孤児院に住むことになった。
正確には。
クワンリが勝手に決めた。
そして俺は今、孤児院の食堂らしき部屋で、子供たちに囲まれている。
「でっかい」
知ってる。
「ふわふわ」
それも知ってる。
「触っていい?」
返事をする前に触られている。
背中。
尻尾。
耳。
肉球。
おい。
肉球はやめろ。
「この猫、怒らないね」
怒ってる。
めちゃくちゃ怒ってる。
ただし声に出すと、
「にゃあ」
になるだけだ。
威厳がない。
少し離れた場所では、クワンリが病気の子供を診ていた。
額に手を当てる。
喉を見る。
呼吸を聞く。
鞄から乾燥した葉を出して匂いを確かめる。
さっきまで「スリとは何だ」と聞いていた女とは思えない。
手際がいい。
(薬、作れるのか?)
『作れる』
即答だった。
(医者なの?)
『違う』
(じゃあ何で)
『旅をするなら必要だろう』
それだけらしい。
魔族、たくましい。
孤児院には熱を出している子が三人いた。
ひどい咳。
頭痛。
食欲も落ちている。
クワンリはしばらく診たあと、俺へ思念を送った。
『重い病ではない』
(治せる?)
『薬があればな』
(鞄にあるんだろ?)
『材料はある』
クワンリが取り出したのは、何種類かの乾燥した薬草だった。
それから。
小さな金属の器具。
円盤。
細い管。
そして淡く光る魔性石。
俺は首を傾げた。
(薬草を煮るんじゃないの?)
『煮ても効くが、時間がかかる』
クワンリは床に器具を並べ始めた。
『精製する』
魔性石を円盤の中央へはめ込む。
その周囲へ小さな石を配置する。
石と石の間に細い金属線を通す。
何だこれ。
異世界の理科実験か。
子供たちも集まってきた。
「それ何?」
「光ってる!」
「触るな」
クワンリが言う。
子供たちの手が一斉に止まった。
――触りたい。
――すごく触りたい。
――ちょっとだけなら。
思念がうるさい。
クワンリが子供たちを見る。
『なぜ人族の子供は、するなと言われるとしたくなる?』
(知らん)
人類最大級の謎を俺に聞くな。
昨日、鞄を盗んだ少年も部屋の隅にいた。
まだ俺たちに近づきにくいらしい。
目が合うと逸らす。
でも。
――薬。
――治るかな。
考えていることは聞こえていた。
クワンリは何も言わず、作業を続ける。
薬草を細かく砕く。
器具へ入れる。
魔性石に触れる。
淡い光が、器具の中を走った。
子供たちが声を上げる。
「うわあ!」
俺も少し驚いた。
薬草から湯気のようなものが立ち、それが管を通って別の器へ集まっていく。
やがて。
透明に近い液体が、ぽたりと落ちた。
『できた』
早い。
(それだけ?)
『それだけだ』
クワンリは液体を小さな器へ移し、病気の子供に飲ませた。
苦かったらしい。
ものすごい顔をした。
「まずい……」
『薬だからな』
「甘くできないの?」
『できる』
できるのかよ。
「じゃあ甘くしてよ!」
『薬効に必要ない』
正論で子供を殴るな。
俺は笑いそうになった。
だが。
孤児院の女――昨日、鞄を返してくれた人は笑っていなかった。
クワンリの手元を見つめている。
正確には。
魔性石を。
「その石……」
「これか?」
クワンリが一つ摘まむ。
女の顔が引きつった。
「そんな高価なものを、薬を作るために?」
『高価?』
クワンリが俺を見る。
嫌な予感がした。
「それだけの大きさなら……私たちでは、とても買えません」
『これは小さいぞ』
クワンリは本気で言った。
「小さくありません!」
『そうなのか?』
俺を見るな。
俺も相場を知らん。
女は恐る恐る尋ねた。
「薬を一回作るのに、その魔性石を使うんですか?」
『使う』
「なくなるまで?」
『いや』
クワンリが不思議そうに答える。
『この程度なら、何百回か使える』
女が黙った。
子供たちも黙った。
俺も黙った。
たぶん。
俺たちは今、とんでもなく金持ちに見えている。
いや。
クワンリだけか。
俺は無一文の猫だ。
(なあ)
『なんだ?』
(その魔性石、魔族領では普通なの?)
