ヴァージン・スキャンダラス・エンゲージ〜天津の姫は世界と彼氏のために呪われた兄と禁忌の契約を結ぶ〜

【仙台市泉区・高野原家(屋内)】

 九郎が母屋に入り居間を覗くと、その先にある縁側に茉莉花の姿があった。

 開いたガラス戸から手を伸ばし、水が滴り落ちている外側を雑巾で拭いている。
 
 自分だけ突っ立ったまま何もしていないのは居心地が悪いと思い、九郎は所在なさげに辺りを見回していた。

 彼の気配を感じた茉莉花はガラス戸を拭く手を止めて振り返る。

「こっちは大丈夫だから、お塩持って来て外に撒いてくれる?」

 九郎の心持ちを察し、茉莉花は彼にひとつ仕事を振る。

「わかった」

 少し眉を上げて頷き、九郎は静かに台所へ向かう。
 
 その姿を見送り茉莉花は再びガラス戸を拭いていると、外から咲也が縁側に上がって来た。

「俺もドーナツ食いたくなったわ。飲み物、麦茶でいいか?」
「うん。めずらしー、今日は気が利くじゃん」
「うるせぇ」

 冷やかす茉莉花を突っぱねるように咲也はそう言い、玄関に脱いだ靴を置きに居間を出て行く。

 一通りガラス戸を拭き終えた茉莉花の隣に塩が入った調味料入れを持った九郎が戻って来た。
 
 蓋を開き中に入っているプラスチック製の匙で塩を掬い、外に撒く。

「外にいた時じゃなくて良かった」

 もう一度、匙で掬った塩を撒きながら九郎が呟いた。

 唐突にそう言われ、何のことだと茉莉花は首を傾げる。

「――ヨモツが出たのが」

 隣にいる茉莉花にしか聞こえないくらいの小声で九郎はそう続けると、匙を調味料入れに戻し蓋を閉める。

 ああ、そのことね、と茉莉花は彼の横顔を見上げて頷いた。

「うん、洗濯物早目に取り込んどいて良かった」

 茉莉花は彼とは対照的な快活な口ぶりで話を続ける。

「取り込んだ後にね、ここでちょっと昼寝しちゃって」
「昼寝」
「で、目が覚めたらべったりくっついてて。いきなり焦ったよねぇ。デカい虫型とか気持ち悪いし、あとなんかヤバそうだったから通報したって訳」
「ヤバそうって、何が?」

 打って変わって九郎は鋭い口調で茉莉花に問いかける。

 あのヨモツは放置していたら危険なものだった。そのことに彼女は気付いて通報したのだろうか。

「何がって……何となく」

 彼女は困ったように目を泳がせながらそう答えた。

 やはり茉莉花はあのヨモツの危険性を理解していない。だが「何となくヤバい」とは感じていたようだ。

「……実際、ヤバかったって隊員の人が言ってた。体の内側で雷線が光ってたんだけど……時限式?時限爆弾的な?」
「時限型暴発種」
「ああ、それ。あと少し通報が遅かったらヤバかったんだって」

 九郎は茉莉花から視線を逸らし小さく頷いて呟く。

「マリの勘が当たったんだ。良かった」
「九郎は知ってんだ。やっぱ祓除やってる側だと色々把握してんだね。私も出来ないなりに知っとかないと駄目だわ。勘なんて所詮博打だしさ――そもそも私が力が使えたら良かったんだけど」

