これにて、恋を卒業します。

購買でパンを買い、教室に戻る途中だった。

「あ、ちょっと待って」
友達が立ち止まった。

「どうしたの?」
「忘れ物。先戻ってて」
そう言って、友達は教室のほうへ走っていった。

私は廊下で待つことにした。
すると、階段の近くから声が聞こえた。
「あのさ、昨日のことなんだけど」
彼の声だった。
私は、思わず顔を向けた。

昨日の女の子が、彼の前に立っていた。
「うん?」

「進路の話、また聞いてもいい?」
「もちろん」
「よかった。私、家だと全然集中できなくて」

女の子は、困ったように笑った。
「親がずっと大学行けって言うんだよね。でも、何がしたいのか分からなくて」
彼は頷いた。

「分かる。俺も似たような感じ」
「そうなの?」
「うん」
2人は、しばらく話していた。

私はその場を離れようとした。
聞くつもりなんてなかった。
本当に。

ただ、次の言葉が耳に入った。

「……なんか、君には話しやすいな」
女の子が言った。
私は足を止めた。
彼は、少し驚いたように笑った。

「そう?」
「うん。否定しないで聞いてくれるから」
「いや、俺も分かんないことだらけだし」

2人で笑った。
私は、手に持ったパンの袋を握りしめた。
話しやすい。
否定しないで聞いてくれる。
その言葉を、私は知っていた。
私も彼に、何度もそう感じたことがある。
だから好きになった。

……でも。 私だけじゃなかったんだ。
彼は私のものじゃない。
そもそも、私が彼の何を知っているというのだろう。
毎日話している。
一緒に購買に行く。
たまに帰り道が同じになる。

それだけだ。

彼が家でどんな顔をしているのか、私は知らない。
何に悩んでいるのかも、全部は知らない。
彼が誰に何を話したいのかだって、私が決めることじゃない。
それなのに。

「……何してるん?」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、友達が立っていた。

「あ」
「パン買ったのに、食べないの?」
「……今、戻るところ」

友達は私の顔を見て、それから階段のほうを見た。
彼と女の子は、まだ話していた。
友達は何も言わなかった。
それが、かえって嫌だった。

「……何?」
私が聞くと、友達は首を振った。

「何でもない」
「言いたいことあるなら言ってよ」

「ないって」
「じゃあ、何でそんな顔するの?」
友達は、少しだけ眉を寄せた。

「どんな顔?」
答えられなかった。
自分でも、どんな顔をしているのか分からなかったから。
友達は小さく息を吐いた。

「……別に、あの子と話してるだけじゃん」
私は、何も言えなかった。

「ごめん。余計なこと言った」
友達はそう言って先に歩き出した。

私は、その背中を見ていた。

*

午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板の文字をノートに写しているのに、何を書いているのか分からなくなる。
私は何度も消しゴムを使った。

ノートの同じところが、少しずつ黒くなっていく。
消しても、消しても、きれいにならない。
……もういいや。 私はシャープペンシルを置いた。
そのとき、スマホが震えた。

机の下で確認すると、彼からだった。
『今日、帰り一緒にどう?』

私は画面を見つめた。
さっき、別の女の子と楽しそうに話していた人。
私が勝手に嫉妬して、傷ついた人。

私は、返信を打った。
『いいよ』
送信。 すぐに返事が来た。

『やった』
……何、それ。

ノートを開いた。 黒くなった文字の横に、小さく書いた。

『私は、何が欲しいんだろう』
すぐに消した。
こんなことを考えている暇があるなら、授業を聞いたほうがいい。

*

放課後。
彼は、昇降口で待っていた。

「お待たせ」
「遅い」

「ごめん。先生に呼ばれてた」
「また?」
「また」
彼は笑った。

私は、靴を履き替えた。
外に出ると、空が少し赤くなっていた。

「今日さ」
彼が言った。

「ん?」
「進路のこと、先生に相談したんだけど」

「うん」
「やっぱ、まだ決まんないわ」
「……そっか」
「お前は?」

私は、少しだけ考えた。
「私も」

「そっか」
彼はそう言って歩き続けた。

何かを聞いてくれると思っていた。
どうして決まらないの、とか。 何に悩んでいるの、とか。
でも、彼は聞かなかったから寂しかった。

……何を期待しているんだろう。
「ねえ」
私は声をかけた。

「何?」
「今日、あの子と何話してたの?」

彼がこちらを向いた。
「あの子?」
「ほら、隣のクラスの」
「ああ。進路の話」
「……それだけ?」

言ってから、しまったと思った。
彼は、不思議そうな顔をした。

「それだけって?」
「いや、別に」
「何かあった?」
私は首を振った。
「何もない」

彼は、少し考えてから言った。
「……お前、最近やっぱ変だよ」
私は笑った。

「そうかな」
「うん」
「ごめん」
「いや、謝んなくていいけど」
彼は前を向いた。

「何かあるなら、話してくれてもいいから」
私は、その言葉を聞いて、胸が苦しくなった。
話せるわけがない。

私だけに話してほしかった。
私だけを特別にしてほしかった。

……本当に?
私は、自分に聞いてみた。
彼を困らせたくない。
それは、本当だ。

でも、少しくらい困ってほしいと思ったことはないだろうか。
私がいなくなったら、寂しいと思ってほしい。
私がほかの男の子と話していたら、気にしてほしい。
私が急に冷たくなったら、理由を知りたがってほしい。
私のことを、ただの友達じゃないと思ってほしい。

……そんなの。
「ねえ」
彼が言った。

「明日、帰り寄り道しない?」
私は顔を上げた。

「どこに?」
「本屋。進路の本、ちょっと見たい」
昨日の女の子と行った場所。

私は一瞬だけ黙った。
それから、笑った。

「いいよ」
彼は嬉しそうに笑った。
私は、その顔を見ながら思った。
明日も、彼と一緒にいられる。
それだけで嬉しい。
それだけで、十分だ。

私は彼の隣を歩きながら、心の中で小さく呟いた。
……私だけならいいのに。

その言葉が浮かんだ瞬間、私は自分のことが少しだけ嫌いになった。