ヴァージン・スキャンダラス・エンゲージ〜天津の姫は世界と彼氏のために呪われた兄と禁忌の契約を結ぶ〜

 ダイニングから居間に入った茉莉花の目に留まったのは、縁側で横になっている九郎の姿だった。

 ビーズクッションに頭を沈めて眠っている。

 白いTシャツに黒のジャージの長ズボンの部屋着姿。

 右手が腹の上にあり、読みかけの文庫本を持っている。

 書店のカバーが掛かっていて何を読んでいるのかはわからないが、おそらく彼が好きな歴史小説か時代小説だろう。

 呼吸に合わせ、胸板だけが静かに動いている。

 彼の姿を見て茉莉花はふと思った。

 ――あらためて見るとデカいな。トドか。

「空気」「犬」に続いて「トド」と言う雑な例えが頭に浮かんだ。

 茉莉花は寝ている「トド」のサイズ感を確かめようと隣に横たわった。

 十七歳の女子が家族とは言え同じ歳の異性の隣に寝そべる。

 兄の真斗が見たら顔を顰めるであろう「年頃の娘にあるまじき行動」だ。

 昨日彼に咎められたことを忘れたのか、わざと無視しているのか。

 悪びれもなく茉莉花は小学生の頃と同じような感覚で九郎の横に仰向けになった。

 肩幅と同じくらいに開いた脚を投げ出して寝ている九郎の体は、縁側の幅のほとんどを占めている。

 茉莉花の体は縁側に収まらない。

 障子の敷居を挟んで居間の畳の方に横たわり、自分の頭を九郎の頭がある位置に合わせる。

 寝そべった彼女は首を上げ、自分と彼の爪先の位置を確かめた。

 九郎の身長は一八三センチ。自分と咲也より二十センチ高い。

 その二十センチ差は立っている時よりも大きく感じた。
 
 爪先を床に付くくらい伸ばしたが彼の足首までにしか届かない。
 
 首が疲れて来たので頭を床に付け、茉莉花は仰向(あおむ)けになり天井を見る。

 こうして並んで寝そべっている姿はまるで――

 ――トドとアザラシってとこか。

 客観的に見たらそんな感じだろうなと、茉莉花は寝ている九郎に気付かれないように口を押さえて笑った。

 一頻り笑ってから体を起こし、そのまま立ち上がろうと畳に手を付く。

 ふと視線を上げると腹の上に乗った文庫本に添えられている九郎の右手が目に留まった。

 骨張った長い指。血管が浮いている手の甲。

 茉莉花は目を見開いて息を止めた。

 今朝台所で見た手だ。

 思いがけず目に飛び込んできた「男」の手に彼女は怯んで顔を逸らし、座ったまま身を引いた。

 一度逸らした視線を戻し、再び九郎の右手を見る。

 本よりも、ずっと大きい――茉莉花は目が離せなかった。

 畳に手を付いて、恐る恐る眠っている九郎の方に身を乗り出す。

 指先から手の甲、手首から腕。一つ一つ確かめながら指でなぞるように視線を滑らす。

 前腕から二の腕にかけて続く、筋の隆起が描く曲線を辿る。
 
 茉莉花の視線はTシャツに覆われた自分の倍の厚さがある肩から、呼吸に合わせて静かに上下する胸に行き着いた。

 鼻先に感じた湿った熱を思い出す。

 跳ね上がっていた鼓動が更に大きくなり、耐えきれず彼女はは息を漏らした。

 台所で自分に覆い被さっていた「男」の体だ。

 それは今朝突然現れたのではなくずっと茉莉花の側に居て、こうして今目の前で「正体」を晒して眠っている。

 茉莉花が今まで気付かなかっただけで、彼はずっとこの姿で側に居たのだ。

 熱を持って早鐘を打つ胸を押さえるように彼女は息を飲み、クッションに頭を沈め眠っている九郎の顔を見る。

 高い鼻筋。真っ直ぐな眉。閉じた瞼を縁取る棘のような短い睫毛。

 その姿は無防備に眠っているにも関わらず険しく鋭い。

 無造作に置かれた剥き身の刃物のように見えた。

「見知らぬ男」の顔――九郎であることには違いないが、今まで見たことがない精悍な「オオカミ」を感じさせる顔。

 身長と体の厚みなら真斗の方が九郎よりも二回りは大きい。

 顔立ちも真斗の方が常に眉間に皺が寄っていて険しいし、年齢よりも老けている。

 だが、茉莉花は彼に対してはデカい「筋肉の壁」と言う認識しかない。

 厳つい大男の真斗より今目の前で眠っている九郎の方が、扱いを間違えたら女の手に負えないような獰猛(どうもう)さを秘めているように感じる。

 そうだ、彼は「男」で「オオカミ」――普段は穏やかで物静かな性格と優しい目で、生まれ持った牙と爪を隠していた。
 
 怖い――そう感じたが、この「怖さ」は今までとは違う。
 
 ふと、冷蔵庫の中にあった林檎のシードルをこっそり口にした時のことを思い出した。

 林檎の甘酸っぱさの後に来た、アルコールの刺激。

 体に熱く重く染み、脈が激しく内臓を波立たせる、目眩が伴う少し苦しい高揚感。

 それに近い妙な質感を持った「怖さ」に茉莉花は戸惑う。
 
 オオカミと林檎のシードル。

 ぼんやりと共通項など無さそうなその二つを思い浮かべているうちに、酔ったように頭がふらついて来た。

 前のめりに倒れかけ、茉莉花は咄嗟に左手を付いた。
 
 目を開けると付いた左手は敷居を跨いで縁側の床に入っていた。

 あの時、シードルを飲んだことはすぐに彗斗にバレた。

 彼女は怒ることはなく、苦笑いをして茉莉花にこう言った。

「いけないことしちゃって」
 
 茉莉花は縁側の床に付いた左手を見つめながら、その言葉を反芻する。

 敷居を超えた手を戻さなければと思った。

 それなのに膝の上から離れた右手が、左手よりも前へと伸びる。

 駄目だ。これ以上は――

「いけない」

 茉莉花を引き止めたのは九郎の声だった。

 驚いて顔を上げると、いつもの九郎がいた。

 その表情に険しさはなく、いつもと変わらない凪いだ面持ちで茉莉花を見つめている。

 いつもと変わらない優しい目元――しかし、その眼差しは強く彼女を制していた。

 九郎は寝起きが良い。
 これは寝ぼけて口走ったものではない。

 明確な彼の意思によるものだ。

 彼はハッキリと茉莉花に言った。

 駄目だ。これ以上は「いけない」

「――ごめん」

 九郎は目を細めて茉莉花に言った。

 その黒い瞳は心なしか悲しげに見えた。