 サラッとした口調で彼女はそう言い、ガラス戸を閉める。

 九郎が再び茉莉花に目を向けると、少し寂しそうに睫毛を伏せている。

 その姿を見て彼は明るかった空に突然重い雲が横切り、陽が陰ったような感覚を覚えた。

 茉莉花は天津人の中で唯一特殊能力を使えない人間だ。その事は家族や一部の親族、関係者以外には隠している。

 駆けつけた隊員たちにも「あえて力を使っていない」体を取っていた。

 何も持たない自分はヨモツの前では無力。

 彼女はヨモツを祓う為に存在する天津人にも関わらずその役目を果たせない。

 今のご時世、祓除能力を持っていても何かと面倒なので人前で力を使わない天津人も多い。

 ただで能力を搾取されることを嫌い、自分の身を守る以外は獣撃隊という専門職があるのでそれに丸投げして当然だと言う者もいる。

 茉莉花はその逆で「きょうだいたちがそうしているように、自分もちゃんと役目を果たしたい」と強く思っていた。

 兄の真斗や姉の彗斗、弟の咲也――天津人としてヨモツの脅威から人々を守る使命を果たしている彼らと同じ血を引いているのに自分だけ何も出来ない。

 そんな焦燥感や後ろめたさに悄然(しょうぜん)とし肩を落とす茉莉花の姿を九郎は何度も見て来た。

 どんな言葉を掛ければ良いのか、今になっても彼にはわからない。

「……勘は当たったし、対応もしっかりしてた」

 少し間をおいて九郎は精一杯考えた言葉を口にする。

「通報して隊員さんの指示に従っただけだよ」

 茉莉花は彼を流し見て苦笑いをした。

「守られるんなら「ちゃんと」守られるようにしなきゃ。変に負けん気出して余計な事したら足引っ張る事になるし」

 彼女の表情は「守られる」者にしては凛々しく、前向きな覚悟を持っているように見えた。

「私に何かあったら大変なことになるし、こう言う時は何もしないで大人しくしてるのが私の務めだよ」

 何もしない、と言ったがそこに卑屈さはない。

 一つ瞬きをした茉莉花の目には強い光が宿っていた。

 雲間をこじ開けるように射す陽光のような力強い眼差し。

 茉莉花は能力を使えないが強い心を持っている。気落ちしてもすぐに自分で持ち直す。

 心配したところで九郎の出る幕はない。

 やりたくても出来ないことは潔く諦め、不本意なものであっても出来ることで最善を尽くす。簡単なようで中々やれることではない。

 九郎は精神面では彼女の方が、ずっと強くて大人だと思っている。

 彼女の双子の弟、咲也も同じく肝が据わっていてしっかりしている。九郎は常にこの二人に引っ張られながら後をついて行く――昔からそんな感じだった。

 茉莉花と咲也を、いざとなったら支えられるように強くならなければと彼はずっと思っている。
 
「うん、それなら俺も「ちゃんと」マリを守らないと」

 その言葉を聞いた茉莉花は少し目を見開いて九郎を見上げた後、表情を変えることなく彼から顔を逸らし再びガラス戸の向こう側に視線を移した。
 
 また余計なことを言ってしまったと九郎は俯いた。

 これではただの自分の「意思表明」で少しも彼女の気持ちに沿っていない。

「そうだ!ドーナツ!」

 沈黙を破るように茉莉花は顔を上げ、右手に雑巾を持ったまま手を叩いた。

「チョコとカスタードのある?」
「ある」
「雑巾洗ってくるからそれキープしといて。多分まだチョコ固まってないけど待てないや」
「わかった」

 茉莉花は雑巾を洗いに風呂場へ、九郎は調味料入れを戻しに台所へと向かう。

 近い距離で同時に身を反転させたため、茉莉花の白い右腕と九郎の褐色の左腕がぶつかった。

 反射的に互いに身を引き、どちらからともなく気まずそうに顔を見合わせる。

 光を受けて輝く琥珀色の瞳と穏やかな夜陰のような黒い瞳。

 思いがけず湧いた戸惑いに、重なる視線が微かに揺れた。

 九郎は当たった茉莉花の腕から、自分とは全く違う肌のきめの細やかさや柔らかさを感じた。

 少しでも爪を立てたら裂けそうな肌、力加減を誤ればすぐに折れそうな腕。

 視覚では認識していたが接触したことにより、その差を肌で、体で感じた。

 触れた瞬間、茉莉花の体から暖かくて甘い匂いが蝶の鱗粉(りんぷん)のように散り九郎の鼻腔をくすぐる。
 
 昨日の夜、彼女に髪を弄られたときはどうにか疼(うず)き出した衝動を抑えることが出来た。

 だが互いの肌が重なった瞬間それは呆気なく壊れた。

 放たれた火が野を焼くように、抗(あらが)えない情炎(じょうえん)が九郎の身を焦がす。

 ぶつかった衝撃で蹌踉(よろ)めいた茉莉花は一歩後ろに足を付いた。

 右腕を押さえ身を捩(よじ)る。

 細い腰がしなりスカートの生地が体に張り付き、腰のくびれから下肢へ続く豊かな曲線が露わになる。

 茉莉花は振り返り、唇を噛んで九郎を見据えた。

 琥珀色の瞳は蜂蜜のように甘く濡れ、長い睫毛(まつげ)を蝶の羽のように艶めかしく瞬(まばた)かせる。

