窓を、透明な子供がひとり、滑り降りていく。見えない道を選んでいるみたいに、迷いがなかった。けれど途中で、ふっと止まる。
となりから流れてきたものにぶつかって、少し形を変えた。くっついて、少しだけ大きくなって。
しばらくその場に留まってから、やがて一緒に滑り出す。さっきよりゆっくりと。でも、確かに進む。かと思えば、かくん、と止まる。また、別の流れにぶつかって、少し震えて。
——どうなるんだろう。
少女は、心の中で呟いた。空色の瞳がわずかに細められる。その奥で、きらめく光が揺れた。小さなぷっくりとした手が、そっと持ち上がって。窓に触れる直前で、それは止まった。何かを迷うように、ゆらり、ゆらりと揺れ動く。
そうしている間に、ふたつはすっと下へ降りて、そのまま窓の縁に溶けてしまった。その様子を見届けた少女は、少し肩を落とし、手を元に戻した。
「ゆりあ」
ふと、後ろから、柔らかい声が聞こえた。ゆりあは、ゆっくりと振り返る。白いフリルの裾が、微かに揺れて。見開かれた瞳に、柔らかく微笑む女性が映る。
「お母さん」
ゆりあはそう女性を呼んで、座っていた茶色い木の椅子から降りた。こつりと、小さな音が鳴る。女性は微笑んで、こちらにおいでと手招きをした。ゆりあは女性の元へまっすぐに歩いていって、彼女の桃色のスカートを掴み、そのまま顔を上げた。
「ねえ、まだ?」
そう言って、ゆりあはちらりとテーブルのほうを見る。
「いま、店主さんが作ってくれてるわ。もう少し、待っててね」
女性はそっと、ゆりあのふわふわとした金髪を撫でる。ゆりあは嬉しそうに笑って、その頭を女性の手にこすりつけた。女性は小さな声で笑うと、ゆりあの小さな体を抱きしめた。
「お母さん、ここ好き?」
「ええ、私のお気に入りのお店。思い出のお店よ」
女性の声は柔らかく、穏やかで、どこか懐かしそうだった。だけど、ゆりあにはまだ、想い出がわからない。お気に入りなのは、家にあるブランケットとぬいぐるみだ。お店がお気に入りで、想い出になる、というのが、よくわからなかった。
「そうなんだ」
だからゆりあはそう言って、首をかしげた。女性は、ゆりあから身体を離した。彼女は少し、寂しそうに眉を下げていた。
「ゆりあには、まだわからないかな」
女性は立ち上がり、ゆりあを抱き上げて、椅子に座らせてやる。高くなった視界には、一本のしっぽが映って。それに気を取られて、さっきのことはもう、頭になかった。
その尻尾が、空に浮いている。猫さんのしっぽなら、床の近くにあるはずなのに。ゆりあは再び、首を傾げた。
「お母さん、あれ、なに? 猫さん?」
「ん?」
女性はゆりあに言われて、そちらを見た。すると、その尻尾が動いて、一人の初老の男性が、姿を現した。黒い髪に、少しだけ白髪が混ざっている。だけど、ゆりあの目は、その頭の上に引き寄せられていた。
——猫さんの耳が、頭からはえている。
ゆりあは、目を見開いてその姿を見つめた。彼がこちらに歩いてくると、ジャガイモと卵の香りがした。そこで、トレーの上に三つのお皿があることに気づく。
男性はお皿をテーブルの上に置き、続けてカトラリーや取り皿も置いた。
「お待たせいたしました。ポトフとオムレツ、卵サンドです。オムレツは、ビーフソースでよろしかったでしょうか」
「はい。ありがとうございます、店主さん」
女性は微笑んでお礼を言い、ゆりあのために取り分け始めた。男性も笑って頷き、戻ろうとする。その時に、こちらをじっと見ている、ゆりあに気づいた。
男性は、ゆりあの座っている椅子の隣に歩いてきて、身をかがめて視線を合わせる。彼が微笑むと、尻尾がひゅんと揺れた。
「お客様、どうかなさいましたか?」
「……えっと」
ゆりあは口を開け閉めしていたが、やがて椅子から飛び降りて、女性の後ろに隠れてしまった。手を止めた女性は、困ったように笑う。それを受けて、男性は立ち上がって後ろを向いた。
