ヴァージン・スキャンダラス・エンゲージ〜天津の姫は世界と彼氏のために呪われた兄と禁忌の契約を結ぶ〜

 茉莉花(まりか)は外したカチューシャをドレッサーを兼ねたサイドテーブルの上に置き、ベッドの下にある引き出しからパジャマを取り出す。

 ワンピースを脱ぎ薄いスウェット地の半袖長ズボンのパジャマに着替え、マットレスの上に寝そべりスマホでSNSをチェックする。

 一通り目を通し枕元にスマホを置き、ベッドの横に積み重ねている本に手を伸ばす。

 不良(ヤンキー)の抗争が題材の少年漫画。茉莉花は面白いなと思った本はジャンルを問わず何でも読んでいる。

 ページをめくり流し読んでいるうちに瞼(まぶた)が重くなって来た。

 何もしていないとは言え、慣れないことの連続でそれなりに疲れは溜まっている。

 ――そうだ、今日のこと書いておかなきゃ。

 起き上がらないとこのままでは昼間と同じように寝落ちしてしまう。

 茉莉花は漫画の単行本を閉じ、ベッドから降りて机に向かう。

 椅子に座り、引き出しから文庫本サイズの家置きの手帳を取り出した。

 透明のビニールカバーと本体の間にヨーロッパのヴィンテージペーパーや、美術館で買ったミュシャの絵葉書などを挟んでいる。

 日付が入った一日一ページの手帳で月毎の予定を書き込む月間(マンスリー)ページもある。

 この手帳に毎日その日の天気と気温、夕飯の献立を書いている。

 外出をしたり何か印象的な出来事があったら書き留めておく。

 特に何もない日は、空いたスペースにお気に入りのシールやマスキングテープを貼っていた。

 お小遣い帳も兼ねていて収入や支出も記録している。簡単な日記帳だ。

 ペン立てにしている脚付きのレトログラスからボールペンを取り出し、今日起きた「事件」の記録をしたためる。

 午後三時くらい。縁側で昼寝をしていたら縁側のガラス戸に大型のヨモツが出没。

 発見から通報、屋内で待機、獣撃隊が到着――一連の流れを箇条書きで簡潔に書き出す。ページの半分以上が文字で埋まった。

 今日はもう一つ茉莉花にとって重大な「事件」があった。

 将来的に家に獣撃隊が来たことよりも「大事件」になりそうな出来事だ――おそらく、悪い意味で。

 今日の日付が入ったページには、あと五行程スペースがある。

 茉莉花はその事を手帳に書き留めるかどうか迷っていた。

 文字と言う形にして、向き合うことが怖かった。

 夕方に九郎と咲也と一緒にドーナツを食べていた時も、きょうだい揃って食卓を囲んでいた時も。

 茉莉花は平静を装っていたが、もうとっくに取り返しがつかないことになっていた。

 握ったペンを持ち直し、数回息を吐いてから茉莉花は再び文字をしたためる。

 朝、台所で――と書いたところでペンが止まり、打ち消すようにその文字を塗り潰した。

 ――やっぱり駄目だ。
 
 茉莉花はきつく目を閉じ、首を振った。

 目の裏に縁側で互いの体がぶつかった後に見上げた九郎の顔が映った。
 
 自分を見つめる彼の黒い目は、まるで獲物を捉えるかのように鋭く光っていた。
 
 その目に射られた瞬間、台所でぐらついた心にとどめを刺され茉莉花は九郎に「堕ちた」――生まれて初めて恋に堕ちた。

 息を飲むほど精悍(せいかん)で、身が竦(すく)むような雄々しい顔立ち。

 高い鼻筋も、顎の輪郭も、眉も唇も鑿(のみ)で削ったように直線的で険しい造りをしている。

 物静かでお人好しな性格で隠れていた九郎の本当の姿を見たような気がした。
 
 知らなかった。こんなに「良い男」だったなんて。

 正直、同年代の娘が騒ぐようなタイプではない。

 彼女たちが好むのは小綺麗で無味無臭の「お人形さん」のような男。

 九郎は彼らとは対極。異性に配慮した手入れをしていないので男のエグみが強い。

 それでも茉莉花には魅力的に見えた。むしろそれが良いと思った。

 すました「お人形さん」よりも、強い生命力を感じる。

 まだ見ぬ「王子様」よりも、今まで見た「王子様」っぽい男よりも、フィクションの完璧で秀麗な「王子様」よりも、自分の心も体も渇望するような良い男。

 近い将来「王子様」に出会うことになっているが、きっと彼と比べてしまう。

「――ごめん」

 そう言った九郎はいつもと同じ、優しい目をした静かな「同じ年の義理の弟」に戻っていた。

 九郎が居間から出て行った後も茉莉花は縁側から動けなかった。

 心臓が押し上げられ、頭の中で動悸が激しく鳴り響いているような感覚。

