Four sides, for the sides.

「カンニングしています!」
 背後から聞こえてきた声が、私の背中に照準を合わせたみたいに響いてきた。
 あまりの動揺に、身体の輪郭がぼやけて空気に溶け込んでいくような錯覚を覚えた。
 もちろん、後ろを振り返ることはできなかった。声を発したのが間違いなく朝比奈さんだということはすぐに分かったけれど、振り返ってしまえば私がカンニングしたことを認めてしまうことになると思った。この期に及んでまだ逃げ道を探していた私は、クラスメイトたちの視線が一心にこちらに注がれているのを感じていた。声に反応して後ろを振り返らないことが、かえって自分の罪を認めていることになっているのだと遅れて気がついた。
 呼吸の音と脈打つ心臓の音が同期した。こめかみ辺りに流れる血管の音が聞こえてくる。
 恐る恐る顔を上げた。担任の先生と目が合った。ここで目を逸らしてしまえば自分が犯人だと自白するのと同じだと分かっていながら、どうしても目を背けてしまった。
「カンニング、したのか?」
 ほとんど無意識のうちに、私は先生の確認に頷いていた。
 全てが怖かった。先生の視線も、クラスメイトの視線も。
 私は視線を下に向けたまま肩を竦めていた。先生が私を職員室へと連れ出した。
 職員室で、私は椅子に座る先生と向き合っていた。他の先生たちは、テスト中であるはずの私がここにいることに不穏なものを感じながら一瞥をくれて通り過ぎて行く。次第に私の不正が色々な人に知れ渡っていくことが怖くて、私はきゅっとスカートの端を握った。
「本当にカンニングだったのか?」
 今更言い訳しようにも、すっかり喉がとじてしまっていて声が出なかった。それに、言い逃れするにしても朝比奈さんの証言と照らし合わせられてしまうことになる。私には朝比奈さんの目を誤魔化して口で勝てる未来が見えなかった。そもそも、自分がやったことに対する後ろめたさが、これ以上自分を惨めにしてしまうことの方が怖くて苦しいと訴えていた。
 辛うじて私が頷くのを見ると、先生は言葉を選びながら私に言った。
「やっちゃいけないことだっていうのは、分かっているな?」
「……はい」
「理由がなんであれ、自分を苦しめることにしかならない」
「…………はい。すみません」
 先生は困ったように頭を掻きながら、受話器の方に視線を向けた。
 私の心臓が胸を突き破る勢いで跳ねた。
 当然、学校側は私の不正行為を保護者に伝えなくてはならない。私の家は母子家庭だから、必然的にお母さんが電話に出ることになる。
 世界で一番、私が不正したことを知られたくない相手だった。
「保護者に電話することになる」
「…………」
「今の時間帯は、電話に出られるか?」
「……分かりません」
 私の声は分かりやすく震えていた。
 私が悪いはずなのに、先生が気の毒そうな顔をして受話器に延ばした手を止めた。
「辛いとは思うが、仕方がないことなんだ」
 先生の言葉に何も返せないでいると、先生は溜息を吐いてから受話器を耳に当てた。
「あ、お忙しいところ失礼致します。わたくし……」
 お母さんの携帯に繋がったらしく、私は動揺で倒れそうになった。先生がお母さんと話している内容を全く聞き取ることができないまま佇んでいた。
 やがて先生がお母さんと話し終えると、慎重に言葉を選びながら私に言った。
「今からお母さんが学校に来てくれるそうだ」
「…………はい」
「校長室で話をすることになる。校長先生も交えて」
「…………」
「今後のことに向き合うための大切な話だ。答えるのが辛いこともあるとは思うが、できる限りこちらからの質問には答えていってほしい」
 先生はゆっくりと立ち上がると、
「じゃあ、先生も準備してくる。平塚は先に校長室に向かっていてくれ」
慌てふためいた様子で動き始めた。
 気を失いそうになりながら、私は校長室に向かった。
 まさか自分が校長室で話をすることになるとは思ってもみなかった。今まで目立った功績も悪行も残してこなかったから、平穏に高校生活を終えることになると信じて疑わなかった。
 不正をした私が座っていいのかも判断できず、ソファを眺めながら入口の近くで立っていた。それから大人たちが部屋に入って来るまでの間は、今までの人生で一番長い時間に感じた。
 ドアが開く音がすると、ラフな格好から正装になった先生と、校長先生が入って来た。私がすぐ側で立っていたことに二人が驚いた。座るように促されてソファに腰掛けると、目を赤くしたお母さんが肩身を狭そうにして入って来た。何度も何度も二人に頭を下げる姿を見て、自分の感情が恐怖から悲しみに変わった。
 お母さんは赤くなった目を私に向けてから、私の隣に座った。私の向かいに先生が、お母さんの向かいに校長先生が座った。
 そこから長い時間話し合いをした。けれど、自宅に着いた頃にはその時の記憶は一切なくなっていた。防衛本能で、人は辛い記憶を抹消する。これは実際に体験したことがあるから分かる。
 玄関のドアを閉めた瞬間、お母さんが泣き崩れた。
 壊れてしまったみたいに声を上げて泣くお母さん。お母さんをこんなふうにしてしまったのは、紛れもない私だった。そのはずなのに、どこか他人事のように思ってしまう自分がいた。
 自分は悪人ではないと思い込んで生きてきた。目に見えないけれど、目の前には空気が漂っていると思い込んでいるのと同じくらい、私には無縁なものだと芯から思っていた。その感覚がまだ私の中には残っていた。だから、お母さんをこんなにも悲しませる原因が私なのだと呑み込むことができないでいた。
