ヴァージン・スキャンダラス・エンゲージ〜天津の姫は世界と彼氏のために呪われた兄と禁忌の契約を結ぶ〜

 九郎は呆然と土間に立ったまま、階段を登り自室に戻る茉莉花を見送った。

 彼には出迎えるように立っていた茉莉花が、暗い玄関に灯った暖かい光のように見えた。

 彼女の雪のような白い肌や琥珀色の輝く瞳がそう見せているのか、夜道を駆けて来た九郎にはその姿がとても眩しく目に写った。

 だが茉莉花は不機嫌そうに顔を顰め、九郎の前から立ち去って行った。

 ――むさ苦しいのが嫌なのか……。

 がっくりと肩を落とし、九郎は右手で顎を摩った。

 浅黒い肌で目立たないが咲也よりも毛深いし、年々髭も濃くなって来ている。

 女きょうだいがいるので体臭には気をつかっている方だが――腕を上げ脇の臭いを確認する。

 ――いや、走った後だし……今臭いのは仕方ない……。

 頭を掻きながら九郎はため息を吐いた。髪も頭皮も汗でベタついている。

 確かに茉莉花は基本的に「男」を薄っすら嫌いなようだった。

 意気消沈している九郎の脳裏(のうり)に従姉妹の牛越華(うしごえはな)の姿が過(よ)ぎった。

 華は茉莉花の親友でもあり九郎とも面識がある。昔から咲也を含め四人で一緒に遊んでいた。

 徒歩で行ける距離に住んでいるので、手土産を片手に互いの家を訪れることが多い。

 ショートカットで背が高く、ユニセックスな服を好んで着ている。茉莉花が好きな「あの歌劇団」の「男役」に見えない事もない。

 登下校や街に遊びに行く際に茉莉花に寄って来る「ナンパ男」を追い払ってくれる頼もしい存在でもあった。

「華ちゃんより「イケメン」の男なんていないでしょ」

 茉莉花は華の肩を叩いて得意げにそう言っていた。

「またそんな過大評価」と華は真に受けてはいないが、満更でも無さそうだった。

 中性的な整った顔立ちでニキビ一つない肌、綺麗に手入れされた眉、血色の良い艶のある唇――これが女子の言う「イケメン」らしい。

 こんな顔立ちの男は同性側から見ると清潔感があると言うより「漂白」されたような不自然さを感じるが、女子の大半はこんな感じの「イケメン」が好きなのだろう。

 茉莉花もきっと恋人にするなら「汗臭い男」よりも「イケメン」が良いと思っている。

 土が挟まった手の爪や、汗に塗れた胸元を見て九郎は更に肩を落とした。

 ――別にマリの好みなんて知ったところで……。

 打ち消すように首を振り、自分には関係のない事だと言い聞かせ顔を上げた。

 靴箱の上に置いていたタオルで手足に付いた土埃を拭ってから室内に入り、彼は風呂場へ向かった。

 ヨモツを素手で触り、噛みついたので二階の自室に戻る前に禊(みそぎ)をするためだ。

 洗面台で手を洗い、うがい薬で口を濯(ゆす)ぎ、浴室で足の裏と擦りむいた脛と肘の傷口をシャワーで洗浄する。

 血は止まっているが、このままでは服や布団で擦れるので絆創膏を貼った方がいい。

