古城の約束


 羽田を飛び立って24時間、二回の乗継を経て、私は風船のように膨らんだ期待とともにハノーファー空港に降り立った。荷物をぱんぱんに詰め込んだ大きなバックパックを背負い、バイトでため込んだ全財産とスマホを握りしめて生まれて初めてドイツの地に足を踏み入れたのである。

 大学の冬休みをフルに利用した一人旅。これから私の二ヶ月弱に及ぶドイツ放浪記が始まるのだ。覚えたてのわずかなドイツ語で見ず知らずのハノーファーの地を歩く。胸の中ははちきれんばかりの期待とわずかな不安で満たされていた。

 街の雰囲気、道行く人の姿――そのどれもにわくわくと心を躍らせながら、まずは予約を入れていた宿に入る。

 それからは公共交通機関、時にヒッチハイクで西ドイツを観光していった。クリスマスマーケットで賑わう町は、昼と夜で様相を変えるのでいつ外に出ても楽しい。ついつい緩みそうになる財布のひもはしっかりと締めてから、一日中石畳の上を歩き回った。

 楽しいばかりの最初の一週間が瞬く間に過ぎていく。きらきらととしたイルミネーションに彩られた町は、幼いころに読んだ絵本の世界そのものだった。

 順調だった旅に問題が起こったのは北のフィレンツェと呼ばれるシュヴェリーンという小さな都市でのことだ。

 滞在して二週間くらい経つとドイツの街にも慣れ、旅の当初から私の原動力となっていた高揚感は少し落ち着きを見せ始めた。今まあ出一週間以上の旅に出たことのない私は、驚くことにほんの少しだけホームシックにかかり始めた。さらに悪いことには、トラブルで予約を入れていたはずの宿がとれていないことが分かった。当日は空きがないというのだ、今から他の場所を急いで探さなくてはいけない。スマホの電池も残り少なくなり、慌てて電源が取れるカフェに駆け込む。明るい笑顔の人々が通りすぎるカフェの一席で、私は途方に暮れていた。

 クリスマスマーケットで町は賑やかなお祭り騒ぎだ。それなのに、私の心は不安で一杯になっている。空いていそうな宿に片っ端から電話をかけてみたけれど、断られるばかりだ。

 野宿なんてできる季節ではない。万が一にでも宿を見つけることが出来なければ、朝になる頃には凍死してしまうだろう。不安が泉のように湧いては私の中を満たし、そして溢れていく。

 あふれ出る不安を抑え込むように、足を動かす。電話がだめなら飛び込んでみるしかない。だけど、観光客の多いこの季節、宿は思うように見つからない。町中を歩き回り、すっかり疲弊してしまった私は、町の賑わいから逃げたくてマーケットで賑わう通りに背を向ける。どんどん進むと、やがて美しいシュヴェリナー湖が見えてきた。湖に浮かぶお伽の城──日の高いうちに一度見に来たが、この時間はまた違った姿を見せている。

 心の中には暗雲が立ち込めているというのに、目の前に広がる景色はあまりに美しくて、私は思わず息を呑んだ。

 緑に包まれたお伽の城は、光を浴びて影を作る。この城は、ここから悠久の歴史を眺めてきたのだろう。

 時刻は午後3時。

 澄んだ湖面に城が浮かんでいるように見えた。その後ろに太陽が落ちて行こうとしている。冬のドイツの夜は長い、もうすぐ、日が落ちる――

 城に沈む太陽に手を引かれるように、私は身を乗り出していた。その時だ――

「待て!」

 低い声がした。それが、聞き覚えのある母国語であることに私は気付くことができなかった。
 
 次の瞬間、私は背中から大きな腕にぎゅっと抱きかかえられる。突然の出来事に小さく悲鳴が出そうになるが、声が出ない。あまりに驚くと、人間というものは声など出せないのだということを身をもって知った。

「死ぬなら俺の目の前じゃなく、他の場所にしてくれ」

 焦ったような低い声がして私は振り向いた。その人が日本語を話しているのだということをようやく理解する。久しぶりに触れた母国語に思わず涙がわっとあふれ出した。

 私が突然泣き出したものだから、彼は困ったようにため息をついたと思う。でも、子供のように泣く私をそのままには出来なかったのだろう。私が泣き止むまでそばにいてくれた。

「いったいなにがあったの?」

 ようやく泣き止んだ私に、彼は優しい声をかけてくれる。慣れ親しんだ母国語の問いかけに、私は思わず抱え込んでいた問題を全部吐き出してしまった。

 自分は日本の学生で、冬休みを利用して二ヶ月の一人旅に来ていること。急に日本が恋しくなったこと。そして、今夜の宿が無いこと――

 すべてを聞き終えた彼は呆れたような表情で私を見た。

「なんだ、投身自殺でもするつもりかと思った」

「死ぬつもりなんてありません、でもこのまま野宿になったら朝には冷たくなっているかも……死にたくないよぉ……」

 私が捨てられた子犬のように見えたのだろう。日は陰り、大気はどんどん熱を失っていく。彼は小さくため息をついてから

「下宿の部屋が一個空いてる、来るかい?」

 そう、手を差し伸べてくれた。