って許してくれたおかげで、ドジな自分は救われたのだ。
そのことを今でも穂乃花は彼に深く感謝している。
それ以外にも、穂乃花は芹沢の笑顔で何度も助けられてきた。
だから、彼の思いやりのある性格を穂乃花はよく知っているからこそ、今回の不倫という噂話を聞いたとき穂乃花は信じられなかった。
芹沢と噂になった粕谷先生は、国語の教師だ。ふわっとした長い髪の女性で、いつも髪留めで顔の横に流れないように整えている。しかも、大きな魅力的な目をしているかなりの美人だ。
授業中の先生はというと、丁寧かつ真面目で、きびきびとした印象である。
その先生と出会って一ケ月。授業でしか芹沢と先生は接点がないと思われるのに、いきなり二人が不倫関係とは不自然すぎる。
だとしたら、不倫ではない関係が、二人にはあったのかもしれない。
それは何なのか。
桜井の「憶測」という口ぶりから、彼女はなにか心当たりがあったみたいだった。
穂乃花は考えながらも昔のアルバムを見続けて、ベッドの上はいくつかの冊子が重なっている。中学一年まで思い出は遡り、まだ幼さの残る芹沢が写真の中で微笑んでいた。
穂乃花は小学生のときに眼鏡をかけ始めていた。最初、からかう男子もいたが、そういう人からも芹沢は助けてくれた。
そのとき、廊下から「ほ~の~か~!」と呼びながら近づいてくる母の声が近づいてきた。
「ご飯できたわよ~」
掛け声と共に母が部屋のドアを開けてきた。沢山の洗濯済みの衣類を抱えている母が目に入る。
「ほら、これを仕舞っておいてね」
母は言いながら、その衣類の山をベッドの足元付近に置く。それから、母の視線はベッドの上に置かれたアルバムたちに向けられていた。
「あら穂乃花、昔の写真を見ていたの?」
「うん……」
芹沢のことを話すのも気が引け、穂乃花は曖昧に答えた。そんな娘にお構いなしに母まで「懐かしいわね~」と写真を見始める。
「あら、この子、小学校の途中で引っ越した子だったわよね?」
母が指差している生徒は芹沢だ。ちょうど中学に進学した頃のものだ。
「そうだよ。お母さん、よく覚えていたね」
「穂乃花が中学のときに再会したって言ってたじゃない。それで覚えていたのよ。でも、後で思い出したんだけど、小学校のときの引っ越しの原因って、両親の離婚だったのよね。元気そうで良かったわ」
「え、離婚? そうだったの?」
「うん、そうなのよ。あら、言ってなかった?」
「え、全然、知らなかったよ……」
芹沢からも何も家庭の話を聞いたことがなかったので、穂乃花は驚くばかりだ。暗い家庭の事情は、彼の人柄から想像もつかなかった。
「じゃあ、穂乃花も早く下に来るのよ」
母は部屋を出ていき、一階へ向かった。
再び一人になった穂乃花は、アルバムを片づけ始める。そして、全てを戸棚に収納し終わったとき、小学校の写真を取り出し始める。小学三年生の遠足の集合写真に写る芹沢をすぐに見つけた。
(芹沢くんのご両親が離婚したってことは、もしかして粕谷先生は彼のお母さんだったのかな? でも、もしそうだったら誤解されたとき、すぐに説明するよね? 別に隠すことではないし)
さらにアルバムをめくり、だんだんと月日は遡り、ついには入学時にまで戻る。そこで穂乃花は驚愕の事実を見つける。
「うそ……!」
保護者たちが集まる入学式で、全ての謎の答えは示されていた。
穂乃花は震える手でスマホを拾い上げ、桜井にメッセージを送る。
「真実は、過去にあったよ」
彼女から返信はすぐに届いた。
『解決したみたいで良かったね』
何故、芹沢が粕谷先生と不倫していると噂になったのか。全ての謎は明日、彼に直接聞いてみようと思った。
※
翌日、昼休みを知らせるチャイムが鳴ったので、穂乃花は着席していた芹沢に近づいた。
「ねぇ、芹沢くん。ちょっと話があるんだけど、来てもらってもいいかな?」
「え、でも……」
芹沢くんが、冴えない顔をしている。以前のような好意すら感じない。
以前に引き続き、彼は穂乃花を避けている。近づかれるのも嫌そうだ。
その彼の態度にすぐさま心が折れそうになる。
それに加え、視線をいっぱい感じていた。
周囲にいるクラスメイトたちが、穂乃花たちの動向を気にしている。
「おい、あれ」
「誰?」
「工藤さんじゃん」
目配せを送り合い、ヒソヒソと声を潜めて芹沢と穂乃花のことを見ている。
ぶしつけな目。盗み見るような目。見下したような目。
いくつもの目が、粗探しをするように窺っている。
穂乃花にも細かい棘のような視線が突き刺さる。思わず逃げ出したくなるほど、周囲の反応が恐ろしかった。
でも、こんな状況で彼を置き去りにしたら、今度こそ取り返しのつかない気がした。
どうしよう。穂乃花自身も悲鳴を上げそうだった。
再び芹沢を見れば、彼の表情も強張っていた。目をきょろきょろと落ち着きなく動かしている。肩が少し震えた気がする。机に置かれた手が強く握られる。
悪意のない好奇心が、彼を追い詰めている。
このままじゃ、彼が潰れてしまう。
それに気づいて、全身の肌が粟立った。
そんなのは嫌だ。
怒りに似た強く激しい想いが、穂乃花を奮い立たせる。
意を決して深く息を吸い込んだ。
「噂が、事実じゃないって知っているよ」
穂乃花はみんなに聞こえるように大きな声で口にしていた。
「だって、私は芹沢くんが幼稚園の頃から一緒だったから」
周囲が穂乃花に威圧されたみたいに一瞬で静まり返った。
シンとした教室は、わずかな物音を立てるのも憚れるような、張り詰めた異様な雰囲気があった。
誰も動かない。みんなの視線が穂乃花に集まる。
芹沢は驚いたように大きな目で穂乃花を見上げる。
「だから、ちょっと廊下に来て?」
自分を信じてほしい。そう強い願いを込めて穂乃花は彼を見つめる。
彼の喉がゴクリと動く。
「あ、ああ……」
やっと彼は了承してくれた。彼は席からゆっくり立ちあがる。
先日もいた廊下の突き当りに穂乃花は芹沢と共に来た。
今日は曇り空で、どんよりとした空模様が窓から見える。
「粕谷先生は、芹沢くんのお母さんなんでしょう?」
穂乃花が尋ねると、芹沢はびっくりした表情を浮かべる。
「よく思い出したね」
「でも、どうしてみんなに話さなかったの? 隠すようなことではないよね?」
穂乃花は芹沢をまっすぐに見つめる。
彼の表情がひるみ、視線がわずかに逸らされ、床に向けられる。長いまつ毛が彼の頬に影を落としていた。
「……粕谷先生とは血は繋がっていないんだ」
「え、どういうこと?」
昨晩、穂乃花が見たアルバムの中の写真では、一年生の芹沢と粕谷先生が笑顔を浮かべて並んでいた。
穂乃花の母が高校の入学時にどこかで粕谷先生を見たことがあると言ったのは、恐らく小学校のときに顔を合わせた記憶がわずかに残っていたからだ。
「粕谷先生は、父の二回目の結婚相手で、離婚するまでは僕のお母さんだったんだ。僕の本当の母親は僕が赤ちゃんのときに離婚している」
「つまり、芹沢くんのお父さんは、粕谷先生と再婚したんだけど、小学四年生のときに離婚したってこと?」
穂乃花の確認の問いに芹沢は頷く。
つまり、粕谷先生はかつて芹沢の継母だった。
「父の浮気のせいなんだ。だから不倫とか浮気とか大っ嫌いなんだ」
「……大変だったんだね」
芹沢は最後の言葉は吐き出すように呟いていた。とても苦々しい顔をしている。
そこから彼の深い心の傷を感じた。
不倫を最低なことと彼が言っていたのも、母親との別離という自分の辛い過去があったからだった。
もしかしたら、この過去が影響して、女子から告白されても彼女たちを受け入れられなかったのかもしれない。その可能性も少しは感じた。
「高校に入学して久しぶりに粕谷先生と会って、また連絡するようになったんだ。あの日、先生の家族と一緒に遊園地に行ったとき、誰かに目撃されたみたい」
「でも、粕谷先生は久しぶりに会って感激して抱き締めてくれただけなんだから、黙ってなくてもいいと思うんだけど……」
穂乃花が真相の説明を勧めると、芹沢はばつが悪い顔をする。
「う、うん。そうなんだけどさ……。第一、高校生にもなってお母さんに抱き締められたなんて、話すのも恥ずかしかったんだ。それに僕からお母さんの過去を勝手に話すのも悪い気がしたし……」
そう言い訳をする彼の頬はほのかに赤かった。
照れくさくても、粕谷先生の気持ちを考えて、抱擁を交わしていたと分かり、そんな彼に対して微笑ましい気分が込み上がる。
確かに芹沢の父親と過去に付き合い戸籍に×がついているなんて、今はなんの縁もない粕谷先生の個人情報を勝手に話せないだろう。
噂が広まったときに「母親と会っていただけ」と言えなかった彼の事情を穂乃花はやっと理解できた。
「やっぱり、芹沢くんって、優しいよね」
そう笑顔を浮かべながら呟くと、芹沢はますます恥ずかしそうに頬を赤らめた。
※
後日、クラスにて国語の授業が始まるときに粕谷先生自身から噂について説明があった。
「芹沢くんとは昔、親子の関係でした。彼のお父様とは訳あってお別れしましたが、芹沢くんのことは今でも私にとって大切な子供です」
そう語る先生の目は優しく芹沢を見つめていて、彼は恥ずかしそうに俯いていた。