 ふっくらとした頬、細い鼻筋、丸みのある顎――咲也と同じ顔だと思っていたが、見知らぬ「女」のように見えた。

 前歯で軽く噛んでいた茉莉花の口元が解(ほど)ける。

 濡れた唇が弾けた瞬間、内から湧き立つ熱に引き出されるように九郎の体に「獣(けもの)」の気が走った。

 思わず鳴らしそうになった喉を、息を止めて押さえる。

「あ、ごめん」

 茉莉花はいつもと変わらぬ様子で素っ気なくそう言い、さらに半歩ほど身を引いた。

「――ごめん」

 九郎は静かに言葉を返すと逃げるように目を逸らし、足早に彼女の前から離れた。

 廊下側の戸から居間を出て、調味料入れが置いてあった台所ではなく逆側にある玄関へ向かう。

 九郎は焦っていた。

 ――まずい……。

 茉莉花の前では取り繕って無表情でいたが、額から冷や汗が滲むほど焦っていた。
 
 玄関の向かいにある階段を足音を出さないように駆け上り二階の廊下の奥の端――自室のドアの前に項垂(うなだ)れて座り込む。

 調味料入れを床に置き、乱れた呼吸を整えながら右手で自分の耳に触れる。

 感じたのは「毛」の手触り。その位置にあるはずの「耳」がない。

 そのまま髪を頭の上まで掻き上げると指が毛に覆われた「耳」に当たった。

 ――最悪だ……。

 隠していたものが露(あら)わになることを「尻尾(しっぽ)を出した」と表現するが、彼には全くピンと来なかった。

 真っ先に出るのは「耳」だ。「尻尾」は一番最後。

 上部に移動し三角形に変化した耳を疎ましそうにつねった後、彼は指先で鼻筋をなぞる。

 鼻先は固く湿った手触りで前に迫り出している。

 鼻に触れた手を目の前に翳すと「爪」が少し伸び、そこに生えて無いはずの「体毛」が薄っすらと指先を覆っている。
 
 翳した手を見つめる九郎の瞳の色は金色に近い琥珀(こはく)色に変わっていた。

 咲也と茉莉花と同じ琥珀色の目(アンバーアイ)――それは「オオカミ」の目と同じ色なので「ウルフアイ」とも言われている。

 襟足が伸びて毛先が肩に届く長髪になったように見えるが、それは頸(うなじ)から肩にかけて覆っている長い体毛だ。

 頭と手だけが「オオカミ」と化し歪(いびつ)な姿になった九郎は、長い前髪を掻きながらドアに寄りかかり目を伏せた。

 彼が属する種族は耐性のない刺激を受けた時、反射的に「本当の姿」になる。

 幼い頃は驚いたり体が傷ついたりした時によくそうなっていたが、今は慣れてこう言った刺激を受けても人の姿を保っていることが出来る。

 九郎と同じ体質の先人たちの証言によると、初めて強い「性衝動」に駆られたときにもそうなると言う。

 所謂(いわゆる)「エロ画像」や「性描写」を目にしたくらいではそうはならないが「対象が自分の本能が求めていた形に合致した」場合――砕けた言い方をすれば「この女を抱きたい」と初めて思った時などにそうなる。

 ネットで調べた同族(オオカミ)のパターンだと、個人差はあるようだがそれは「番(つが)うべき相手のフェロモンを肌で感じた」時らしい。

 ――最悪過ぎる……何で……何でよりによってマリなんだ……。

 九郎が通う高校は共学だ。年相応にそこで「可愛いな」と思った女子はいたがそれ以上の感情を持つことはなかった。

 茉莉花は芸能事務所がスカウトに来るほどの美少女だが、九郎は彼女の見た目に惹かれるようなことはなかった。

 長年一緒にいて見慣れているし、男の咲也と同じ顔だ。

 大切な存在だが、それは恋愛感情ではない。

 それなのに「女」を感じて、彼女を「欲しい」と体が疼いた。

 最低で最悪だ。

 血の繋がりはないが長年きょうだいとして一緒にいた茉莉花に対して劣情を抱くのは「近親相姦」と言ってもいい悍(おぞ)ましいものだ。

 それだけではない。万が一、天津人ではない九郎が「花鞘比売(はなさやひめ)」になる娘――処女の茉莉花を犯したら彼女は死んでしまう。

 今の自分は完全に、茉莉花にとっても高野原家にとっても国にとっても有害な存在だ。

 どの面を下げて茉莉花と咲也がいる一階に戻るんだ、そもそもどの面を下げて今後この家で暮らすのか。

 九郎は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返しながら獣の気が引くのを待った。長くはない。三分もしないうちに元に戻る。

 無表情を取り繕うのは得意な方だから大丈夫だ。

 この疾(やま)しい感情は絶対に表には出さない。この危険な衝動を絶対に茉莉花に向けたりはしない。

 ――父さんにマリと家を守ることを託されたんだ……あと一年半、マリが「剣比古(つるぎひこ)」の元へ行くまで……

 茉莉花を守る。自分から茉莉花を守る。絶対に守る。
 
 そう自分に言い聞かせているうちに九郎の耳と鼻は元の位置に戻り人の形になった。伸びた体毛も消えている。

 ゆっくりと目を開き、彼は大きく息を吐く。

 その瞳も炯々(けいけい)としたオオカミのものから、いつもの優しい黒い瞳に戻っていた。