第 1 話 霧の峠道
十月に入っても霧が晴れる日は少なかった。埼玉県所沢市の中心部から西へ車で三十分、狭山丘陵の外れにある集落を過ぎると、もう舗装された道は頼りにならなくなる。木々が頭上で枝を絡ませ、地面は腐葉土に覆われ、踏むたびにぬるりと足元を奪われる。携帯電話の電波はとっくに途切れ、時計だけが正確に時を刻んでいた。
桐生湊は鞄の肩紐を持ち直し、冷たい息を吐いた。大学の民俗学ゼミで卒業論文のテーマに選んだのは「狭山丘陵周辺に伝わる集団失踪と隠された系譜」。その中でも「影踏亭」ほど多くの目撃談、噂、記録の断片が残された場所はない。明治の頃から数えて十人近くが、この宿を最後に消息を絶っている。いずれも遺体はおろか、所持品一つ見つかっていない。
「自分だけは大丈夫だ」と言い聞かせるように湊は歩を進めた。だが木々のざわめきが不自然に途切れる瞬間、背筋を駆け上る冷たさを感じる。まるで、木の葉の隙間から無数の視線が注がれているかのようだ。
ようやく視界が開けたとき、湊は立ち止まった。
霧のカーテンの向こうに、黒い瓦屋根が浮かんでいた。軒先は黒く煤け、柱は年季を重ねてあちこち傷んでいる。門の前にはすでに二人の姿があった。
一人は赤いコートを着た若い女性。加賀美咲 —— 名前はまだ知らなかったが、スマートフォンを何度も握り直し、画面を見ては周囲の木々を振り返る。落ち着きのなさが全身から滲み出ている。もう一人は背の高い男で、丈の長い濃紺の雨合羽をすっぽりとまとい、手には革の古びた書類鞄一つを持っている。顔は帽子の影に隠れてよく見えないが、門柱に刻まれた「明治三十八年 建立」の文字をじっと見つめていた。
「ようこそおいでくださいました」
声に湊は振り返る。宿の玄関から、一人の女性が出てきた。白石時江 —— 六十代半ば、髪には白いものが混じり、着物の襟元はきちんと整っているが、目の下には疲労の濃い隈があり、視線はどこか落ち着きなく漂っている。
「他に予約の方は… 三名様で間違いございませんね」
時江はそう言うが、名前を確認するわけでもなく、それぞれの顔をかすめるだけだ。美咲は小さく頷き、男は無言のまま門柱から視線を外さない。湊が「桐生です。よろしくお願いします」と名乗ると、ようやく時江の唇がわずかにほころんだ。
宿の中に足を踏み入れた瞬間、湊は肌で感じた。この建物はただ古いだけではない。長い年月、人の悲しみや怒り、迷いといったものを吸い込み、それを壁や柱に染み込ませてきたのだ。廊下の床板は踏むたびに低く軋み、壁の煤けた絵の中の人物たちが、何かを語りかけてくるような気さえする。
玄関先で時江が振り返り、静かに言った。
「どうか、くれぐれも。二階の西の端、『ゆり』の部屋には近づかないでください。鍵はかかっておりますし、もう長い間、誰も入っておりません」
その言葉に、美咲の肩が小さく震えた。
十月に入っても霧が晴れる日は少なかった。埼玉県所沢市の中心部から西へ車で三十分、狭山丘陵の外れにある集落を過ぎると、もう舗装された道は頼りにならなくなる。木々が頭上で枝を絡ませ、地面は腐葉土に覆われ、踏むたびにぬるりと足元を奪われる。携帯電話の電波はとっくに途切れ、時計だけが正確に時を刻んでいた。
桐生湊は鞄の肩紐を持ち直し、冷たい息を吐いた。大学の民俗学ゼミで卒業論文のテーマに選んだのは「狭山丘陵周辺に伝わる集団失踪と隠された系譜」。その中でも「影踏亭」ほど多くの目撃談、噂、記録の断片が残された場所はない。明治の頃から数えて十人近くが、この宿を最後に消息を絶っている。いずれも遺体はおろか、所持品一つ見つかっていない。
「自分だけは大丈夫だ」と言い聞かせるように湊は歩を進めた。だが木々のざわめきが不自然に途切れる瞬間、背筋を駆け上る冷たさを感じる。まるで、木の葉の隙間から無数の視線が注がれているかのようだ。
ようやく視界が開けたとき、湊は立ち止まった。
霧のカーテンの向こうに、黒い瓦屋根が浮かんでいた。軒先は黒く煤け、柱は年季を重ねてあちこち傷んでいる。門の前にはすでに二人の姿があった。
一人は赤いコートを着た若い女性。加賀美咲 —— 名前はまだ知らなかったが、スマートフォンを何度も握り直し、画面を見ては周囲の木々を振り返る。落ち着きのなさが全身から滲み出ている。もう一人は背の高い男で、丈の長い濃紺の雨合羽をすっぽりとまとい、手には革の古びた書類鞄一つを持っている。顔は帽子の影に隠れてよく見えないが、門柱に刻まれた「明治三十八年 建立」の文字をじっと見つめていた。
「ようこそおいでくださいました」
声に湊は振り返る。宿の玄関から、一人の女性が出てきた。白石時江 —— 六十代半ば、髪には白いものが混じり、着物の襟元はきちんと整っているが、目の下には疲労の濃い隈があり、視線はどこか落ち着きなく漂っている。
「他に予約の方は… 三名様で間違いございませんね」
時江はそう言うが、名前を確認するわけでもなく、それぞれの顔をかすめるだけだ。美咲は小さく頷き、男は無言のまま門柱から視線を外さない。湊が「桐生です。よろしくお願いします」と名乗ると、ようやく時江の唇がわずかにほころんだ。
宿の中に足を踏み入れた瞬間、湊は肌で感じた。この建物はただ古いだけではない。長い年月、人の悲しみや怒り、迷いといったものを吸い込み、それを壁や柱に染み込ませてきたのだ。廊下の床板は踏むたびに低く軋み、壁の煤けた絵の中の人物たちが、何かを語りかけてくるような気さえする。
玄関先で時江が振り返り、静かに言った。
「どうか、くれぐれも。二階の西の端、『ゆり』の部屋には近づかないでください。鍵はかかっておりますし、もう長い間、誰も入っておりません」
その言葉に、美咲の肩が小さく震えた。