 いつの間にか白髪が増えたお母さんの髪を眺めていると、お母さんが私を見上げた。すでに目が腫れていて、見たことのないくらい悲痛に打ちひしがれる表情をしていた。
「ごめんなさい」
 どうして、お母さんが謝るのか理解できなかった。
「私が、静香にプレッシャーをかけすぎた」
 地面に額を擦りつけながら、お母さんが縮こまっていた。
「もう、無理に勉強しなくていい。退塾の手続きもお母さんがするから。だから静香は、自分のしたいように生きて」
 自分のしたいように、というお母さんの言葉はあまりピンとこなかった。
 瑕疵がつけばそこから崩壊してしまう宝石を扱うみたいに、お母さんは私を抱きしめた。昔はよく抱きしめてくれていたお母さんの背中に手を回すと、随分と小さくなってしまっている気がした。そこで私は、ようやく取り乱しながら涙を流した。ここにきて私の感情が追いついた。私が泣き止むまでの間、お母さんはずっと私のことを抱きしめ続けてくれた。
 その日から一週間、停学を言い渡された私は何もしないまま過ごした。
お父さんが浮気をして家を出てから女手一つで育ててくれたお母さんは、私の進路に不自由がないように身を粉にして働いてくれていた。長い下積み時代を経て、今では中間管理職として勤務している。お母さんは生きていくことの厳しさを知っていた。
 小学生時代は、ある程度勉強すれば学校のテストで満点を取ることは難しくなかった。花丸の答案用紙を持ち帰る度に、お母さんは褒めてくれた。そのことが嬉しくて、私は自ら進んで勉強していた。
 状況が変わったのは高学年の時にお父さんが浮気したことだった。子どもがいながら他の女性に現を抜かしたことが許せず、お母さんは離婚に踏み切った。私はお母さんに引き取られ、二人で暮らしていくことになった。共働きで支えていた生活を、お母さんが一人で担うことになった。お母さんは朝から晩まで働き詰めるようになり、なんとなく事情を理解していた私は家事を担当するようになった。お母さんと会話する機会は各段に減った。会話をする時があっても、お母さんが笑うことはなくなった。日々やつれていくお母さんは、それまで口出ししてこなかった勉強について厳しい姿勢を持ち始めた。
「静香。今は学歴社会だから、勉強して良い大学に行きなさい。そうすれば、お母さんみたいに苦労しなくて済むから。来週から塾に通いなさい。お金なら大丈夫だから」
 元々、私はお母さんの笑顔が見たくて勉強に力を入れ始めた。私が満点を取ると、どうやらお母さんは喜ぶらしい。そのモチベーションだけで勉強をしていた。だから、お母さんの提案には希望を見出すことができた。私が良い点数を取れば、お母さんの笑顔を取り戻すことができると思った。
 ただ、お母さんは私が思っていたような表情をしてくれることはなくなった。特に、中学生になってからお母さんは厳しく私の成績を確認するようになった。テストで九割を切った時には、お母さんから怒鳴られることが多くなった。
「どうしてこんな問題で落としちゃうの! お母さんですら分かる問題なのに!」
 中学生になってから算数が数学に変わり、私にとって極端に苦手な科目になった。他の科目は安定して九割以上取ることができていたけれど、数学だけは七割前後が平均点になっていた。テスト結果で毎回怒られるのは、ほとんど数学が原因だった。
「こんなにも数学の出来が悪いのも不思議ね。今度、知能検査をしに行きましょう」
 いつしかお母さんとは勉強の話以外しなくなっていた。それどころか、娘の脳にうんざりしている様子だった。私がお母さんの実子だったら、もっと出来が良かったのかもしれない。
 休みの日に二時間ほど使って知能検査を終えた。それからしばらくして検査結果を受け取ると、知覚推理という項目の数値が大きく平均値を下回っていることが判明した。どうやらこの項目は数学力と直結する能力らしく、特に図形分野に適正がないことが分かった。一方でその他の項目は平均をそれなりに上回っていた。私もお母さんも、検査内容には納得することができた。そして、お母さんは私が努力を怠っているわけではないと分かってくれたみたいだった。
「数学が苦手なのは分かったわ。でも、高校入試では五科目の勝負だから、数学以外は必ず九割以上取ること。そして、数学は苦手な分、なんとかなるかもしれない分野を人一倍努力しなさい」
 お母さんの言葉に、私は命拾いした思いだった。これで、多少数学の点数が悪くても怒られずに済む。そう思った私は、勉強する意義がすっかり取り替えられていることに気づいていなかった。元々は、お母さんを喜ばせたくて勉強していたはずだった。それなのに、いつの間にかお母さんに怒られたくなくて勉強するようになっていた。
 お母さんは数学を強化する名目で、数学特化の個人塾に私を通わせるようになった。もちろん、今まで通っていた塾にも通いつつ。けれど、数学の成績が思うように伸びず、お母さんはもどかしそうに苦い顔をした。答案を見た限りでは私が精一杯努力したことが読み取れたのだろう。それ以上私を叱責したところで、何も変わらないことを察していたのだと思う。
 学年が上がる毎に、私は定期考査の時期が迫ってくるのを恐れるようになった。難易度が上がってきて、ついに数学以外の科目でも九割を切ってしまうことが増えた。当然、お母さんは私を問い詰めた。勉強を疎かにしたのではないか。遊びにかまけていたのではないか。
