ヴァージン・スキャンダラス・エンゲージ〜天津の姫は世界と彼氏のために呪われた兄と禁忌の契約を結ぶ〜

 茉莉花は何故今その言葉を突きつけられたのかわかっていない様子で、戸惑いを滲ませた目を真斗に向ける。

「……諦めるって……何を?」

 この後に及んで、まだしらを切り通す気か。

 真斗は女特有の自分の欲望を認めない潔癖さに苛立ったが、茉莉花はまだ十七歳の小娘だ。

 本当に自分が抱いている感情が何なのかを、わかっていないのかも知れない。

 だとしたら、わからないまま終わらせた方が良い。

 不安気に揺れる茉莉花の琥珀色の瞳を見つめ、真斗は彼女の腕を掴む手を緩める。

「――九郎に罪を背負わせるような真似はするな」

 念を押すようにそう言うと真斗は茉莉花の腕を離した。

 茉莉花は真斗から目を逸らし、また俯いた。

 長い髪が肩から帳(とばり)のように滑り落ち、真斗の厳しい眼差しからその表情を隠す。
 
 真斗に掴まれていた左腕を摩っているうちに、照明がゆっくりと落ちるように視界が暗くなってきた。

 側で身を屈めている真斗の姿も、座っている畳も闇に飲まれ見えなくなった。

 右手を上げ自分の顔に翳したが、もうそれすらも見えない。

 自分以外の全てのものが消えてしまったような気がした。
 
 真斗も九郎も、もうそこにはいない。

 広いようにも狭いようにも感じる暗闇の中で茉莉花は顔を上げ深いため息を吐く。

「私あの時、九郎を好きになってた」

 司祭の前で懺悔する基督(キリスト)教の信者のような面持ちで、茉莉花は観念したかのようにそう呟いた。

 はっきりと思い出せる。

 今朝、台所で初めて男に心を奪われた瞬間を。

 筋が描く曲線が褐色の肌と相まって艶かしく見えた。

 険しさを帯びた低い声を受けた耳が熱くなり、間近で感じた体温に酔いそうになった。

 内に秘めた獣を隠す厚い肩や胸。

 そこから自分に向けられるかも知れない「獰猛さ」を感じたが、それすら良いと思えた。

 むしろそこがたまらなく良かった。

 怖いくらい「良い男」だと思った。

 生まれて初めて恋に堕ちたが、その感覚は想像していたものとは全く違っていた。

 恋と呼ぶには、あまりにも生臭くて卑しい。

 小説や漫画、映画や舞台を通して見てきた恋は、心にキラキラと芽生える「ときめき」と名付けられた美しい感情が伴うもの。

 だが茉莉花が感じたものはそんなお行儀の良いものではなく、生々しく脈を打つ目を逸らしたくなるほどいやらしいギラついた「欲」だった。

 この汚い衝動は女が持っていいものではないと茉莉花は自分自身にしらを切り続けた。

 女は男に「求められる」側だと女自身が強く思っている。

 自分から惹かれた男であっても、「求められて」「仕方なく」許したい。

 心も体も「求められた」から「仕方なく」開いてあげる。

 これは受け身のまま、全て男まかせで満たしたいと思う姑息で傲慢な「女のプライド」だ。

 生まれながら持っているのか、社会からの刷り込みによるものなのか。

 茉莉花にも「女のプライド」がある。

 女の自分が汚れ役の「求める」側に立ってしまったことを認めるわけにはいかなかった。

 顔や体を舐めるように見てきたり隙を見て肩や腰に手を回して来た、欲でギラついた男たちと自分が同じようになっていると思うと恥ずかしくて耐えられない。

 それなのに縁側で眠っていた九郎をまじまじと見ているうちに、激しい衝動が体を走り、形振(なりふ)り構わず彼の体に手を伸ばしてしまった。

 恥を捨ててまで起こしたこの行動は、九郎に止められ、真斗に咎められ、指一本触れることなく終わってしまった。

 ――二人の連携プレーでアバズレがやらかすのを阻止したって訳か。

 茉莉花は自嘲し、短く息を吐く。

 頭の中は不思議と冴えて冷静だった。

 ――処女のくせに、ふしだらな女だ。

 真斗に指摘されて取り乱すほど恥ずかしかったし、九郎には絶対に知られたくなかった。

 わからない振りをして目を逸らしてきた恥ずかしい感情を、今なら認めることができる。

 もう全て終わってしまったからだ。
 
 九郎とはおそらくもう、互いに今までのように接することは不可能だ。

 縁側の敷居とは違う壁なのか溝なのか、二人を隔てるものが出来てしまった気がした。
 
 九郎に罪を背負わせてはいけない――真斗の言葉を思い返す。

 ――あいつのためにもそれでいい。

 はしたなくて浅はかな女なんかのために彼の人生を壊しては駄目だ。

 九郎だけではない。

 茉莉花が間違いを犯したら、彼女自身を含めありとあらゆるものが壊れる。

 真斗の言う通りだ――茉莉花は今までそうしてきたように諦めることにした。

 それなのに胸の痛みは消えなかった。

 魅力的な体を持つ「良い男」を諦めることに躊躇はない。

 だが、同時に優しい目をした一緒にいて安心出来る「居心地の良い人間」を失うことには耐えられそうになかった。

 茉莉花は座った体勢のまま横たわり、目を閉じた。

 瞼の裏は不思議と薄明るかった。

 茉莉花はその中で「いつもの」九郎の姿を見た。

 優しい目。静かな声。穏やかな佇まい。

 時折見せる少し困ったようにはにかむ表情。

「いつもの」九郎を思うこの感情に「ときめき」のような甘さも、ギラついた「欲」もない。

 ただ「一緒にいたい」――恋とは違う、素朴で少し子供じみた感情だ。

 台所でのアクシデントが起こる前から、ずっと茉莉花の中にそれはあった。
 
 高校を卒業したら茉莉花は男の元へ嫁ぎ、この家から出る。

 それでも離れる日が来るまでは今まで通り、キラキラしてはいないけどそれなりに楽しい日々を九郎と一緒に過ごしたかった。

 瞼の裏にも闇が入り込んで来た。

 闇は茉莉花のそんなささやかな願いまで塗り潰していく。

 ――ずっと一緒にいたかった。
 
 堰を切って溢れ出した後悔に飲み込まれるように、茉莉花の意識は闇の中へ深く沈んで行った。