夏の夜、プールの水面は鏡のように星空を映していた。風や少しの身じろぎで、夜空はゆらゆらと揺れる。
それはまるで今の、俺の不安な気持ちを表しているようだ。
『俺、朝倉の気持ちを迷惑なんて思ってない』
そう、伝えたい。
けど、朝倉に『好きだ』と直接言われたわけじゃないのに、俺からそんなことを言うのはおかしい。
もしそんなことを言えば、朝倉のSNSをこっそり見ていたとバレてしまう。朝倉は先生の楽譜を勝手に見た俺を叱った。もしバレたら、きっとショックを受けるだろうし、幻滅されるだろう。
だからこのまま、朝倉から告白してほしい。
祈るような気持ちで唇を合わせていると、不意に懐かしい感覚に包まれた。
この、体の感覚は……。
不思議に思って薄く目を開けると、目の前には俺の体ではない朝倉がいた。
朝倉……?
俺が朝倉の体にいたはずなのに、どうして、朝倉が目の前に…?
朝倉は俺と目が合うと抱きしめる腕に力を込める。
そして角度を変えながら、俺の唇を舌で舐めた。
キスも初めてなのに、段階を飛び越えすぎだろ!俺は驚いて朝倉を突き飛ばした。
「こ、こらぁー…っ!朝倉、やめろ!…、って…、あれ…?」
俺は今、朝倉を突き飛ばしたはずだった。けど、よろけたのは俺の方。俺の体の朝倉は先ほどとは違い、プールに足をきちんとついた状態でぱちぱちと瞬きをしている。
「黒瀬……?また、俺になってる…?」
「え…?じゃ、ひょっとして、さっきの…?!」
「さっき、一瞬戻ったよな……?」
「………!!」
そうだ。俺はさっきのキスの時、自分の体から朝倉を見た。でも、なぜかまた、朝倉の体に戻ってしまった…。
一体なんで…?
「あのさ黒瀬」
「うん…?なに…?」
「キスするたび、俺たちちょっとだけ、戻ってない?」
「キスする度、ちょっとだけ…?」
訳が分からず聞き返すと、朝倉は大きく頷く。
「実は前回も、一瞬戻ったような感覚があったんだ。この間は気のせいかなって思ってたんだけど、さっき確信した」
「俺も自分の体に戻ったと思った。でもすぐ朝倉に戻っちゃって…」
「きっと、キスだけじゃ弱いんだよ。刺激が足りなくて完全に元に戻れないんだ。あの時の『雷』みたいな、それに変わる、トリガーがあれば……」
「それでさっき、舌で舐めたってこと?」
さっき急に唇を舐めたりするから驚いて朝倉を突き飛ばしてしまったのだが…。
つまり、雷に代わるトリガーを試そうとして、あんなことをしたってこと?
そういうこと……?!
「……」
「朝倉は、元に戻るために舌を入れたんだよな…?」
「……そうだよ?」
2回聞いてみたが、返事が遅い。
……まさかこいつ、邪な気持ちで舐めてきたわけじゃないよな…?さっきの告白かも…♡みたいなタイミングでそんなやらしいことするわけないよな?!
「なんか今、へんな間がなかった?!」
「ないない!黒瀬、気にしすぎ!」
「本当…?!」
俺、そういう経験ないから、いきなりは嫌なんだけど…!俺が朝倉を疑いの目でみると、朝倉は慌てた。
「本当だって!だからいろんなパターンでキスしてみたら、『戻れるキス』が見つかると思わない?」
「……」
いろんなパターンってなに?経験値ゼロの俺は思考停止した。
「黒瀬はコンクールでマリンバ演奏したいだろ!な、色々ためしてみようぜ!」
「でも、いろいろって、なんだよ…?」
「例えば、フレンチ、ディープ、バード…。どれから行く…?」
それが雷と同じ、きっかけになるのか…?!
なんか俺、騙されてない?!ちょっとだけ怖くなってきた。それに…。
「くしゅんっ!」
「黒瀬?!」
「そろそろ出ようぜ。もうみんなが戻ってくる時間だと思うし…!」
張り切っている朝倉がちょっぴり怖くなり、俺は急いでプールから上がった。
俺は恋人なんかいたことがない。それなのに、お試しで何回もキスするなんて、心が追いつかない…。
プールから上がって俺たちは部屋に戻った。
他の部員が自主練を終え合宿所に戻った後、俺たちも入浴して消灯時間には布団に入った。
今日も昨日と同じ位置の布団に、背中合わせで横になる。
暗い部屋の中、微かにスマートフォンの明かりが漏れていたから何かやっているとは思っていたけど。予想通りSNSのログイン通知が来た。
見ちゃいけない。頭では分かっているけど、色んなことがありすぎて、見ないなんて無理…!
結局、投稿をこっそり開いた。
『今日、いろんなことがありすぎて心が追いつかない』
それ、こっちのセリフ!しかも原因お前だから…!
『色んなキスを試そうって言ったら、黒瀬は嫌がってた。やっぱりいやだよな、男とキスなんて…』
違う。嫌がってるのは、経験ゼロなのと、恋人じゃないのにキスすること……!
でもそう言ったら、SNSを読んでいることがバレる。
あー。すぐに誤解を解けないことが、もどかしい。
俺は仕方なく、朝倉の方へ寝返りを打ち、背中を指でつんと突いた。
「あのさ、いろんなキスを…試すんだろ?」
「え…、あ、うん…?」
俺は振り向いた朝倉に体を寄せ、上から顔の横あたりに手を置いた。
「おやすみのキス、してみる…?」
朝倉が頷くのを待って、体をかがめ、朝倉に覆い被さるようにキスした。
真っ暗な室内でスマートフォンの明かりがぼんやりと揺れている。
眩しく感じて目を閉じると、唇の感触がやけに生々しい…。
これ、なんか、まずいかも。
薄らと目を開けると、上にいたはずなのに、俺は下から朝倉を見上げていた。
キスしたはずが、キスされてる……!やっぱり元に、戻ってる…?!
そう思った瞬間、朝倉はもう一段、唇を吸うように深くキスする。
「う…、は…っ!」
「黒瀬…、…っ♡!」
「ちょっ、よせって…、…あ?!」
唇を離すと再び、俺は朝倉の体に戻っていた。やっぱり『おやすみ…♡』くらいでは、トリガーにならないようだ。
さっきのキスはほぼこじつけだ。とはいえ一瞬元に戻ったものだから、やはり戻れなかったとわかってがっかりした俺を、朝倉はぼんやりと赤い顔で見ている。
「黒瀬お前…、それ、大丈夫…?」
「え……?」
それ、といって朝倉はもじもじしながら下を見た。俺は困惑しながら朝倉の視線の先、下半身を見てみる。
「ひぃぃぃ…っ!」
体は朝倉の、俺の下半身は、男の子から男に急成長していた。
しかも猛々しい武闘派な青年の模様…。
なにこれ…!怖いんだけどぉーー!!
「黒瀬、まさかお前さっきのおやすみのキスで反応しちゃった…♡?」
「ちちち、違うっっ!!」
これはさっき朝倉が入れ替わった時、朝倉が興奮してこうなったんだ!!絶対、俺じゃない!
「俺ならいいよ、黒瀬…♡」
「いいってなんだよ?!何がいいんだよ?!」
俺の体を『いいよ♡』とか、勝手に決めるなっ!
ていうか、こんなことが続いたら…。
俺、無事でいられる……?!

