古城の約束

「前髪、切りましょうか?」

 鬱陶しそうに髪を掻き上げる響さんを見て、思い切って提案してみる。少しでも恩返しがしたかったから。明日は久しぶりに大学に行くらしい。響さんはあまりに自分のことに無頓着だから、少しくらい身なりに気を使ってもいいと思う。

「いいの? ちゃんと切れる?」

「切れますよ、任せてください。私、弟の髪の毛を切ってあげてたんですから」

「それ、何歳くらいの話?」

「あ、その目、疑ってますね? 大丈夫、 ちゃんと格好良くしてあげますから」

 響さんはそのままで十分格好いいのだけれど。少し疑いながらも響さんは私に前髪を切らせてくれた。自分で言い出しておきながら、艶のある黒髪に触れると驚くくらいドキドキした。心臓の音で響さんの声が聞こえなくなるくらい。

「へぇ、上手なもんだ」

「大丈夫だったでしょう?」

「ありがとう、助かったよ」

 前髪が少し短くなると、こげ茶色の瞳が顕になる。その目に自分が映っているのが照れくさくて、私は思わず視線を外した。
 どうしよう、顔が熱い。

「今日はどこに行こうか?」

「響さんの行きつけの本屋さんとカフェ」

「そんな近場でいいの?」

「はい、今日はそんな気分なんです」

 響さんの日常が知りたい。彼はこの町で、どんなふうに暮らしてるんだろう。

 一日が瞬く間に過ぎてしまう。どうしよう、まだまだここにいたい。

 昨日は素敵な一日だった。今日、響さんは学校の研究室に行くらしい。私は一人で駅に向かっていた。丸一日使ってミュンヘンの方に行ってみようかなぁと国内線に乗るつもりでいる。

 小さなショルダーにスマホと財布だけを入れて、響さんの下宿を出ると、「Hi!」と肩を叩かれた。

 振り返ると若い男の人が立っている。誰だっけ?――少し考えて、響さんに車を貸してくれている大学の同級生だということを思いだした。確か名前はエリアスという。

「ドイツ語は話せる?」

「少しだけ」

「英語は?」

「話せます」

 答えると、エリアスは流暢な英語を話し始めた。少し話がしたいと言うので近くの喫茶店に入る。彼はコーヒーをふたつ頼んだ、どうやら奢ってくれるつもりらしい。私は素直にご馳走になる。こういう時は遠慮する方が失礼なのだと響さんに教えられた。

「君が来てからヒビキは元気になった」

 響さんは見ず知らずの私を部屋に住まわせるのはどうかと思ったのだろう。エリアスには私のことを日本から遊びに来た従妹だと説明したようだ。

「サクラが死んだことは聞いてるだろう?」

 私は一瞬目を見開いてから、曖昧に頷く。桜さんというのは私が住まわせてもらっている部屋にいた人だろう。つまり、響さんの恋人であった人だ。彼女がどうなったのか、明確には聞いてはいない。響さんはいなくなったと言っていたけれど、まさか亡くなっていたなんて……思いもしなかった。

「サクラのこと、何かほかに聞いてる?」

「いえ……」

 私が首を横に振るとエリアスは声のトーンを落とした。君には話しておくよって、誰にも言えない秘密を共有するようにエリアスは顔を寄せて耳元で囁いてくる。
 
「一年前にサクラは研究データを盗んだって疑いをかけられてね――学校の校舎から飛び降りた。ヒビキの目の前でね……あれは、悲惨な事件だった」

「だから……」

 響さんがシュヴェリーン城で慌てて私を止めようとした理由が分かったような気がした。私は飛び降りようなんて全く思っていない。でも、響さんには私の背中が桜さんの姿と重なって見えたのかもしれない。

「実際、サクラは黒だった。彼女はヒビキのデータを盗み、無断で学会にあげていた。ヒビキは優秀だからね、サクラは奨学金を狙っていたから焦っていたんだと思う。論文は賞を取り、一時は雑誌への掲載も決まっていたんだ。でも、盗作の疑いがかけられて全て白紙になった。勿論奨学金もね。学校は事件そのものを有耶無耶にしたよ、学生の自殺だけならそう珍しい話じゃない。サクラの死は少しだけ話題になったけれど、みんなすぐに忘れた」

 でも、響さんは、まだ桜さんのことを想っている――データを盗まれたことよりも、彼女が亡くなったことをずっと悲しんでいるように思えた。そんなの、当たり前だ。ふたりは恋人で、響さんはあんなにも優しい人なんだから。

「ヒビキは後悔していた、データなんてどうでも良かったのにって――死んだ魚みたいな目をしてたよ。でも君が来てから元気になった。やっぱり家族が来ると嬉しいんだろうな、もうしばらくこっちにいるんだろう? どうかヒビキを頼むよ、誰かが見張っていないと、あいつは今にも死にそうだ。悪かったね、こんな話をして」

「いえ、ありがとうございます。あ、あの、車も」

「君の旅が充実したものになったらのならよかったよ」

 そう言い残すとチャーミングにウインクをしてエリアスは私を送り出してくれた。ミュンヘンへの長旅をする気分がすっかりそがれてしまった。

 気が付くと足はシュヴェリナー湖を目指している。シュヴェリーン城が見たくなったのかもしれない。まるで、自分の体を誰か他の人が操縦しているかのように意思のないところで動いているみたい。

 太陽は高い位置にある。明るい光に照らされたシュヴェリーン城はやはり美しかった。

 何を、感傷に浸っているのだ。始めからわかっていることではないか。響さんは、今も彼女のことを愛している――
 私の入る余地など、初めからなかったではないか。

 響さんは、桜さんを失って、ぽっかりと心に穴が開いていたのだと思う。私は母国を遠く離れた場所で出会った同郷の人に絆されたのだと思う。異国の地で浮き足立っていたというのもあったのかもしれない。
 六週間という期間は、私の心を揺らすには十分な時間だった。