 濡れた手足をタオルで拭い風呂場から出ると、台所に通じる扉の摩りガラス越しに灯りが見えた。

 絆創膏が入っている救急箱は台所の隣りのダイニングにあるので、誰がいるのかと思いつつ九郎は扉を開け中に入る。

 流し台の前にいたのは真斗(まなと)だった。

 ネイビーのTシャツにグレーのスウェットのズボンの寝巻き姿。

 普段は上げている前髪が下りていて、老け顔がほんの少しだけ若く見える。

 右手にグラスを持っているので、自室から水を飲みに台所へ来たようだ。

「――走って来たのか?」
「うん」

 九郎はハーフパンツだけ履いた「いつも通り」の身なりだったが、肘と脛に大きな擦り傷がある。

 それに気付いた真斗はすぐに彼が「してきたこと」を察した。

「――ヨモツか?」
「うん。大丈夫、揉み合った時に地面で擦り剥いただけ」
「だったら体に穢れは入ってないな」
「うん」
「消毒して絆創膏貼るか」

 真斗は濯(すす)いだグラスを水切りトレイに置き、流し台から離れダイニングの照明のスイッチを入れる。

「いいよ。自分でやる」

 九郎は真斗の前に回り込み、先にダイニングに入った。

 カウンターの下の棚から出した救急箱をテーブルの上に置き、ダイニングチェアに座る。

 救急箱から脱脂綿と消毒液を取り出しながら、九郎はテーブルの前に立つ真斗にヨモツと遭遇した経緯を報告する。

「ガーデンヒルズを通って帰って来たんだけど……そこにヨモツが隠れてた」

 ガーデンヒルズ東成田は先程九郎がヨモツと対峙した仙台市の北側に隣接する富谷(とみや)市の新興住宅地。

 彼が夜にランニングをしている県道沿いの丘陵に位置し、道幅が広く夜は車の通りが少ないので県道から逸れてこの住宅地を走ることもある。

「最初は犬くらいの大きさだったけど、やり合ってたら形態が変わって大きくなった――」

 真斗に状況を説明しながら九郎は椅子の上で膝を立て、脛の傷口に消毒液を含ませた脱脂綿をあてる。

 焼けるような痛みが患部に広がり彼は少し顔を顰めた。

「体長は一メートル五十センチ以上、クマくらい」
「ここ最近、全国的に攻撃後に形態が大きくなる個体が増えてる。車とぶつかった衝撃で変形した個体もあった」
「人気の無い夜道に出るのも珍しい」

 二人の淡々としたやり取りは兄弟というよりも上官と部下のようにも見える。

 真斗は胸の上で腕を組み、深く息を吐いた。

「ヨモツメから直に大型が発生する可能性が高くなっている。夜行型も増加傾向――戦前の「災厄」の前兆と似た状況だ」
「いきなり「クマ」クラスが市街地にも出るってこと?」

 脛の傷に絆創膏を貼り、九郎は顔を上げ真斗に視線を向けると彼は黙って頷いた。

「――そう言うのって事前に市民に公表したりしないの?」
「しない。まだ「可能性」を測る段階だ。それに公表したところで混乱してデマが蔓延(はびこ)り余計にややこしい事になる」

