壁から二つ目の席

「おっさん、今日は一緒に飯食ってよ!」

 朝一番、意を決したような顔で颯にそう言われ、明生は目を瞬かせた。

「はぁ?」

 と口から出そうになるのを飲み込み、

「毎日、朝飯一緒に食ってるだろうが?」

 と言うと、

「……そうだけど、違う! 賄いじゃなくて、ご飯だよ!」

 と地団駄を踏む颯に、明生は思わず笑みを零した。

 あの日、雨の中から迷い込んできたハムスターを拾い、一日だけ保護するつもりだった。

 しかし颯は、店で黄ばんだ従業員募集の紙を掴み、

「マスター、僕を雇ってよ!」

 と言い出した。

 明生一人で回すには、やや広い店内。
 求人を出してはみたものの、明生目当ての客が応募して来て、それを追い出してからというもの、それっきり応募者は現れなかった。

(まぁ……時給は最低賃金で、長時間立ちっぱなし。割に合わないわな)

 都内とはいえ、芸能人が通うわけでもなし。
 若い女性客は皆無に近く、年寄りやオヤジばかりが集まるこんな店で、敢えて働きたい奴など現れるわけがないと、明生は諦めていたのだ。

 だから颯に「働きたい」と言われた時も、〈変な奴〉程度の認識だった。

 颯は最初こそ、しおらしく明生を「マスター」と呼んでいたが、いつしか「おっさん」呼びになっていた。

 埃を被っていたクマのぬいぐるみを、煙草臭くなるたび一緒に風呂へ入れ、「クマ男」と名付けて毎晩抱いて眠る。

 二十歳を過ぎた男が、クマのぬいぐるみを抱いて寝るのはいかがなものかと思ったが、それより何より、颯は寝相が悪い。

 布団とクマ男をベッドから蹴落とし、明生のベッドのど真ん中で大の字になって眠る姿を見て、

(こいつは大物になるかもしれないな……)

 と思ったことを思い出し、明生は苦笑いを浮かべた。

 明生から見た颯は、人の懐に入るのが上手い奴だった。
 表面は柔和だが、なかなか人を信用しない常連客たちにも、すっかり可愛がられている。

 だからつい、明生は颯を放っておいても大丈夫なのだと思い込んでいた。

 その日、一緒に食事をすると、颯は嬉しそうに料理を並べ、食事中もずっと他愛のない話をしていた。

 ちょっと煙草を吸おうと、店に置き忘れた煙草を取りに席を立つ。

「おっさん、何処行くの?」

 颯が明生の背中のシャツを掴んだ。

「煙草を取りに行くんだよ」

 そう言って店へ下りる間も、颯は明生のシャツを掴んだまま、後ろをついて歩いた。

(なんか……カルガモの親になった気分だな)

 明生は苦笑いを浮かべ、颯の気が済むまで傍にいてやった。

 シャワーを浴びて浴室から出て来ると、颯はクマ男を抱いたまま、リビングで舟を漕いでいた。

「颯、寝るならベッド行け」

 声を掛けると、颯は目を擦りながら、

「今日は……何処にも行かないでよ……」

 そう言って、クマ男を連れてベッドへ潜り込む。
 明生は煙草をふかしながら、その姿を見ていた。

「おっさん……」
「あ?」
「居る?」
「居るだろうが……」
「……見えないもん」

 何故か今日は、甘えたさんモードらしい。

 明生は溜め息をつき、灰皿を手にベッドへ腰掛けた。

「これなら良いか?」
「うん……」

 ウトウトと眠る颯の頭を撫でた時、額が熱いことに気付いた。

「お前……熱があるんじゃねぇか?」
「あ? 言われたら、ちょっとダルいかも」
「ったく、仕方ねぇな」

 明生はそう言うと、薬箱から風邪薬を取り出した。
 使用期限を確認し、水の入ったコップと一緒に颯へ手渡す。

 さらに氷枕を作って、枕と交換した。

「明日、西園寺さんに診てもらえ」

 そう言われ、颯は素直に頷く。

「へへへっ。おっさんが優しい」

 そう呟き、明生の背中のシャツを掴んだまま眠りについた。

 明生は煙草をふかしながら、

「子守りは性に合わないんだけどな……」

 そう呟き、スヤスヤと寝息を立てる颯の頭を優しく撫でた。