ヴァージン・スキャンダラス・エンゲージ〜天津の姫は世界と彼氏のために呪われた兄と禁忌の契約を結ぶ〜

【仙台市泉区×××字××】

 任務を終えた岡田と松森が乗った獣撃隊(じゅうげきたい)の車両が高野原(たかのはら)家の敷地の前から走り出した。

 路上から見送る茉莉花(まりか)は深々と頭を下げる。
 
 十秒数えてから姿勢を戻すと坂を下った車両がその先のカーブを曲がるのが見え、茉莉花は大きく息を吐く。

 手渡された書類を折りたたみポケットに入れた後、彼女は腕をだらりと下げ首を垂れた。

「めっっっちゃくちゃ緊張した……」

 気疲れで全身が綿のようにくたくたになった茉莉花は唸るように呟きその場にしゃがみ込む。

 庭先から「お供」のように後ろで飛んでいた蝶も、羽を休めるように彼女のカチューシャにとまった。

 自宅に大きめのヨモツが出た事よりも、真斗の職場の人間と初めて顔を合わせてやり取りをした事の方が彼女にとっては大事件だった。

 祓除能力を持っていないことを隠しつつ、兄の顔を立てる。

「模範的箱入り娘」を演じたつもりだったが、どうだったろう。

 何を言ったのか何を言われたのか、緊張のあまりほとんど覚えていない。

 獣撃隊の仕事ぶりは遠目で見ることは何度かあったが、通報者として隊員と接したのは初めてだった。

 ――感じの良い人たちでよかった。

 祓除の様子は見ていないが真斗もあの二人の隊員と同じような感じで任務をこなしているのだろうか。

 茉莉花はしゃがんだままぼんやりとその様子を想像していた。

 その時、右側の路肩に並ぶ木立の枝葉が激しく揺れる音がした。

 カチューシャから離れた蝶は茉莉花の前で、猛り立つように懸命に羽ばたかせ飛んでいる。

 葉ずれの音は風が起こしたものではない。明らかに何か大きなものがぶつかって起きたもの。
 
 もしかしてまたヨモツか――茉莉花は身構え、飛び込んで来たその気配に目を向ける。

 視界にその「何か」が落とした薄い影がさす。

 彼女は顔を上げその主の姿を捉える。

 目に映ったのは散った木の葉とともに宙を舞う咲也の姿だった。

 栗色の髪をなびかせ彼は目下にいる茉莉花に視線を向ける。

 琥珀色の瞳は光をおびて金色に近い色味になっていた。

 顔立ちの美しさも相まって、羽根はないがその姿は天使のようにも見える。

 だが茉莉花にとっては自分と同じ顔。

 飛んでいる様も何度となく見て来たものだ。

 何だ咲也か、と彼女は拍子抜けしたような顔をする。

 空中で屈んでいた脚を伸ばし、咲也はアスファルトにしゃがんでいる茉莉花の前に降り立った。

 彼女の顔を見るより先に家の敷地の方へ視線を向ける。その表情は少し固い。

「祓除、終わったのか?」
「ちょうど今お見送りしたとこ。ニアミスだね」

 茉莉花は立ち上がって、獣撃隊の車両が走って行った方向を指さす。

「駅から「飛んで」来たの?」
「一応、緊急事態だからな」
「もしかして心配、してた?」

 咲也は茉莉花から目を逸らしたまま「ああ……」と言い淀む。

 それとは少し違う、とでも言いたげなその素振りに茉莉花は眉を顰めた。

「――私が何かやらかしたんじゃないかって思ってたんでしょ?」

 茉莉花は不服そうに咲也に詰め寄る。

「まぁ、そうだな」

 咲也はしれっとそう答えた。

「はぁ?!」

 その言葉にカチンと来た茉莉花は腰に手をあて胸を張り、咲也を見据える。

「ヨモツとは一切接触せずちゃんと通報して、ちゃんと屋内待機して、ちゃんと隊員さんの指示に従って、ちゃんと祓除完了まで大人しくしてました」

 彼女は一言一言、語気を強めて言い立てた。

 咲也は「はいはい」と面倒臭そうに頷いてそれを受け流す。

 言い切った茉莉花は一息吐いて表情を緩める。

 腰にあてていた手を下げ、落ち着いた声でこう続けた。

「急いで帰って来てくれたんでしょ。ありがと、こっちは大丈夫だから」
「だったらいいんだけどよ……」

 怪我もなく動揺した様子もない。いつも通り口うるさい茉莉花を前にして咲也は内心ほっとしていた。

 口には出さないが、ちゃんと彼女の身を案じていた。

 小憎たらしい言動で隠しているが、茉莉花はちゃんとそれをわかっている。

「兄ちゃんと姉ちゃんに連絡したのか?」
「してない。兄さんには言わなくても獣撃隊(職場)でわかるだろうし。お姉ちゃんも仕事中だし、何事もなかったから余計な心配させたくないし帰ったら言う」

