壁から二つ目の席

その人は、突然現れた。

『チリンチリン』

 店のドアに付けられた鈴が鳴り響く。

「いらっしゃいませ」

 笑顔で振り向いた颯の表情が、そのまま固まった。

 その様子に、何気なくドアへ視線を向けた常連客たちも息を飲む。

 珈琲を淹れていた明生は、常連たちより一拍遅れて顔を上げた。

「いらっしゃい……」

ドアの前に立つ人物を見た瞬間、
明生は息を飲んだ。

「明生……」

 そこに立っていたのは、十年以上も前に自分を捨て、女性と結婚した元恋人だった。

「……秀」

 思わず零れた言葉に、明生はハッとする。

「今更なんの用だ?」

 ぶっきらぼうに呟いた。

「偶然、この店のSNSを見付けてね。
そうしたら、甥っ子の寝姿の画像が上がっていたから……」

 相変わらず線が細く儚いその人物は、頬にかかった髪を耳へ掛けながら呟いた。

「甥っ子?」

 明生は呟きながら、店内で固まったまま動かない颯の背中を見た。

(成程……そういうことか……)

 明生は吸っていた煙草を揉み消し、新しい煙草へ火をつけた。

「明生……そんなにヘビースモーカーだった?」

 当たり前のように近付き、明生の煙草へ手を伸ばす元恋人の手を、明生は咄嗟に払った。

「気安く触るんじゃねぇ……」

 すると元恋人は漆黒の瞳を潤ませ、

「僕のことを……恨んでいるよね……」

 と呟いた。

 明生はすぐに店内を見回した。

「悪いが……個人的な話があるなら、後にしてくれないか? 今、営業中なんでね」

 そう言うと、固まったままの颯へ視線を向ける。

「颯、お前の叔父さんなんだろう? だったら、今日は休んで良いから案内してやれ」

 そして静かに続けた。

「悪いが、今日は颯も帰って来なくて良い」
「ちょっと、明生!」

 葉月の制止の声も聞かず、明生は住居スペースへ入って行った。

 ドアを閉め、居住スペースへ戻った明生は、ズルズルと床へ座り込んだ。

 気持ちを落ち着けようと、咥えていた煙草を携帯灰皿へ押し込もうとする。
 だが、手が震えて上手く入らない。

 吐き出した息が、熱い。

『明生……』

 もう……大丈夫だと思っていた。

 あの、空気を含んだ甘い声を聞いても、心は動かないと思っていた。

 ……でも、現実はどうだ?

 十年以上が経過しても、
 あの一瞬、触れてしまった手が、まだ熱い。

 一瞬で蘇った、甘く幸せだった日々。
 触れた肌の感触や温もり。
 囁き合った甘い言葉。

『パンッ!』

 両手で頬を挟むように叩き、深呼吸した。

 その時、ドアを叩く遠慮がちなノックの音が聞こえた。

「明生……二人とも、お店から出て行ったよ」

 葉月の声だった。

 明生はゆっくりと立ち上がり、もう一度深呼吸をする。
 そして、ゆっくりと店へ続くドアを開けた。