古城の約束

 かび臭いベッドでひとり眠っていた私は、いつしか響さんの隣りで眠るようになっていた。それは別に特別な感情からじゃなくて、単に部屋の暖房が壊れたからなんだけど。私はひとりでドキドキしていたけれど、響さんはとても紳士で寝相もびっくりするくらい良くて、隣で眠る私に指一本触れることはなかった。
 それでも、私はなにか間違いがあってほしいと心の何処かで願うくらいに響さんに惹かれていた。

「凛(りん)、明日帰るの?」

 響さんに背中を向けて横たわっていると、半身を持ち上げた彼はいつもの優しい声でそう囁いてきた。この六週間、彼は学校の合間にエリアスから車を借りては色々な場所を案内してくれた。

 それももう終わりだ。私の帰国は明日に迫っている。それは、響さんとの別れ。夢の時間は終わって、私は現実に帰る。

「うん、学校があるから」

「就職は日本?」

「たぶんそうします」

「そっか」

 響さんはそういうと大きな手で私の頭をなでる。長い指に髪が絡まってわずかに痛みが走った。まるで、私の髪が意思を持っているみたいだ。まだ離れたくないと駄々をこねている。

「響さん」

 私はたまらなくなって響さんに抱きついた。恋人のようになりたくて。ぐっと涙をこらえて響さんの大きな胸に顔をうずめる。だけど響さんは私をなだめるように、静かに額にキスを落とした。
 優しい兄が、駄々をこねる妹をなだめるように。

「明日、俺は送ってやれないんだ、ごめんね」

「わかってる、今まで本当にありがとう。長いこと居座っちゃってごめんなさい。凍え死なずにすんだのは響さんのおかげ。私の命の恩人」

 だめ、それ以上のことは、言っちゃいけない。

「髪を切ってくれたからおあいこだ」

「そんなことでいいの?」

「いいよ」

 私はもう知っている。狭い部屋に似つかわしくないダブルベッド。そのベッドサイドに伏せてある写真立には、綺麗な女の人と肩を寄せ合う響さんが映っていること。彼女が、自らこの世を去ったこと。響さんは、いなくなった恋人のことを、忘れることなんてできていない。

 私は代わりにはなれない。端から相手にされていない。もしも桜さんの代わりになれたとしても、なりたくない。私は私でありたい。
 私も、響さんも――互いに、一時的に心の隙間を埋めただけの存在なのだ。

 すれ違った長針と短針は離れていくものだ。いつまでも重なったままではいられない。重なり合うのはわずかな時間。

「凛――」

 響さんはぼんやりと暗闇を見つめながら呟いた。その表情は闇に包まれて良く見えない。

「もしも十年後に凛がひとりで、他に想う相手もいなかったら、出会った日の同じ時刻──12月21日の3時に、シュヴェリーン城に会にいおいで」

「なにそれ、どういうこと?」

「さあ、もうお休み」

 響さんはそう言ったきり黙り込んで私を抱きしめた。胸が、ぐっと掴まれたような気がして苦しい。そんな苦しみと倦怠感を抱えて、私は最後の夜を過ごした。

 響さんはズルい、初めから、私が入り込む余地などないのに。ずっと、彼女のことを想っているくせに――

 私の横で眠る響さんは、時々うなされたように桜さんの名前を呟く。響さんの中で、無意識に入れ替わってしまっているのかもしれない。私と、失った彼女が──
 そのことが、私にはあまりに虚しく感じられた。

 響さんは連絡先を教えてくれなかった。きっと、日本に帰ったらもう二度と会うことはない。私たちをつなぐものは、昨夜の響さんの口約束だけになった。
 十年も先の、なんの確証もない約束。

 翌朝、起きたら響さんはもう家の中に居なかった。私は閉めた鍵をからっぽの新聞受けの中に入れる。カランと鳴る音が、響さんの代わりに私に別れを告げた。
 私はひとり、シュヴェリーンの街を離れた。