 部活にも入っていなかった私は、自分なりに塾での勉強に集中しているつもりだった。それでも結果が伴わなくなってきたことで、私は家にいる時間全てを勉強に費やすようになった。お母さんに怒られたくない。ただその一心で。
 受験生の時には、これまでにないくらい勉強漬けの日々を送った。お母さんからのプレッシャーは相変わらずあったけれど、猛勉強の甲斐があって数学以外の成績は良好だった。県内トップの公立高校を志望校にしていたけれど、模試では本番までB判定を死守することができた。塾の先生のアドバイスもあって、私が苦手とする数学の図形問題は、そもそもが上位勢すら頭を抱えるように作成された問題だから、飛ばして自分が確実に得点できるところに時間を割くという戦法を実践するようになった。そのおかげで数学での失点を最小限に抑えることができて、他の科目の足を引っ張ることはなかった。
 志望校に合格できた時、びっくりするくらい安心した。お母さんが数年ぶりに笑顔を見せてくれた。それだけで、中学時代を勉強に捧げてきた甲斐があったと思えた。
 努力が報われて喜びに浸れていたのは、高校に入学する間までだった。高校に入学すると、県内トップ校のレベルについていけず、数学はおろか自分が得意としていた文系科目でも失点が目立つようになった。特に数学に関しては欠点を取るのが当たり前になっていた。高校進学に伴って塾も変えていたから、私は家に帰るのが憂鬱になっていた。受験の時に見せてくれた笑顔は幻だったのかもしれないと思うほど、お母さんは中学生の時以上に私の成績に言及した。
「本番はここからだからね。大学にさえ合格すれば、就職で苦労することもない。高校での勉強は中学生の時以上に頑張りなさい」
 意識が遠のきそうになる言葉だった。この高校に入るまでに費やした中学生時代を超える努力が、私には全く想像できなかった。日が経つ毎に、精神が追い詰められていった。今までは血の滲むような努力でカバーできていたことが、努力ではどうしようもない才能の壁に嘲笑われるように圧し潰されていく。
 この高校には、私みたいに背伸びして入学した人たちもいるはずだった。けれど、仲良くなった友達はどこか余裕があるように見えた。定期考査の話題が近づくと楽しそうに自分の準備不足を嘆く友達が理解できなかった。待ってほしいのに、時間はどんどん過ぎ去って行く。ここでドロップアウトする方が楽なんじゃないかと思うこともあった。
「ねぇ、あの人が柊木くんだよね」
「あ、知ってる。五組の天才でしょ? 毎回学年で圧倒的な一番を取るっていう」
 数人の友達と廊下を歩いていると、隣でひそひそとそんなことを口にした。すれ違いざまにちらっと視線を向けると、至って普通な風貌をしている男の子が自分の噂を気にする様子もなく通り過ぎて行った。この高校には、こういう人が入学するべきなんだろうな、と思った。
 放課後、塾に行く前に近くの公園に通うのが日課だった。
 可哀そうなことに、その公園には段ボール箱に捨てられた猫がいる。私は猫にキャットフードをいつも与えていた。雨が降っても良いように、段ボール箱に傘を引っ掛けた。猫と戯れていると、私が入って来た方の入口とは別の入口付近で、重そうな荷物を抱えたお婆さんがいるのが目に入った。私はお婆さんに駆け寄って荷物を持った。
「ありがとねぇ。親切なお嬢さん」
「いえいえ」
 他愛のない話をしながら、塾から近いらしいお婆さんの家まで荷物を運んだ。お礼を言うお婆さんに手を振りながら、私は塾へと向かった。目まぐるしい毎日を送っている私は、お婆さんのゆったりとした雰囲気に癒された。
 高校に入学してから一年間、私は劣等生として過ごした。学校で成績が咎められることはないけれど、家に帰るとお母さんからこっぴどく叱られる。そんな生活を送っていた。
 高校二年生になると、このままこの学校でやっていけるのかという不安が増幅した。一年生の時点でひどい有様だったのだから、二年生になるといよいよ進級すらできないんじゃないかと悩んでいた。
 追い詰められていた私は、正常な判断ができなかった。
 高校二年生になって最初の中間考査で、カンニングをした。特に、今回の数学範囲はいくら勉強しても、いくら塾で説明を聞いても、全く理解することができなかった。すっかり私に期待しなくなっていたお母さんでも、流石に今回の数学の出来を見れば怒るに違いなかった。
 静かになった教室では、それぞれが自分の世界に潜り込んでいるようだった。先生がうたた寝をしていることを確認して、私は隣の席でスラスラと問題を解いている尾林くんの解答用紙をそっと覗き込んだ。良い点数が取りたかったわけじゃない。怒られない程度の点数が取りたいだけだった。
「カンニングしています!」
 停学が決まって三日が経ったけれど、朝比奈さんの鋭い声が毎日夢に出てくる。今日もその声で飛び起きた。目覚まし時計なんかとは比にならないくらい目覚めが悪い。激しい動悸に思わずえづきそうになった。
 時刻はすでにお昼前で、今頃は学校でみんなが授業を受けている。私だけが学校から必要とされなくなった存在に思えて怖くなった。友達は、私のしたことをどう思ったのだろう。また学校に行っても、もう口もきいてもらえないかもしれない。
 洗面所で顔を洗った。鏡に映る私の顔は、不安で今にも崩れてしまいそうだった。
「あんたなんか産まなきゃよかった」
 ズキズキと頭痛が走った。