 咲也にそう言った後、茉莉花はふと思った。

 まだ「オオカミ」が来ない。

 咲也が飛んで来た方向を見上げ、獣撃隊の車両が走り去った住宅地へと続く坂を見下ろす。

「……九郎は?一緒じゃないの?」
「あいつは普通に走ってる。それでも速いから信号に捕まってなけりゃもうすぐ着くんじゃね?」
「変化してないんだ……」
「駅からここまで人も車も多いだろ」
「ドーナツは?」
「ドーナツってお前……」
「緊張しっぱなしでお腹すいちゃったから食べたいなぁって」

 さっきまで獣撃隊を呼ぶ程の緊急事態だったのに何を呑気な事言ってるんだ。

 咲也は呆れて大きなため息を吐く。

 この双子は「しっかり者の姉と奔放な弟」と見られる事が多い。

 しかし実際は弟の咲也の方がしっかりしていて姉の茉莉花の方がマイペースなのだ。

「九郎が持ってる。もうすぐ着くから先に家ん中入ってようぜ」
「あ、そうそう。ヨモツが引っ付いてたとこに水かけて塩撒かないと。禊(みそぎ)はセルフなんだって」
「当たり前だ。獣撃隊はサービス業じゃねぇんだぞ」

 そう言うと咲也は先に門柱の間を抜け母屋の方へ歩き出した。

 茉莉花は蝶を一匹引き連れ、ゆっくりとした足取りで彼を追い家の敷地に戻った。

 アプローチを抜け庭に出ると、ヨモツが張り付いていた母屋のガラス戸の前に立っている咲也の姿が見えた。

「お供」の役目を終えた蝶は、茉莉花から離れて庭先で飛び交っている仲間たちの方へ飛んで行った。

「納戸に隠れてたからどうやってヨモツを剥がしたかはわかんないんだけど、凄いでしょー?割れないどころか傷一つ付いてないんだから!」

 咲也の方に歩み寄りながら、茉莉花は自分の手柄でもないのに得意げにそう言った。
 
 先程まで身の危険と隣り合わせだったにも関わらず、いつもと変わらないどころか妙にテンションが高い。

 あらためてその図太さを思い知り、咲也はさらに大きなため息を吐いた。

「上のカメラに映ってんじゃね?」

 咲也は素っ気なくそう言い、ガラス戸の右上にある防犯カメラを顎で指す。

 通報した後にセキュリティを解除していたが防犯カメラは稼働していた。

 ヨモツがどのようにしてガラス戸から剥がされたのか。一連の流れは録画されている。

「あー!そっか!カメラあったわ!ねぇ見よう見よう!めっちゃ気になる!」
「その前に禊だろ。俺が水撒くからちょっと待ってろ」

 ガラス戸の前から少し離れ、咲也は母屋の端にある立水栓の方を向き視線の先に右手を伸ばす。

 軽く拳を握ってから手を軽く引くと立水栓の傍らにあるアイアン製のスタンドに巻いてある散水ホースの先端がふわりと動き、蛇口に挿さる。

「コップで水かけるだけでもいいって言われたんだけど」

 茉莉花は彼の後ろに立ち、億劫そうに体を揺らしてしている。

 少し強めに手を引くと逆側にあるホースヘッドが宙に浮き二人が立つ方へホースが伸びる。

 空中でヘッドをキャッチした咲也は左手にホースを持ち、右手の指を軽く捻る。すると蛇口が開きヘッドから勢いよく水が出た。

「駄目だ。こう言うのはちゃんとやっとかねぇと」

 普段は何かと面倒くさい面倒くさいと言っている咲也だが、細かいときははやたら細かい。

 咲也はヘッドの付け根を回しシャワーに切り替えガラス戸に向けて放水を始める。

「水かけるのは俺がやるから後の乾拭き頼んだぞ」
「りょーかい」

 茉莉花は緩い口ぶりでそう言い振り返ると、アプローチからこちらへと駆けて来る九郎の姿が見えた。

 気温三十度超えの中、駅から約二キロの道のりを走って来たがその表情と足取りにはまだ余裕がある。

 母屋の前に立つ茉莉花と咲也の姿を確認した彼は速度を落とし木立の影を抜け、ゆっくりと二人のもとへ歩み寄る。

「オオカミ」が来た――茉莉花は息を呑んだ。

「王子様」は来るわけがないし、ヨモツを祓除したのは獣撃隊の男女コンビ。

 彼らの次に駆け付けたのは「お姫様」の「血縁者」である咲也。

「オオカミ」は結局、一番最後に彼女の元へ来た。

 この一連の流れは自分に起こった出来事で、あの本に書かれた物語とは違う。

 ――大丈夫、何も変わらない。私は何も変わったりしない。

 茉莉花はそう自分に言い聞かせ、帰って来た「オオカミ」――九郎を迎える。
 
 彼女の前で立ち止まった九郎は、その場で上がった息を整える。

 汗ばんだ首元、息遣いに合わせて動く厚い胸。

 強い夏の日差しに照らされた彼の体は台所で見た時よりもはっきりと茉莉花の目に映った。

 あの時よりも明瞭に、あの時よりも肉感的に見えた。

 険しい体の筋の収縮に、聞こえてくる深い息づかいに自分の鼓動が重なる。
 
