これにて、恋を卒業します。

制服に袖を通して鏡の前に立った。
寝癖がひどい。

右側の髪だけ、どういうわけか好き勝手な方向に跳ねている。
昨日の夜にちゃんと乾かさなかったせいだ。

手ぐしで何度か撫でてみる。
直らない。

「……もういいや」

今日はどうせ学校に行くだけだ。
誰かに会うために可愛くする必要なんてない。
そう思ってから少しだけ嫌な気持ちになった。

誰か。
その言葉で思い浮かぶ人が、1人しかいないからだ。
私は鏡から目を逸らした。

机の上に置きっぱなしになっている進路希望調査票。

第一希望。
第二希望。
第三希望。
そのどれにもまだ何も書いていない。

鉛筆を持つところまではやった。
でも、名前を書いたところで止まった。
自分が何になりたいのかなんて分からない。

小さい頃は、もっと簡単だった。
ケーキ屋さんになりたいとか、先生になりたいとか、そんなものを適当に書いておけば大人は笑ってくれた。

「いいね」って。

でも17歳になった今は、それじゃ駄目らしい。
将来のことを真剣に考えなさい。
自分の人生なんだから。

先生も親も、みんな同じことを言う。
分かっている。
分かっているけど、分からないものは分からない。

私は机の上の紙を裏返した。
そのまま鞄を持つ。

「行ってきます」

今日は母が早番だった。
誰もいない家を出る。

玄関のドアを閉めた瞬間、冷たい風が顔に当たった。
秋の朝は苦手だ。

夏みたいに暑くもないし、冬みたいな寒さでもない中途半端なところ。
今の私みたいだと思った。

……朝から何を考えているんだろう。

私はイヤホンを耳に入れて道を歩き始めた。
音楽を流す。
いつも聴いている曲。
昨日までは好きだったはずなのに今日は何を聴いても頭に入ってこない。

駅に着くと、いつもの時間の電車が来た。
同じ制服の人たちが乗り込んでいく。

電車の窓に映った自分の顔を見て泣きそうになった。

酷い顔。
寝不足みたい。
実際、あまり眠れていないし。

昨日の夜からずっと考えていた。
どうしたら、好きな人を好きじゃなくなれるんだろう。

そもそも、そんな方法があるのかも分からない。
忘れようと思えば思うほど、頭に浮かぶ。

名前。声。笑ったときに少しだけ目が細くなるところ。
私がくだらないことを言ったときに、ちゃんと笑ってくれるところ。

そういう細かいことばかり覚えている。
だから、私は決めた。

忘れるんじゃない。
好きなままでいい。

ただ、もうそれ以上を望まない。
それならできる気がした。

恋人になりたいと思わなければいい。
休日に会いたいと思わなければいい。
手を繋ぎたいとか、特別になりたいとか、そういうことを考えなければいい。

好き。それだけ。
それならきっと、大丈夫。

……きっと。

学校に着くと、いつもより早かった。
教室にはまだ数人しかいない。

「おはよ」
「おはよー」

席に座って鞄から教科書を出す。
窓の外を見る。

校庭では運動部の朝練をしている。
いつもと同じ景色。

昨日までと何も変わっていない。
変わったのは、たぶん私だけだ。

「おはよう」

その声を聞いた瞬間心臓が大きく鳴った。
顔を上げなくても誰か分かる。
分かってしまう。

「……おはよう」
できるだけ普通に返した。
彼は私の机の横を通り過ぎる。

私は教科書を開いた。
文字が見えない。
何をそんなに緊張しているんだ。

昨日まで普通に話していたじゃないか。
何も起きていない。

だから普通でいい。
私はそう自分に言い聞かせた。

「今日、眠そうじゃない?」

突然、横から声がした。
顔を上げる。
彼が私の机に手をついて、こちらを見ていた。

「……そう?」

「うん。目、半分しか開いてない」

「元からこういう目なの」

「嘘つけ」

いつもの笑い方。
私は反射的に笑い返しそうになって、やめた。

昨日までなら、ここで一緒に笑っていた。
でも今日は違う。

「昨日、何時に寝たの?」

「普通」

「普通って何時?」

「11時」

「それでそんな眠そうなの?」

「うるさいな」

そう言って、教科書で顔を隠す。
彼が笑う。

「機嫌悪い?」

「いや別に」

「ならよかった」

そう言って、彼は自分の席へ戻っていった。
私は教科書を下ろした。

胸のあたりが、変に熱い。

好き。
その言葉が、勝手に浮かんだ。

やめて。
昨日、決めたばかりなのに。

朝のホームルームが始まる。
担任が教室に入ってきて、出席を取り始めた。

進路希望調査について。
今日が提出日だった。

「まだ出してない人、今日の放課後までだからな」

先生が言う。
教室の何人かが嫌そうな顔をする。
私も同じ顔をしていたと思う。

「先生、まだ決まってないんですけど」

誰かが言った。

「決まってなくても、今の時点で考えてることを書けばいい」

そんな簡単に言わないでほしい。
私は机の中に入れていた紙を思い出す。

放課後までに決めなければならない。

そんなことを考えていたら、隣の席の子が小声で話しかけてきた。

「ねえ」

「ん?」
「あのさ、昨日の放課後、彼と一緒に帰ってた?」

息が止まった。

「……彼って?」

「とぼけんなよ」
友達が笑う。

「ほら、あの人」

視線だけを少し動かす。
彼は前のほうの席で、友達と話していた。

「一緒に帰ってないよ」

「本当に?」

「本当」

友達はそれ以上何も言わなかった。

昨日までなら、一緒に帰れたら嬉しかった。
今だって、たぶん嬉しい。

私は、友達に笑ってみせた。

「もう、そういうのじゃないから」

「え?」

「だから。そういうのじゃないの」

自分に言い聞かせるように言った。
そういうのじゃない。
私はもう、彼とどうにかなりたいわけじゃない。

ただ好きなだけ。
それだけだ。

昼休み。
私は1人で購買に向かおうとしていた。

教室を出たところで、後ろから腕を引かれた。

「待って」
振り返る。

彼だった。

「……何?」

「一緒に行こう」
「どこに?」

「購買」
「なんで?」

「なんでって……」

「いつも一緒に行ってるじゃん」

……そうだった。

私は何も言えなくなった。

その顔を見ていると、昨日決めたことが馬鹿らしく思えてくる。
たった1日で、何が変わるというんだろう。

「……いいよ」

「やった」

彼が笑った。

私は歩き出す。
隣を彼が歩く。
肩が触れそうで触れない距離。

「ねえ」

「何?」

「今日、放課後暇?」

すぐこういうことを簡単に聞いてくる。
私は前を向いた。

「……なんで?」

「いや、ちょっと付き合ってほしいところがあって」

付き合って。
その言葉が聞こえた瞬間心臓が破裂しそうになった。


私は笑った。
たぶんうまく笑えていたと思う。

「いいよ」

どうして私は、また彼の隣を歩いているんだろう。