古城の約束

 彼は響(ひびき)と名乗った。それが上の名前なのか、下の名前なのかは教えてくれなかったし、私も聞かなかった。背が高くて、髪の毛をほんの少しだけ長くのばしている。前髪が目の半分くらいまでを隠してしまっていた。

 響さんは大学院生で、その日はたまたま散歩をしていて、シュヴェリーン城に夕日を見に行っていたらしい。私は幸運だった。年齢は詳しく聞いていないけれど、多分二つか三つ上だと思う。

 下宿はシュヴェリーンの街の中にある三階建の建物の一番上の階で、少し前までルームシェアをしていたというのだ。一緒に住んでいた人がいなくなったから、部屋が空いているのだという。響さんは詳しく言わなかったけれど、一緒に住んでいた人は女の人なんだと思った。明確な根拠はない、女の勘。

「そっちの部屋を使っていい。ベッドしかないけど」

 そう言われた部屋から、なんだかいい匂いがしたから、女の人が使っていたのだろうと思った。

 ふかふかのベッドには薄い掛布団が一枚だけ置いてあって、家具の類は何も置いてない。私は部屋の中に大きなバックパックを降ろした。肩の荷が下りた――言葉通りそう体感した。これで、今夜の宿の心配はない。

「ありがとうございます、最高の宿です」

「それならよかった、少し休むかい?」

「はい、お言葉に甘えます」

 響さんが部屋から出て行ったのでベッドの上に大の字になって転がると、わずかにかびた香りがした。長い間使われていないベッドなのかもしれない。干してから使いたいなぁなんて思っていると響さんが隣のリビングから顔をのぞかせた。

「夕飯、食べる?」

「食べます! いえ、一緒に作ります。いいえ、むしろ、宿のお礼に私が作ります」

 お腹はペコペコだ。休んでいていいという響さんを強引に押しのけて、私はキッチンに入り込む。大学は地元を離れて一人暮らしだ、料理は嫌いではない。

「へぇ、懐かしいもんつくるなぁ」

 あるものにざっと目を通してから、きんぴらと卵焼き、豚肉の照り焼きを作って食卓に並べる。冷蔵庫の中に醤油があって助かった。

「和食が恋しくなってしまって。ここにお味噌汁があったら最高ですよね」

「わかるなぁ、ときどき食いたくなる。でも自分じゃ作んないんだよな。ひとりだとついつい外食が増える」

 食卓にあった二つの椅子。置いてある食器からも一緒に住んでいたのは女性だと確信を持った。可愛らしい桜柄のマグカップが食器棚の後ろで寂しそうにしている。
 なんて、そんなことを気にしてどうするのだ。

「美味い、久しぶりに美味いもん食ったなぁ」

「大袈裟ですよ」

「普段から料理する?」

「両親共働きだから」

「なるほど、感動だ。ドイツに来てからどの辺を回った?」

 食事をしながら、どんなところを旅してきたのかと響さんが聞いてくるものだから、私は今まで周った都市の感想を述べていく。石畳の街は、家の形もお伽の国のようにメルヘンな三角屋根。どこも趣があって、魅力的だった。

 特に城の景色は最高だ。

「へぇ、俺はもう見慣れちゃったな、来た当初はそんなこと思ってたかもな」

「こっちに住んで長いんですか?」

「大学に編入して院にすすんでるからもう四年くらい経つかな。君はいつまでいるの?」

「あと六週間の滞在予定です」

「明日からの宿はどうなってる?」

 どきり――そう問われて私は答えに困った。実を言うと、今日宿泊する予定だった宿に一週間は滞在する予定だったのだ。そのあとはまだ予約を入れていない。インターネットでは見つけられず、現地で取るつもりだった。

「ありません」

 沈黙に耐えかねて私は正直に答えた。すると響さんはしょうがないなぁといった顔で笑って

「宿が見つかるまでここにいたらいい、宿代は飯を作ること」

 なんて、言ってくれた。これは吊り橋効果というものだろうか? 困り果てていた私はそっと助け舟を出してくれた響さんに、あっさりと心を動かされてしまったのである。

 いや、それだけじゃない。響さんは不思議な魅力のある人だった。異国の地で同郷の人に出会ったという安心感も強かったのだろう。結局、私は他の宿など取らず、響さんとシュヴェリーンの町で一緒に過ごすことにしたのである。

 響さんも追い出したりする素振りはなかった。

「ちょうど俺も今日からしばらく学校が休みなんだ」

 響さんは朝食に私が作ったベーコンエッグを頬張りながらそんなことを言ってきた。そう言えば暦上、今日はクリスマスだ。響さんの所属している研究室も年始まで休みになるらしい。大学の友達から借りて車を出してくれると言うので甘えることにした。リッチなお友達がいたものだと感心して言うと、親の車だと響さんは言っていた。
 響さんがドイツでの運転免許を持っていることにも驚いた。やっぱり、長く滞在するとなると、車が運転できる方が便利なのだろう。

「西側はけっこうまわったんだろう? 東側に連れていってあげるよ」

 そう言ってシュヴェリーンからベルリン方面へ向かう町々を案内して回ってくれた。

 自分一人でガイドブックとスマホを片手に歩き回っていたときはどうしても勝手がわからず、迷子になったり、調べることに追われたり、移動に時間がかかったりした。

 それも旅の醍醐味というもので、楽しく、自分が成長したような気もしていたけれど、響さんと一緒にいると、もっともっと楽しくて、ドイツについてより詳しくなったような錯覚さえ起こした。新しい景色に出会いながらも、ずっとここに住んでいたような安心感がある。

 観光ガイドには載らないような景色や、お店──響さんによって紐解かれる現地の人の生活は、私の目にあまりに新鮮に写った。

 時間が瞬く間に過ぎていってしまう。流れ落ちる時の砂の止め方を教えて欲しい──もっと、響さんと一緒に過ごしたい。