壁から二つ目の席

「良いんですか!!」

 目を輝かせながら、若者が勢いよく身を乗り出した。
 その瞬間、明生は思わず肩透かしを食らう。
 二人のやり取りを固唾を飲んで見守っていた常連たちも、揃ってズルッと体勢を崩した。

「いやぁ~。実は、決まってた内定先が入社前に倒産しちゃって」

 若者は屈託なく笑いながら頭を掻く。

「しばらく就活してたんだけど、このご時世でしょう? 全然決まんなくてさ。だったら家で腐ってるより、前に親戚のおじさんから聞いたこの店に来てみようかなって」

 そこまで話したところで、ちょうど珈琲が目の前へ置かれた。
 ふわりと立ち上る湯気。

「うわぁ……」

 若者はパァッと顔を輝かせると、そっとカップへ両手を添えた。

「本当に……食器にこだわってるんですね」

 その言葉に、明生の手が止まる。

 この店で使っているのは、祖父の代から受け継いだアンティーク食器だ。
 ウェッジウッド。
 ロイヤルコペンハーゲン。
 ヘレンド──。

 気付く客は、ほとんどいない。

『この席で、この茶器で飲む珈琲が……僕は世界中で一番美味しいんだ』

 不意に蘇った声。
 儚く笑う横顔が脳裏を過ぎり、明生は新しい煙草を咥えた。

 カチリ、とライターの音が響く。

 ゆっくり煙を吐き出したところで、若者が不思議そうに首を傾げた。

「マスター、ヘビースモーカーですか?」
「あ?」
「さっき消したのに、また吸ってる」

 灰皿を指差しながら、若者はぷくっと頬を膨らませる。

(頬袋に餌を詰め込んだハムスターみてぇだな)

 そんなことを考えていると、若者は再びカップへ視線を落とした。
 一度、香りを楽しむように目を細め、それからゆっくり珈琲を口へ運ぶ。

「美味しい……」

 ぽつりと零れた声。

「そりゃどうも」

 明生はぶっきらぼうに返すと、咥え煙草のまま食器を洗い始めた。
 若者は、その様子を物珍しそうに見つめている。

 カチャカチャと食器同士が触れ合う音。
 店内へ静かに流れる、どこか懐かしいJAZZ。
 うっすらと漂う煙草の匂い。
 客たちの雑談。
 新聞を捲る音。

 若者は、ゆっくり目を閉じた。

 この店だけ、時間の流れが少し違う気がした。