壁から二つ目の席

「いらっしゃいませ!」

 ここは喫茶店【Amber】。
 煙草のヤニと長い年月によって、セピア色へ変わった店内に、場違いなほど明るい声が響き渡る。

「颯ちゃん、おはよう」
「おはようございます! 西園寺のおっちゃん、いつもの?」
「うん、よろしくね」
「はい! あ、そこの段差、気を付けて下さいね」

 颯は当たり前のように手を差し出し、床とカーペットの小さな段差を越える足の悪い客を支えた。
 明生はその様子を、カウンターの向こう側から咥え煙草で眺めている。

 ──あの日。
 気まぐれで颯を住居スペースへ招き入れたのが運の尽きだった。

(野良猫ならぬ、迷いハムスターを飼う羽目になったな……)

 明生はそんなことを考えながら、洗い上げたカップを拭いて棚へと並べていた。

 若者の名前は、杉浦颯。
 二十三歳。
 去年大学を卒業し、輸入雑貨を扱う商社へ就職が決まっていたらしい。
 だが、入社目前の三月。
 会社は突然倒産した。
 どこを受けても上手くいかず、アルバイトをしながら腐りかけていた頃──ふと、叔父の言葉を思い出したと話していた。

 颯の叔父は、アンティーク食器が好きだった。
 気に入ったカップとソーサーを集めては、自分で珈琲を淹れて楽しんでいるらしい。
 以前、遊びに行った時、その姿を一度だけ目にしたことがある。
 その光景はまるで、大切な思い出に触れているようだった。
 

 颯の叔父は、小児科医だった。
 優しくて、人が良くて──いつも誰かの為に笑っているような人だった。

 ある日、その叔父が診ていた子供が亡くなった。

 その夜。
 静かな部屋で、叔父は珈琲を淹れていた。
 震える手でカップを持ったまま、まるで縋るように泣いていた姿を、颯は今でも覚えている。

 あの時、叔父は【Amber】の話をしてくれた。
 幸せそうに笑っていた横顔だけが、妙に印象に残っていた。

(そこへ行ったら、僕の人生も変わるかな)

 そんな漠然とした思いだった。
 そして颯は、思い立ったその日に最低限の荷物だけ鞄へ詰め込むと、家を飛び出したのだ。