 もう何年も病院に行かなくても思い出すことはなくなっていたのに、今回のことが発端となったのか、幼少期の記憶が断片的に浮上してきた。
「お願い、捨てないで! お母さん!」
 必死に手を延ばす私の手は、まだ小さい。
 知らない街で車から引きずり降ろされた私は、去って行く車を追いかけながら叫び続けた。雪の降る寒い季節だった。凍えるような寒さに耐えながら、見知らぬ住宅街を彷徨い続けた。幼い私とすれ違う人たちは、一人で雪の中を歩く私を不審そうに見ていたけれど、私に声を掛けてくることはなかった。
 お腹が空いて力尽きた私は、見つけた公園の洞窟状の遊具に避難した。辺りはすっかり暗くなっていて心細かった。このまま死んでしまうのだと、幼いながらに思った。そこに偶然通りかかった夫婦に、私は保護された。それが、今の両親だった。大変な手続きを踏んで、私たちは家族になった。
 もう実母の顔は思い出せない。今の両親に拾われる前の思い出はロックが掛かったみたいに取り出すことができない。けれど、実母に捨てられたという事実は深く脳に刻まれていた。だから私は、今度は捨てられないように両親が喜ぶことを積極的にするようになった。お父さんが趣味だった釣りについて調べて休日には一緒に出掛けた。お母さんはテストの点数が良いことに喜んでくれるから勉強を頑張った。元々、釣りも勉強も好きだったわけじゃない。でも、二人が喜ぶ姿を見るとホッとした。そのことが、私が何かに手をつけることの動力源だった。
 お父さんが家を出てから、いよいよ私のお母さんに対する執着が異常になった。
 今まで以上にお母さんの顔色を窺って、勉強に邁進した。今にして思えば、お母さんに喜んでほしいという感情も、お母さんに怒られて嫌われたくないという感情も、私にとっては同じものだった。どちらも、捨てられたくないという恐怖を別の表現にしただけだった。
 学校でも、私は見境なく誰かから嫌われることを恐れた。友達が離れて行くことを恐れた。嫌われることが怖くて誰かに話しかけることができなかった私は、小中学生時代には友達がいなかった。
高校に入ると、そんな私に声を掛けてくれる人がいた。すでに三人仲良くグループをつくっていたその子たちは、私を輪に入れてくれた。
初めてできた友達が気に入らない状況をつくらないために要望には従ってきた。友達がご飯を食べに行く時には私が同行していなくてもお金を渡して、友達がほしい商品を買うためにお店の前で私が長蛇の列に並び、お昼休みには三人が食べたいものを食堂で買ってくる。毎日、私は三人の顔色を窺ってきた。今思うと、私はコミュニティから排除されることを恐れていた。
 そうやって生きてきたのに、私は自分の命綱であるお母さんを裏切ることをしてしまった。お母さんにとって、私を家に置いたままにするメリットはもうないはずだった。間違いなく、近いうちに私は捨てられてしまう。
 こうやって恐怖を抱え続けるくらいなら、路頭に迷ってしまうくらいなら、一層のこと自ら命を絶ってしまおう。そう思った私は、近くのホームセンターでロープを買った。家に戻ってリビングの梁から輪っかをつくったロープを垂らした。椅子の上に立って首を輪にかけてから、椅子を蹴飛ばした。途端に自分の身体に重力を感じて息ができなくなった。ブラックアウトする視界が濁りながら、意識が遠のいた。
 モザイクがかかったみたいに朦朧とした視界が開けてきた。次いで咳を吐き出した。暗くなったリビングで、私は横たわっていた。千切れたロープがへその緒みたいに私の首回りにまとわりついていた。安いロープだったことで、私の体重を支え切れなかったらしい。私は自殺に失敗した。もう一度死ぬ間際の苦しみと恐怖を味わいたくなくて、私はロープを自分の部屋に隠した。
 夜遅くに帰って来たお母さんを迎え入れると、さも嬉しそうに笑って私を抱きしめてきた。本当は私を捨てるつもりだけれど、最後くらいは優しくしようとしてくれているのだろうか。
 お母さんは私から離れると、ギョッとしたように悲鳴を上げた。
「どうしたのよ、その首の痣!」
 しまった、と思った。鏡で自分の首を確認しておけばよかった。
「ごめん、実は階段から落ちて首をひっかいちゃって」
「だ、大丈夫なの?」
「平気だよ。心配掛けてごめんなさい」
「なんともないならいいのだけど……本当に転んだ痕なの?」
「本当だよ」
 お母さんは訝しげに私の表情を窺った。
 その出来事をきっかけに、お母さんは仕事を休みがちになった。私を一人にしておくことが不安になったのか、定期的に私の部屋を訪れるようになった。私が普段と変わらない様子だと確認すると、安心したように胸を撫でおろす。そんな日々が続いた。
 停学期間が過ぎても、私は学校に行くことができないでいた。一度だけお母さんが学校の話を出したけれど、私が苦い表情をするとそれっきりその話題は出さなくなった。私が学校に行くことをお母さんが望んでいることは分かっていたけれど、どうしても身体が動かなかった。学校に行っても、友達にはもう嫌われてしまったかもしれない。けれど、それ以上にお母さんに愛想を尽かされてしまうと、私は生きていけない。お母さんが喜ぶことを、私はする必要があった。
「明日、学校に行ってみようかな」
 学校を休んで随分経った頃に、私は勇気を出してみることにした。
「ほ、本当に?」
 目に涙を浮かべながら、お母さんが私の手を握ってきた。
 私はお母さんの期待を裏切らないように、緊張しながら頷いた。
「でも、無理しないでね。学校に行って辛かったら、早退してもいいから」