それから、芹沢に対する同級生の態度は手の平を返したように変わった。
気さくに話しかけるようになり、噂をしていた同級生たちは「誤解してごめんな」と彼に対して謝っていた。
噂を通じて彼の存在が広まっていたため、一気に彼はクラスの中で人気者――とまではいかなくても、みんなに受け入れられていた。
「芹沢くんって、よく見るとカッコいいよね?」
同じクラスの女子の間でそんな会話が流れたときには、穂乃花は激しく同意した。
「あと、芹沢くんって、優しいよね。教室のゴミも自分から捨てに行ってくれたし」
彼の良さがみんなに広まっていく。中学と同じように彼の魅力に気づいていく女子が増えていく。
「芹沢くんって、彼女とかいるのかな? 工藤さん昔からの知り合いなんでしょ? 何か知ってる?」
「うーん、どうだろう? そこまでは知らない」
芹沢の事情を知ってしまったために迂闊に彼の恋愛話はできなかった。
「そっかー。もし彼女がいないなら、告白してみようかな~?」
芹沢の周りにはいつも他の人がいて、だんだんと穂乃花が近づく隙が無くなっていた。
(でも、誤解が解けたんだから良かったんだよね。)
一抹の寂しさを胸にいつものように穂乃花が下校しようとしたときだ。今度は下駄箱で芹沢から「工藤さん!」と声をかけられた。
「どうしたの?」
何か用があったのだろうと思って穂乃花が尋ねると、芹沢は照れくさそうに「一緒に帰らない?」と誘ってきた。
「う、うん。いいよ」
彼と帰るのは、久しぶりな気がした。
一緒に改札を通り抜け、同じ電車に乗り込む。
窓を背にして向かい合わせに客席が並んでいる。まばらに乗客がいたので、人が少ない席に並んで座る。
「噂のときは、気にかけてくれてありがとう」
「ううん、全然お礼を言われることじゃないよ」
芹沢から改まってお礼を言われて、穂乃花は逆に恐縮してしまう。
「それに、ごめんね。僕、工藤さんのこと誤解していた」
「誤解って?」
「僕が不倫したんだって、工藤さんが誤解したと思っていたんだ。あのときの工藤さん、何も言わなかったから」
「あれは――」
あのときの穂乃花が感じた気まずさは、間違ってはいなかった。やはり、穂乃花の対応のまずさのせいで芹沢を傷つけていたのだ。
「本当にごめんね。実は、先生と抱き合っていたって聞いて、予想外だったから驚いていただけだったんだ。誤解されるような反応して、私こそごめんね。だから、近づくなって言ったの?」
「——それは、工藤さんに僕のせいで迷惑をかけたくないって思ってたからなんだ」
あのとき、他の生徒に嫌な感じで二人とも注目されていたからと説明される。
「でも、ごめん。焦っていたから、”今は”って言葉が抜けちゃって、感じ悪い言い方になっていたね」
ただ単に言葉足らずだったらしい。
あのときの「近づかないほうがいい」が、彼に嫌われたわけではなく、彼の配慮からだったと知れて良かった。
「ううん、いいの。こうして無事に芹沢くんと仲直りできて良かった」
穂乃花は彼を安心させるように微笑んだ。彼も以前のように優しい眼差しをこちらに向けてくれる。
「あのさ、どうして僕のためにこんなに親身になってくれたの?」
「どうしてって……」
改めて質問されて穂乃花自身が言葉に詰まった。まるで何か悪いことをしたみたいにドキドキと緊張する。
「ただ、芹沢くんが困っているのを見過ごせなかったの。芹沢くんは私の恩人だから」
「恩人?」
「うん、中学校のとき環境整備の委員会で一緒だったじゃない? そのとき、困っていた私を芹沢くんが助けてくれたの」
穂乃花は芹沢にあのときの出来事を詳しく説明した。
「え、それだけで恩人なの?」
芹沢が大きな目をさらに丸くしている。
「それだけじゃないよ! そのあと、勝手に男子がホースを使って水遊びしだしたときに、女子は可哀そうだって盾になってくれたのでしょ?」
「確かに助けたことはあったけど、そんなこと全然気にしなくていいのに」
「でも、助けてくれて嬉しかったの。その他にも――」
穂乃花が切々と芹沢に訴えると、彼の顔がどんどん赤くなっていった。
「そ、そうか、分かったよ。それにしても、工藤さんの恩人だなんて、照れるね」
芹沢は言葉どおり恥ずかしそうにしていたけど、にこにこと嬉しそうに笑っている。
それを見て、仲直りできて良かったとしみじみ穂乃花は感じた。胸の中が以前のように温かい気持ちに包まれる。まるで窓から差し込む春の陽気のように。
「そういえばさ、工藤さんって付き合っている人っているの?」
芹沢の唐突な質問に穂乃花は面食らった。パチパチと瞬きして相手を見つめる。
芹沢は先ほどとは違って、緊張した面持ちをしていた。
「え、いないけど、どうしたの? 突然」
急な彼の変化と振られた話題についていけず、穂乃花が戸惑いながら訊き返すと、彼はますます顔を赤くさせる。耳まで染まっている。
「いや、同じ中学だったからって、聞かれることが多くて。工藤さん、コンタクトに変えたらずいぶん印象が変わったよね? その、あの、とても可愛いっていうか……」
「え?」
急に芹沢にそんなことを言われて、穂乃花までも顔が熱くなってくる。
「いや、僕は前から工藤さんの良さは知っていたけど、後から近づいてきた奴に横から取られるのも嫌だなぁって」
「え?」
「あのさ、良かったら付き合ってくれない? 実は前から工藤さんのことが好きで……」
「え?」
ガタンゴトンと車輪が揺れる音が、一際大きく聞こえた気がした。
※
「無事に謎は解けたんだろう? どうしてまた相談が必要なんだ?」
桜井は不思議そうな顔をして、穂乃花が今日も自販機で買ったお茶を飲んでいる。
以前と同じ図書館の休憩スペースで穂乃花は桜井と会っていた。
今回は約束をしていなかった。でも、日曜日なら彼女がいると思って会いに行ったら、案の定彼女は定位置で本を読んでいた。
その彼女に声をかけて、わざわざ付き合ってもらっている。
休みなので席は混んでいたが、テーブルの一つを穂乃花たちが占領して座っていた。
「実は、その……」
穂乃花は言おうとしたが、恥ずかしくてなかなか口に出せない。
「あっ、そうそう!」
なので、別の話題から尋ねることにした。
「どうして桜井さんは、芹沢くんの謎は私の過去にあるって分かったの?」
桜井が穂乃花から話を聞いただけで、すぐに真実にたどり着いたことに非常に驚いていた。
「え、どうしてって、不倫以外の別の理由で抱き合っていたと推測しただけだよ? 芹沢くんは不倫はしていないと証言していた。それに先生のほうは処分されていない事実から、何も先生にはやましいところがなかったと考えたんだ」
「なるほど。それで、別の理由を考えたんだ……。でも、そこからよく思いついたよね」
「あまり日本人は他人と接触する文化じゃない。でも、たまに抱擁するときがある。それはどんなときだと工藤さんは思う?」
急に尋ねられたので、穂乃花は慌てて考え始める。
「えーと、試合に勝って嬉しいときとか、誰かが亡くなって悲しいとき? あとは、小さい子供を抱っこするとき?」
「そう。ただ、今回の場合は、遊園地という場所だったことから、悲しいときは除かれると思った。だから、嬉しいときや、子供を抱きしめたという理由が推測された」
穂乃花は言われて、条件がかなり絞られていたことにやっと気づいた。
「そっか。今時、離婚なんて珍しくないよね。だから、離れていた親子が、久しぶりに再会したから、抱き合ったと桜井さんは考えたのね!」
「そう。でも、それなら芹沢くんはすぐに理由を話したと思うんだよ。でも、彼は言わなかった。そこから、さらに芹沢くんの複雑な家庭環境が推測されたんだ」
「だから、桜井さんは憶測で言えないって、あのとき説明していたんだね」
「そのとおり。だから、昔の彼を知っている工藤さんなら、何かしら彼の事実に触れていたと思ったんだ」
「そっかー。桜井さん、やっぱりすごいわ~!」
穂乃花は桜井の能力の高さに感心する。両手を握りしめて、目を輝かせて彼女を見つめた。
「そうかい?」
でも、当の本人である桜井は、軽く首をひねり、特に気にもしなかった。
「で、ところで、工藤さんの今日の本題はなんだい?」
桜井は穂乃花のためらいにとっくに気づいていたのか、芹沢の謎の説明が終わると、速攻で尋ねてきた。
「う、うう……」
穂乃花は思わず口ごもるが、桜井は興味を失うとすぐに本の世界に戻ってしまう。早く言わなければと、自分で自分の背中を後押しした。
「……じ、実は、芹沢くんに告白されたの。でも、いきなりだったから、どう返事したらいいのか分からなくて」
恥ずかしいが、相談内容を伝えないと話は進まないので、意を決して口にしていた。
「おお! ついに! やっとヘタレを返上したのか!」
桜井にしては珍しく少し興奮気味に反応していた。
今日の彼女の格好は、アルファベット柄のトレーナーと綿パンだ。美少女が男装しているような雰囲気がある。
「え、ヘタレってどういう……」
「彼が工藤さんに片思いしているって、モロバレだったよ。だから早く告白すればいいのにって、ずっと思っていたけど、そうかーやっとかー。フフ、コンタクト効果に焦ったか」