「お客様、雨粒はお好きですか?」
彼の視線の先には、先ほどまでゆりあが一心に見つめていた、雨粒たちが踊る窓があった。
「……見るのは、好き」
ゆりあは、素直に答えた。すると、男性はふふっと笑みを零し、頷いた。そして、カウンターのほうへ歩いて行く。
「雨粒が好きなお客様には、こちらをプレゼントいたしましょう」
そう言って、カウンターの奥から取り出したのは、水色の何かが詰まっている瓶。ゆりあは女性の後ろに隠れるのをやめて、男性のほうを見る。彼はゆりあの前に歩いてくると、しゃがんだ。
男性は、瓶のふたを開ける。そうすると、雫の形をした飴玉が、たくさん詰まっているのが見えた。ゆりあの瞳がきらきらと、飴玉のように煌めく。
「わぁ……! かわいい!」
「そうでしょう。……お客様、手を開いていただけますか」
ゆりあは言われるままに、手をパッと開いた。女性が少し椅子を引いて、二人の様子をみつめる。男性はちらりと女性のほうを見て、彼女に笑いかけた。女性はゆっくりと瞬きをし、その口元に穏やかな微笑みを浮かべた。
男性は瓶の中から何個かあめを取り出して、ゆりあの手のひらに落とした。そして、悪戯っぽく笑う。
「お客様は、大好きな雨粒を手に入れられました。ほら、安心したらおなかが減ってきたのではありませんか?」
そう言われたら、ゆりあのおなかがきゅるると音を立てた。女性がくすっと、声を出して笑う。
「うん!」
ゆりあも笑うと、椅子に駆け戻って、よじ登る。男性はゆりあに続いて歩き、彼女の椅子を後ろからそっと押してやった。女性は、取り分けたものをゆりあの前に並べて、小さなスプーンとフォークもお皿に置く。
「ゆりあ、いただきますをして食べましょうね」
女性が言うと、ゆりあは頷いて、雫の飴玉を机の上に置いた。そして、その小さな手を、パチンと合わせる。
「「いただきます!」」
「どうぞ、めしあがれ」
男性はそう言って、静かにほほ笑んだ。
となりから流れてきたものにぶつかって、少し形を変えた。くっついて、少しだけ大きくなって。
しばらくその場に留まってから、やがて一緒に滑り出す。さっきよりゆっくりと。でも、確かに進む。かと思えば、かくん、と止まる。また、別の流れにぶつかって、少し震えて。
——どうなるんだろう。
少女は、心の中で呟いた。空色の瞳がわずかに細められる。その奥で、きらめく光が揺れた。小さなぷっくりとした手が、そっと持ち上がって。窓に触れる直前で、それは止まった。何かを迷うように、ゆらり、ゆらりと揺れ動く。
そうしている間に、ふたつはすっと下へ降りて、そのまま窓の縁に溶けてしまった。その様子を見届けた少女は、少し肩を落とし、手を元に戻した。
「ゆりあ」
ふと、後ろから、柔らかい声が聞こえた。ゆりあは、ゆっくりと振り返る。白いフリルの裾が、微かに揺れて。見開かれた瞳に、柔らかく微笑む女性が映る。
「お母さん」
ゆりあはそう女性を呼んで、座っていた茶色い木の椅子から降りた。こつりと、小さな音が鳴る。女性は微笑んで、こちらにおいでと手招きをした。ゆりあは女性の元へまっすぐに歩いていって、彼女の桃色のスカートを掴み、そのまま顔を上げた。
「ねえ、まだ?」
そう言って、ゆりあはちらりとテーブルのほうを見る。
「いま、店主さんが作ってくれてるわ。もう少し、待っててね」
女性はそっと、ゆりあのふわふわとした金髪を撫でる。ゆりあは嬉しそうに笑って、その頭を女性の手にこすりつけた。女性は小さな声で笑うと、ゆりあの小さな体を抱きしめた。
「お母さん、ここ好き?」
「ええ、私のお気に入りのお店。思い出のお店よ」
女性の声は柔らかく、穏やかで、どこか懐かしそうだった。だけど、ゆりあにはまだ、想い出がわからない。お気に入りなのは、家にあるブランケットとぬいぐるみだ。お店がお気に入りで、想い出になる、というのが、よくわからなかった。