 涙ぐむお母さんの声は、いつになく弾んでいた。お母さんの言葉に、久しぶりに安心を覚えた。これなら、私は捨てられずに済む。
 翌日、お母さんに見送られながらお昼前に家を出た。震える足を鼓舞しながら、私は学校に向かった。私と学校との距離が近づく度に、恐怖が接着剤のように靴と地面をひっつけてくる。
 私を見送った時のお母さんの嬉しそうな顔を思い出すと、学校に到着する恐怖よりも家に引き返す恐怖の方が勝った。そうやって自分を騙しながら、私は昇降口で上履きに履き替えた。久しぶりの感触に違和感があった。
 重たい足取りで、私は自分のクラスがある階に辿り着いた。お昼休みの最中だから、廊下が騒がしい。廊下に張り出されたテスト結果に群がるクラスメイトたちと目が合わないように下を向きながら教室に入った。そそくさと自分の席に座って、周りの景色が目に入らないようにした。
 その日は私の登校を労ってくれた担任の先生以外とは誰とも会話しないまま、授業を受け終えることができた。もちろん、授業に集中することなんてできなかった。先生たちも授業中に私に当てないよう配慮してくれた。
 くたくたになりながら帰宅すると、家の前で待ってくれていたお母さんが大泣きしながら私を抱きしめてくれた。お母さんはその日一日、上機嫌だった。私は勇気を出して学校に行った自分を褒めた。これで私はこの家に居続けることができる。
翌日はホームルームが始まる時間までに学校に行くことができた。昨日よりも進歩した私に相変わらず喜ぶお母さんを見て安心した。
「静香」
 ホームルームが始まる直前に、友達が話しかけてくれた。あんなことをしてしまったのに、まだ私に話しかけてくれることを嬉しく思って、思わず顔が綻んだ。
「どの面下げて学校に来たわけ?」
「……え?」
「まさか、まだあんたと友達やってあげるなんて思ってないよね?」
「そ、それは……」
「手切れ金、後でもらえる?」
「……お金、そんなに持ってないです」
「だったら明日持ってきて」
 三人の冷たい声が、脊髄に染みてくる。命への実害はないはずなのに、本能がグループから追放されることを恐れた。
「ていうか手切れ金って。うちら男じゃないし」
「あは、確かに」
「うける」
 三人は楽しそうに笑い合いながら、それぞれの席へと戻って行った。
 翌日、私はお母さんに頼んでお小遣いをもらった。用途を聞かれて、帰りに友達とご飯を食べに行くのだと嘘を吐くと、嬉しそうに一万円をくれた。良心が痛んだけれど、仕方がない。
 教室に着くと早々に三人が私から楽しそうにお金を受け取りに来た。
「うほ、一万あんじゃん。羽振りいいねぇ」
「これでカラオケ行かね?」
「いいねいいね」
 三人のうちの一人が、多重人格みたいに冷たい表情で私に言い放った。
「あんたとはこれっきりだから。じゃあね、人間のクズ」
 追い打ちをかけられた私は、その言葉が頭の中を駆け巡るのを制御できなかった。
 考え事をし過ぎたせいで、私は授業中に吐いてしまった。騒然とする教室の中で、誰かが声を上げた。
「僕が平塚さんを保健室に連れて行きます」
 柊木くんが私に肩を貸してくれた。さっきの声は、柊木くんだったのか。
 柊木くんが手伝ってくれたおかげで、私は保健室に辿り着くことができた。保健室まで気遣いながら声を掛けてくれた柊木くんにお礼を言ってから、先生にお母さんには連絡しないようにお願いした。それから、私は保健室のベッドで眠った。教室に戻りたくなかった私は、放課後まで眠り続けた。家に帰って学校から連絡があったんじゃないかとびくびくしていたけれど、お母さんは特に何も言ってこなかった。
 昨日のショックで、私は学校を休んだ。お母さんのことが気掛かりだけれど、どうしても身体が重い。お母さんは心配しながら仕事に向かった。
「久しぶりに学校に行って疲れただけだから」
 私の言葉に納得する素振りは見せたけれど、依然として心配そうにしていた。
 これ以上、後がなかった。
 翌日は無理やり自分の身体に鞭を打ちながら登校した。けれど、案の定無理が祟って授業を抜け出す日々が続いた。私が体調不良を訴える度に、何故か柊木くんが毎回気に掛けてくれた。他の人には興味がなさそうなイメージだっただけに、意外に思った。
 私はてっきり学校にいる人全員から疎ましく思われていると思っていた。私が何をするにも、カンニングをしたくせに普通に学校生活を送ろうとしていることが目障りに思われている気がしていた。通学路で行き交う他校の生徒やサラリーマンの視線すら気になってしまう。私は学校だけでなく社会から排除されかねないんじゃないかと怯えていた。
だから、柊木くんが気まぐれであったとしても、私に寄り添ってくれたことが嬉しかった。柊木くんがいなければ、もしかすると学校に来ることを諦めていたかもしれない。学校に行かずにお母さんに呆れられて、私は家から追放されることになっていたかもしれない。
 少しだけ抱いた希望は、またすぐに打ち砕かれた。
 友達だった三人が、誰も寄りつかないC棟に私を呼び出した。
 三人が私を壁へと追いやった。私はただただ、縮こまるしかなかった。
「手切れ金ももらったことだし、私たちとあんたの交友関係は終わった。だから、今度は存分に悪人を裁く正義になれる」
 私の髪の毛が鷲掴みにされて引っ張られた。
「い、痛いよ」
「悪い人を更生させるには、奉仕活動が大事なんだって。あんた、社会のために経済回さないと。ほら、手始めに社会奉仕として一万円」