桜井は感慨深く呟く。
「えーと、もしかして、あの噂になった芹沢くんの相手って、私だったの?」
「ああ、そうだよ」
「そ、そうだったんだ……」
全然気づかなかった。みんなは芹沢の気持ちに気づいていたのに。
自分の鈍さに穂乃花は少しだけ凹んだ。
「でも、それがきっと工藤さんの良いところだと思うんだよ」
「そ、そうかな……」
思いがけず桜井に褒められて、穂乃花はくすぐったい気持ちになる。彼女はお世辞なんて言わないと思っていたから、余計に嬉しかった。
彼女と見つめ合って微笑み合う。
眼鏡越しに見える彼女の目が優しい。にっこりと笑う唇は、張りがあって健康的な朱色をしている。
「だから、私に恋愛相談なんて愚かな真似は止めたまえ」
「えっ、どうして!?」
そんな残酷なことを言いながら、桜井は慈愛深い笑顔を浮かべたままだ。
突然の拒絶に穂乃花はかなりショックを受けた。
「だって、仮にだよ? ここで芹沢くんの悪い点を言って付き合うのは止めたほうが良いって言ったら、彼に刺されるのは私だ」
桜井をよく見たら、彼女は微笑んでいなかった。恐怖のあまりに顔が強張っているようだった。
「ちょ、ちょっと! 仮に言ったとしても、優しい芹沢くんは刺したりしないよ」
「おっと、すまない。言葉のあやだ。気にしないでほしい」
「気になるよ!」
「じゃあ、私は馬に蹴られないうちに口を閉じたいと思うよ」
「そ、そんな……」
桜井なら客観的に判断してくれると思っていただけに、彼女に見捨てられたくなかった。
しょんぼりしていたら、桜井はちょっとだけばつの悪い顔をした。
「そうだな……。じゃあ、お茶のお礼に少しだけ前向きなアドバイスをしよう」
「う、うん」
穂乃花は気を取り直し、姿勢を正して、彼女の助言を待つ。
「工藤さんは、どうして私に相談したんだと思う?」
「え、それは桜井さんが名探偵だから……」
「いや、そういう理由ではなくて」
「じゃあ、どういう理由?」
穂乃花が改めて聞き直すと、桜井はテーブルに肘を乗せて、さらにこちらに身を乗り出してきた。
「多くの場合、相談といっても信頼できる人か、親しい人間にすると思うんだよね。でも、工藤さんと私はそんなに仲良くはなかった。それなのにあなたは私を相談相手に選んだ。謎なら私が解けると思ったから。工藤さんがそうせざるを得なかったのは、そこまであなたを駆り立てたのは、何だったと思う?」
穂乃花はそう指摘されてみて、そこまで自分が追い詰められていた心境に初めて気付いた。
確かに穂乃花は謎を解かなければならないと、かつてないほどに強く考えていた。
「なぜって……。芹沢くんと仲直りしたかったの。前みたいに仲良くしたかったから。彼に冷たくされてショックだったの」
「そう。工藤さんにとって、芹沢くんは失くしたくない人だったんだよね?」
桜井の率直な言葉が穂乃花の胸にすとんと落ちる。
「そっか……。そうだよね」
先日見ていたアルバムの中で、いつも芹沢がいた。
穂乃花の脳裏を彼の笑顔がいくつも過ぎ去っていく。
そのとき一緒に穂乃花の胸の中が、ポカポカとお日様みたいに温かくなるのを感じた。
明るくなるような前向きな気持ちになれる。
だから、やっと気がついた。
思い出とともにあった、かけがえのない大切な想いに。
告白の返事を深く考えるまでもなかった。
「私は自分の気持ちをミスリードしていたみたい。ずっと彼を恩人だと思い込んでいた」
穂乃花が桜井から習った言葉をなぞらえて発言すると、彼女は目をぱちくりさせる。
「……確かに、工藤さんにとっては、そうかもしれないね」
「でしょう?」
穂乃花が苦笑すると、桜井も目を細めてクスリと笑う。
「一人の人間をずっと思い続けるなんて、なかなかできることじゃないよ」
「え?」
桜井の声が小さすぎて、よく聞こえなかった。
「うん、芹沢くんが報われて良かったって思っただけだよ。じゃあ、相談は終わりってことで」
桜井はあっけらかんと微笑むと、本をバッグから取り出して、そこで読み始めた。
切り替えが早すぎる。
そんな変わりのない彼女を見て、可笑しさがこみ上げてきた。
穂乃花は立ち上がって、彼女に近づく。
「ありがとう。また、会おうね」
桜井の耳元にそうつぶやいた。
邪魔するつもりはなかったからだ。
ところが、彼女の視線がチラリと向けられる。
「工藤さんも物好きだね」
彼女の柳眉と、健康的な唇の端がわずかに上がる。そして、すぐに彼女の視線は本に戻った。
穂乃花は美しい彼女の読書姿を焼きつけるように見つめる。
「じゃあね」
手を振って桜井と別れた。
休日、桜井はいつも図書館にいる。
次にここで彼女と会うときは、芹沢も一緒に連れて行こう。
そう考えると、少しだけワクワクした。
エントランスホールを抜けて自動ドアをくぐると、五月の抜けるような青空が広がっている。
爽やかなそよ風が、前を進む穂乃花を優しく撫でるように吹いていた。
※
桜井のスマホにメッセージが送られてくる。
『相談にのってくれてありがとう。おかげで彼女と上手くいったよ。今度、二人で一緒に会いに行こうって話になったから、何も知らないフリをしてくれると助かるよ』
桜井はその内容を見てため息をつく。
『嘘は嫌だし面倒くさいから、余計なことを言わずに黙っておくことにする』
その返信にありがとうのスタンプが返ってきて会話は終わる。
芹沢からメッセージが届いたのは、穂乃花から相談を受ける前だ。
『ある既婚者の先生と不倫しているって彼女に誤解されたかもしれない。どうしたらいいと思う?』
『その先生と本当はどんな関係なわけ? 詳しく分からないと何も答えられないよ』
『ごめん、それについては僕の一存では言えないんだ。でも、全然変な関係ではないよ』
うじうじと後ろ向きな発言と、詳細をぼかしたままの相談に桜井だってお手上げだった。
親しくもない他人の恋愛関係にあまり興味がなかったのもあり、正直「知らない」と冷たく突き放そうと思わなくもなかった。
でも、彼の意中の相手が穂乃花だったので、思いとどまっていた。
昔、桜井の率直な話し方を嫌う同級生がいて、その人に言われたことがあったのだ。「あんたの言い方きついよ」と。
そのとき、そばにいた穂乃花はいつものようにのほほんとした口調で、「そう? 私は桜井さんの話し方、分かりやすくて好きだよ」と言ってくれたのだ。
彼女に桜井を庇う意図があったとは思えない。でも、その彼女の素直な言葉で桜井はとても救われていた。
もしも穂乃花が芹沢のことを想っていて、両想いの二人がすれ違ってしまうのは可哀想だと思ったのだ。
ヘタレの芹沢のためなんかではない。
だから、桜井は彼にこう助言をした。
『その事実だけ告げて、どんと構えていれば大丈夫なのでは? 彼女はそんな噂を鵜呑みにするような人物とは思えないけど?』
でも、そんなメッセージを返したにもかかわらず、穂乃花から芹沢に避けられたと聞いたときは、『あのヘタレめ』と片思いしていた彼女にとんでもない勘違いまでさせた芹沢に対して悪態をついたのは仕方がないと思う。
一生彼女の尻に敷かれていればいい。そう桜井は考えながら、スマホをカバンに仕舞った。
〈完〉
子供同士の口論が始まったとき、ふと気づいたことを桜井が言うと、みんなが納得することが多くて、問題が丸く収まることが度々あったからだ。
中学のときは、そのおかげで困ったことがあったら桜井に話を聞いてもらいたいと信者みたいな同級生もいたことがあった。
そんな桜井は高校に進学し、同級生たちともバラバラの進路になった。
相談役の役目も終わりだろうと思っていたところに届いた一通のメッセージ。
アプリで送られたメッセージの送り主は、普段あまり関わりのなかった元クラスメイトからだった。
久しぶりの声掛けから始まり、お互いの近情のやり取りをしたあと、その人はようやく用件を切り出してきた。
『実は桜井も知っている人のことで相談したいことがあるんだ』
桜井はその文面を見て、思わず苦笑してしまった。
どうやらお役目はまだまだ続くらしいと。
※
桜井花音は休みの日になると、いつも図書館にいるらしい。
工藤《くどう》穂乃花《ほのか》は、彼女に会うために自転車を走らせる。
今日は清々しいほどの晴天だ。透き通った空の青が、頭上にいっぱい広がっている。
春の穏やかな日差しは、道端の新緑を瑞々しく照らす。暖かな風が花の匂いを穂乃花のところまで運んでくれる。
それでも、塞ぎ込んだ気持ちまでは陽気にはならなかった。
だからこそ、彼女に会えば、穂乃花は気分が元に戻りそうな気がしていた。
図書館の駐輪場に到着して、心なし速足で入口へ向かう。
自動ドアを通り過ぎると、開放的なエントランスホールが広がる。
その先には広い通路が続き、両脇にはジャンルごとに本棚がいくつも置かれている。様々な年齢層の利用者を見かける。
穂乃花は彼女との待ち合わせ場所に向かう。
机と椅子がある利用者スペースだ。
案の定、本を読む彼女がいた。一人で黙々と。
長いストレートの黒髪をいつもどおり簡単に後ろで一つに束ねている。彼女の髪は、いつも羨ましいくらい艶々として、天使の輪みたいな光沢がある。
化粧っ気のない肌は、白く透き通り、滑らかだ。