『この程度ならな』
なるほど。
ようやく少し分かった。
人間たちが山を越えた理由。
魔族領にはある。
人間領にはない。
しかも、人間社会では生活を変えるほどの価値がある。
魔性石。
これを大量に欲しがるのは。
善悪以前に。
当然なのかもしれない。
クワンリは別の薬を作り始めた。
女が慌てる。
「待ってください」
『なぜ?』
「お金がありません」
『金?』
「薬代です」
クワンリは止まった。
『いらん』
「でも――」
『草だぞ』
「薬です」
『草から作った』
「だから薬です」
『そこに生えている』
「だからといって無料では――」
また始まった。
俺は前脚で顔を覆った。
この二人、たぶん永遠に話が終わらない。
(クワンリ)
『なんだ』
(人間は、物をもらったら対価を払わなきゃいけないって考えるんだよ)
『なぜ?』
(そうしないと、作る人が生きていけないから)
クワンリは少し考えた。
『だが私は困らない』
(この人が困るんだよ)
『なぜ受け取る側が困る?』
そこが人間なんだよ。
俺にも上手く説明できない。
借り。
恩。
遠慮。
誇り。
施しを受けることへの抵抗。
人間は腹が減っていても「いりません」と言うことがある。
クワンリからすれば意味不明だろう。
昨日もそうだった。
欲しいのに、鞄を受け取らなかった。
俺は女を見る。
そして。
ふと思った。
(じゃあ、買ってもらえばいい)
『金はないと言っているぞ』
(お金じゃなくて)
俺は周りを見る。
壊れた椅子。
雨漏りの跡。
薄いスープ。
痩せた子供たち。
それから。
昨日の花売りの少年が持っていた花。
薬草。
この街には、クワンリにとって当たり前の知識がない。
逆に言えば。
知識なら売れる。
(薬の作り方を教えればいい)
クワンリが俺を見る。
(この辺に生えてる草で作れるなら、教えてやる。その代わり、ここに泊めてもらう)
『宿代か』
(そう)
『なるほど』
クワンリが女を見る。
「では交換しよう」
「交換?」
「我々をここに泊めてくれ」
女が目を丸くする。
「そんなことで?」
『そんなことではない』
クワンリは真顔だった。
『私は人族を調べたい。ここには人族がたくさんいる』
子供たちを見る。
「人族?」
「お姉ちゃんも人間じゃないの?」
まずい。
俺はクワンリを見る。
クワンリも俺を見る。
一秒。
二秒。
『……旅人だ』
下手くそ。
心の中では、
――今のは嘘か?
と俺に聞いている。
(嘘だよ)
『そうか』
ちょっと嬉しそうにするな。
人間社会に来て二日。
魔族の少女が、初めて嘘を覚えた。
しかも理由は。
自分が魔族だと隠すため。
俺は何とも言えない気分になった。
その時。
薬を飲んだ子供が、ベッドから身体を起こした。
「お腹すいた」
女が振り向く。
「え?」
「お腹すいた」
さっきまで食欲もなく寝ていた子だ。
女が駆け寄る。
額を触る。
目を見開く。
「熱が……」
クワンリは当然のような顔をしていた。
『効いたのだろう』
「こんなに早く?」
『普通だ』
普通。
魔族にとっては。
女はクワンリを見る。
魔性石を見る。
薬草を見る。
そして、何かを決めた顔をした。
「教えてください」
『何を?』
「その薬の作り方を」
クワンリが笑った。
『いいぞ』
俺は尻尾を動かした。
どうやら。
人間社会の調査どころか。
明日からこの孤児院で。
魔族による薬草教室が始まるらしい。
そして俺は、まだ知らなかった。
その教室でクワンリが最初に持ち出す草が。
この街では。
薬ではなく。
ただの雑草として捨てられていることを。
正確には。
クワンリが勝手に決めた。
そして俺は今、孤児院の食堂らしき部屋で、子供たちに囲まれている。
「でっかい」
知ってる。
「ふわふわ」
それも知ってる。
「触っていい?」
返事をする前に触られている。
背中。
尻尾。
耳。
肉球。
おい。
肉球はやめろ。
「この猫、怒らないね」
怒ってる。
めちゃくちゃ怒ってる。
ただし声に出すと、
「にゃあ」
になるだけだ。
威厳がない。
少し離れた場所では、クワンリが病気の子供を診ていた。
額に手を当てる。
喉を見る。
呼吸を聞く。
鞄から乾燥した葉を出して匂いを確かめる。
さっきまで「スリとは何だ」と聞いていた女とは思えない。
手際がいい。
(薬、作れるのか?)
