いつまで経っても、髪染めは苦手だ。
寝宮の羅漢床――木彫りの長椅子の上で、ルイは長いため息を吐き出した。十二歳になったばかりの幼主のその足は、床にわずかに届かずぶらぶらと浮いている。
キンザ国――この国の玉座に就いて、まず初めに行われることは染髪の儀である。顎の辺りで切り揃えられた髪を、時間をかけ、最も高貴な色とされる紫に染め上げる。
父である先王が崩御し、即位して早四年になる。しかし髪染めに使われる生薬の独特なにおいと、終日動きを制限されてしまうことがどうにも性に合わない。
背後に立つ侍女長のマキノが、刷毛の動きを止めた。
「陛下、俯かないでください。液が目に入りますよ」
「ああ……悪い」指摘されて頭を上げる。
「ずっと同じ体勢でおつらいですね。もう少しで終わりますから」
刷毛の動きが再開する。彼女の右手には重い火傷があり、薬指と小指が癒合してしまっている。それでも手先の器用さでマキノの右に出るものはいない。
キンザ国において、君主以外のものが紫の髪色にすることは許されない。昔、痴れ者が真似て処刑されたこともあるという。別にどうでもいいのに、とルイは思う。自分以外の人間の髪が、同じ紫でも気にならない。誰でも好きな色にすればいい――。しかしそんなことを語ろうものなら、側近のザイエンに「王としての自覚が足りませぬ」と苦言を呈されるだろう。
「今日は蒸し暑いですねえ」
マキノが白髪の生え際に滲んだ汗を拭ったとき、寝宮の扉の奥から恭しい声が飛んできた。
「陛下、ザイエンにございます。御前に参上してもよろしいでしょうか」
「よい」
頭を動かさないよう、ルイは声だけで応じる。重厚な黒檀の扉が押し開けられ、ひょろりと背の高い初老の男が進み出てくる。高麗人参のような細長い顎髭が揺れた。
ザイエンは片膝を床につけ、直角に頭を下げてから口火を切った。
「面白い話を持って参りました」
「お前がそう言って持ってくる話が、面白かった試しはない」
「まあ、そうおっしゃらずに。本日の話は一味違いますよ」
紫紺の官服を翻すように、ザイエンは胸を張る。
「市井で行われた剣術の大会で、並み居る猛者を退け、わずか十二歳の少年が優勝いたしました。陛下の御年と同じにございます」
「へえ」
ルイは整った眉をゆるりと上げた。確かに、ザイエンにしてはなかなか興味深い話を持ってきた。
「しかもその少年、一度も自らの木刀を抜かずに優勝したとか……わけが分かりませぬ。まるでとんちのような話でございますな」
剣を抜かずに――? ますます好奇心が刺激された。
市井の剣術大会であれば、王都に仕える腕の立つ武官などは出場していないだろう。しかし金鉱で栄えたこの島国は、筋骨隆々の金鉱夫たちで溢れている。年端もいかぬ十二歳の少年が、その力自慢たちに次々と苦杯をなめさせたというのだ。しかも、一度も剣を振らずに。
「ザイエン」
つい身を乗り出すと、「ああ陛下、動かないでください」と背後から再びマキノに嗜められる。
「その者を連れてこい。会ってみたい」
その言葉にザイエンは目元を曇らせた。
「身寄りのない孤児院の子どもにございます。陛下のお目汚しに――」
「先代の御代のような、古くさい考え方を私に押し付けるなといつも言っている」
ぴしゃりと老臣を叱る。
「どのような身分の者でも、キンザの国民であることに違いはない」
これは失礼いたしました、と恐縮するザイエンを睨めつける。
八歳で即位したとき、右も左もわからぬなかでも、一つだけ家臣たちに命じたことがある。
――国民を、特に女や子どもを傷つけるな。
それは物理的な意味だけではない。どんな身分の者であれ、身体的にも精神的にも、可能な限り等しく守られるべきだと考えていた。
ルイが元服を迎える十六まで、政の実権はザイエンをはじめとした複数の文官が握っている。だがそれは君主の意向を無視して良いという意味では決してない。王が元服を迎えた後に痛い目を見ずに済むよう、家臣たちは常にルイの顔色を窺っている。
目を爛々とさせ、ルイは本題に戻る。
「それほどの腕前なら、その者を私の剣術の師として迎えてもよいな」
ザイエンが泡を食って言い返してくる。
「な、何をおっしゃいます。剣術のご指南には、いつも優秀な武官であるガクが――」
ガクか……と大柄な体躯を持つその武官を思い浮かべる。
「あのヒグマのような体つきの男が剣を振るって、それに威力があるのは当然だ。興味深いのは、その少年が子どもながらに力を得た方法だ」
それに正直なところ、ガクの高圧的な話し方に苦手意識もあった。その口調には常に隠しきれない不敬の念がうっすらと滲んでいる。ルイの母親には、特殊な出自と事情がある。それを知る者の一部は、「陛下の血の半分は不浄」という意識を持っている。ガクもその一人だった。
「し……しかし」
歯切れの悪いザイエンに進言したのはマキノだ。
「良いではないですか、ザイエン様。陛下は、こうと決めたら曲げないお方です。それにわたくしも、その少年にはぜひお会いしてみたい」
ザイエンは目を伏せ、観念したように顎髭の先に触れた。