 目の前で手を差し出された。これ以上、お母さんにお金をもらおうにも不審がられてしまう。
「こ、この前渡した」
「は? あれは手切れ金だっつってんだろ。今回のは奉仕活動の一環だから別物」
 首を振る度に髪を強く引っ張られて途方に暮れていると、柊木くんが携帯を手にしながら現れた。私たちのことを撮影しているのだと柊木くんが告げると、三人が苦虫を嚙み潰したような顔をした。それから、三人は私のことを解放して去って行った。
 柊木くんは怯える私の側に居続けてくれた。いつも人の顔を窺い続けてきたから分かる。柊木くんはずっと、私の様子を見守ってくれていた。チャイムが鳴っても、柊木くんは私の側から離れようとはしなかった。それどころか、学校を休んでいた私に勉強を教えてくれると申し出てくれた。連絡先を交換して、柊木くんは私を保健室まで連れて行ってくれた。このまま教室に戻るのも気まずいからと、私を気遣って先生には話を合わせてくれるのだそう。
 柊木くんの優しさに救われたものの、私にそんな施しをして一体どんなメリットがあるのだろうかと、不安になった。柊木くんの考えていることがまるで分からなかった。
 柊木くんは、積極的に私に話しかけてくれるようになった。休み時間中も、周りの目を気にしないで私と会話してくれた。私と話す時の柊木くんは、いつもの無表情とは程遠い柔らかい笑顔だった。その笑顔に、私はどこか安心感を覚えていた。それと同時に、距離が近くなればまた誰かを失ってしまうんじゃないかという恐怖がつきまとった。私は柊木くんとの距離感をはかりかねていた。
 柊木くんは言葉通り、私を家に招いて勉強会を開くようになった。
 休憩時間には自分の昔話なんかもした。こんなにも誰かに自分のことを話したのは初めてのことだった。柊木くんは楽しそうに私の話に耳を傾けた。そんな表情をしながら私の話を聞いてくれる人は今までいなかった。むず痒いような心地良いような不思議な感覚がした。
 隣で参考書を眺める柊木くんを見ながら、ふと疑問が浮かんだ。
 どうして柊木くんは、勉強するのだろう。親に言われて勉強しているのだろうか。
 その疑問を口にすると、柊木くんは親に逆らうほど勉強が面倒ではなかったからと答えた。どこまでも、柊木くんは別格だった。同じ人間なのかと疑ってしまうほどに。
「やっぱり柊木くんは別世界の人だ」
 思わずそう呟くと、柊木くんの表情が見る間に曇っていった。
 やってしまった、と思った。また、仲が良くなった人を失ってしまうことになると焦った。それも、今回に限っては恐怖だけじゃなくて、悲しみも襲ってきた。柊木くんだけには嫌われたくない。
 何か、言わないと。
そうやって焦るばかりで一向に何も言えないままでいると、柊木くんが私にキスをしてきた。
 何が起きたのか、分からなかった。
 どうして柊木くんが私にキスをしてきたのか。
どうしてこんなにも恥ずかしい気持ちになったのか。
どうして胸がドキドキするのに幸せを感じたのか。
「……どうして」
 柔らかい感触がまだ唇に残っている気がして、私は口元に手を添えながら訊いた。
「平塚さんのことが好きだから」
 柊木くんが私に目を合わせたまま告白してきた。
ありえない。私は柊木くんには何もしていない。好きになってもらうようなことを、何一つしていない。カンニングをした私なんかを今更好きになる人なんているわけない。
でも、柊木くんの言葉が本当だったら、と思ってしまった。
けれど、どうしてか今のままだと不誠実だと思ってしまった。柊木くんの言葉が本当だったとして、私は嬉々としてその告白を受け入れるべきだった。それなのに、自分から人を遠ざけたいと思ったのは、生まれて初めてだった。
 また自分から離れていかないか怖かったから?
 初めての交際に不安を覚えたから?
 この告白が別の男の子だった場合、私は告白を受け入れただろうか。キスをされて、こんな気持ちになったのだろうか。自問自答してみて、私は内心で首を振った。
 きっと、柊木くんだから私の感情を動かした。
 私は柊木くんの告白に応えることができないまま家に帰った。
 告白を受けないで柊木くんが別の人に心移りするのが怖いはずなのに、柊木くんの好意を信じ切れていないまま付き合うのはいけない気がした。今までの私の常識では、こちらが何かをしないと相手は好意を示してくれない。それなのに、柊木くんは何故か私のことを好きだと言ってくれた。
 柊木くんから着信やメッセージが届いていたけれど、私はそのどれにも反応することができなかった。こんなこと、今までの私ならありえないことだった。相手に合わせようとしてきたばかりに、私は人間関係で失敗した。相手にも私に余裕がないことは、きっと見え透いていた。どこまでも自分のために誰かと関係を持とうとしている私の浅はかさが、周りから気づかれていた。でも、生まれて初めて柊木くんには、私の醜いエゴに振り回されてほしくないと思った。
「私が人を好きになる価値なんて、あるのかな」
 ふと言葉にしてみて、私は本当の意味で誰かのことを好きになった記憶がないことに気づいた。あくまで誰かと一緒にいることが目的になっていて、私自身が一緒にいる人たちのことを好きになったとは言えなかった気がする。ずっと、他人軸で生きてきた。
 期末考査が始まるまで、私は柊木くんと話すことができなかった。柊木くんも気遣ってくれて、私に話しかけてくることはなかった。不思議なことに、私に愛想を尽かしたわけじゃなくて、気遣ってくれてるのだと自然と思えた。だからこそ、申し訳ないという気持ちになった。
