あれから十年――思い返せばあっという間だった。
撮りためた写真の中に写っているのは美しい風景と見慣れた自分の顔ばかりで響さんの写真は一枚もなかった。忘れられない初恋をいつまでも引きずるようで嫌だったから、それはそれでよかったと思った。
大学を卒業して日本の会社に就職した私は、その四年後に付き合って二年になる人と結婚した。響さんの記憶から逃げるように、私は自分の家庭を築こうとした。
でも、私の心の奥底にはずっと、響さんが居座っていたのだと思う。三年に及ぶ結婚生活は上手くいかず、夫は浮気を繰り返し、私は半年前に離婚届に判を押した。子供はいない。
夫の浮気は夫だけのせいではない、きっと私にも非があった。私は無意識のうちに響さんとの思い出から逃げるために夫を選んだ。そこに深い愛情はなかったかもしれない。彼はそのことに気がついたのだ。後ろめたさのある私も慰謝料の請求はしなかった。
離婚から半年――響さんの言葉が、私の心のどこかに残っていたから――とは思いたくない。あのなんの確証もない口約束に縋ってきたわけじゃない。
ただ、あの夕日が見たくなったのだ。湖上にたたずむ城を守るように落ちていく赤い日を。
羽田を飛び立って12時間、パリで乗り続いでハノーファー空港に着いた。
街は十年前よりも些か綺麗で洗練されたような気がする。それでも、石畳の趣ある美しい姿は変わらない。
明日の午後3時――私は一人シュヴェリーン城を見に行く。きっと響さんは来ない。絶対に来ない。彼はもう彼の人生を歩いているのだ。私が、一度は他の人と家庭を築こうとしたように、彼の中でも十年の時が過ぎている。
あの部屋での生活は、所詮一時の情――異国の情緒が見せた幻想だ。だから、私はただあの美しい夕日を見に行くだけ。そう言い聞かせて、私はシュヴェリーンの街の宿に逃げ込んだ。
その夜は眠れなかった。
来ないとはわかっていても、どこかで縋る心があったのだろう。3時に彼が来ないことで落胆するかもしれないと思うと、心が落ち着かなかった。
それでも、いつしか眠気が襲ってきて、明け方ようやく眠りに就いたのだと思う。朝目が覚めると10時近かった。
私は遅い朝食を摂ろうとしたが、何も食べる気にならない。ミルクをたっぷり注いだコーヒーだけを胃の中に流し込んで、シュヴェリーン城までの道のりを散歩することにした。
十年前に響さんと一緒に歩き回った街――石畳の路も入ったお店もそのまま変わらない。可愛い雑貨の置いてあるお土産物屋さん、響さんがいつも靴を買うという靴屋さん、ソーセージが美味しいと何度も通ったレストラン。一緒にビールを飲んだ画廊のようなバー。あの日、エリアスが私に桜さんのことを教えてくれたカフェも変わらぬ佇まいで店を開いている。
今にも買い物を終えた響さんがお店から出て来るんじゃないか――そんな気すらしてしまう。私はぐっと奥歯を噛みしめた。
時間だけが十年分巻き戻ったかのような気がした。自分だけが、年を取ってしまったかのような感覚がする。お店のガラス窓に映る私は、十年前のような幼さの残る学生ではなく、くたびれた三十過ぎの女だった。
湖上に浮かぶシュヴェリーン城。その少し上に、太陽が姿を見せている。十年前と寸分変わらぬ景色は、今の私にとって残酷なものに感じられた。私が生きてきた十年間は、きっとこの城にとっては取るに足らない時間なのだ。
もうすぐ3時、このまま時が止まってしまえばいいと思う。永遠に3時が来なければ、私は響さんが来ないことに落胆することなんてない。夢は夢のまま、綺麗な約束のままにしておける。
澄んだ湖を眺めていると、このまま飛び込んでしまおうか――そんな気さえ起きてくる。冬の湖はさぞかし冷たいだろう。気温は氷点下なのだ。水が凍っていないのが不思議なくらいに頬が痛い。
私は時計に目をやった。長針が12を示そうとしている。かち、かち、と秒針の音が聞こえてくるような静寂に包まれた。そして、針と数字がぴたっと重なり合った。思わず、体が前のめりの傾く。