 九郎はもどかしそうに目を伏せ、救急箱から絆創膏をもう一枚取り出し封を切る。

 粘着面のフィルムを剥がし、肘の傷にあてようと何度も身を捩るが思うように貼り付けることが出来ない。

「肘は自分じゃ上手く貼れないだろ。貸せ」

 見ていて焦(じれ)ったくなった真斗は九郎から絆創膏を取り上げた。

 肘を軽く曲げさせ傷口にパッドをあて、切れ込みが入ったテープ部分を交互に折り重ねて貼り付ける。

 貼った絆創膏が浮かないように肘を手で包みしっかりと押さえる。

「――クマ型を丸腰で祓除(ふつじょ)出来るようになったんだな。大したもんだ」

 絆創膏を貼り終えた真斗は、九郎の背中を軽く叩き歯を見せて笑った。

 常に仏頂面の真斗だが男兄弟と話をしている時は比較的笑顔を見せることが多い。

 真斗から労いを受けた九郎は少しはにかんで目を逸らし、顔をほころばせ屈託のない笑みを浮かべた。

 いつも無表情の九郎も真斗や咲也と話をしている時にはハッキリとした笑顔を見せる。

 普段の仏頂面と無表情からは想像出来ない鮮やかな笑顔だ。二人とも笑うと「えくぼ」が出来る。

 茉莉花と彗斗(けいと)が仲が良いように、男兄弟たちの仲も良好だ。

 彼女たちが女同士で新しく出来たカフェに行くように、彼らも男同士でよく近所にある有名ラーメン店の行列に並んでいる。

 九郎の傷の手当てが済むと、真斗は離れにある自室に戻って行った。

 救急箱を棚に戻しながら九郎はふと、夕食後に居間で話をしていた真斗と茉莉花の様子を思い出した。

 言い合いもするが二人は「仲の良い兄妹」だ。実際半分血が繋がっている。

 気が強い茉莉花でも耐え切れなくて心が折れることが何度かあった。

 そんな時に彼女を受け止めて来たのは真斗だ。

 茉莉花が頼りにしているのは、高野原家に来る前から一緒にいた自分ではなく半分血が繋がった兄の方だ。

 無理もない。真斗は十歳年上の「大人」だ。その十歳の差は永遠に超えることは出来ない。

 初めて真斗に出会った時、九郎は彼を施設で読んだ本に描かれた天津の戦士「剣彦(つるぎひこ)」のようだと思った。

 当時高校二年生だった真斗は、養父の和真に似た秀麗な顔立ちで彼と同じくらい背が高かった。

 県でトップの進学校に通うスポーツ万能の文武両道。異性からモテるだけでなく、同性からも一目置かれ信頼される存在。

 小学生の男子から見てもカッコいい「天津の益荒男(ますらお)」だった。

 現在高校二年生の自分はどうだ?

 パッとしない見た目で成績も普通。スポーツは走ることだけに特化していて、バスケやサッカーなどの球技は苦手だ。

 たまに女子から話しかけられるが彼女たちの目当ては「美少年」の咲也の方で、彼との橋渡し役と言う名の「パシリ」にされるだけだった。男子とは普通に仲が良い。

 少しも高校二年生の真斗には及ばない。

 ――俺は兄さんみたいになれない。

 茉莉花から頼りにされていないどころか、自分の煮え切らない態度に痺れを切らせた彼女から尻を蹴られることもある。
 
 九郎は幼い頃に読んだ「剣彦と花鞘姫」の物語を思い返す。

 高野原家で暮らし始めてから間もなく、茉莉花と咲也と九郎の三人は父の和真から沢山の本を与えられた。

 物置きに真斗と彗斗に買い与えていた小学生向けの本が残っていたのだ。

 和真は書棚を新調し百冊近くあったその本を子供部屋や居間に置き、いつでも自由に読めるようにしてくれた。

 茉莉花と九郎は施設にいた頃から本を読むことが好きだったので、読みきれないほどの本を前に目を輝かせていた。

 様々なジャンルの本があった。

 外国の児童書やSFやファンタジーを題材としたジュブナイル。国内外の偉人の伝記や科学や歴史の学習漫画。大きな百科事典もあった。

 その中に施設で読んだ「剣彦と花鞘姫」の児童書があった。
 
 物語に書かれている剣彦が連れている相棒の「オオカミ」は、この本が発行される以前は「天津片生(あまつかたおい)の少年」だったと和真から教えられた。

 実在するカタオイの半人半獣の姿を書くことは「差別」を助長するものだと人権団体や学者からの指摘があり、それ以降に発行されるものは動物のオオカミに差し替えられたと言う。

「人権保護」のためにカタオイの活躍は物語から消されたのだ。

 和真からその話を聞いた時、九郎は嬉しかった。

 この「オオカミ」は本当は自分と同じ「天津片生」――カタオイの少年が物語の中で活躍していた。

 剣彦のピンチを救い共にヨモツと戦う「カタオイのオオカミ」は剣彦と同じく男の子の心を掴む「ヒーロー」だった。

 九郎は天津人ではないので「剣彦」にはなれないが、彼の頼もしい相棒にはなれるかもしれない。

 希望に胸を躍らせた「剣彦」の物語は、今の彼にとっては「変えることができない未来」を突き付けるものになっていた。
 
 ――俺は「剣彦」にはなれない。
 
 真斗のようにはなれない、茉莉花と番う男にもなれない。

「オオカミ」は「花鞘姫」と「剣彦」が結ばれることを見ているだけだ。

「オオカミ」と「花鞘姫」は物語の中ですら結ばれることを許されない。