『黒猫になった元人間、嘘が見える魔族少女と人間界を旅する ~魔族から見た人間社会、だいぶおかしい~』



人間を見に行く。

そう言ったクワンリについて歩き始めて、半日。

俺は重大な問題に気づいた。

(なあ)

『なんだ?』

(俺、歩く必要ある?)

クワンリが振り返った。

俺を見る。

自分を見る。

もう一度、俺を見る。

『……ないな』

ないのかよ。

次の瞬間、身体が浮いた。

クワンリに抱き上げられ、そのまま腕の中に収まる。

(いや、待て。そういう意味じゃない)

『疲れているのだろう?』

(まあ、そうだけど)

『なら運んだ方が早い』

理屈は正しい。

正しいのだが。

元成人男性としては、若い女に抱っこされながら旅をするというのは、かなり複雑なものがある。

しかもクワンリは時々、俺の頭に顔を埋める。

『柔らかいな』

(やめろ)

『嫌なのか?』

(……嫌ではない)

猫の身体は正直だった。

顎の下を撫でられると、勝手に喉が鳴る。

くそ。

猫、強い。

人間の尊厳がどんどん削られていく。

そんなことをしているうちに、道の向こうに大きな壁が見えてきた。

石造りの城壁。

その内側から、いくつもの煙が上がっている。

人間の街だった。

門へ近づくにつれて人が増える。

荷車を引く男。

籠を背負った女。

走り回る子供。

商人らしい一団。

そして。

声。

とにかく声が多い。

「今日はいい野菜が入ってるよ!」

「三つで銅貨二枚だ!」

「おい、そっち詰めろ!」

「母ちゃん、腹減った!」

クワンリの腕の中で、俺は妙に懐かしい気分になった。

日本とはまるで違う。

それでも、人間が大勢集まっている場所の騒がしさは同じだった。

クワンリは違った。

門をくぐった瞬間から、ほとんど喋らなくなった。

(どうした?)

返事がない。

顔を見る。

眉間に皺が寄っていた。

『……うるさい』

(そりゃ街だからな)

『違う』

クワンリが頭を押さえた。

『声ではない』

ああ。

思念か。

魔族同士なら、考えていることがある程度伝わる。

それなら人間がこれだけ集まっている場所は、クワンリにとってどうなる?

俺も意識を集中してみた。

最初は何も分からなかった。

だが、額の奥――昨日クワンリに教えられた場所を意識すると、雑音のようなものが混じり始めた。

――高いな。

――昨日より小さいじゃないか。

――早く帰りたい。

――あの客なら倍でも買いそうだ。

――眠い。

――腹減った。

――かわいい。

最後のは誰だ。

俺か?

通りを見ると、小さな女の子が俺を指差していた。

「お母さん、大きな猫!」

母親が俺を見た。

「本当ね。かわいい猫ちゃんね」

――でかっ。怖っ。

おい。

俺は思わず母親を見た。

母親は笑顔だった。

心の中では完全に引いている。

クワンリの腕が硬くなった。

『今の女』

(ん?)

『嘘をついた』

ああ。

来た。

第一号だ。

「かわいい」と言いながら「怖い」と思った。

確かに、言葉と本心は違う。

クワンリからすれば嘘なのだろう。

でも。

(別にいいんじゃないか?)

『なぜだ』

(子供の前で「怖い猫ね」って言う必要もないだろ)

『怖いと思ったのなら、そう言えばいい』

(それで子供まで怖がったら?)