『作れる』
即答だった。
(医者なの?)
『違う』
(じゃあ何で)
『旅をするなら必要だろう』
それだけらしい。
魔族、たくましい。
孤児院には熱を出している子が三人いた。
ひどい咳。
頭痛。
食欲も落ちている。
クワンリはしばらく診たあと、俺へ思念を送った。
『重い病ではない』
(治せる?)
『薬があればな』
(鞄にあるんだろ?)
『材料はある』
クワンリが取り出したのは、何種類かの乾燥した薬草だった。
それから。
小さな金属の器具。
円盤。
細い管。
そして淡く光る魔性石。
俺は首を傾げた。
(薬草を煮るんじゃないの?)
『煮ても効くが、時間がかかる』
クワンリは床に器具を並べ始めた。
『精製する』
魔性石を円盤の中央へはめ込む。
その周囲へ小さな石を配置する。
石と石の間に細い金属線を通す。
何だこれ。
異世界の理科実験か。
子供たちも集まってきた。
「それ何?」
「光ってる!」
「触るな」
クワンリが言う。
子供たちの手が一斉に止まった。
――触りたい。
――すごく触りたい。
――ちょっとだけなら。
思念がうるさい。
クワンリが子供たちを見る。
『なぜ人族の子供は、するなと言われるとしたくなる?』
(知らん)
人類最大級の謎を俺に聞くな。
昨日、鞄を盗んだ少年も部屋の隅にいた。
まだ俺たちに近づきにくいらしい。
目が合うと逸らす。
でも。
――薬。
――治るかな。
考えていることは聞こえていた。
クワンリは何も言わず、作業を続ける。
薬草を細かく砕く。
器具へ入れる。
魔性石に触れる。
淡い光が、器具の中を走った。
子供たちが声を上げる。
「うわあ!」
俺も少し驚いた。
薬草から湯気のようなものが立ち、それが管を通って別の器へ集まっていく。
やがて。
透明に近い液体が、ぽたりと落ちた。
『できた』
早い。
(それだけ?)
『それだけだ』
クワンリは液体を小さな器へ移し、病気の子供に飲ませた。
苦かったらしい。
ものすごい顔をした。
「まずい……」
『薬だからな』
「甘くできないの?」
『できる』
できるのかよ。
「じゃあ甘くしてよ!」
『薬効に必要ない』
正論で子供を殴るな。
俺は笑いそうになった。
だが。
孤児院の女――昨日、鞄を返してくれた人は笑っていなかった。
クワンリの手元を見つめている。
正確には。
魔性石を。
「その石……」
「これか?」
クワンリが一つ摘まむ。
女の顔が引きつった。
「そんな高価なものを、薬を作るために?」
『高価?』
クワンリが俺を見る。
嫌な予感がした。
「それだけの大きさなら……私たちでは、とても買えません」
『これは小さいぞ』
クワンリは本気で言った。
「小さくありません!」
『そうなのか?』
俺を見るな。
俺も相場を知らん。
女は恐る恐る尋ねた。
「薬を一回作るのに、その魔性石を使うんですか?」
『使う』
「なくなるまで?」
『いや』
クワンリが不思議そうに答える。
『この程度なら、何百回か使える』
女が黙った。
子供たちも黙った。
俺も黙った。
たぶん。
俺たちは今、とんでもなく金持ちに見えている。
いや。
クワンリだけか。
俺は無一文の猫だ。
(なあ)
『なんだ?』
(その魔性石、魔族領では普通なの?)
