「はぁ……」
俺なんであのとき逃げたんだろ。学校からの帰り道、いつもと同じ通学路なのにどこか重苦しい。土ぼこりの上がる道すがら横滑りする羊毛のように汚れている。この外壁も全部真新しくなって手触りも良くなれば、その柔らかさに心がどれだけふやかされ得ようか。
そんな見てるものが歪んでいくような錯覚にふらふらしながらも俺は歩く。曲がり角を右に折れようとしたそのとき、目の前に現れた光景にしばし動きが止まる。
「やめてください、お断りします!」
「いいじゃん、ちょっとだけ付き合ってよ」
女の子。うちの制服着てる、嫌がってる……?
「私、急いでるので……」
「そんなこと言わないでさ〜」
まずいな、何がまずいって俺には人を助けるだけの技量も勇気もないことだ。まぁ、ここは通学路だしそのうち他の人がやってくる。俺には……どうすることもできない。壁を作り上げていた羊毛が太く体に巻き付き俺を引きずり込む。このまま人で無しとなって過ぎ去ろう。そう思ったそのとき、
とんっ
背後に何かぶつかる。顔だけ後ろを振り向くと、だいぶ上から声がした。
「お前ダセェよ、見損なったわ」
西鷹がじろりと俺を黒目だけで見やり、鋭い切っ先の付いた矢を放つ。
間近で受けたそれに俺はグズグズに突かれて壁にもたれかかることしかできなかった。なのに、羊毛でできていたはずのそれは俺を押し返すのみで引きずり込んではくれなかったのである。
ちらつく残像のなかでは西鷹が迷わず女の子のもとへ駆け寄る。西鷹の気迫に輩は怯む。有無を言わせず女の子の手を引く西鷹、その無駄のない動きに俺には羨望の眼差しを送ることしか許されないと思った。
傷口を持って家に帰る。夕飯は俺の好きなハンバーグだ、もうすぐ出来上がるのだと母親が部屋に呼びに来た。
俺は机に向かって宿題も手につかず呆然と目の前の虚無を見ていた。なんだったんだろうか、夢を見ていたような柔らかさで締め付けられていた。
もう、どうしていいか分からない。俺はどうするべきだったんだ、無力なら無力なりの生き方があるだろう。俺はその無力側なんだよ、西鷹が俺のことをどう見てようがそれは虚像であって、勝手に期待して、勝手に見放してんじゃねぇよ。
さらに締め付けてくる柔らかいもの、外側から圧をかけられだんだん硬く固まってきた。このまま俺は一生誰とも触れ合うことなく絞め殺されるんだ。
そこはかとない恐怖にさいなまれていたそのとき、ふと朝出しっぱなしだったスタンドミラーに目が移った。
そこに写るのは、死に際を彷徨って右往左往に前髪を揺らす自分の姿。こんなんで西鷹の前に現れてたの、俺。こんなんなのにあいつは俺をかっこいいって言ってくれたの?
いや、一度だけだ。一度だけ。それにダセェって言われた。その通り、俺はもともとダセェやつだ。なのに、西鷹に憧れの眼差しを向けられていい気になっていた。
俺はどうすればいい? 西鷹、西鷹は俺にどうして欲しいんだ。
──前髪分けたほうが似合うよ、瞳綺麗だし
「前髪、切ろうかな」
手にしたハサミで斜めにカットする。これが今の自分にできる精一杯。
それでもいい、それでも。迷いは断ち切れなくても、ギザギザに梳いてみればいい。
◇◇◇
「おはよー」
「おはよ」
「なぁ、あれ見ろよ」
「ん? え、なんか雰囲気違くない?」
教室の戸を開ける。朝から騒がしい。まぁ、俺があいさつする相手なんていないのは変わらない。一歩足を踏み入れる。なんてことない、いつもと同じ行為。なのになんだか、クチナシの花が端に見えた。そんな気がした。
俺なんであのとき逃げたんだろ。学校からの帰り道、いつもと同じ通学路なのにどこか重苦しい。土ぼこりの上がる道すがら横滑りする羊毛のように汚れている。この外壁も全部真新しくなって手触りも良くなれば、その柔らかさに心がどれだけふやかされ得ようか。
そんな見てるものが歪んでいくような錯覚にふらふらしながらも俺は歩く。曲がり角を右に折れようとしたそのとき、目の前に現れた光景にしばし動きが止まる。
「やめてください、お断りします!」
「いいじゃん、ちょっとだけ付き合ってよ」
女の子。うちの制服着てる、嫌がってる……?