寝宮の羅漢床――木彫りの長椅子の上で、ルイは長いため息を吐き出した。十二歳になったばかりの幼主のその足は、床にわずかに届かずぶらぶらと浮いている。
キンザ国――この国の玉座に就いて、まず初めに行われることは染髪の儀である。顎の辺りで切り揃えられた髪を、時間をかけ、最も高貴な色とされる紫に染め上げる。
父である先王が崩御し、即位して早四年になる。しかし髪染めに使われる生薬の独特なにおいと、終日動きを制限されてしまうことがどうにも性に合わない。
背後に立つ侍女長のマキノが、刷毛の動きを止めた。
「陛下、俯かないでください。液が目に入りますよ」
「ああ……悪い」指摘されて頭を上げる。
「ずっと同じ体勢でおつらいですね。もう少しで終わりますから」
刷毛の動きが再開する。彼女の右手には重い火傷があり、薬指と小指が癒合してしまっている。それでも手先の器用さでマキノの右に出るものはいない。
キンザ国において、君主以外のものが紫の髪色にすることは許されない。昔、痴れ者が真似て処刑されたこともあるという。別にどうでもいいのに、とルイは思う。自分以外の人間の髪が、同じ紫でも気にならない。誰でも好きな色にすればいい――。しかしそんなことを語ろうものなら、側近のザイエンに「王としての自覚が足りませぬ」と苦言を呈されるだろう。
「今日は蒸し暑いですねえ」
マキノが白髪の生え際に滲んだ汗を拭ったとき、寝宮の扉の奥から恭しい声が飛んできた。
「陛下、ザイエンにございます。御前に参上してもよろしいでしょうか」
「よい」
頭を動かさないよう、ルイは声だけで応じる。重厚な黒檀の扉が押し開けられ、ひょろりと背の高い初老の男が進み出てくる。高麗人参のような細長い顎髭が揺れた。
ザイエンは片膝を床につけ、直角に頭を下げてから口火を切った。
「面白い話を持って参りました」
「お前がそう言って持ってくる話が、面白かった試しはない」
「まあ、そうおっしゃらずに。本日の話は一味違いますよ」
紫紺の官服を翻すように、ザイエンは胸を張る。
「市井で行われた剣術の大会で、並み居る猛者を退け、わずか十二歳の少年が優勝いたしました。陛下の御年と同じにございます」
「へえ」
ルイは整った眉をゆるりと上げた。確かに、ザイエンにしてはなかなか興味深い話を持ってきた。
「しかもその少年、一度も自らの木刀を抜かずに優勝したとか……わけが分かりませぬ。まるでとんちのような話でございますな」
剣を抜かずに――? ますます好奇心が刺激された。
市井の剣術大会であれば、王都に仕える腕の立つ武官などは出場していないだろう。しかし金鉱で栄えたこの島国は、筋骨隆々の金鉱夫たちで溢れている。年端もいかぬ十二歳の少年が、その力自慢たちに次々と苦杯をなめさせたというのだ。しかも、一度も剣を振らずに。
「ザイエン」
つい身を乗り出すと、「ああ陛下、動かないでください」と背後から再びマキノに嗜められる。
「その者を連れてこい。会ってみたい」
その言葉にザイエンは目元を曇らせた。
「身寄りのない孤児院の子どもにございます。陛下のお目汚しに――」
「先代の御代のような、古くさい考え方を私に押し付けるなといつも言っている」
ぴしゃりと老臣を叱る。
「どのような身分の者でも、キンザの国民であることに違いはない」
これは失礼いたしました、と恐縮するザイエンを睨めつける。
八歳で即位したとき、右も左もわからぬなかでも、一つだけ家臣たちに命じたことがある。
――国民を、特に女や子どもを傷つけるな。
それは物理的な意味だけではない。どんな身分の者であれ、身体的にも精神的にも、可能な限り等しく守られるべきだと考えていた。
ルイが元服を迎える十六まで、政の実権はザイエンをはじめとした複数の文官が握っている。だがそれは君主の意向を無視して良いという意味では決してない。王が元服を迎えた後に痛い目を見ずに済むよう、家臣たちは常にルイの顔色を窺っている。
目を爛々とさせ、ルイは本題に戻る。
「それほどの腕前なら、その者を私の剣術の師として迎えてもよいな」
ザイエンが泡を食って言い返してくる。
「な、何をおっしゃいます。剣術のご指南には、いつも優秀な武官であるガクが――」
ガクか……と大柄な体躯を持つその武官を思い浮かべる。
「あのヒグマのような体つきの男が剣を振るって、それに威力があるのは当然だ。興味深いのは、その少年が子どもながらに力を得た方法だ」
それに正直なところ、ガクの高圧的な話し方に苦手意識もあった。その口調には常に隠しきれない不敬の念がうっすらと滲んでいる。ルイの母親には、特殊な出自と事情がある。それを知る者の一部は、「陛下の血の半分は不浄」という意識を持っている。ガクもその一人だった。
「し……しかし」
歯切れの悪いザイエンに進言したのはマキノだ。
「良いではないですか、ザイエン様。陛下は、こうと決めたら曲げないお方です。それにわたくしも、その少年にはぜひお会いしてみたい」
ザイエンは目を伏せ、観念したように顎髭の先に触れた。