「待て」
そう、幻聴がした。記憶の中から呼び起した懐かしい声はやはり、あの日と寸分変わらない。
次の瞬間、私は背中からぎゅっと抱きかかえられていた。突然の出来事に小さく悲鳴が出そうになる。これは、私が生み出した幻覚だろうか。
「どうして――」
「約束しただろう、十年前に」
私はその場で泣きだした。十年前と一緒だ。違うのは互いの姿だろう。涙に滲んだ視界の中に映る響さんは、私が年をとったのと同じ分だけ時を重ねていた。時を刻みこんだ響さんは、ぐっと大人の男になっていた。影を背負っているような雰囲気――少しミステリアスな雰囲気は変わらない。
「なにから話そうか?」
「なにも――」
言葉なんて、語ることなんて、なにもない。ここに響さんがいることが、全てであり、たった一つの真実なのだ。私は響さんと再会を果たした。
そのことが、嬉しくてたまらない。自然と涙があふれてくる。
「君が帰国してから、君のことばかり考えていた」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない。エリアスを覚えてるか? 君が帰ってからあいつに言われたんだ。凛は従妹なんかじゃないんだろうって……あいつ、勘だけはいいんだよ。俺に、このまま送り出していいのかってさんざん言われた」
「桜さんは……」
「知っていたのか」
「エリアスが教えてくれた」
「エリアスのやつ、余計なことを。桜は俺の過去だ。凛に会って、桜との思い出は過去になった。でも、君のことは過去にできなかった。今日ここに来てくれたってことは、君もそうだって思っていいのかな?」
響さんの言葉に頷くと、私はその大きな胸の中にすっぽりと納まった。外気は氷点下だというのに、響さんの腕の中はあまりに暖かい。
「君が日本に帰る日、どうして君に曖昧な約束をしたのかって自分を責めたよ。君のことが好きだってわかっていたのに──本当に意気地なしだった。振られるのが怖くて言えなかったんだ。あの約束は俺自身のための約束だった」
響さんは私を抱き締めながら十年前のことを語り出した。私の知らない彼の心──
「俺はずっと約束に縋っていた。もしも今日君がここにこなれれば、俺は飛び降りていたかもしれないな。君が来ないくらいなら、死んだ方がマシだと思ったと思う」
「やめて、縁起でもない」
「でも君は来た。この十年に何があったのかは聞かない。ここに君が来たことが全てだ。そして君の答えだと思ってる」
十年の時を埋めるのに、言葉は必要なかった。
夕日が湖に落ちていく。赤い夕陽は、この十年の隔たりをすっかり溶かしてくれるようだ。
「今日はこの町に泊っていくんだろう?」
「ホテルに一週間宿泊予定」
「キャンセルしなよ、前の下宿は引き払ったけど、今はもっといい家に住んでる」
「迷惑じゃない?」
「迷惑だと思うかい?」
響さんはそう言って強引に宿をキャンセルしてしまった。新しい住まいは以前の部屋よりも部屋数が少なくて広い。食器類はひとり分しかなくで、ベッドはシングルサイズだった。ベッドサイドに桜さんの写真はない。
「就職してから全部処分したんだ。君の写真を撮らなかったことを後悔したけれど、写真を見たらもっと苦しくなる気がしたからよかった。君との記憶から逃れるように俺は仕事に打ち込んだよ」
「私も一緒、響さんの記憶から逃れるのに必死だった」
「でも、結局忘れられなくてさ。今日を心待ちにするようになった、なんかストーカー臭いだろ? 引くなよ」
「引かない、私も一緒だったから」
十年間、私も約束に縋っていた。
荷物を片づけた終えた私は、響さんと並んでキッチンに立つ。外食も考えたけれど、ふたりだけで食事がしたいと思った。十年前と同じメニューを並べる。
「懐かしいな、凛は料理上手だ。和食が時々食べたくなるけど……」
「自分じゃ作らないんでしょう?」
私と響さんは笑い合った。こんなに幸せな日は、十年ぶりだった。