『この程度ならな』
なるほど。
ようやく少し分かった。
人間たちが山を越えた理由。
魔族領にはある。
人間領にはない。
しかも、人間社会では生活を変えるほどの価値がある。
魔性石。
これを大量に欲しがるのは。
善悪以前に。
当然なのかもしれない。
クワンリは別の薬を作り始めた。
女が慌てる。
「待ってください」
『なぜ?』
「お金がありません」
『金?』
「薬代です」
クワンリは止まった。
『いらん』
「でも――」
『草だぞ』
「薬です」
『草から作った』
「だから薬です」
『そこに生えている』
「だからといって無料では――」
また始まった。
俺は前脚で顔を覆った。
この二人、たぶん永遠に話が終わらない。
(クワンリ)
『なんだ』
(人間は、物をもらったら対価を払わなきゃいけないって考えるんだよ)
『なぜ?』
(そうしないと、作る人が生きていけないから)
クワンリは少し考えた。
『だが私は困らない』
(この人が困るんだよ)
『なぜ受け取る側が困る?』
そこが人間なんだよ。
俺にも上手く説明できない。
借り。
恩。
遠慮。
誇り。
施しを受けることへの抵抗。
人間は腹が減っていても「いりません」と言うことがある。
クワンリからすれば意味不明だろう。
昨日もそうだった。
欲しいのに、鞄を受け取らなかった。
俺は女を見る。
そして。
ふと思った。
(じゃあ、買ってもらえばいい)
『金はないと言っているぞ』
(お金じゃなくて)
俺は周りを見る。
壊れた椅子。
雨漏りの跡。
薄いスープ。
痩せた子供たち。
それから。
昨日の花売りの少年が持っていた花。
薬草。
この街には、クワンリにとって当たり前の知識がない。
逆に言えば。
知識なら売れる。
(薬の作り方を教えればいい)
クワンリが俺を見る。
(この辺に生えてる草で作れるなら、教えてやる。その代わり、ここに泊めてもらう)
『宿代か』
(そう)
『なるほど』
クワンリが女を見る。
「では交換しよう」
「交換?」
「我々をここに泊めてくれ」
女が目を丸くする。
「そんなことで?」
『そんなことではない』
クワンリは真顔だった。
『私は人族を調べたい。ここには人族がたくさんいる』
子供たちを見る。
「人族?」
「お姉ちゃんも人間じゃないの?」
まずい。
俺はクワンリを見る。
クワンリも俺を見る。
一秒。
二秒。
『……旅人だ』
下手くそ。
心の中では、
――今のは嘘か?
と俺に聞いている。
(嘘だよ)
『そうか』
ちょっと嬉しそうにするな。
人間社会に来て二日。
魔族の少女が、初めて嘘を覚えた。
しかも理由は。
自分が魔族だと隠すため。
俺は何とも言えない気分になった。
その時。
薬を飲んだ子供が、ベッドから身体を起こした。
「お腹すいた」
女が振り向く。
「え?」
「お腹すいた」
さっきまで食欲もなく寝ていた子だ。
女が駆け寄る。
額を触る。
目を見開く。
「熱が……」
クワンリは当然のような顔をしていた。
『効いたのだろう』
「こんなに早く?」
『普通だ』
普通。
魔族にとっては。
女はクワンリを見る。
魔性石を見る。
薬草を見る。
そして、何かを決めた顔をした。
「教えてください」
『何を?』
「その薬の作り方を」
クワンリが笑った。
『いいぞ』
俺は尻尾を動かした。
どうやら。
人間社会の調査どころか。
明日からこの孤児院で。
魔族による薬草教室が始まるらしい。
そして俺は、まだ知らなかった。
その教室でクワンリが最初に持ち出す草が。
この街では。
薬ではなく。
ただの雑草として捨てられていることを。