クワンリが黙った。

俺たちはそのまま市場へ入った。

果物屋の前で、客の女が赤い実を手に取る。

「立派ねえ」

――少し傷んでいる。

店主が笑う。

「今朝入ったばかりですよ」

――昨日の残りだがな。

クワンリが俺を見る。

分かってる。

今のはたぶん普通に嘘だ。

今度は服屋。

「よくお似合いですよ!」

――色が合ってないな。

これも微妙。

客は嬉しそうだから、わざわざ言う必要はない気もする。

食堂の前。

「また来るよ!」

――もう来ない。

「ぜひまた!」

――二度と来るな。

お互い様だった。

俺は少し面白くなってきた。

クワンリはどんどん険しい顔になっていく。

『ノル』

(はい)

『人族は、いつ本当のことを言うのだ?』

難問だな。

(本当のことも言ってるよ)

『どれだ』

(いや、どれって言われても)

俺だって前世では人間だった。

会社で「大丈夫です」と言いながら全然大丈夫じゃなかったことくらいある。

「お疲れさまです」と言いながら、本当に疲れていると思っていたかは怪しい。

行きたくない飲み会で「楽しみにしてます」と言ったことも――。

ある気がする。

肝心の自分の記憶はぼやけているくせに、そういうどうでもいい感覚だけは残っていた。

(人間って、思ったこと全部言わないんだよ)

『なぜだ?』

(言ったら面倒だから)

『……面倒』

(傷つけることもあるし、怒らせることもある。揉めることもある)

『だから嘘をつく?』

(たぶん)

クワンリは理解できないという顔をした。

当然か。

こいつらは、思念で感情が伝わる世界に生きてきた。

隠せないなら、隠すための言葉も発達しない。

俺たち人間は逆だ。

心が見えない。

だから言葉を使う。

そして。

心が見えないからこそ、言葉で隠す。

(便利なんだよ。嘘って)

『便利?』

(たぶん、悪いことに使うだけじゃない)

そう言ったところで、俺は少し引っかかった。

じゃあ。

どこからが悪い嘘なんだ?

怖い猫をかわいいと言う。

似合っていない服を似合っていると言う。

昨日の果物を今朝入ったと言う。

全部、本心とは違う。

でも同じではない。

クワンリには、その違いが分からない。

俺には分かる。

……はずだ。

『人族は難しいな』

(俺も今そう思った)

元人間なのに。

人間を説明しろと言われると、思った以上に説明できない。

クワンリが小さく息を吐いた。

『だが、少し安心した』

(何が?)

『皆が我々を騙そうとしているわけではないのだろう?』

俺は返事に詰まった。

クワンリが魔族領で聞いた思念。

もっと魔性石が欲しい。

土地が欲しい。

魔族など恐れる必要はない。

あれは、今見ている小さな嘘とは違う。

でも。

(そうだな)

とりあえず、そう答えた。

その時だった。

「お姉さん」

声をかけてきたのは、十歳くらいの少年だった。

手に小さな花束を持っている。

「花、買ってくれない?」

クワンリが足を止めた。

少年は笑っていた。

「安いよ。部屋に飾るといい匂いするよ」

――買って。

思念が聞こえた。

――お願い。

――今日まだ一つも売れてない。

クワンリの表情が変わった。

俺にも分かった。

さっきまでの商人たちとは違う。

少年の笑顔の奥にあるのは、欲ではない。

焦りだった。

クワンリがしゃがむ。

「いくらだ?」

少年の顔が明るくなった。

「銅貨一枚!」

クワンリが鞄へ手を伸ばす。

その瞬間。

別の小さな影が横を走り抜けた。

どん。

クワンリの肩にぶつかる。

「ご、ごめんなさい!」

子供だった。

そのまま人混みへ消えていく。

クワンリは一瞬だけそちらを見た。

そして何事もなかったように、花売りの少年へ向き直る。

『人族の子供は、よく走るのだな』

(いや、今のは――)

嫌な予感がした。

(クワンリ。鞄)

『鞄?』

腰を見る。

ない。

さっきまで下げていた鞄が消えていた。

魔性石。

地図。

薬草。

俺たちの荷物。

全部入っている。

クワンリが固まった。

花売りの少年も固まった。

俺は人混みを見る。

もう、ぶつかってきた子供の姿はない。

(盗られた)

『……何を?』

(だから鞄! スリだよ!)

クワンリは数秒黙った。

そして。

『スリとは何だ?』

そこからかよ。

人間社会の調査。

開始一日目。

どうやら俺は、人間の「嘘」より先に。

「犯罪」から説明しなければならないらしい。