「私、急いでるので……」
「そんなこと言わないでさ〜」
まずいな、何がまずいって俺には人を助けるだけの技量も勇気もないことだ。まぁ、ここは通学路だしそのうち他の人がやってくる。俺には……どうすることもできない。壁を作り上げていた羊毛が太く体に巻き付き俺を引きずり込む。このまま人で無しとなって過ぎ去ろう。そう思ったそのとき、
とんっ
背後に何かぶつかる。顔だけ後ろを振り向くと、だいぶ上から声がした。
「お前ダセェよ、見損なったわ」
西鷹がじろりと俺を黒目だけで見やり、鋭い切っ先の付いた矢を放つ。
間近で受けたそれに俺はグズグズに突かれて壁にもたれかかることしかできなかった。なのに、羊毛でできていたはずのそれは俺を押し返すのみで引きずり込んではくれなかったのである。
ちらつく残像のなかでは西鷹が迷わず女の子のもとへ駆け寄る。西鷹の気迫に輩は怯む。有無を言わせず女の子の手を引く西鷹、その無駄のない動きに俺には羨望の眼差しを送ることしか許されないと思った。
傷口を持って家に帰る。夕飯は俺の好きなハンバーグだ、もうすぐ出来上がるのだと母親が部屋に呼びに来た。
俺は机に向かって宿題も手につかず呆然と目の前の虚無を見ていた。なんだったんだろうか、夢を見ていたような柔らかさで締め付けられていた。
もう、どうしていいか分からない。俺はどうするべきだったんだ、無力なら無力なりの生き方があるだろう。俺はその無力側なんだよ、西鷹が俺のことをどう見てようがそれは虚像であって、勝手に期待して、勝手に見放してんじゃねぇよ。
さらに締め付けてくる柔らかいもの、外側から圧をかけられだんだん硬く固まってきた。このまま俺は一生誰とも触れ合うことなく絞め殺されるんだ。
そこはかとない恐怖にさいなまれていたそのとき、ふと朝出しっぱなしだったスタンドミラーに目が移った。
そこに写るのは、死に際を彷徨って右往左往に前髪を揺らす自分の姿。こんなんで西鷹の前に現れてたの、俺。こんなんなのにあいつは俺をかっこいいって言ってくれたの?
いや、一度だけだ。一度だけ。それにダセェって言われた。その通り、俺はもともとダセェやつだ。なのに、西鷹に憧れの眼差しを向けられていい気になっていた。
俺はどうすればいい? 西鷹、西鷹は俺にどうして欲しいんだ。
──前髪分けたほうが似合うよ、瞳綺麗だし
「前髪、切ろうかな」
手にしたハサミで斜めにカットする。これが今の自分にできる精一杯。
それでもいい、それでも。迷いは断ち切れなくても、ギザギザに梳いてみればいい。
◇◇◇
「おはよー」
「おはよ」
「なぁ、あれ見ろよ」
「ん? え、なんか雰囲気違くない?」
教室の戸を開ける。朝から騒がしい。まぁ、俺があいさつする相手なんていないのは変わらない。一歩足を踏み入れる。なんてことない、いつもと同じ行為。なのになんだか、クチナシの花が端に見えた。そんな気がした。
