ヴァージン・スキャンダラス・エンゲージ〜天津の姫は世界と彼氏のために呪われた兄と禁忌の契約を結ぶ〜

 高校に進学する前まで茉莉花(まりか)と九郎(くろう)の身長は、ほぼ同じくらいだった。

 その後、茉莉花はそこで伸び止まり九郎は二十センチ近く伸びた。

 背が自分より高くなり顔つきが少し大人びてきても、中身は昔と全く変わらない。

 雑な言い方をすれば、体がデカくなっただけだ。

 茉莉花には双子の弟、咲也(さくや)がいる。
 血の繋がりはないが九郎は同じ年の「もう一人の弟」のようなものだ。

 生意気な弟と大人しい弟。

 茉莉花はこの二人と「三つ子」のように一緒に育って来た。
 
「咲也起こした?」

 フライパンを布巾で拭きながら、茉莉花は振り返って九郎に尋ねる。

「うん」
「コーヒー残ってるけど飲む?」
「いい、牛乳にする」
「パン焼いてもらっていい?咲也(あいつ)は食べないから二人分」
「わかっ――」

 突然九郎の声が途切れ、背後から何かに弾かれたように彼の体が流し台に立つ茉莉花の方に突き飛ばされた。

 完全に不意を突かれた様子の九郎は、前に立つ彼女の方に勢いを付けて倒れ込んで来る。

 茉莉花も何が起こったのかわからず、目を見開くことしか出来ない。

 手からフライパンが滑り、激しい音をたててシンクに落ちた。

 ――あんなデカいのがぶつかって来たら潰れる。
 
 茉莉花は身をかわそうとするも彼の大きな体がすぐ目の前まで迫り、その一歩が間に合わない。

 駄目だぶつかる――茉莉花は九郎に背を向けシンクに手を付き、目を閉じて身を屈めた。
 
 左側でシンクに何かがぶつかる音がした。

 縁に掛けていた手が鈍い衝撃を感じ取る。

 それ以外は、何も起こらなかった。

 ――九郎は?

 茉莉花は恐る恐る目を開き、音と衝撃を感じた左側を見る。

 間近に褐色の腕があった。

 どんな状況なのか、まだ把握しきれていない茉莉花はそれを確かめるようにゆっくりと顔を後ろに向ける。
 
 頭が掠めそうな距離に黒いTシャツに包まれた九郎の胸が迫っていた。

 呼吸に合わせ、熱を持って動く厚い胸。

 触れてはいないが鼻先に生暖かい体温を感じる程近い。

 九郎は茉莉花の左半身に覆い被さるような体勢を取っている。

 左手をシンクの縁に付いて踏み止まったので辛うじて衝突は免がれたようだ。

 彼女の体に触れないように支える左腕に力を入れ、息もかからないよう可能な限り上体を上げている。

「ごめん」
 
 九郎は顔を上げたまま、自分の胸元で身を屈めている茉莉花に言った。

 発した言葉は先程聞いたものと同じだが、頼りなさげなあの感じとは違う。

「静か」と言うよりも「冷静」で、研ぎ澄まされた刃(やいば)のような低いく鋭い声。
 
 目の前で波打って動く彼の喉仏を見て、茉莉花は息を飲んだ。
 
 内側から泡立った熱が湧くような感覚が体を走り、視線を落とし顔を逸らす。

 彼女の左手のすぐ隣にシンクの縁を掴む九郎の左手があった。

 それを見つめる彼女の瞳が揺れた。

 骨張った指と手の甲、太い手首、血管が浮き出ている厚い筋に覆われた腕。

 次々と目に飛び込んでくる彼を形作るパーツが、「空気」だ「犬」だと舐めた目で見ていた茉莉花に「男」だと揺さぶるようにわからせて来る。

 嫌悪感とは違う、恐れに似た感情が滲み胸が騒ぐ。

 先程までここにいた彼とは違う「見知らぬ男」が自分の体に迫っているようにも感じ、茉莉花は瞬きすら出来ないほど竦み上がっていた。

 九郎は身を起こし左手をシンクから離した。
 
 二人の体の距離が大きく開いて、茉莉花はそこでやっと息を吐くことが出来た。

 全身に走った妙な感覚を剥がすように彼女は腕をさすり、熱くなった頬を押さえた。

 ――驚いただけ。きっとそうだ。
 
 茉莉花は再びシンクに手を付き、そう自分に言い聞かせる。
 
「……いきなり蹴るなって」

 背後から少し困ったような九郎の声が聞こえた。

 茉莉花は流し台から体を離し、振り返ってドアの方を見る。

 そこには尻を摩る九郎と、彼に向き合って立つ咲也がいた。

 茉莉花と同じ栗色の柔らかい癖っ毛はボサボサに広がり、半分閉じた目の不機嫌そうな顰めっ面のまま咲也は肩をいからせ立っている。

 九郎は彼に背後から尻を蹴られ、茉莉花のところまで突き飛ばされたのだ。

 九郎とは違い、咲也は寝起きが悪い。

 夏休みとなると油断しきっており、放っておくと昼まで寝ている。

 さすがにだらけ過ぎだと茉莉花は九郎に咲也を起こすように頼んでいるが、生半可な起こし方では起きない。

 手荒な真似はしたくないがそうするしかないので、九郎は毎回「ごめん」と言いつつTシャツの襟首を掴んでベッドから引きずり出す。

 それでも起きない咲也を担いで部屋を出て、廊下に降ろしそのまま放置する。

 後は自分で起きてくれと九郎は先に一階に行く。

 枕もマットレスもない固い床の上ではいつまでも寝ていられないので、咲也は観念して渋々起き上がる。

 そうして今、台所まで降りてきたところだ。

「毎朝毎朝雑に起こしやがって……」

 咲也は座った目のまま九郎に向かって恨めしそうに言う。

「……ごめん」

 九郎は申し訳なさそうに軽く頭を下げる。

 ――やっぱ「犬」じゃん。

 茉莉花は九郎の丸まった背中を見てそう思った。

 そう思って、安堵した。