 期末考査の最初に待ち受けているのが、数学だった。
 お母さんはきっと、私がどんな点数を取っても何も言わない。内心では私を見限る可能性はあるけれど、前ほどのプレッシャーを感じているわけじゃなかった。でも、先生やクラスメイトたちからはまた私がカンニングをするだろうと思われているかもしれない。それは私がこの空間にいられなくなることを意味していた。それなのに、そこに対する恐怖はなかった。
「……私、変だ」
 柊木くんにどう思われているかが不安だった。クラスメイトの顔は誰一人浮かばずに、柊木くんの顔だけが心の真ん中にあった。自分から遠ざけたくせに、柊木くんに嫌われることが苦しい。恐怖なんかじゃなくて、悲しさが胸の内に溢れてきた。
 嫌だ。柊木くんと話せなくなるのが、嫌だ。嫌われたくない。
 気づいた時には、頬が地面と接触していた。遅れて鈍い痛みが顔を襲った。一瞬気を失って倒れていたらしい。先生が慌てた様子で私の名前を呼んだ。
 先生が駆けつけるよりも先に、誰かが私の身体を支えて立ち上がらせてくれた。柊木くんの匂いがした。また、柊木くんが助けてくれた。
 保健室に連れて行ってもらいながら、私は柊木くんに言った。またカンニングすると思われてるんじゃないかって。それで嫌われることがすごく怖かった。
 柊木くんからの言葉に身構えていると、毅然とした声が耳に届いた。
「平塚さんがまたカンニングしようがしまいが、平塚さんのことが好きなことには変わりないよ。少なくとも、僕は」
 柊木くんの言葉に耳を疑った。
 私がまた罪を重ねても私のことを好きでいてくれるなんてありえるのだろうか。
 でも、一つ確かなことがあった。
 私は、柊木くんの言葉を信じたいと思った。
 保健室でしばらく身体を休めて心身ともに落ち着いてから、保健室でテストを受けることが許可された。今度は倒れることもなく、自分が勉強してきたことをテストにぶつけることができた。もちろん、誇れるような点数が取れた手応えはないけれど。
 期末考査期間中、私は学校からの配慮で保健室で試験を受けることができた。
 だから通常授業に戻って教室に入った私は、柊木くんがカンニングした事実に驚いた。クラスメイトの霧島くんが、登校して来た私に何故か楽しそうに詳細を報告してくれた。
「隠す気ゼロだったよ。平塚が保健室に行った後だから、英語のテストの最中なんだけどさ」
「……どうして柊木くんが」
「それが謎なんだよな。平塚、柊木と仲良いでしょ? 何か分かったら教えてよ。はい」
 霧島くんが私に携帯を差し出してきた。
 霧島くんの行動の意図が読めず、私は首を傾げた。霧島くんは物珍しそうな目で私を見つめると、説明してくれた。
「連絡先交換してよ」
「え……わ、私と?」
「じゃなきゃ柊木が俺に真相を教えてくれるわけないし」
 霧島くんは半ば強引に私と連絡先を交換した。
 霧島くんは愉快そうに携帯を掲げながら自分の席へと戻って行った。その姿を目で追っていると、隣の席で座る朝比奈さんと目が合った。心臓が縮こまるような感覚がした。朝比奈さんは私を目の敵にしているのか、面白くなさそうに唇を尖らせながら霧島くんのお腹にパンチした。あの二人、タイプが違う感じがするけれど、仲は良いらしい。
 放課後、私は柊木くんの家に向かった。
 迷惑かもしれないとは思ったけれど、居ても立っても居られなかった。
 インターホンを鳴らすと、不愛想な顔をした柊木くんが姿を現した。訪れたのが私だと分かると、柊木くんは表情を崩して微笑んだ。そのことがすごく嬉しかった。
「どうして平塚さんがここに?」
「あ、えっと、体調大丈夫かなと思って」
「……平塚さんは僕が休んでいる理由は知ってるよね?」
 霧島くんから聞いたカンニングという言葉が浮かんだ。
「えっ。う、うん、知ってる、よ」
「体調には問題ないよ」
「そ、そっか。ならよかった」
「よかったら上がっていく?」
「あ、うん。迷惑じゃない?」
「全然。好きな人が自分の家に来るなんて、普通嬉しくない?」
「す…………」
 告白された日から変わらずそう言ってくれたことに照れてしまって言葉に詰まった。
 部屋に通してもらってから、霧島くんが疑問に思っていることを私が代弁した。
 どうしてカンニングしたのか訊ねると、柊木くんは要領の得ないことを口にした。
「学校に行ったらさ、一緒にお昼食べてくれない?」
「……お昼?」
「そう。一人で食べるの、気まずいからさ」
「それはもちろん、いいけど……」
「やったね。結局、学校で平塚さんとお昼食べたことなかったから」
「そうだね。いや、それはそれとして、どうして」
 柊木くんは私の言葉を塞ぐようにキスをしてきた。前よりもずっと長いキスだった。
「好きだよ、平塚さん」
 面と向かって柊木くんが言った。私の心が嬉しいと叫び出していた。
「よかったらこれからも、仲良くしてくれると嬉しい」
「……わ、私の方こそ」
 気恥ずかしくて思わず俯くと、柊木くんが私の額にキスをした。
 それから他愛のない話をしたけれど、キスのことで頭がいっぱいだった私は、ほとんど会話の内容を覚えていない。
 家に帰ってから、霧島くんにカンニングの理由は聞けなかったとメッセージを送った。すると、すぐに返信が返ってきた。
『おう。気にすんな。それより、終業式の日の放課後、時間ある?』
『多分、あると思う』
『オッケー。誘うかも』
『誘うって?』
