『スリとは何だ?』
クワンリは本気で聞いていた。
冗談でも、聞き間違いでもない。
俺は人混みの向こうを見る。
鞄を盗った子供は、とっくに見えなくなっている。
(人の物を勝手に持っていく奴だよ!)
『なぜ?』
(なぜって……自分の物にするためだろ)
『欲しいなら、欲しいと言えばいいではないか』
俺は一瞬、言葉に詰まった。
そうだった。
こいつは、そういう世界から来た。
欲しい。
嫌い。
怖い。
困っている。
思念で伝わってしまう魔族には、そもそも隠して盗むという発想が薄いのかもしれない。
(とにかく追うぞ!)
『分かった』
クワンリが走り出した。
速い。
俺を片腕に抱えたまま、人混みの隙間を抜けていく。
(右!)
『なぜ分かる?』
(勘!)
嘘だ。
さっきの子供の匂いが残っている。
汗。
土。
それから、少し甘い花の匂い。
猫の鼻、すごい。
俺は初めてこの身体に感謝した。
(次、左!)
『こっちか?』
(そう!)
市場を抜ける。
大通りから細い路地へ。
建物が古くなる。
石畳が途切れ、道が土に変わる。
人も減った。
代わりに、洗濯物が頭上を渡り、壊れた木箱や樽が壁際に積まれている。
さっきまでの賑やかな街とは、まるで別の場所だった。
『ノル』
(何?)
『この辺りは、なぜ建物が壊れている?』
(貧しい地区なんじゃないか)
『貧しい?』
また説明が必要か。
(お金がない人たちが住んでるってこと)
『なぜ金がない?』
(それは……)
仕事がない。
給料が安い。
病気。
生まれた家。
運。
理由はいくらでもある。
でも、全部説明しようとしたら日が暮れる。
(人間社会は複雑なんだよ)
『便利な言葉だな』
覚えやがった。
匂いはさらに細い路地へ続いていた。
やがて、古い建物の前で止まる。
二階建て。
だったのだと思う。
屋根の一部が沈み、壁には何度も補修した跡がある。
窓の木枠も歪んでいた。
庭らしき場所には、洗った服が並んでいる。
小さい服ばかりだった。
(ここだ)
『鞄があるのか?』
(匂いはここまで続いてる)
クワンリが扉へ近づいた。
その時。
中から声がした。
「だから返してきなさい!」
女の声だった。
続いて、子供の声。
「でも!」
「でもじゃありません!」
俺とクワンリは顔を見合わせた。
扉が開く。
さっきの子供が飛び出してきた。
俺たちを見た。
固まった。
手には。
鞄。
「あ……」
クワンリが言った。
「それは私のだ」
子供の顔から血の気が引いた。
次の瞬間。
鞄を抱えて逃げようとした。
だが。
「待ちなさい!」
後ろから出てきた女に襟首を掴まれた。
三十代くらいだろうか。
地味な服。
疲れた顔。
女はクワンリを見る。
そして鞄を見る。
全部理解したらしい。
深く頭を下げた。
「申し訳ありません!」
子供の頭も無理やり下げさせる。
「ほら! あなたも!」
「……ごめんなさい」
クワンリは困った顔で俺を見る。
――なぜ謝る?
思念が流れてきた。
いや。
そこから説明か。
女は鞄を取り上げ、クワンリへ差し出した。
「中身を確認してください。もし足りない物があれば、必ず弁償します」
その言葉と一緒に、思念が聞こえた。
――どうしよう。
――魔性石だったら、とても払えない。
――でも、この子に盗みだけは覚えさせちゃいけない。
クワンリの手が止まった。
俺にも聞こえた。
女は怖がっている。
それでも鞄を返そうとしている。
クワンリが中を確認する。
『全部ある』
俺に思念を送った。
(よかった)
子供が俯いている。
拳を握っていた。
クワンリがその前にしゃがんだ。
「なぜ盗った?」
女が青ざめた。
「本当に申し訳――」
「あなたではない。この子に聞いている」
子供は黙った。
だが。
思念は聞こえた。
――薬。
――薬が欲しかった。
クワンリの表情が変わる。
俺も建物の中を見た。
薄暗い部屋。
古い机。
何人もの子供。
そして奥のベッド。
小さな子が寝ている。
咳が聞こえた。
一人じゃない。
もう一つ。
その向こうからも。
(ここ、何なんだ?)