高校生になっても相変わらずだなぁと、一か月ちょっとぶりに会う元クラスメイトを穂乃花は懐かしく感じる。
「ごめん桜井さん、待った?」
穂乃花が声をかけると、彼女はちらりと眼鏡のレンズ越しに視線をこちらに向けた。
切れ長の綺麗な瞳と目が合う。
「あれ、工藤さん? 眼鏡じゃないんだ?」
「うん、コンタクトにしたの」
穂乃花は中学まではずっと眼鏡だった。強い近視と乱視が入っていたため、牛乳瓶の底みたいな厚さのレンズだった。
ドジだからレンズを失くしそうとの理由で許可が今まで出なかったが、高校に入って親からやっとコンタクトレンズの使用を許してもらえたのだ。
「そうなんだ。まるで別人だね」
中学卒業後に穂乃花はバッサリと髪をショートボブにカットしていた。だから、桜井が言うとおりイメージはかなり変わっていた。
桜井はすぐに興味をなくしたようで視線をすぐに本に戻し、再び読み続ける。
「ごめん、もうちょっと区切りまで待って」
彼女のマイペースさも変わらない。
背筋がピッと一本通ったように、綺麗な姿勢をしている。
彼女の読書姿には、邪魔をしてはいけない尊さがあった。
「うん」
穂乃花は答えながら彼女の横の椅子に腰かけた。
今日は日曜日なので、お互いに私服だ。
先月までお互いに中学校のセーラー服姿だったから、彼女のパーカーにジーンズの格好は珍しい。
穂乃花を別人だと言う彼女こそ、装いを変えて化粧をすればファッション雑誌に載っているような美少女になると思った。
穂乃花はスマホをバッグから取り出して、時間を潰す。
ネットを閲覧していたら、パタンと本を閉じる音が隣から聞こえた。どうやら読書を中断したらしい。
「珍しいね、工藤さんから会いたいだなんて」
桜井は机の上に本を置き、穂乃花のほうを向いた。
先日、穂乃花は彼女にメッセージを送っていた。会って話がしたいと。
「だいたい私たちはクラスは一緒でも、特別仲が良かったわけじゃないよね?」
その彼女の率直な反応に穂乃花は苦笑いを浮かべる。
「うん、今日はわざわざ来てくれてありがとう」
桜井とは仲良くするグループが違っていた。彼女は文化部系。一方で穂乃花は帰宅部系だ。
桜井のこういう歯に衣を着せぬ物言いを穂乃花の親しい友人が苦手にしていた。だから、在学中は桜井とそれほど親しくなることはなく、今まで個人的にやり取りをすることもなかった。
彼女の連絡先を知っていたのは、クラスで連絡用のグループを作っていたからだ。
それなのに桜井に突然連絡をしたのは、穂乃花にとって重大な理由があったからだ。
「でも、どうして変に思っても来てくれたの?」
大して親しくもない人間からの誘いだ。断れるかもしれないと思っていた。
桜井は質問を聞いて、ニヤリとほくそ笑む。彼女の白く綺麗に揃った歯が見えた。
「ちょっと個人的に工藤さんの行動を疑問に思ったからだよ」
穂乃花は彼女らしい答えを聞いて、頼もしく感じた。やっぱり彼女に思い切って連絡して良かったと思った。
「実は、そういうところを今回期待して、相談したいことがあったの」
「やっぱりね」
桜井の口元が弧を描く。楽しそうに両目が輝いている。
彼女は興味のない話題だと、すぐに本の世界へ戻っていく。
中学卒業の寄せ書きにまで「いつも本を読んでいたね」って書かれるほど夢中だった。
「工藤さんの相談相手に指名されたことは光栄だけど、どうして私を頼ろうと思ったんだい?」
「だって、桜井さんは謎を解決したことがあったじゃない」
「私がそんな探偵みたいな真似をしたことがあった?」
桜井は考え込みながら首を傾げる。
「あったよー。不良のA谷くんに資料室の鍵紛失の疑いがかけられたときに真犯人を見つけたのは桜井さんだったでしょ?」
「あれは、ただ単に鍵の貸し出し履歴を追っただけだよ」
桜井はあっけらかんと事も無げに言う。
「で、でも! みんな最初からA谷くんを疑っていて、調べようともしなかったよ?」
「はいはい」
その桜井のそっけない態度に穂乃花は少しだけ不安を感じる。彼女を頼った理由に根拠がなければ、相談を断られるかもしれないと思ったからだ。だから、もっと納得できるだけの理由を述べなければと焦った。
「まだあるのよ」
「なに?」
「うちのクラスで大事なファイルがなくなったとき、あれも桜井さんがあっという間に見つけていたよ」
今度こそ穂乃花は自信を持っていた。
「あれって、白い分厚いファイルのこと?」
「そうそう!」
「あれは似たようなファイルがあったから、紛らわしいなぁって覚えていただけだよ?」
桜井は呆れた様子だ。
「と、とにかく。桜井さんの観察力や分析力はすごいなぁって私は思っていたの」
穂乃花は断られてはまずいと思い、必死になっていた。
「う、うん。分かったから、もうちょっと声は小さくね。今のあなたは、そうでなくても目立つから」
穂乃花は慌てて自分の口を押さえた。どうやら話に夢中になり過ぎて、声が大きくなり過ぎていたようだ。
「そうだね。場所を変えようか?」
穂乃花は桜井の提案に素直にうなずいた。
向かった先は、上階にある休憩スペースだ。空いているテーブルが一つだけあった。そこに座ると、さっそく桜井が期待に満ちた目を向けてくる。
どうやら穂乃花が抱えている問題を聞きたくて仕方がないらしい。
断られることはないようだと、少しだけ安心できた。
穂乃花はここの自販機で買ったお茶のペットボトルを桜井に渡す。
「これ、あげる」
「え、いいの?」
「今日来てもらったお礼」
「そっか、ありがとう」
桜井は遠慮せずに受け取り、さっそく飲み始める。
「で、工藤さん。話はなんだい?」
穂乃花は座りながら、口を開く。
「実はうちの高校で変な噂が流れているの」
「噂? 工藤さんがストーカーに遭っているわけでもなく?」
穂乃花はこちらをじっと見つめる桜井に黙ってうなずいた。
※
「芹沢《せりざわ》って、粕谷《かすや》先生と不倫したらしいぜ」
ある男子生徒が面白そうに放った一言は、教室中に響き渡った。
ちょうど今は昼休み。クラスメイトたちが雑談している中、よく通ったその声は皆の耳に入ったのか、一瞬でその場は静まり返った。
穂乃花も、その声を聞いた一人だ。
投じられた爆弾の威力は大きい。次の瞬間には、「え? 嘘、マジ?」と一斉にその話題に食らいつく。
「○×遊園地ってあるじゃん? あそこで二人抱き合っていたらしいぜ」
「ええ! 本当?」
「見た奴いてさ、直接そいつから聞いたから間違いないって」
「真面目そうなのにね」
「そういう奴ほどやばいんじゃない?」
高校生活が始まって一ケ月が過ぎた五月。最近の教室は、互いの会話にぎこちなさが無くなっていた。
けれども、穂乃花でさえ同じクラスの人の名前と顔を辛うじて覚えたばかり。芹沢の純朴な人柄までは知れ渡っていなかった。そのせいか、不在の彼に対して言いたい放題だ。
一方、相手の粕谷先生は多分三十代くらいで若くはないけど美人な女性だ。
入学式に穂乃花の母親も粕谷先生を見てびっくりして、ひそひそと話しかけてきたくらいだ。
「あの先生、すごい美人ね。誰かに似ている気がするんだけど、誰だったかしら?」
「うん、女優さんみたいだよね」
みたいなやり取りがあったくらいだ。
とにかく綺麗なので、印象に残る女性だ。
だから、遊園地という不特定多数がいる場所で、見つかってしまったんだと思う。
先生は左手の薬指に指輪をしている。しかも、保育園に通う幼い子供がいると先生自身が話していた。
穂乃花はそんなことを思い出しながら、卓上に伏せていた上半身を起こしたとき、動揺で胸がドキドキしていた。
(ちょうど芹沢くんがこの場にいなくて良かった――。)
まだ芹沢の話題でクラスメイトたちは盛り上がっている。
彼らと同じ空間にいること自体が苦痛になり、穂乃花が席を立って教室を出た矢先、廊下で一人の男子とぶつかりそうになった。
慌てて相手の顔を見上げると、噂の渦中その人だった。
「あ、芹沢くん! ごめんね」
「こちらこそ、ごめんね」
彼も申し訳なさそうな顔をしている。サラサラで清潔そうな短い前髪が、彼の瞳の上で揺れている。
彼に間近で見つめられ、相変わらずイケメンだなぁってしみじみ感心する。しかし、すぐに現実を思い出し、慌てて彼の手を掴む。
「く、工藤さん?」
「ごめんね。いきなりで悪いけど、ちょっと来て!」
穂乃花は芹沢を強引に引っ張って教室から遠ざかる。
「どうしたの、工藤さん?」
穂乃花は廊下の突き当りまで小走りし、戸惑う芹沢の声と共にようやく立ち止まった。非常階段と書かれた扉が目に入る。
人ごみの廊下を通り抜け、やっと辿り着いた僅かな空間。そこで穂乃花から解放された芹沢の頬は、上気して見るからに赤い。それは穂乃花が無理やり走らせたせいだろうと思い、少し申し訳なくなった。
廊下の壁一面に設置された窓ガラスからは、まぶしいほどの春陽が差し込んでいる。開いた窓から涼しい風が吹いてくる。
「なにか大事な話でもあるのかな?」
何か期待を込めたように瞳を輝かせて芹沢は穂乃花を見つめている。その状況にそぐわない彼の表情から、彼が噂について何も知らない可能性に気づく。穂乃花はますますばつが悪い感じがした。
