死んだら、猫になった。はない。
百歩譲って、異世界転生というやつだったことも受け入れよう。
問題は――。
「でかいんだよ、俺」
水たまりに映った自分を見て、何度目か分からないため息をついた。
真っ黒な長毛。
丸い顔。
太い尻尾。
そして猫としては明らかにおかしい巨体。
立ち上がれば、そのへんの猫より頭二つは大きい。感覚的には柴犬くらいある。
可愛げがないわけじゃない。
むしろ結構かわいい。
前世の俺なら写真を撮っていたと思う。
だが、自分がこれになるとは聞いていない。
しかも。
「腹、減った……」
異世界生活七日目。
俺は早くも死にかけていた。
猫になったからといって、猫としての生存技術まで付いてくるわけではない。
ネズミなんて捕まえられない。
鳥なんてもっと無理だ。
仕方なく人間の住む街へ行けば、今度はこの大きさが災いした。
石を投げられた。
箒で追い払われた。
子供には泣かれた。
野良猫からも嫌われた。
どうやら俺は、人間社会にも猫社会にも居場所がないらしい。
「転生特典くらい付けとけよ……」
誰に文句を言えばいいのか知らないが、とりあえず神様らしき何かに悪態をついた。
視界が揺れた。
まずい。
水だけでは限界らしい。
道の端に座ろうとして、前脚から力が抜けた。
黒い毛が土に触れる。
ああ。
俺、また死ぬのか。
二回目にしては早すぎない?
せめて今度は猫以外で――。
そこで意識が切れた。
◇
『生きているな』
声がした。
女の声だった。
『ずいぶん大きな猫だ』
近い。
『山猫族……にしては妙だな』
なんだ?
『しかし、見捨てるわけにもいかんか』
ちょっと待て。
聞こえているぞ。
俺は目を開いた。
赤いフードを被った女が、俺の顔を覗き込んでいた。
若い。
二十歳前後だろうか。
整った顔をしている。
だが、その顔より気になったことがある。
口が動いていない。
なのに声が聞こえる。
『目が覚めたか』
やっぱりだ。
女の口は閉じたままだ。
「…………」
声を出そうとした。
出たのは、
「にゃあ」
だった。
そうだった。
俺、猫だった。
女が少し笑った。
『安心しろ。取って食ったりはせん』
その言葉と一緒に、別のものが流れ込んできた。
――よかった。
――間に合った。
――ひどく痩せている。
言葉ではない。
感情?
いや。
考えていることそのものが、頭の中へ入ってくる。
俺は思わず女から距離を取った。
『どうした?』
――怯えさせたか?
まただ。
「お前……」
当然、口から出たのは「にゃあ」だった。
女は首を傾げた。
それから俺の目をじっと見た。
『思念が使えないのか?』
思念?
『妙だな。山猫族なら使えるはずだが』
山猫族。
聞き慣れない言葉だった。
女は少し考え、俺の額に指を当てた。
反射的に逃げようとしたが、身体に力が入らない。
『ここだ。眉間より少し上を意識しろ』
言われた通りにしてみる。
額の奥が、わずかに熱くなった。
そこに、目があるような妙な感覚。
女の顔を見ながら、頭の中で言った。
(聞こえるか?)
女の目が大きくなった。
『聞こえたぞ』
マジか。
(俺、喋れる!)
『いや、喋ってはいない』
細かいな。
でも、助かった。
これでようやく誰かと意思疎通できる。
聞きたいことは山ほどあった。
ここはどこなのか。
俺は何なのか。
この世界は何なのか。
そもそも――。
(あんた誰?)
『クワンリだ』
即答だった。
『魔族のクワンリ』
……魔族?
俺は改めて女を見た。
角はない。
翼もない。
牙もない。
見た目だけなら完全に人間だ。
(魔族って、悪魔とかそういう?)
クワンリの眉が動いた。
『悪魔が何かは知らぬが、私は魔族だ。お前もそうだろう?』
(俺も?)
『山猫族ではないのか?』
知らん。
というか、一週間前まで自分を普通の人間だと思っていた。
……一週間前?
違う。
その前は?
俺は誰だった?
名前は?
家族は?
どうやって死んだ?