クワンリが女へ尋ねた。
「この子たちは?」
「孤児です」
女は答えた。
「ここは孤児院です」
孤児院。
なるほど。
だから子供ばかりなのか。
女は盗みをした子供の肩に手を置いた。
「最近、熱を出す子が増えていて……この子は薬を買おうとしたんです」
「お金がなかった」
子供が小さく言った。
「だから……」
女が目を閉じる。
「それでも盗んではいけません」
言葉は厳しい。
でも。
――気づいてあげられなくてごめんね。
心の中では、そう言っていた。
クワンリが俺を見る。
困っていた。
明らかに困っていた。
『ノル』
(何)
『この人族は、また違うことを言っている』
そうだな。
口では叱っている。
心では謝っている。
『これも嘘か?』
俺は答えられなかった。
昨日なら簡単だった。
本心と違うことを言えば嘘。
そう思っていた。
でも。
これは?
子供に盗みをさせないために叱る。
自分を責めていることは言わない。
それも嘘なのか。
(……分からん)
『お前は人族だったのだろう?』
(元人間でも分からないことくらいある)
クワンリは少し考えた。
そして、鞄を女へ差し出した。
女が固まる。
俺も固まる。
(おい)
『使え』
「え?」
クワンリは鞄を押しつけた。
「薬が必要なのだろう?」
「い、いえ! 受け取れません!」
『なぜだ?』
思念で俺に聞くな。
俺もそうなると思ったよ。
「これはあなたの物です!」
「だが、お前たちは必要としている」
「そういう問題ではありません!」
「では、どういう問題だ?」
始まった。
魔族と人間。
会話がまったく噛み合っていない。
クワンリは本気で渡そうとしている。
女は本気で断っている。
――助かる。
女の心が聞こえた。
――これだけあれば薬が買える。
――屋根も直せる。
――冬の薪も。
それでも女は鞄を押し返した。
「盗んだ物を受け取るわけにはいきません」
クワンリが固まった。
心では欲しい。
必要としている。
なのに受け取らない。
たぶん今まで見た人間の中で、一番理解できないのだろう。
俺は少し笑いたくなった。
(なあ、クワンリ)
『なんだ』
(人間、面白いだろ)
クワンリはしばらく黙っていた。
『……難しい』
(それは否定しない)
『嘘をつく』
(うん)
『盗む』
(うん)
『だが、盗んだ物は受け取らない』
(そういうこともある)
『意味が分からん』
俺にも全部は分からない。
でも。
昨日クワンリが言っていた。
人族がどんな生き物なのか。
本当に魔族と共に生きられるのか。
それを調べるために来たと。
たぶん。
こういうものを見るために来たのだ。
悪い人間。
いい人間。
そんなふうに簡単に分けられないものを。
その時。
奥の部屋から激しい咳が聞こえた。
クワンリが振り向く。
女も振り向いた。
「ごめんなさい。少し待っていてください」
女が奥へ走る。
クワンリはベッドの方を見た。
それから。
自分の鞄を見た。
嫌な予感がする。
非常に嫌な予感がする。
(クワンリ)
『なんだ?』
(鞄を丸ごと渡すのは禁止な)
『なぜ分かった』
やる気だったのかよ。
クワンリが少し不満そうな顔をした。
俺はため息をつく。
(薬なら、もっと別の方法があるだろ)
『別の方法?』
鞄の口から、乾燥した草が覗いていた。
昨日、俺が食べ物をもらった時にも見た。
何種類もの薬草。
クワンリも俺の視線に気づく。
鞄を見る。
薬草を見る。
奥で咳をする子供を見る。
そして。
にやりと笑った。
あ。
これは駄目だ。
絶対に何か始める顔だ。
『ノル』
(はい)
『人族の調査には、もう少し時間が必要だ』
(そうだな)
『しばらく、ここに泊まるぞ』
やっぱり。
人間社会の調査。
開始一日目。
俺たちは鞄を盗まれ。
泥棒を捕まえ。
なぜか。
孤児院に住むことになった。