「ごめんね、急に連れて来ちゃって……あの」
穂乃花は言いかけて、すぐに口ごもる。嘘をついて芹沢に知られないように気遣うべきか、正直に話すべきか迷ったからだ。けれども、いつものように優しげな笑みを浮かべて言葉を待つ彼を見て、すぐに答えは出た。
「その、芹沢くんに変な噂が流れていたから、教室にいないほうがいいと思ったの」
偽りのない説明に芹沢の二重の綺麗な瞳が何度か瞬きした。そして、彼の顔が不安そうに少し歪む。
「噂って?」
穂乃花は先ほど聞いた話を芹沢にも話した。
すると、彼は眉を寄せ、悲しそうな顔をした。
「気を遣わせてごめんね」
申し訳なさそうに謝る彼を見て、穂乃花はますます彼に同情した。
「ううん、あんな噂ひどいよね。全然信じてないから!」
穂乃花がそう強く励ますと、芹沢はなぜか顔をこわばらせた。
「……でも、先生と遊園地にいたのは本当のことなんだ」
彼の挙動不審な目は、穂乃花の顔色を明らかに窺っていた。予想外の反応に今度は穂乃花の目が瞬く。
「……じゃあ、抱き合っていたのは?」
「それも本当」
彼の言いにくそうな様子から、冗談ではないことはすぐに伝わった。
噂が本当だった――。
その事実に驚愕して、彼に返す言葉が見つからない。ただ彼を見つめ返すことしかできない。辛い沈黙が二人の間に訪れた。
周囲のざわめきが、この瞬間だけは嫌に耳に付く。
やがて、穂乃花の戸惑いに気付いたのか、芹沢は視線を外した。伏せられた長い睫毛が暗く下を向く。その彼の顔は、背筋がひやりとするくらい感情が削ぎ落されていた。
何か言わなくてはと穂乃花は焦るが、彼は無言で教室に戻っていく。その背中がとても悲しそうに見えたのは、きっと気のせいではなかった。
※
芹沢と気まずいまま放課後になった。なんとかしなければ。
下校するときが、芹沢と二人きりで話せるチャンスだ。彼も部活に入っていなかったはず。同じ地元出身だから、途中までは帰宅経路が同じだった。
穂乃花は芹沢が教室を出るタイミングを見計らっていた。
彼は自分の席でカバンに教科書を詰めていた。ふたをしてリュックを肩にかけたとき、他の男子が彼に話しかけてきた。
「なあ、芹沢」
「なに?」
「芹沢が粕谷先生と不倫しているって噂が流れているんだけど、本当?」
またクラスの視線が集まった。
みんな芹沢の返事に期待している。息をのむ音が聞こえそうなほど、静まり返っていた。
芹沢はみんなの視線に気づき、不快そうに眉をしかめる。
「違うけど。そんなサイテーなことしないから」
そう一言吐き捨てると、教室から足早に去っていく。
「お前、なに聞いているんだよ!」
「本当のこと、言えるわけないだろ?」
芹沢がいなくなったあと、周囲にいた男子たちが突っ込みを入れている。まるで冗談を言い合うような軽い口調だ。
悪意はないかもしれない。
それでも他人事とはいえ、穂乃花はとても嫌な気持ちになった。それが当の本人だったら、どれほど針のむしろだろう。
穂乃花は慌てて彼を追いかけていった。
ところが、芹沢の歩みはいつもよりも速く、穂乃花がやっと追いついたときは下駄箱の前だった。
「あの、芹沢くん!」
「なに?」
振り返った彼からとげとげしい雰囲気を感じた。ピクリとも笑っていないからだ。
「え、あ、工藤さん?」
けれども、話しかけた相手が穂乃花だと分かると、少し表情が和らいだ気がした。それでも、まだ怪訝そうに眉をひそめている。
「芹沢くん、一緒に帰らない?」
「え……?」
芹沢が戸惑った表情をする。いきなり誘ったから驚かせたのかもしれない。
「あの、話があるの。昼間の件で……」
穂乃花の言葉に芹沢は見るからに嫌そうな顔をした。
思ってもいない相手の反応に血の気が引く思いがした。
自分はまた何か間違えた対応をしたのでは。そう不安になった。
そのとき、こちらに他の生徒たちが賑やかに近づいてくる。彼らは穂乃花と芹沢に気づくと、不自然に足を止めた。
「あれ」
「あの噂の」
「一緒にいるの誰?」
「いいよな、モテる奴は」
穂乃花たちを見ながら、ヒソヒソと内輪で話している。
でも、声を潜めているみたいだが、興奮気味なので、こちらまで丸聞こえだ。
彼らの口調に含まれる好意的ではない、僻みのようなニュアンスは、穂乃花の体を無意識に竦ませる。
とても感じが悪かった。
けれども、相手は穂乃花よりもガタイの良い男子三人で、どんな人なのかも知らない。「止めて」という、たった三文字が怖くて言い返せなかった。
「工藤さん、僕に近づかないほうがいいよ」
「えっ!?」
聞こえた芹沢の声に驚いて、穂乃花は慌てて彼のほうを向く。彼は歯を食いしばるような顔をして俯いていた。こちらを見ようともしない。彼からとても強い拒絶を感じた。
「じゃあ」
芹沢は逃げように外靴を持って穂乃花から去っていく。
彼から避けられた。
冷や水を浴びたような辛い気持ちが襲ってくる。足元が震えそうになる。
穂乃花はショックのあまり、彼に何も言えなかった。
※
「と、いうわけなの。ね、色々とおかしいでしょ? こんがらがって訳が分からないから、桜井さんを頼ったの」
穂乃花は言いながら、思い出して泣きそうなほど悲しい気持ちになっていた。
「私のせいで芹沢くんを怒らせちゃったし、それに事実だけど不倫は事実じゃないって、どういうことなんだろう?」
芹沢の無実をきちんと証明したかった。
変な噂を止めたかった。
彼と仲直りもしたかった。
「うん、話はだいたい分かった」
工藤さんの必死な理由もね、と桜井は呟く。
「それで、桜井さんはどう思った?」
「いや、別に。それよりも、芹沢くんってかなりのヘタレだね」
「芹沢くんはヘタレじゃないよ」
「ヘタレだよ。私は彼と中学校から一緒だったけど、彼ってモテるくせにずっと好きな人がいるって断っていたらしいね。確か工藤さんは芹沢くんと昔から知り合いだから、その話は知っているよね?」
桜井の言うとおり、穂乃花と芹沢は幼稚園の頃からの付き合いだ。一度彼が小学校の途中で転校していなくなったが、三年後に中学校で彼と再会し、それから志望した高校も一緒だった上に偶然今は同じクラスだ。
「そうよ。だから、ヘタレじゃないって知っているの。それよりも、別にってどういうこと?」
穂乃花が話を戻すと、桜井はなぜか疲れたようにため息をついた。
「芹沢くんは不倫をしていないって言ったんだよね? それが真実じゃないのかな?」
「で、でも、粕谷先生と抱き合っていたのは事実だって……」
「それで工藤さんは信じたわけだ? その噂を」
「え、違うよ! でも……」
穂乃花は言いよどむ。
「抱き合っていたのは本当って言われて、びっくりした……。てっきり嘘だと思っていたから」
思い出して、穂乃花の胸の奥がざわざわしていた。
唇を思わず噛み締める。
「ふーん、脈がないわけじゃないんだ」
「え、どういうこと?」
「いや、こっちの話。ところで、相手の粕谷先生って何か処分とかあったの?」
「ううん、何も。普段通り授業をしているよ」
「そっか。それなら噂の件は、ミスリードが原因だと思うよ」
桜井はさらっと「肩に糸くずがついていたよ」くらいの軽い口調で、噂の説明を始めていた。
そのため、穂乃花はきょとんとするはめになった。
「あの、ミスリードってなに?」
「推理ものの小説でよく使われるんだよ。読み手にAだと思わせておいて、後半でBだと真実を出すんだ。要するに誤解させる方法」
「誤解? あ、もしかして」
「そう、始めに不倫というインパクトのある単語が出てしまった。そのせいで、抱き合うという動作が、男女の交際という意味に限定されてしまったんだと思う」
「でも、普段の生活で抱き合ったりしないよ? 特に先生と生徒なら」
「そう、だから誤解されるきっかけになった。誤解であって事実ではないのに、そんな噂が立ってしまったんだと思うけど。工藤さんは芹沢くんと幼馴染なら、彼の家について何か知ってる?」
「近所でもないし、特に何も聞いてないから知らないよ?」
「工藤さん自身が知らなくても、あなたの両親――特にお母さんは何か知っているかもしれないよ? お母さんは先生を誰かに似ているって言ってたんだよね?」
なぜ桜井がこんな質問をするのか、穂乃花は理解できなかった。
「答えは、工藤さんの過去にあると思うよ」
「過去……?」
「そう。私からはこれ以上この件については言えない。それはただの憶測になってしまうからね」
「でも」
「何か分かったら、また相談に乗るよ」
桜井はバッグから本を取り出した。しおりを挟んだページを開いて読み始める。
「う、うん……。分かった。今日はありがとう」
桜井は相談に興味を完全になくしていた。そんな彼女と会話は続けられない。
答えは自分の過去にあるなんて、意味が分からない。煙に巻かれたような気分だった。
穂乃花は図書館を去り、乗ってきた自転車で自宅に向かう。その帰路は、来たときとは違って、やたらペダルが重く感じた。
※
穂乃花は帰宅後、自室にいた。六畳のほどほどに片付いた部屋にあるのは、学習机と戸棚。さらにローベッドが壁際に置かれていて、その上で穂乃花は転がっている。何も手がつかない。