記憶を探ろうとすると、頭の中に穴が開いているような感覚がした。
日本。
会社。
車。
スマートフォン。
猫。
そういうものは覚えている。
なのに自分自身のことだけが、妙に抜け落ちている。
(俺……人間だった)
クワンリが固まった。
『人族だった?』
(たぶん)
『たぶん?』
(気づいたら、この姿になってた)
クワンリは黙った。
疑われたかと思った。
だが違った。
彼女から流れてくる思念には、疑いより強い感情があった。
好奇心だ。
ものすごく興味を持たれている。
『面白い』
(おい)
『いや、すまん』
全然悪いと思ってないだろ。
そう思った瞬間。
クワンリが目を丸くした。
『……お前』
(何だよ)
『今、私が悪いと思っていないことが分かったのか?』
分かった。
というより、聞こえた。
言葉とは別に。
するとクワンリは、少し困ったような顔をした。
『やはり魔族だ』
(だから俺は人間――)
『人族には思念は使えん』
言い切った。
『それに、お前の今の姿は、おそらく獣落ちだ』
獣落ち。
魔族の一部は危機に陥った際、精神を獣の身体へ逃がすことがあるらしい。
狼。
鳥。
猫。
その姿のまま生きることもできる。
そして条件さえ整えば、人型へ戻ることもできる。
俺は思わず立ち上がった。
(戻れるのか!?)
『おそらくな』
よし。
希望が見えた。
『ただし、私は戻し方を知らん』
希望が消えた。
『山猫族を探すしかあるまい』
簡単に言ってくれる。
この世界に来て一週間、普通の猫にすら嫌われている俺が、どうやって異世界の山猫族を探すんだ。
俺が頭を抱えたい気分で前脚に顔を埋めると、クワンリが笑った。
そして。
腹が鳴った。
俺の。
ものすごく大きな音で。
クワンリは無言で鞄を探り、小さな器を取り出した。
温かいミルクの匂いがした。
その中に柔らかく煮た穀物が入っている。
猫の身体が、理性より先に反応した。
(食っていいの?)
『そのために出した』
俺は飛びついた。
うまい。
七日間の人生で一番うまい。
いや、前世を含めても上位に入る。
夢中で食べていると、クワンリが俺の背中を撫でた。
『ゆっくり食え。誰も取らん』
その思念に嘘はなかった。
なぜか、それが分かった。
俺は食べる速度を少し落とした。
食べ終える頃には、かなり身体が楽になっていた。
クワンリは俺の隣で地図を広げていた。
(旅でもしてるのか?)
『調査だ』
少し間があった。
『人族のな』
俺は顔を上げた。
クワンリの表情から、それまでの柔らかさが消えていた。
『三ヶ月前、外郭山脈が崩れた』
魔族と人間の土地を隔てていた巨大な山脈。
そこが崩れたことで、人間の飛行船が山を越えられるようになった。
そして一ヶ月前。
初めて大勢の人間が、魔族領へやってきた。
目的は――。
『魔性石だ』
クワンリが腰の袋から、小さな石を取り出した。
淡い光を放っている。
『人族は魔力を持たない。これを使って魔法を再現している』
魔族領の奥へ行くほど、質のいい魔性石が採れる。
だから人間たちは山を越えてきた。
商売。
交易。
友好。
人間たちはそう説明したという。
だが。
クワンリには別のものが聞こえていた。
――もっと欲しい。
――あの土地さえ手に入れば。
――魔族など恐れる必要はない。
ぞくりとした。
俺にも断片的に伝わってきた。
(心が……読めるのか)
『思念だ』
クワンリは当然のように答えた。
『魔族同士なら、隠そうとしてもある程度は伝わる。だから我々は、ほとんど嘘をつかん』
俺は言葉を失った。
嘘が成立しない社会。
そんなものが存在するのか。
『だが人族は違った』
クワンリは魔性石を袋へ戻した。
『口では笑いながら、心では別のことを考える』
……ああ。
それは知っている。
嫌というほど。
俺は元人間だから。
『だから私は、人族を調べに来た』
クワンリが地図を畳んだ。
『人族がどんな生き物なのか。本当に我々と共に生きられるのか。それとも――』
その先は言わなかった。
言わなくても聞こえた。
――敵になるのか。
俺は尻尾を一度だけ動かした。
妙なことになった。
異世界へ来た。
猫になった。
魔族に拾われた。
しかも、その魔族は人間を調査している。
そして俺は。
元人間だ。
クワンリがこちらを見る。
『お前は人族だったと言ったな』
(ああ)
『ならば、頼みがある』
嫌な予感がした。
『私と来ないか?』
やっぱり。
『私は人族を知らん。お前は知っている』
クワンリは真っ直ぐ俺を見ていた。
『代わりに私は、お前の山猫族を探そう』
なるほど。
悪くない取引だ。
それに。
俺は目の前の魔族を見た。
こいつは、人間を怖がっている。
人間を疑っている。
それでも、人間を知ろうとしている。
俺は人間だった。
なら少しくらい、案内役をしてやってもいい。
人間がどうしようもない生き物なのは否定しない。
だけど。
どうしようもない奴しかいないわけでもない。
たぶん。
(分かった)
俺は前脚を差し出した。
(契約成立だ)
クワンリが首を傾げる。
『何をしている?』
握手を知らないらしい。
仕方ないので、その手に肉球を押しつけた。
クワンリの顔がほころんだ。
次の瞬間。
両手で抱き上げられた。
『よろしく頼むぞ、黒猫』
(ちょ、待て!)