「そうなんだ」
だからゆりあはそう言って、首をかしげた。女性は、ゆりあから身体を離した。彼女は少し、寂しそうに眉を下げていた。
「ゆりあには、まだわからないかな」
女性は立ち上がり、ゆりあを抱き上げて、椅子に座らせてやる。高くなった視界には、一本のしっぽが映って。それに気を取られて、さっきのことはもう、頭になかった。
その尻尾が、空に浮いている。猫さんのしっぽなら、床の近くにあるはずなのに。ゆりあは再び、首を傾げた。
「お母さん、あれ、なに? 猫さん?」
「ん?」
女性はゆりあに言われて、そちらを見た。すると、その尻尾が動いて、一人の初老の男性が、姿を現した。黒い髪に、少しだけ白髪が混ざっている。だけど、ゆりあの目は、その頭の上に引き寄せられていた。
——猫さんの耳が、頭からはえている。
ゆりあは、目を見開いてその姿を見つめた。彼がこちらに歩いてくると、ジャガイモと卵の香りがした。そこで、トレーの上に三つのお皿があることに気づく。
男性はお皿をテーブルの上に置き、続けてカトラリーや取り皿も置いた。
「お待たせいたしました。ポトフとオムレツ、卵サンドです。オムレツは、ビーフソースでよろしかったでしょうか」
「はい。ありがとうございます、店主さん」
女性は微笑んでお礼を言い、ゆりあのために取り分け始めた。男性も笑って頷き、戻ろうとする。その時に、こちらをじっと見ている、ゆりあに気づいた。
男性は、ゆりあの座っている椅子の隣に歩いてきて、身をかがめて視線を合わせる。彼が微笑むと、尻尾がひゅんと揺れた。
「お客様、どうかなさいましたか?」
「……えっと」
ゆりあは口を開け閉めしていたが、やがて椅子から飛び降りて、女性の後ろに隠れてしまった。手を止めた女性は、困ったように笑う。それを受けて、男性は立ち上がって後ろを向いた。
「お客様、雨粒はお好きですか?」
彼の視線の先には、先ほどまでゆりあが一心に見つめていた、雨粒たちが踊る窓があった。
「……見るのは、好き」
ゆりあは、素直に答えた。すると、男性はふふっと笑みを零し、頷いた。そして、カウンターのほうへ歩いて行く。
「雨粒が好きなお客様には、こちらをプレゼントいたしましょう」
そう言って、カウンターの奥から取り出したのは、水色の何かが詰まっている瓶。ゆりあは女性の後ろに隠れるのをやめて、男性のほうを見る。彼はゆりあの前に歩いてくると、しゃがんだ。
男性は、瓶のふたを開ける。そうすると、雫の形をした飴玉が、たくさん詰まっているのが見えた。ゆりあの瞳がきらきらと、飴玉のように煌めく。
「わぁ……! かわいい!」
「そうでしょう。……お客様、手を開いていただけますか」
ゆりあは言われるままに、手をパッと開いた。女性が少し椅子を引いて、二人の様子をみつめる。男性はちらりと女性のほうを見て、彼女に笑いかけた。女性はゆっくりと瞬きをし、その口元に穏やかな微笑みを浮かべた。
男性は瓶の中から何個かあめを取り出して、ゆりあの手のひらに落とした。そして、悪戯っぽく笑う。
「お客様は、大好きな雨粒を手に入れられました。ほら、安心したらおなかが減ってきたのではありませんか?」
そう言われたら、ゆりあのおなかがきゅるると音を立てた。女性がくすっと、声を出して笑う。
「うん!」
ゆりあも笑うと、椅子に駆け戻って、よじ登る。男性はゆりあに続いて歩き、彼女の椅子を後ろからそっと押してやった。女性は、取り分けたものをゆりあの前に並べて、小さなスプーンとフォークもお皿に置く。
「ゆりあ、いただきますをして食べましょうね」
女性が言うと、ゆりあは頷いて、雫の飴玉を机の上に置いた。そして、その小さな手を、パチンと合わせる。
「「いただきます!」」
「どうぞ、めしあがれ」
男性はそう言って、静かにほほ笑んだ。