 完全にのぼせ上がっていて、少しでも動いたらそのまま倒れてしまいそうだった。

 茉莉花は右腕を摩(さす)りながら、浅黒くて固い九郎の腕の感触を反芻(はんすう)する。

 あの時感じたのは甘く萎縮するような妙に心地よい痺れ――思い出すと体の内側が舌舐めずりをするように疼(うず)く。

 女ならこんな時は「胸がキュン」としなければならないのに。

「恋」と言うよりも、これではまるで「発情期」――女として終わってる。自分の体を不躾に触って来た汚い男たちと同じに成り下がったような気がした。

 しかも相手は血の繋がりはないが長年きょうだいとして一緒にいた男。

 ――ある意味これって近親相姦じゃん……身内に興奮するとか……獣(けもの)以下じゃん……。

 こんな最悪で汚い「恋」があってたまるか――茉莉花は手帳の上に伏せて頭を抱えた。

 九郎は優しいし茉莉花のことを大事にしているが、それはあくまで「きょうだい」としてだ。

 咲也(さくや)も真斗(まなと)も彗斗(けいと)も同じくらい大切に思っている。

 縁側での一件の後も九郎は茉莉花に対し、いつも通り「公平で善良」な感情を持って接していた。

 ぶつかった時も茉莉花は衝撃で蹌踉(よろ)めいたが、彼はびくともしていなかった。

 人の心を掻き乱しておいて、何も知らずにいつもと変わらない静かな表情(かお)でいる九郎が憎らしく思えた。

 ――あいつだけ、何ひとつ変わってない。

 悔しさ、恥ずかしさで胸が苦しくなる。

 九郎も同じ熱い感情を持っていて欲しい、私と同じ位置まで落ちて欲しい、私と同じように求めて苦しんで欲しい――そう思う自分が惨めで疎ましかった。
 
 盆明けの面談で内閣府の官僚の蛇台原麗虎(じゃだいはられいこ)から「万が一、好きな人が出来たら教えてね」と言われたことを思い出した。

 ――絶対に言えない。

 好きになった男が天津人ではない身内の九郎だと知ったら、麗虎は当然家長の真斗にこの事を伝える。

 国は茉莉花の恋を許さないが、国以上に真斗がそれを許さないだろう。

 茉莉花を家から引き離し直接国の監視下に置くか、茉莉花が家を出るまで一時的に九郎を別居させるか。

 とにかく二人が二度と顔を合わせないようにするだろう。

 茉莉花――「花鞘比売(はなさやひめ)」になる娘にとって天津人以外の男は「毒」だ。

 高野原家にとって「花を枯らす」男は「毒」だ。
 
 茉莉花が九郎を求めることは彼を「罪人」にすることでもある。

 この恋を成就させたところで行き着く先にあるのは「破滅」だ。

 女は自分の幸せしか考えていない――以前、真斗がそう言っていた。

 男尊女卑の天津男め――普段の茉莉花なら反射的に真斗に喰ってかかるところだが、彼女は俯(うつむ)いて口を噤(つぐ)むことしか出来なかった。

 高野原家の家長が口にするその言葉は重い。

 高野原家には「愚かな乙女」に裏切られた過去がある。

 真斗に女性蔑視(ミソジニー)の傾向が強いのは、女にモテる故に嫌な思いをして来たからだけではない。

 この事を身内から聞かされ続けて来たせいもあるのだろう。

 茉莉花も十二歳の時――自分が「花鞘比売」になる娘になった時に父親からその話を伝えられた。

 今の自分は「あの娘」と似た状況になっている。

 それに気付いた茉莉花の心に冷えた水が染み入るように不安が広がった。

 ――私は「あの娘」とは違う……あんな無責任で自分勝手な女じゃない。

 ペンを握る手が震える。

 彼女の身に走るのは恐れではなく、怒りに近い否定の感情――私は「あんな愚かな娘」とは違う。

 彼女は自分の幸せのために愛する男の人生も壊した。

 自分の幸せのために何もかも壊した「愚かな乙女」だ。

 ――九郎のことは好きだけど、私は絶対に「あの娘」のようにはならない。

 誰にも言わない、彼にも伝えない。

 この気持ちは胸の中にしまって置く。

 ――私は「あの娘」とは違う……好きだからこそ、九郎を守らなきゃ……ちゃんと「王子様」と結ばれなきゃ……

 手帳に書きかけて塗り潰した文字を指で撫で、茉莉花は引き出しの中からシールのシートを数枚取り出した。

 丁重に葬るように花のシールを数枚、塗り潰した文字の上に貼り付ける。

 獣撃隊によるヨモツ祓除について記録したページにも関わらず、不自然に貼られた色とりどりの花のシール。

 文字を消しても自分の「のぼせ」具合が手に取るようにわかる。

 ――シールのチョイス、間違えた……。

 茉莉花は再び熱くなった頬を押さえ、ため息を吐いた。