『黒猫になった元人間、嘘が見える魔族少女と人間界を旅する ~魔族から見た人間社会、だいぶおかしい~』


「ここに、魔性石を使って薬を作る旅人がいると聞いた」

孤児院の門に立っていたのは、きれいな外套を着た男だった。

靴もきれいだ。

この辺りの泥道を歩いてきたはずなのに、ほとんど汚れていない。

俺は玄関の陰から男を見上げた。

三十代半ばくらい。

笑顔。

柔らかい声。

そして頭の中では。

――高純度の石を持っているなら、居場所を確かめておけ。

物騒なことを考えている。

(クワンリ)

『聞こえた』

さすがに、もう俺が説明する必要はなさそうだ。

孤児院の女が男へ頭を下げる。

「どちら様でしょうか」

「商会の者です。こちらで薬を作っていると聞きまして」

男は胸元から小さな札を取り出した。

文字が刻まれている。

俺には読めない。

この世界の文字は、まだ勉強していないのだ。

「もしよければ、薬を買い取らせていただきたい」

――石を見せろ。

――まずは価値を測る。

なるほど。

薬が目的ではない。

クワンリは男をじっと見ていた。

「薬が欲しいのか?」

「ええ。評判を聞きまして」

『嘘だな』

思念が俺に届く。

(うん。今のは分かりやすい)

『では帰ってもらうか』

(ちょっと待て)

男は相変わらず笑っている。

俺はその笑顔を見ながら考えた。

追い返せば終わりか?

違う。

男はすでに孤児院の場所を知っている。

ここに魔性石があることも知っている。

追い返したところで、別の誰かが来るかもしれない。

しかも、ここには子供が大勢いる。

(何を知ってるのか聞こう)

『どうやって?』

(普通に話せばいい)

クワンリが頷いた。

「誰から聞いた?」

男の笑顔が一瞬だけ止まった。

「街の噂ですよ」

――子供が喋ったのか、近所の女か。

――誰でもいい。

俺は尻尾を揺らした。

子供を責めるのは筋違いだ。

昨日、庭で光る魔性石を見せたのはクワンリだし。

止めなかったのは俺だ。

「それで、いくらで買う?」

クワンリが聞いた。

おい。

いきなり商談か。

男の目が光った。

「品物を拝見してからになりますが、相場より良い条件をお約束します」

――相場など知らないだろう。

――安く買える。

クワンリが俺を見る。

『相場とは何だ?』

(みんなが売り買いしてる大体の値段)

『知らん』

(俺も知らん)

最悪の二人組だ。

ここで値段を決めたら、たぶん一生後悔する。

(売らない。今は)

『なぜだ?』

(価値が分からない物を売るな)

クワンリは男へ向き直った。

「今日は売らん」

男は笑顔を崩さなかった。

「そうですか。では、明日にでも改めて」

――明日までに調べる。

――誰が持ち主で、誰が管理している。

俺は少し背筋が寒くなった。

物を買うだけなら、そこまで調べる必要があるのか?

「薬の方はいかがです?」

男が続けた。

「孤児院でお作りになっているとか」

孤児院の女が慌てて口を開いた。

「まだ、販売できるほどでは――」

「もちろん急ぎません。お困りのことがあれば、商会としてお力になれますよ」

――恩を売っておけばいい。

――子供の施設なら金に弱い。

その瞬間。

クワンリの表情が変わった。

『ノル』

(うん)

『この男は、親切ではないのか?』

(親切に見せてるだけかもな)

『では、断るべきだ』

(待て)

俺は男を見た。

きれいな外套。

汚れていない靴。

丁寧な言葉。

たぶん、金を持っている。

そして商売を知っている。

それ自体は悪いことじゃない。

孤児院が作る虫除けだって、誰かに売らなきゃ仕事にならない。

(商売する人間が、全員悪いわけじゃない)

『だが、この男は嘘をついている』

(そうだな)

『なら、どうする?』

(約束をしない。それだけ)

クワンリはしばらく考えた。

そして男へ言った。

「薬もまだ売らん。必要になったらこちらから連絡する」

「承知しました」

男は札を一枚置いた。

「こちらが商会の所在地です。いつでもお越しください」

――逃げるつもりはないらしい。

――なら、急がなくてもいい。

男は礼をして帰っていった。

門が閉まる。

孤児院の女が大きく息を吐いた。

「びっくりしました。商会の方が、こんなところに来るなんて」

(有名な商会なのか?)