(桜井さんに会えば、きっと問題解決すると思っていたのに)
穂乃花の目の前にはスマホがある。今からでも芹沢にメッセージを送れば、彼と仲直りできるかもしれない。
(でも、どう言えばいいのか分からないよ。)
芹沢の暗い顔を思い出す。また間違えた対応をしたら、再び彼から拒絶されるかもしれない。取り返しのつかない状況だけは絶対に避けたかった。
『僕に近づかないほうがいいよ』
芹沢の声が脳内によみがえり、思わず涙が出そうになる。
桜井はミスリードだと言っていたが、他に理由が分からなかった。
芹沢と先生が二人抱き合っている姿を想像するだけで、穂乃花の胸中は複雑になる。
結局、何も言葉が浮かばず、彼にメッセージを送れなかった。
「私の過去にある、か――」
桜井の言葉が気になって、穂乃花は自室の戸棚にあったアルバムを取り出した。
ベッドに寝転びながら開けば、そこには中学時代の写真が収められている。
彼とは中学の頃に委員会が同じで一緒に活動したことがあった。環境整備という名のもと、もっぱらの仕事は花壇の手入れだった。
学校の中庭で、その委員全員並んで撮った写真の中にジャージ姿の穂乃花と芹沢もいる。
彼は笑うと目尻が下がるのだ。その優しそうな笑顔がいつも素敵だと思う。
「彼にはいっぱい助けてもらったんだよね」
穂乃花は独り言を呟きながら、当時の出来事を思い出していた。
夏休みに入る前、委員会の活動で学校の花壇の手入れをしていたときだ。
穂乃花が抱えていた肥料の袋を、すぐ傍でしゃがんで作業していた芹沢に掛けてしまったのだ。穂乃花は慌てて肥料を彼から取り除くが、鶏糞の臭いは相当きつい。
「工藤、何やってんだよ~。芹沢が可哀想だろ」
他の男子から文句を言われて、穂乃花は消え入りたい気分になった。
そんなとき、芹沢が穂乃花に笑顔を向けてくれたのだ。「工藤さん、気にしないで」と。
彼は優しく微笑みながら、自分の髪に掛かっている肥料を落としていた。
あのとき、彼があっけらかんと笑って許してくれたおかげで、ドジな自分は救われたのだ。
そのことを今でも穂乃花は彼に深く感謝している。
それ以外にも、穂乃花は芹沢の笑顔で何度も助けられてきた。
だから、彼の思いやりのある性格を穂乃花はよく知っているからこそ、今回の不倫という噂話を聞いたとき穂乃花は信じられなかった。
芹沢と噂になった粕谷先生は、国語の教師だ。ふわっとした長い髪の女性で、いつも髪留めで顔の横に流れないように整えている。しかも、大きな魅力的な目をしているかなりの美人だ。
授業中の先生はというと、丁寧かつ真面目で、きびきびとした印象である。
その先生と出会って一ケ月。授業でしか芹沢と先生は接点がないと思われるのに、いきなり二人が不倫関係とは不自然すぎる。
だとしたら、不倫ではない関係が、二人にはあったのかもしれない。
それは何なのか。
桜井の「憶測」という口ぶりから、彼女はなにか心当たりがあったみたいだった。
穂乃花は考えながらも昔のアルバムを見続けて、ベッドの上はいくつかの冊子が重なっている。中学一年まで思い出は遡り、まだ幼さの残る芹沢が写真の中で微笑んでいた。
穂乃花は小学生のときに眼鏡をかけ始めていた。最初、からかう男子もいたが、そういう人からも芹沢は助けてくれた。
そのとき、廊下から「ほ~の~か~!」と呼びながら近づいてくる母の声が近づいてきた。
「ご飯できたわよ~」
掛け声と共に母が部屋のドアを開けてきた。沢山の洗濯済みの衣類を抱えている母が目に入る。
「ほら、これを仕舞っておいてね」
母は言いながら、その衣類の山をベッドの足元付近に置く。それから、母の視線はベッドの上に置かれたアルバムたちに向けられていた。
「あら穂乃花、昔の写真を見ていたの?」
「うん……」
芹沢のことを話すのも気が引け、穂乃花は曖昧に答えた。そんな娘にお構いなしに母まで「懐かしいわね~」と写真を見始める。
「あら、この子、小学校の途中で引っ越した子だったわよね?」
母が指差している生徒は芹沢だ。ちょうど中学に進学した頃のものだ。
「そうだよ。お母さん、よく覚えていたね」
「穂乃花が中学のときに再会したって言ってたじゃない。それで覚えていたのよ。でも、後で思い出したんだけど、小学校のときの引っ越しの原因って、両親の離婚だったのよね。元気そうで良かったわ」
「え、離婚? そうだったの?」
「うん、そうなのよ。あら、言ってなかった?」
「え、全然、知らなかったよ……」
芹沢からも何も家庭の話を聞いたことがなかったので、穂乃花は驚くばかりだ。暗い家庭の事情は、彼の人柄から想像もつかなかった。
「じゃあ、穂乃花も早く下に来るのよ」
母は部屋を出ていき、一階へ向かった。
再び一人になった穂乃花は、アルバムを片づけ始める。そして、全てを戸棚に収納し終わったとき、小学校の写真を取り出し始める。小学三年生の遠足の集合写真に写る芹沢をすぐに見つけた。
(芹沢くんのご両親が離婚したってことは、もしかして粕谷先生は彼のお母さんだったのかな? でも、もしそうだったら誤解されたとき、すぐに説明するよね? 別に隠すことではないし)
さらにアルバムをめくり、だんだんと月日は遡り、ついには入学時にまで戻る。そこで穂乃花は驚愕の事実を見つける。
「うそ……!」
保護者たちが集まる入学式で、全ての謎の答えは示されていた。
穂乃花は震える手でスマホを拾い上げ、桜井にメッセージを送る。
「真実は、過去にあったよ」
彼女から返信はすぐに届いた。
『解決したみたいで良かったね』
何故、芹沢が粕谷先生と不倫していると噂になったのか。全ての謎は明日、彼に直接聞いてみようと思った。
※
翌日、昼休みを知らせるチャイムが鳴ったので、穂乃花は着席していた芹沢に近づいた。
「ねぇ、芹沢くん。ちょっと話があるんだけど、来てもらってもいいかな?」
「え、でも……」
芹沢くんが、冴えない顔をしている。以前のような好意すら感じない。
以前に引き続き、彼は穂乃花を避けている。近づかれるのも嫌そうだ。
その彼の態度にすぐさま心が折れそうになる。
それに加え、視線をいっぱい感じていた。
周囲にいるクラスメイトたちが、穂乃花たちの動向を気にしている。
「おい、あれ」
「誰?」
「工藤さんじゃん」
目配せを送り合い、ヒソヒソと声を潜めて芹沢と穂乃花のことを見ている。
ぶしつけな目。盗み見るような目。見下したような目。
いくつもの目が、粗探しをするように窺っている。
穂乃花にも細かい棘のような視線が突き刺さる。思わず逃げ出したくなるほど、周囲の反応が恐ろしかった。
でも、こんな状況で彼を置き去りにしたら、今度こそ取り返しのつかない気がした。
どうしよう。穂乃花自身も悲鳴を上げそうだった。
再び芹沢を見れば、彼の表情も強張っていた。目をきょろきょろと落ち着きなく動かしている。肩が少し震えた気がする。机に置かれた手が強く握られる。
悪意のない好奇心が、彼を追い詰めている。
このままじゃ、彼が潰れてしまう。
それに気づいて、全身の肌が粟立った。
そんなのは嫌だ。
怒りに似た強く激しい想いが、穂乃花を奮い立たせる。
意を決して深く息を吸い込んだ。
「噂が、事実じゃないって知っているよ」
穂乃花はみんなに聞こえるように大きな声で口にしていた。
「だって、私は芹沢くんが幼稚園の頃から一緒だったから」
周囲が穂乃花に威圧されたみたいに一瞬で静まり返った。
シンとした教室は、わずかな物音を立てるのも憚れるような、張り詰めた異様な雰囲気があった。
誰も動かない。みんなの視線が穂乃花に集まる。
芹沢は驚いたように大きな目で穂乃花を見上げる。
「だから、ちょっと廊下に来て?」
自分を信じてほしい。そう強い願いを込めて穂乃花は彼を見つめる。
彼の喉がゴクリと動く。
「あ、ああ……」
やっと彼は了承してくれた。彼は席からゆっくり立ちあがる。
先日もいた廊下の突き当りに穂乃花は芹沢と共に来た。
今日は曇り空で、どんよりとした空模様が窓から見える。
「粕谷先生は、芹沢くんのお母さんなんでしょう?」
穂乃花が尋ねると、芹沢はびっくりした表情を浮かべる。
「よく思い出したね」
「でも、どうしてみんなに話さなかったの? 隠すようなことではないよね?」
穂乃花は芹沢をまっすぐに見つめる。
彼の表情がひるみ、視線がわずかに逸らされ、床に向けられる。長いまつ毛が彼の頬に影を落としていた。
「……粕谷先生とは血は繋がっていないんだ」
「え、どういうこと?」
昨晩、穂乃花が見たアルバムの中の写真では、一年生の芹沢と粕谷先生が笑顔を浮かべて並んでいた。
穂乃花の母が高校の入学時にどこかで粕谷先生を見たことがあると言ったのは、恐らく小学校のときに顔を合わせた記憶がわずかに残っていたからだ。
「粕谷先生は、父の二回目の結婚相手で、離婚するまでは僕のお母さんだったんだ。僕の本当の母親は僕が赤ちゃんのときに離婚している」
「つまり、芹沢くんのお父さんは、粕谷先生と再婚したんだけど、小学四年生のときに離婚したってこと?」
穂乃花の確認の問いに芹沢は頷く。
つまり、粕谷先生はかつて芹沢の継母だった。
