壁から二つ目の席

明生は、店内を所狭しと動き回る颯を眺めた。

 出会いは、一ヶ月前の雨の日。

 ずぶ濡れでやって来た迷いハムスターを、軽い気持ちで保護したのが運の尽きだった。

 あの日、クマを座らせていた席へ、ひょいとクマを退かして座り込んだソイツに怒れなかったのは、やけに人懐っこい人柄のせいなのだろうか。

 咥え煙草のまま、明生はぼんやりとあの日のことを思い出していた。

 カウンターで盛大なくしゃみをした颯に、店に来た客を風邪引かせたなんて言われたくなくて、

「坊主、とりあえず濡れた服を着替えろ。シャワー貸してやるから」

 と言うと、颯はパァッと笑顔を浮かべた。

「ありがとうございます!」

「じゃあ、シャワーをお借りする代わりに」

 そう言って、テーブルの上に置いていたテディベアを抱き上げる。

「コイツも一緒に入りますね」
「あ?」
「これ、長いこと洗ってないでしょう? ヤニとホコリで結構汚れてますよ」

 そう言うと、

「じゃあ、行こうか。くま子」

 と、クマのぬいぐるみに話しかけた。

 明生は、クマを抱えて住居スペースへ入ろうとした颯の前に、咄嗟に立ちはだかった。

 そのテディベアは、自分を捨てた恋人から贈られたものだった。

 元恋人が夜勤だった日。

『明生は一人寝が出来ないから』

 そう言って、

『僕だと思って』

 プレゼントされたクマのぬいぐるみだった。

 だから正直、誰にも触らせていなかった。

 勝手に抱き上げて席を移動させた時にも驚いたが、まさか今度は風呂に入れると言い出すとは思わず、さすがの明生も咄嗟に道を塞いでしまったのだ。

「あの?」

 不思議そうに首を傾げた颯に、

「……例えぬいぐるみでも、女は家に入れない主義でね」

 と呟く。

 颯は「ふぅ~ん」と言ったあと、

「じゃあ、クマ男で。それなら男だからセーフでしょう?」

 そう切り返してきた。

 その瞬間、カウンターに座っていた葉月が、

「ぶふっ!」

 と吹き出す声が、明生の背後から聞こえた。

 明生が眉間に皺を寄せると、

「え? まだ、何か問題があるの?」

 颯が首を傾げる。

「坊や、明生はそのクマを洗われたくないみたいよ?」

 葉月が明生越しに颯へ言うと、

「明生?」

 颯が首を傾げた。
 葉月は笑いながら、

「明生は、マスターの名前よ」

 と答える。

「あぁ! そうなんですね。……ってことは、マスターのニックネームはアッキーですね」

 そう呟いた颯に、固唾を飲んで見守っていた常連客が一斉に吹き出した。

 明生は額に青筋を浮かべ、

「坊主……。次、アッキーと呼んだら、追い出すぞ」

 と唸った。

 颯は不満げな顔で唇を尖らせた。