 茹だるような夏の外気ではなく、体から湧き上がる熱で蹌踉(よろ)めきそうな体を「恐れ」が辛うじて支えている――絶対に目を合わせてはいけない。

 どうしようもなく騒ぐ体と心を押し殺すように茉莉花は奥歯を噛み拳を握り締め、九郎の足元に視線を落とした。

「――ただいま」

 聞き慣れた静かな声が熱くなった耳を掠(かす)め、身構えた体が少し解(ほど)ける。

 そこにいるのは心を乱す危険な「男」ではなく、いつもの九郎だ。
 
 しかし茉莉花はまだ顔を上げることが出来なかった。

「おかえり。九郎の足にしては遅かったじゃん」
「ごめん……その……ちょっと……」
 
 目を逸らし俯いたままの茉莉花の姿が不満そうに見えたのか、九郎も首をもたげて言い淀む。

「何かあったの?」
「ああ……まぁ……」

 茉莉花は何となく察した。
 
 拾った物を走って落とし主まで届けたり、ヨモツメを見つけたから消しに行ったり、道を聞かれたときは説明が下手くそだから途中まで一緒に行き案内する。

 急いでいても目の前に困っている人がいたら放っておけない、困っている人から頼まれたら断れない――今日もそんな感じで「困っている人」に遭遇して帰りが遅くなったのだろう。

 九郎はそう言う人間だ。

 自分だけを特別扱いして欲しい女からは「恋愛対象外」の評価が下るタイプ――「誰にでも優しい」男だ。

 少し視線を上げると、九郎が右腕に抱えているドーナツが入った箱に目が留まった。

 側面が潰れ上蓋が開きかけている。

「箱潰れてんだけど。中身大丈夫?」 
「ああ……!ごめん、抱えて走ったから……」

 九郎は焦った様子で箱を開く。

「……大丈夫、中は潰れてない。チョコは……少し溶けてる……」

 茉莉花はゆっくりと顔を上げた。

 目の前にいるのは背中を丸め箱の中を覗く、体がデカいくせにおどおどとした頼りない男。

 そんな九郎の姿を目の当たりし、茉莉花の心は初めから何も無かったかのように冷めていった。

 身を焼く危険があった胸に灯った熱い火が呆気(あっけ)なく消え、残った熱も引き波に攫(さら)われる砂のように消えていく。

 何故こんなお人よしで、言い方は悪いが残念な男に怯えていたのか――「王子様」を待つ「お姫様」の「当て馬」にすらならない。

 そう思ったが、決して彼に幻滅した訳ではない。

「冷めた」と言うよりも「覚めた」――足元がおぼつかない不安定な夢から目覚めたような妙にスッキリとした気持ちだった。

 帰って来たのは誰にでも優しくて不器用な、いつもの九郎だ。

 地下鉄に乗ってから気遣うようなメッセージを送信し、駅から息せき駆けて来た。

 特別ではない、けれど彼の「優しさ」はきょうだいである自分に対しても公平に向けられている。

 今日だけではない。幼い頃からずっとそうだった。

 そんなところが好きだ――これは性愛ではない、家族にも同性にも生まれる温かくて素朴な感情。

 彼に蹌踉めいて踏み外しそうになったが、それを正していつもの茉莉花に戻してくれたのも彼だった。

 陽光の眩しさに少し細めた九郎の黒目がちな優しい目を見ているうちに、茉莉花の心はすっかり解け表情が緩む。
 
「そりゃチョコは溶けるよ、暑いし」 
「ごめん……」
「心配して走って来たんでしょ?ありがと。この通り私も家も大丈夫だから」
「……うん、良かった」

 九郎は瞳に安堵の色を滲ませ静かに頷(うなず)いた。

 その姿は「オオカミ」と言うよりも「犬」――可笑(おか)しさのあまり茉莉花は鼻を鳴らす。

「疲れたんじゃない?これ、冷蔵庫に入れとくから。ガラス拭き終わってから三人で食べよ」

 そう言って手を伸ばし、茉莉花は九郎からドーナツが入った箱を受け取った。

「もー緊張してお腹すいちゃった!ドーナツ頼んでおいてよかったぁ」

 彼女は箱を掲げながらその場でくるりとターンを決め、満足そうに顔を綻(ほころ)ばせる。

 ワンピースの裾を翻し長い髪を弾ませ、軽やかな足取りで玄関へ向かう茉莉花を九郎は少し拍子抜けしたような表情で見ていた。

 二人のやり取りを聞き流しつつ、咲也はガラス戸に水をかけていた。

 九郎の方を向いた咲也は、親指を立てて茉莉花が入って行った母屋を指す。

「本っ当に図太い性格で助かるわ」

 咲也がそう言うと九郎は肩をすくめ苦笑いをした。

「咲也の姉だもんな」
「はぁ?!」

 茉莉花と同類扱いにされた咲也は不満気に顔を歪める。

 その反応も表情も彼女がするものと同じで九郎は思わず目を伏せて笑った。

「頼もしいってこと」

 穏やかな声で咲也を嗜めると彼はゆっくりとした足取りで玄関に向かった。