「父の浮気のせいなんだ。だから不倫とか浮気とか大っ嫌いなんだ」
「……大変だったんだね」
芹沢は最後の言葉は吐き出すように呟いていた。とても苦々しい顔をしている。
そこから彼の深い心の傷を感じた。
不倫を最低なことと彼が言っていたのも、母親との別離という自分の辛い過去があったからだった。
もしかしたら、この過去が影響して、女子から告白されても彼女たちを受け入れられなかったのかもしれない。その可能性も少しは感じた。
「高校に入学して久しぶりに粕谷先生と会って、また連絡するようになったんだ。あの日、先生の家族と一緒に遊園地に行ったとき、誰かに目撃されたみたい」
「でも、粕谷先生は久しぶりに会って感激して抱き締めてくれただけなんだから、黙ってなくてもいいと思うんだけど……」
穂乃花が真相の説明を勧めると、芹沢はばつが悪い顔をする。
「う、うん。そうなんだけどさ……。第一、高校生にもなってお母さんに抱き締められたなんて、話すのも恥ずかしかったんだ。それに僕からお母さんの過去を勝手に話すのも悪い気がしたし……」
そう言い訳をする彼の頬はほのかに赤かった。
照れくさくても、粕谷先生の気持ちを考えて、抱擁を交わしていたと分かり、そんな彼に対して微笑ましい気分が込み上がる。
確かに芹沢の父親と過去に付き合い戸籍に×がついているなんて、今はなんの縁もない粕谷先生の個人情報を勝手に話せないだろう。
噂が広まったときに「母親と会っていただけ」と言えなかった彼の事情を穂乃花はやっと理解できた。
「やっぱり、芹沢くんって、優しいよね」
そう笑顔を浮かべながら呟くと、芹沢はますます恥ずかしそうに頬を赤らめた。
※
後日、クラスにて国語の授業が始まるときに粕谷先生自身から噂について説明があった。
「芹沢くんとは昔、親子の関係でした。彼のお父様とは訳あってお別れしましたが、芹沢くんのことは今でも私にとって大切な子供です」
そう語る先生の目は優しく芹沢を見つめていて、彼は恥ずかしそうに俯いていた。
それから、芹沢に対する同級生の態度は手の平を返したように変わった。
気さくに話しかけるようになり、噂をしていた同級生たちは「誤解してごめんな」と彼に対して謝っていた。
噂を通じて彼の存在が広まっていたため、一気に彼はクラスの中で人気者――とまではいかなくても、みんなに受け入れられていた。
「芹沢くんって、よく見るとカッコいいよね?」
同じクラスの女子の間でそんな会話が流れたときには、穂乃花は激しく同意した。
「あと、芹沢くんって、優しいよね。教室のゴミも自分から捨てに行ってくれたし」
彼の良さがみんなに広まっていく。中学と同じように彼の魅力に気づいていく女子が増えていく。
「芹沢くんって、彼女とかいるのかな? 工藤さん昔からの知り合いなんでしょ? 何か知ってる?」
「うーん、どうだろう? そこまでは知らない」
芹沢の事情を知ってしまったために迂闊に彼の恋愛話はできなかった。
「そっかー。もし彼女がいないなら、告白してみようかな~?」
芹沢の周りにはいつも他の人がいて、だんだんと穂乃花が近づく隙が無くなっていた。
(でも、誤解が解けたんだから良かったんだよね。)
一抹の寂しさを胸にいつものように穂乃花が下校しようとしたときだ。今度は下駄箱で芹沢から「工藤さん!」と声をかけられた。
「どうしたの?」
何か用があったのだろうと思って穂乃花が尋ねると、芹沢は照れくさそうに「一緒に帰らない?」と誘ってきた。
「う、うん。いいよ」
彼と帰るのは、久しぶりな気がした。
一緒に改札を通り抜け、同じ電車に乗り込む。
窓を背にして向かい合わせに客席が並んでいる。まばらに乗客がいたので、人が少ない席に並んで座る。
「噂のときは、気にかけてくれてありがとう」
「ううん、全然お礼を言われることじゃないよ」
芹沢から改まってお礼を言われて、穂乃花は逆に恐縮してしまう。
「それに、ごめんね。僕、工藤さんのこと誤解していた」
「誤解って?」
「僕が不倫したんだって、工藤さんが誤解したと思っていたんだ。あのときの工藤さん、何も言わなかったから」
「あれは――」
あのときの穂乃花が感じた気まずさは、間違ってはいなかった。やはり、穂乃花の対応のまずさのせいで芹沢を傷つけていたのだ。
「本当にごめんね。実は、先生と抱き合っていたって聞いて、予想外だったから驚いていただけだったんだ。誤解されるような反応して、私こそごめんね。だから、近づくなって言ったの?」
「——それは、工藤さんに僕のせいで迷惑をかけたくないって思ってたからなんだ」
あのとき、他の生徒に嫌な感じで二人とも注目されていたからと説明される。
「でも、ごめん。焦っていたから、”今は”って言葉が抜けちゃって、感じ悪い言い方になっていたね」
ただ単に言葉足らずだったらしい。
あのときの「近づかないほうがいい」が、彼に嫌われたわけではなく、彼の配慮からだったと知れて良かった。
「ううん、いいの。こうして無事に芹沢くんと仲直りできて良かった」
穂乃花は彼を安心させるように微笑んだ。彼も以前のように優しい眼差しをこちらに向けてくれる。
「あのさ、どうして僕のためにこんなに親身になってくれたの?」
「どうしてって……」
改めて質問されて穂乃花自身が言葉に詰まった。まるで何か悪いことをしたみたいにドキドキと緊張する。
「ただ、芹沢くんが困っているのを見過ごせなかったの。芹沢くんは私の恩人だから」
「恩人?」
「うん、中学校のとき環境整備の委員会で一緒だったじゃない? そのとき、困っていた私を芹沢くんが助けてくれたの」
穂乃花は芹沢にあのときの出来事を詳しく説明した。
「え、それだけで恩人なの?」
芹沢が大きな目をさらに丸くしている。
「それだけじゃないよ! そのあと、勝手に男子がホースを使って水遊びしだしたときに、女子は可哀そうだって盾になってくれたのでしょ?」
「確かに助けたことはあったけど、そんなこと全然気にしなくていいのに」
「でも、助けてくれて嬉しかったの。その他にも――」
穂乃花が切々と芹沢に訴えると、彼の顔がどんどん赤くなっていった。
「そ、そうか、分かったよ。それにしても、工藤さんの恩人だなんて、照れるね」
芹沢は言葉どおり恥ずかしそうにしていたけど、にこにこと嬉しそうに笑っている。
それを見て、仲直りできて良かったとしみじみ穂乃花は感じた。胸の中が以前のように温かい気持ちに包まれる。まるで窓から差し込む春の陽気のように。
「そういえばさ、工藤さんって付き合っている人っているの?」
芹沢の唐突な質問に穂乃花は面食らった。パチパチと瞬きして相手を見つめる。
芹沢は先ほどとは違って、緊張した面持ちをしていた。
「え、いないけど、どうしたの? 突然」
急な彼の変化と振られた話題についていけず、穂乃花が戸惑いながら訊き返すと、彼はますます顔を赤くさせる。耳まで染まっている。
「いや、同じ中学だったからって、聞かれることが多くて。工藤さん、コンタクトに変えたらずいぶん印象が変わったよね? その、あの、とても可愛いっていうか……」
「え?」
急に芹沢にそんなことを言われて、穂乃花までも顔が熱くなってくる。
「いや、僕は前から工藤さんの良さは知っていたけど、後から近づいてきた奴に横から取られるのも嫌だなぁって」
「え?」
「あのさ、良かったら付き合ってくれない? 実は前から工藤さんのことが好きで……」
「え?」
ガタンゴトンと車輪が揺れる音が、一際大きく聞こえた気がした。
※
「無事に謎は解けたんだろう? どうしてまた相談が必要なんだ?」
桜井は不思議そうな顔をして、穂乃花が今日も自販機で買ったお茶を飲んでいる。
以前と同じ図書館の休憩スペースで穂乃花は桜井と会っていた。
今回は約束をしていなかった。でも、日曜日なら彼女がいると思って会いに行ったら、案の定彼女は定位置で本を読んでいた。
その彼女に声をかけて、わざわざ付き合ってもらっている。
休みなので席は混んでいたが、テーブルの一つを穂乃花たちが占領して座っていた。
「実は、その……」
穂乃花は言おうとしたが、恥ずかしくてなかなか口に出せない。
「あっ、そうそう!」
なので、別の話題から尋ねることにした。
「どうして桜井さんは、芹沢くんの謎は私の過去にあるって分かったの?」
桜井が穂乃花から話を聞いただけで、すぐに真実にたどり着いたことに非常に驚いていた。
「え、どうしてって、不倫以外の別の理由で抱き合っていたと推測しただけだよ? 芹沢くんは不倫はしていないと証言していた。それに先生のほうは処分されていない事実から、何も先生にはやましいところがなかったと考えたんだ」
「なるほど。それで、別の理由を考えたんだ……。でも、そこからよく思いついたよね」
「あまり日本人は他人と接触する文化じゃない。でも、たまに抱擁するときがある。それはどんなときだと工藤さんは思う?」
急に尋ねられたので、穂乃花は慌てて考え始める。
「えーと、試合に勝って嬉しいときとか、誰かが亡くなって悲しいとき? あとは、小さい子供を抱っこするとき?」
「そう。ただ、今回の場合は、遊園地という場所だったことから、悲しいときは除かれると思った。だから、嬉しいときや、子供を抱きしめたという理由が推測された」