頬ずりされた。
やめろ。
俺は猫だが、中身はたぶん成人男性だ。
『そういえば、お前の名を聞いていなかったな』
動きが止まった。
名前。
思い出そうとした。
やはり何も出てこない。
(……分からない)
クワンリは少し考えた。
そして俺の黒い毛を撫でた。
『なら、ノル』
(ノル?)
『古い言葉で、黒という意味だ』
クロじゃねえか。
異世界まで来てクロ。
あまりにも安直だった。
だが。
悪くない。
(ノルか)
『嫌か?』
(いや)
もう一度、自分の名前を頭の中で呼んだ。
ノル。
黒猫のノル。
これが俺の二度目の名前らしい。
クワンリが立ち上がった。
『では行くぞ、ノル』
(どこへ?)
赤いフードを被り直した魔族の少女は、当然のことのように答えた。
『人間を見に行く』
俺は彼女の腕の中から、街の方角を見た。
この時の俺は、まだ知らなかった。
嘘を知らない魔族の少女と。
嘘を知りすぎている元人間の黒猫。
そんな妙な二人組がこれから見ることになる人間社会が――。
俺の知っている人間よりもずっと奇妙で。
そして。
俺が思っていたほど、単純に悪いものでもなかったことを。
百歩譲って、異世界転生というやつだったことも受け入れよう。
問題は――。
「でかいんだよ、俺」
水たまりに映った自分を見て、何度目か分からないため息をついた。
真っ黒な長毛。
丸い顔。
太い尻尾。
そして猫としては明らかにおかしい巨体。
立ち上がれば、そのへんの猫より頭二つは大きい。感覚的には柴犬くらいある。
可愛げがないわけじゃない。
むしろ結構かわいい。
前世の俺なら写真を撮っていたと思う。
だが、自分がこれになるとは聞いていない。
しかも。
「腹、減った……」
異世界生活七日目。
俺は早くも死にかけていた。
猫になったからといって、猫としての生存技術まで付いてくるわけではない。
ネズミなんて捕まえられない。
鳥なんてもっと無理だ。
仕方なく人間の住む街へ行けば、今度はこの大きさが災いした。
石を投げられた。
箒で追い払われた。
子供には泣かれた。
野良猫からも嫌われた。
どうやら俺は、人間社会にも猫社会にも居場所がないらしい。
「転生特典くらい付けとけよ……」
誰に文句を言えばいいのか知らないが、とりあえず神様らしき何かに悪態をついた。
視界が揺れた。
まずい。
水だけでは限界らしい。
道の端に座ろうとして、前脚から力が抜けた。
黒い毛が土に触れる。
ああ。
俺、また死ぬのか。
二回目にしては早すぎない?
せめて今度は猫以外で――。
そこで意識が切れた。
◇
『生きているな』
声がした。
女の声だった。
『ずいぶん大きな猫だ』
近い。
『山猫族……にしては妙だな』
なんだ?
『しかし、見捨てるわけにもいかんか』
ちょっと待て。
聞こえているぞ。
俺は目を開いた。
赤いフードを被った女が、俺の顔を覗き込んでいた。
若い。
二十歳前後だろうか。
整った顔をしている。
だが、その顔より気になったことがある。
口が動いていない。
なのに声が聞こえる。
『目が覚めたか』
やっぱりだ。
女の口は閉じたままだ。
「…………」
声を出そうとした。
出たのは、
「にゃあ」
だった。
そうだった。
俺、猫だった。
女が少し笑った。
『安心しろ。取って食ったりはせん』
その言葉と一緒に、別のものが流れ込んできた。
――よかった。
――間に合った。
――ひどく痩せている。
言葉ではない。
感情?