撮りためた写真の中に写っているのは美しい風景と見慣れた自分の顔ばかりで響さんの写真は一枚もなかった。忘れられない初恋をいつまでも引きずるようで嫌だったから、それはそれでよかったと思った。
大学を卒業して日本の会社に就職した私は、その四年後に付き合って二年になる人と結婚した。響さんの記憶から逃げるように、私は自分の家庭を築こうとした。
でも、私の心の奥底にはずっと、響さんが居座っていたのだと思う。三年に及ぶ結婚生活は上手くいかず、夫は浮気を繰り返し、私は半年前に離婚届に判を押した。子供はいない。
夫の浮気は夫だけのせいではない、きっと私にも非があった。私は無意識のうちに響さんとの思い出から逃げるために夫を選んだ。そこに深い愛情はなかったかもしれない。彼はそのことに気がついたのだ。後ろめたさのある私も慰謝料の請求はしなかった。
離婚から半年――響さんの言葉が、私の心のどこかに残っていたから――とは思いたくない。あのなんの確証もない口約束に縋ってきたわけじゃない。
ただ、あの夕日が見たくなったのだ。湖上にたたずむ城を守るように落ちていく赤い日を。
羽田を飛び立って12時間、パリで乗り続いでハノーファー空港に着いた。
街は十年前よりも些か綺麗で洗練されたような気がする。それでも、石畳の趣ある美しい姿は変わらない。
明日の午後3時――私は一人シュヴェリーン城を見に行く。きっと響さんは来ない。絶対に来ない。彼はもう彼の人生を歩いているのだ。私が、一度は他の人と家庭を築こうとしたように、彼の中でも十年の時が過ぎている。
あの部屋での生活は、所詮一時の情――異国の情緒が見せた幻想だ。だから、私はただあの美しい夕日を見に行くだけ。そう言い聞かせて、私はシュヴェリーンの街の宿に逃げ込んだ。
その夜は眠れなかった。
来ないとはわかっていても、どこかで縋る心があったのだろう。3時に彼が来ないことで落胆するかもしれないと思うと、心が落ち着かなかった。
それでも、いつしか眠気が襲ってきて、明け方ようやく眠りに就いたのだと思う。朝目が覚めると10時近かった。
私は遅い朝食を摂ろうとしたが、何も食べる気にならない。ミルクをたっぷり注いだコーヒーだけを胃の中に流し込んで、シュヴェリーン城までの道のりを散歩することにした。
十年前に響さんと一緒に歩き回った街――石畳の路も入ったお店もそのまま変わらない。可愛い雑貨の置いてあるお土産物屋さん、響さんがいつも靴を買うという靴屋さん、ソーセージが美味しいと何度も通ったレストラン。一緒にビールを飲んだ画廊のようなバー。あの日、エリアスが私に桜さんのことを教えてくれたカフェも変わらぬ佇まいで店を開いている。
今にも買い物を終えた響さんがお店から出て来るんじゃないか――そんな気すらしてしまう。私はぐっと奥歯を噛みしめた。
時間だけが十年分巻き戻ったかのような気がした。自分だけが、年を取ってしまったかのような感覚がする。お店のガラス窓に映る私は、十年前のような幼さの残る学生ではなく、くたびれた三十過ぎの女だった。
湖上に浮かぶシュヴェリーン城。その少し上に、太陽が姿を見せている。十年前と寸分変わらぬ景色は、今の私にとって残酷なものに感じられた。私が生きてきた十年間は、きっとこの城にとっては取るに足らない時間なのだ。
もうすぐ3時、このまま時が止まってしまえばいいと思う。永遠に3時が来なければ、私は響さんが来ないことに落胆することなんてない。夢は夢のまま、綺麗な約束のままにしておける。
澄んだ湖を眺めていると、このまま飛び込んでしまおうか――そんな気さえ起きてくる。冬の湖はさぞかし冷たいだろう。気温は氷点下なのだ。水が凍っていないのが不思議なくらいに頬が痛い。
私は時計に目をやった。長針が12を示そうとしている。かち、かち、と秒針の音が聞こえてくるような静寂に包まれた。そして、針と数字がぴたっと重なり合った。思わず、体が前のめりの傾く。