穂乃花は言われて、条件がかなり絞られていたことにやっと気づいた。
「そっか。今時、離婚なんて珍しくないよね。だから、離れていた親子が、久しぶりに再会したから、抱き合ったと桜井さんは考えたのね!」
「そう。でも、それなら芹沢くんはすぐに理由を話したと思うんだよ。でも、彼は言わなかった。そこから、さらに芹沢くんの複雑な家庭環境が推測されたんだ」
「だから、桜井さんは憶測で言えないって、あのとき説明していたんだね」
「そのとおり。だから、昔の彼を知っている工藤さんなら、何かしら彼の事実に触れていたと思ったんだ」
「そっかー。桜井さん、やっぱりすごいわ~!」
穂乃花は桜井の能力の高さに感心する。両手を握りしめて、目を輝かせて彼女を見つめた。
「そうかい?」
でも、当の本人である桜井は、軽く首をひねり、特に気にもしなかった。
「で、ところで、工藤さんの今日の本題はなんだい?」
桜井は穂乃花のためらいにとっくに気づいていたのか、芹沢の謎の説明が終わると、速攻で尋ねてきた。
「う、うう……」
穂乃花は思わず口ごもるが、桜井は興味を失うとすぐに本の世界に戻ってしまう。早く言わなければと、自分で自分の背中を後押しした。
「……じ、実は、芹沢くんに告白されたの。でも、いきなりだったから、どう返事したらいいのか分からなくて」
恥ずかしいが、相談内容を伝えないと話は進まないので、意を決して口にしていた。
「おお! ついに! やっとヘタレを返上したのか!」
桜井にしては珍しく少し興奮気味に反応していた。
今日の彼女の格好は、アルファベット柄のトレーナーと綿パンだ。美少女が男装しているような雰囲気がある。
「え、ヘタレってどういう……」
「彼が工藤さんに片思いしているって、モロバレだったよ。だから早く告白すればいいのにって、ずっと思っていたけど、そうかーやっとかー。フフ、コンタクト効果に焦ったか」
桜井は感慨深く呟く。
「えーと、もしかして、あの噂になった芹沢くんの相手って、私だったの?」
「ああ、そうだよ」
「そ、そうだったんだ……」
全然気づかなかった。みんなは芹沢の気持ちに気づいていたのに。
自分の鈍さに穂乃花は少しだけ凹んだ。
「でも、それがきっと工藤さんの良いところだと思うんだよ」
「そ、そうかな……」
思いがけず桜井に褒められて、穂乃花はくすぐったい気持ちになる。彼女はお世辞なんて言わないと思っていたから、余計に嬉しかった。
彼女と見つめ合って微笑み合う。
眼鏡越しに見える彼女の目が優しい。にっこりと笑う唇は、張りがあって健康的な朱色をしている。
「だから、私に恋愛相談なんて愚かな真似は止めたまえ」
「えっ、どうして!?」
そんな残酷なことを言いながら、桜井は慈愛深い笑顔を浮かべたままだ。
突然の拒絶に穂乃花はかなりショックを受けた。
「だって、仮にだよ? ここで芹沢くんの悪い点を言って付き合うのは止めたほうが良いって言ったら、彼に刺されるのは私だ」
桜井をよく見たら、彼女は微笑んでいなかった。恐怖のあまりに顔が強張っているようだった。
「ちょ、ちょっと! 仮に言ったとしても、優しい芹沢くんは刺したりしないよ」
「おっと、すまない。言葉のあやだ。気にしないでほしい」
「気になるよ!」
「じゃあ、私は馬に蹴られないうちに口を閉じたいと思うよ」
「そ、そんな……」
桜井なら客観的に判断してくれると思っていただけに、彼女に見捨てられたくなかった。
しょんぼりしていたら、桜井はちょっとだけばつの悪い顔をした。
「そうだな……。じゃあ、お茶のお礼に少しだけ前向きなアドバイスをしよう」
「う、うん」
穂乃花は気を取り直し、姿勢を正して、彼女の助言を待つ。
「工藤さんは、どうして私に相談したんだと思う?」
「え、それは桜井さんが名探偵だから……」
「いや、そういう理由ではなくて」
「じゃあ、どういう理由?」
穂乃花が改めて聞き直すと、桜井はテーブルに肘を乗せて、さらにこちらに身を乗り出してきた。
「多くの場合、相談といっても信頼できる人か、親しい人間にすると思うんだよね。でも、工藤さんと私はそんなに仲良くはなかった。それなのにあなたは私を相談相手に選んだ。謎なら私が解けると思ったから。工藤さんがそうせざるを得なかったのは、そこまであなたを駆り立てたのは、何だったと思う?」
穂乃花はそう指摘されてみて、そこまで自分が追い詰められていた心境に初めて気付いた。
確かに穂乃花は謎を解かなければならないと、かつてないほどに強く考えていた。
「なぜって……。芹沢くんと仲直りしたかったの。前みたいに仲良くしたかったから。彼に冷たくされてショックだったの」
「そう。工藤さんにとって、芹沢くんは失くしたくない人だったんだよね?」
桜井の率直な言葉が穂乃花の胸にすとんと落ちる。
「そっか……。そうだよね」
先日見ていたアルバムの中で、いつも芹沢がいた。
穂乃花の脳裏を彼の笑顔がいくつも過ぎ去っていく。
そのとき一緒に穂乃花の胸の中が、ポカポカとお日様みたいに温かくなるのを感じた。
明るくなるような前向きな気持ちになれる。
だから、やっと気がついた。
思い出とともにあった、かけがえのない大切な想いに。
告白の返事を深く考えるまでもなかった。
「私は自分の気持ちをミスリードしていたみたい。ずっと彼を恩人だと思い込んでいた」
穂乃花が桜井から習った言葉をなぞらえて発言すると、彼女は目をぱちくりさせる。
「……確かに、工藤さんにとっては、そうかもしれないね」
「でしょう?」
穂乃花が苦笑すると、桜井も目を細めてクスリと笑う。
「一人の人間をずっと思い続けるなんて、なかなかできることじゃないよ」
「え?」
桜井の声が小さすぎて、よく聞こえなかった。
「うん、芹沢くんが報われて良かったって思っただけだよ。じゃあ、相談は終わりってことで」
桜井はあっけらかんと微笑むと、本をバッグから取り出して、そこで読み始めた。
切り替えが早すぎる。
そんな変わりのない彼女を見て、可笑しさがこみ上げてきた。
穂乃花は立ち上がって、彼女に近づく。
「ありがとう。また、会おうね」
桜井の耳元にそうつぶやいた。
邪魔するつもりはなかったからだ。
ところが、彼女の視線がチラリと向けられる。
「工藤さんも物好きだね」
彼女の柳眉と、健康的な唇の端がわずかに上がる。そして、すぐに彼女の視線は本に戻った。
穂乃花は美しい彼女の読書姿を焼きつけるように見つめる。
「じゃあね」
手を振って桜井と別れた。
休日、桜井はいつも図書館にいる。
次にここで彼女と会うときは、芹沢も一緒に連れて行こう。
そう考えると、少しだけワクワクした。
エントランスホールを抜けて自動ドアをくぐると、五月の抜けるような青空が広がっている。
爽やかなそよ風が、前を進む穂乃花を優しく撫でるように吹いていた。
※
桜井のスマホにメッセージが送られてくる。
『相談にのってくれてありがとう。おかげで彼女と上手くいったよ。今度、二人で一緒に会いに行こうって話になったから、何も知らないフリをしてくれると助かるよ』
桜井はその内容を見てため息をつく。
『嘘は嫌だし面倒くさいから、余計なことを言わずに黙っておくことにする』
その返信にありがとうのスタンプが返ってきて会話は終わる。
芹沢からメッセージが届いたのは、穂乃花から相談を受ける前だ。
『ある既婚者の先生と不倫しているって彼女に誤解されたかもしれない。どうしたらいいと思う?』
『その先生と本当はどんな関係なわけ? 詳しく分からないと何も答えられないよ』
『ごめん、それについては僕の一存では言えないんだ。でも、全然変な関係ではないよ』
うじうじと後ろ向きな発言と、詳細をぼかしたままの相談に桜井だってお手上げだった。
親しくもない他人の恋愛関係にあまり興味がなかったのもあり、正直「知らない」と冷たく突き放そうと思わなくもなかった。
でも、彼の意中の相手が穂乃花だったので、思いとどまっていた。
昔、桜井の率直な話し方を嫌う同級生がいて、その人に言われたことがあったのだ。「あんたの言い方きついよ」と。
そのとき、そばにいた穂乃花はいつものようにのほほんとした口調で、「そう? 私は桜井さんの話し方、分かりやすくて好きだよ」と言ってくれたのだ。
彼女に桜井を庇う意図があったとは思えない。でも、その彼女の素直な言葉で桜井はとても救われていた。
もしも穂乃花が芹沢のことを想っていて、両想いの二人がすれ違ってしまうのは可哀想だと思ったのだ。
ヘタレの芹沢のためなんかではない。
だから、桜井は彼にこう助言をした。
『その事実だけ告げて、どんと構えていれば大丈夫なのでは? 彼女はそんな噂を鵜呑みにするような人物とは思えないけど?』
でも、そんなメッセージを返したにもかかわらず、穂乃花から芹沢に避けられたと聞いたときは、『あのヘタレめ』と片思いしていた彼女にとんでもない勘違いまでさせた芹沢に対して悪態をついたのは仕方がないと思う。
一生彼女の尻に敷かれていればいい。そう桜井は考えながら、スマホをカバンに仕舞った。
〈完〉