いや。
考えていることそのものが、頭の中へ入ってくる。
俺は思わず女から距離を取った。
『どうした?』
――怯えさせたか?
まただ。
「お前……」
当然、口から出たのは「にゃあ」だった。
女は首を傾げた。
それから俺の目をじっと見た。
『思念が使えないのか?』
思念?
『妙だな。山猫族なら使えるはずだが』
山猫族。
聞き慣れない言葉だった。
女は少し考え、俺の額に指を当てた。
反射的に逃げようとしたが、身体に力が入らない。
『ここだ。眉間より少し上を意識しろ』
言われた通りにしてみる。
額の奥が、わずかに熱くなった。
そこに、目があるような妙な感覚。
女の顔を見ながら、頭の中で言った。
(聞こえるか?)
女の目が大きくなった。
『聞こえたぞ』
マジか。
(俺、喋れる!)
『いや、喋ってはいない』
細かいな。
でも、助かった。
これでようやく誰かと意思疎通できる。
聞きたいことは山ほどあった。
ここはどこなのか。
俺は何なのか。
この世界は何なのか。
そもそも――。
(あんた誰?)
『クワンリだ』
即答だった。
『魔族のクワンリ』
……魔族?
俺は改めて女を見た。
角はない。
翼もない。
牙もない。
見た目だけなら完全に人間だ。
(魔族って、悪魔とかそういう?)
クワンリの眉が動いた。
『悪魔が何かは知らぬが、私は魔族だ。お前もそうだろう?』
(俺も?)
『山猫族ではないのか?』
知らん。
というか、一週間前まで自分を普通の人間だと思っていた。
……一週間前?
違う。
その前は?
俺は誰だった?
名前は?
家族は?
どうやって死んだ?
記憶を探ろうとすると、頭の中に穴が開いているような感覚がした。
日本。
会社。
車。
スマートフォン。
猫。
そういうものは覚えている。
なのに自分自身のことだけが、妙に抜け落ちている。
(俺……人間だった)
クワンリが固まった。
『人族だった?』
(たぶん)
『たぶん?』
(気づいたら、この姿になってた)
クワンリは黙った。
疑われたかと思った。
だが違った。
彼女から流れてくる思念には、疑いより強い感情があった。
好奇心だ。
ものすごく興味を持たれている。
『面白い』
(おい)
『いや、すまん』
全然悪いと思ってないだろ。
そう思った瞬間。
クワンリが目を丸くした。
『……お前』
(何だよ)
『今、私が悪いと思っていないことが分かったのか?』
分かった。
というより、聞こえた。
言葉とは別に。
するとクワンリは、少し困ったような顔をした。
『やはり魔族だ』
(だから俺は人間――)
『人族には思念は使えん』
言い切った。
『それに、お前の今の姿は、おそらく獣落ちだ』
獣落ち。
魔族の一部は危機に陥った際、精神を獣の身体へ逃がすことがあるらしい。
狼。
鳥。
猫。
その姿のまま生きることもできる。
そして条件さえ整えば、人型へ戻ることもできる。
俺は思わず立ち上がった。
(戻れるのか!?)
『おそらくな』
よし。
希望が見えた。
『ただし、私は戻し方を知らん』
希望が消えた。
『山猫族を探すしかあるまい』
簡単に言ってくれる。
この世界に来て一週間、普通の猫にすら嫌われている俺が、どうやって異世界の山猫族を探すんだ。
俺が頭を抱えたい気分で前脚に顔を埋めると、クワンリが笑った。
そして。
腹が鳴った。
俺の。
ものすごく大きな音で。
クワンリは無言で鞄を探り、小さな器を取り出した。
温かいミルクの匂いがした。
その中に柔らかく煮た穀物が入っている。
猫の身体が、理性より先に反応した。
(食っていいの?)
『そのために出した』
俺は飛びついた。
うまい。
七日間の人生で一番うまい。
いや、前世を含めても上位に入る。
夢中で食べていると、クワンリが俺の背中を撫でた。
『ゆっくり食え。誰も取らん』
その思念に嘘はなかった。
なぜか、それが分かった。
俺は食べる速度を少し落とした。
食べ終える頃には、かなり身体が楽になっていた。
クワンリは俺の隣で地図を広げていた。
(旅でもしてるのか?)