クワンリが俺の問いを女へ言い換える。

女は頷いた。

「大きな商会です。魔道具も扱っているはずです」

魔道具。

魔性石を使う道具。

なるほど。

薬より石に興味を持つわけだ。

女は男が置いていった札を見た。

「でも……あの方、本当に薬を買ってくださるのでしょうか」

期待している。

思念が伝わってきた。

――子供たちの食費になるかもしれない。

――屋根も直せるかもしれない。

その気持ちは分かる。

分かるだけに、困った。

クワンリは女へ言った。

「薬はまだ売れん」

女が少し肩を落とす。

「そうですよね」

「だが、虫除けは作るのだろう?」

「はい」

「なら、そちらを売ればいい」

女が顔を上げた。

クワンリは得意そうに俺を見た。

『ノル。合っているか?』

(合ってる。たぶん)

おお。

成長した。

無料で配ると言い出さなかった。

そこだけでも大進歩だ。

◇

翌朝。

孤児院の庭には、乾かした草が並んでいた。

子供たちが布の袋を縫っている。

ダンデ草の虫除けを入れるためだ。

クワンリは薬草の状態を一つずつ確かめ、使えるものだけを選んでいた。

俺は日向で監督。

昨日と同じ仕事だ。

「ねえ、ノル」

鞄を盗んだ少年が隣に座った。

「昨日の人、また来るかな」

(さあな)

少年には聞こえない。

「怖かった?」

俺は少年を見た。

少年は小さな声で続けた。

「お金持ちの人って、僕たちのこと、あんまり見ないんだ」

その言葉には、余計な思念がついてこなかった。

少年は本当に、そう感じているらしい。

「でも昨日の人は、ちゃんと話してた」

ああ。

そう見えたのか。

男は礼儀正しかった。

丁寧に話した。

誰も怒鳴らなかった。

だから少年には、親切に見えた。

俺には別の声が聞こえていた。

どちらが本当の男なのだろう。

いや。

どちらも本当なのかもしれない。

商売をしたい男。

礼儀を守る男。

安く買いたい男。

孤児院を利用しようとする男。

一人の人間の中に、いくつも顔がある。

昨日クワンリが見つけた「二つの本当」と、どこが違う?

(……難しいな)

「にゃあ」

少年が笑った。

「そうだね」

絶対に分かってないだろ。

その時。

門の外で車輪の音がした。

荷車が止まる。

俺は顔を上げた。

昨日の商会の男か?

違った。

荷車を引いていたのは、昨日、虫除けを買うと約束した年配の女だった。

「おーい! できたかい!」

孤児院の女が飛び出してくる。

「まだ、袋に詰めているところで……」

「なら待つよ」

年配の女は荷車から籠を下ろした。

中には野菜が入っていた。

「余り物だけどね。子供たちに食べさせな」

――昨日、畑で採れたばかり。

――喜ぶかねえ。

俺は思わず笑った。

余り物と言った。

でも、余り物ではなかった。

クワンリも聞こえたらしい。

『ノル』

(何?)

『今のは、嘘だな』

(そうだな)

『だが、悪くない』

(うん)

クワンリは少し考えてから、年配の女へ歩み寄った。

「礼を言う」

女が笑う。

「虫除けを買いに来ただけだよ」

『野菜の分もだ』

女の笑顔が止まった。

ほんの一瞬。

それから、照れたように手を振った。

「いいから、いいから!」

――ばれちゃったかね。

クワンリが俺を見た。

『人族は面白いな』

(だろ?)

その時、俺は気づいた。

門の外。

少し離れた角に、昨日の男と同じ印のついた荷車が止まっている。

誰かがこちらを見ていた。

昨日の男ではない。

別の男だ。

俺が見返すと、男はすぐに顔を逸らした。

思念は遠く、はっきりとは聞こえない。

だが、一つだけ届いた。

――猫までいるのか。

――あの石の持ち主は、どっちだ?

俺は尻尾を止めた。

どうやら商会は、昨日の約束を守っているらしい。

今日は来ない。

ただし。

見に来ないとは、一言も言っていなかった。