壁から二つ目の席

「坊主、一見(いちげん)さんだよな?」

 咥え煙草のまま、【Amber】のマスター・舘野明生が呟いた。

「うん! 凄いや。やっぱり、お客さんの顔は全部覚えてるの?」

 まだあどけなさを残す瞳が、キラキラと明生を見つめる。
 歳の頃は十代後半だろうか。
 明生は改めて若者を眺めた。

 そう言えば──アイツと出会ったのも、このくらいの頃だったか。

 不意に蘇る記憶。
 まだ祖父が現役で店に立っていた頃。
 しとしとと雨が降る中、店先で雨宿りをしていた男へ声を掛けたのが始まりだった。

『入らねぇのか?』

 店の窓に取り付けられた小さな屋根の下で、ハンカチを使い、濡れた身体を拭いていた男。
 声を掛けられ、ビクリと肩を震わせて振り返る。

『ご迷惑でしたか?』

 整った顔を困ったように歪め、男は申し訳なさそうに眉を下げた。
 透き通るように白い肌。線の細い身体。漆黒の髪と瞳。
 若かった頃の明生は、一目で恋に堕ちた。

 一度店へ戻り、タオルを持って来る。

『無断で軒先をお借りしている上に、そこまでは……』

 遠慮する男の顔へ、明生はタオルを投げ付けた。
 そのまま腕を掴み、強引に店の中へ引きずり込む。

『あの……。全身ずぶ濡れなので、お店にご迷惑を……』

 戸惑う男の言葉で、店へ入って来なかった理由を悟った。
 明生は小さく舌打ちすると、そのまま住居スペースへ連れ込み、風呂場へ押し込む。

『そのままじゃ風邪引くぞ。着替え貸してやるから、服が乾くまでここに居ろ』

 普段なら、そんなお節介はしない。
 男は唖然とした顔で明生を見上げたあと、ふわりと儚げに笑った。

 その瞬間。
 コールタールのような欲望が、胸の奥でどろりと渦巻いた。
 だが、そんな感情を向けるには、男はあまりにも清楚で儚かった。

「珈琲下さい!」

 ハッと明生は意識を引き戻される。
 若者はニコニコと笑いながらメニューを広げ、元気な声を響かせていた。

 まるで向日葵のような男だ。

 過去の恋人を思い出していた自分に、明生は小さく苦笑した。

(溜まってんのかな……)

 最近、すっかりご無沙汰だった。
 首の後ろへ手を回しながら、明生は改めて若者を見る。

 クリーム色のパーカーに、白いTシャツ。
 細身のベージュのボトム。
 猫っ毛なのか、ふわふわとしていそうな茶色の髪は、雨でぺしゃりと潰れていた。

 明生は小さく息を吐くと、一度住居スペースへ引っ込む。
 そして戻って来るなり、大きなバスタオルを若者の顔へ放り投げた。