『調査だ』
少し間があった。
『人族のな』
俺は顔を上げた。
クワンリの表情から、それまでの柔らかさが消えていた。
『三ヶ月前、外郭山脈が崩れた』
魔族と人間の土地を隔てていた巨大な山脈。
そこが崩れたことで、人間の飛行船が山を越えられるようになった。
そして一ヶ月前。
初めて大勢の人間が、魔族領へやってきた。
目的は――。
『魔性石だ』
クワンリが腰の袋から、小さな石を取り出した。
淡い光を放っている。
『人族は魔力を持たない。これを使って魔法を再現している』
魔族領の奥へ行くほど、質のいい魔性石が採れる。
だから人間たちは山を越えてきた。
商売。
交易。
友好。
人間たちはそう説明したという。
だが。
クワンリには別のものが聞こえていた。
――もっと欲しい。
――あの土地さえ手に入れば。
――魔族など恐れる必要はない。
ぞくりとした。
俺にも断片的に伝わってきた。
(心が……読めるのか)
『思念だ』
クワンリは当然のように答えた。
『魔族同士なら、隠そうとしてもある程度は伝わる。だから我々は、ほとんど嘘をつかん』
俺は言葉を失った。
嘘が成立しない社会。
そんなものが存在するのか。
『だが人族は違った』
クワンリは魔性石を袋へ戻した。
『口では笑いながら、心では別のことを考える』
……ああ。
それは知っている。
嫌というほど。
俺は元人間だから。
『だから私は、人族を調べに来た』
クワンリが地図を畳んだ。
『人族がどんな生き物なのか。本当に我々と共に生きられるのか。それとも――』
その先は言わなかった。
言わなくても聞こえた。
――敵になるのか。
俺は尻尾を一度だけ動かした。
妙なことになった。
異世界へ来た。
猫になった。
魔族に拾われた。
しかも、その魔族は人間を調査している。
そして俺は。
元人間だ。
クワンリがこちらを見る。
『お前は人族だったと言ったな』
(ああ)
『ならば、頼みがある』
嫌な予感がした。
『私と来ないか?』
やっぱり。
『私は人族を知らん。お前は知っている』
クワンリは真っ直ぐ俺を見ていた。
『代わりに私は、お前の山猫族を探そう』
なるほど。
悪くない取引だ。
それに。
俺は目の前の魔族を見た。
こいつは、人間を怖がっている。
人間を疑っている。
それでも、人間を知ろうとしている。
俺は人間だった。
なら少しくらい、案内役をしてやってもいい。
人間がどうしようもない生き物なのは否定しない。
だけど。
どうしようもない奴しかいないわけでもない。
たぶん。
(分かった)
俺は前脚を差し出した。
(契約成立だ)
クワンリが首を傾げる。
『何をしている?』
握手を知らないらしい。
仕方ないので、その手に肉球を押しつけた。
クワンリの顔がほころんだ。
次の瞬間。
両手で抱き上げられた。
『よろしく頼むぞ、黒猫』
(ちょ、待て!)
頬ずりされた。
やめろ。
俺は猫だが、中身はたぶん成人男性だ。
『そういえば、お前の名を聞いていなかったな』
動きが止まった。
名前。
思い出そうとした。
やはり何も出てこない。
(……分からない)
クワンリは少し考えた。
そして俺の黒い毛を撫でた。
『なら、ノル』
(ノル?)
『古い言葉で、黒という意味だ』
クロじゃねえか。
異世界まで来てクロ。
あまりにも安直だった。
だが。
悪くない。
(ノルか)
『嫌か?』
(いや)
もう一度、自分の名前を頭の中で呼んだ。
ノル。
黒猫のノル。
これが俺の二度目の名前らしい。
クワンリが立ち上がった。
『では行くぞ、ノル』
(どこへ?)
赤いフードを被り直した魔族の少女は、当然のことのように答えた。
『人間を見に行く』
俺は彼女の腕の中から、街の方角を見た。
この時の俺は、まだ知らなかった。
嘘を知らない魔族の少女と。
嘘を知りすぎている元人間の黒猫。
そんな妙な二人組がこれから見ることになる人間社会が――。
俺の知っている人間よりもずっと奇妙で。
そして。
俺が思っていたほど、単純に悪いものでもなかったことを。