「待て」
そう、幻聴がした。記憶の中から呼び起した懐かしい声はやはり、あの日と寸分変わらない。
次の瞬間、私は背中からぎゅっと抱きかかえられていた。突然の出来事に小さく悲鳴が出そうになる。これは、私が生み出した幻覚だろうか。
「どうして――」
「約束しただろう、十年前に」
私はその場で泣きだした。十年前と一緒だ。違うのは互いの姿だろう。涙に滲んだ視界の中に映る響さんは、私が年をとったのと同じ分だけ時を重ねていた。時を刻みこんだ響さんは、ぐっと大人の男になっていた。影を背負っているような雰囲気――少しミステリアスな雰囲気は変わらない。
「なにから話そうか?」
「なにも――」
言葉なんて、語ることなんて、なにもない。ここに響さんがいることが、全てであり、たった一つの真実なのだ。私は響さんと再会を果たした。
そのことが、嬉しくてたまらない。自然と涙があふれてくる。
「君が帰国してから、君のことばかり考えていた」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない。エリアスを覚えてるか? 君が帰ってからあいつに言われたんだ。凛は従妹なんかじゃないんだろうって……あいつ、勘だけはいいんだよ。俺に、このまま送り出していいのかってさんざん言われた」
「桜さんは……」
「知っていたのか」
「エリアスが教えてくれた」
「エリアスのやつ、余計なことを。桜は俺の過去だ。凛に会って、桜との思い出は過去になった。でも、君のことは過去にできなかった。今日ここに来てくれたってことは、君もそうだって思っていいのかな?」
響さんの言葉に頷くと、私はその大きな胸の中にすっぽりと納まった。外気は氷点下だというのに、響さんの腕の中はあまりに暖かい。
「君が日本に帰る日、どうして君に曖昧な約束をしたのかって自分を責めたよ。君のことが好きだってわかっていたのに──本当に意気地なしだった。振られるのが怖くて言えなかったんだ。あの約束は俺自身のための約束だった」
響さんは私を抱き締めながら十年前のことを語り出した。私の知らない彼の心──
「俺はずっと約束に縋っていた。もしも今日君がここにこなれれば、俺は飛び降りていたかもしれないな。君が来ないくらいなら、死んだ方がマシだと思ったと思う」
「やめて、縁起でもない」
「でも君は来た。この十年に何があったのかは聞かない。ここに君が来たことが全てだ。そして君の答えだと思ってる」
十年の時を埋めるのに、言葉は必要なかった。
夕日が湖に落ちていく。赤い夕陽は、この十年の隔たりをすっかり溶かしてくれるようだ。
「今日はこの町に泊っていくんだろう?」
「ホテルに一週間宿泊予定」
「キャンセルしなよ、前の下宿は引き払ったけど、今はもっといい家に住んでる」
「迷惑じゃない?」
「迷惑だと思うかい?」
響さんはそう言って強引に宿をキャンセルしてしまった。新しい住まいは以前の部屋よりも部屋数が少なくて広い。食器類はひとり分しかなくで、ベッドはシングルサイズだった。ベッドサイドに桜さんの写真はない。
「就職してから全部処分したんだ。君の写真を撮らなかったことを後悔したけれど、写真を見たらもっと苦しくなる気がしたからよかった。君との記憶から逃れるように俺は仕事に打ち込んだよ」
「私も一緒、響さんの記憶から逃れるのに必死だった」
「でも、結局忘れられなくてさ。今日を心待ちにするようになった、なんかストーカー臭いだろ? 引くなよ」
「引かない、私も一緒だったから」
十年間、私も約束に縋っていた。
荷物を片づけた終えた私は、響さんと並んでキッチンに立つ。外食も考えたけれど、ふたりだけで食事がしたいと思った。十年前と同じメニューを並べる。
「懐かしいな、凛は料理上手だ。和食が時々食べたくなるけど……」
「自分じゃ作らないんでしょう?」
私と響さんは笑い合った。こんなに幸せな日は、十年ぶりだった。