『ひ・み・つ』
 何に誘われようとしているのか分からないままメッセージが終わってしまった。
 停学期間が明けて登校して来た柊木くんは、どこまでもいつも通りだった。柊木くんの精神が落ち込んでいないことに安心した。
 柊木くんは有言実行で、私とお昼を食べてくれた。
 そこで、夏休みの遊びに誘ってくれた。カンニングもしてしまった私が遊びに出掛けてしまえば、今度こそお母さんが私を見限ってしまうんじゃないかと不安になった。けれど、柊木くんは海に行こうと誘ってくれた。柊木くんとなら行きたいと思ってしまった。水着を見たいと言われて少し恥ずかしかったけれど。痩せなきゃ。
 夏休み目前で、期末考査の結果が返ってきた。
 休んでいた日が多かったにもかかわらず、柊木くんと勉強したおかげでむしろいつもより良い点数が取れた。柊木くんは天才なのに、凡人の私にも分かりやすく教えてくれた。
 ただし、中間考査が無効になったことで、夏休みに補習が組まれることになった。柊木くんと予定を合わせられる日が減ってしまったことに落ち込んでいると、なんと柊木くんも補講に参加してくれることになった。勇気が必要だったけれど、私は柊木くんに真意を訊いてみた。
「もしかして、私のため?」
「一緒にやれば、すぐに片付くよ」
 思った通り、柊木くんは私のために補講に参加してくれたみたいだった。嬉しいと同時に、申し訳ない気持ちになった。
「……ごめんね」
「どうして謝るの?」
「柊木くんの貴重な時間を奪っちゃうことになって」
「平塚さんと一緒にいられるなら、なんだっていいよ」
 なんとでもないようにそう言った柊木くんの笑顔に、胸がときめいた。
 柊木くんが私に背を向けた。その背中に、思わず飛び込んだ。
「ひ、平塚さん?」
 初めて柊木くんの動揺する声を聞いた。
 私は後ろから柊木くんを強く抱きしめながら言った。
「私、人を好きになる資格、あるのかな」
「……資格?」
「私なんかが柊木くんのこと好きだなんて、罰が当たると思う」
「平塚さんで罰が当たるなら、僕は極刑に処されるだろうね」
 思わず涙を流しながら、私は柊木くんを解放した。柊木くんがこちらを振り返る。
「私、柊木くんのことが好きです」
 ずっと、自分の気持ちに疑いを持っていた。人に対して、こんな気持ちを抱くことがあるなんて想像もしていなかった。柊木くんが、私に教えてくれた感情だった。
「こんな私だけど、柊木くんの彼女にしてくれませんか?」
「喜んで。僕も平塚さんのことが好きです」
 照れ臭そうに笑う柊木くんが、たまらなく愛おしかった。
 あー、私、本当に柊木くんのことが好きみたいだ。
「やばい、泣きそうだ」
 そう言って目元を隠した柊木くんの頭を撫でた。
「私も」
 お互いに向かい合って、キスをした。
 私は、柊木くんのことを信じることにした。

 終業式が終わって帰り支度をしていると、霧島くんから声を掛けられた。隣には朝比奈さんもいて、思わず萎縮してしまった。
「平塚、今日の放課後空いてるんだったよな?」
 一緒に帰ろうとしていた柊木くんが驚いたように霧島くんを振り返った。
「何の話?」
「平塚に終業式が終わったら空いているかメッセージ送ったら、空いてるって返事があった」
「……メッセージ?」
 今度は私の方へと柊木くんが振り返った。
「あ、えっと、柊木くんが停学中に霧島くんと連絡先を交換したんだ」
「……ふーん」
 不機嫌そうに唸ると、柊木くんは霧島くんを睨んだ。
「良かったら四人でファミレスに行かねぇ?」
「……行くわけないでしょ」
「え、じゃあ柊木は来なくていいよ。平塚と俺たちで行くから」
 霧島くんがニヤニヤしながら私の方を見た。
 確かに、予定が空いていると言った手前、断るのは心苦しかった。
「……僕も行く」
「そう来ないと」
「トイレの前で言ってたのって、このことだったのか」
「ありゃ。なんのことやら」
「面倒なことにしないでよ」
 柊木くんが目を細めて言うと、霧島くんが口笛を吹きながら目を逸らした。
 一言も会話をしないまま近くのファミレスに向かうと、四人席に案内された。
 ドリンクバーで全員が飲み物を注いで料理を待っていると、霧島くんがわざとらしい声を出した。
「あ、そうそう。カンニングするって、どんな気持ち?」
 煽るような霧島くんの言葉にビクッとすると、柊木くんが霧島くんをキッと睨みつけた。
「そういう言い方はやめて」
 それまで口を開くことのなかった朝比奈さんが霧島くんを窘めた。
「へいへい」
「平塚さんに謝りなさい」
「すんませんした」
 霧島くんが私に頭を下げた。
 霧島くんの隣で咳払いをした朝比奈さんが、私に向かって言った。
「私は、自分がしたことが間違いだったとは思わない。でも、そのせいであなたが不当な不利益を被っていることを知った。正直、私はあの時あなたにしたことを後悔している。あなたにも事情があったんじゃないかって、踏みとどまるべきだったと今でも思う」
 朝比奈さんの口から思わぬことが出てきて、私は驚いた。
 朝比奈さんの言う通り、何も間違ったことをしていないはずだった。けれど、朝比奈さんは私が精神的に落ち込んでしまった姿を見て思うところがあったらしい。朝比奈さんがそのことを気に掛けているなんて思ってもみなかった。
 朝比奈さんの気持ちを知ったからといって、私は今の言葉にどう返せばいいのか分からないでいた。すると、隣に座っていた柊木くんがドリンクを飲み干してグラスをテーブルに置いた。
「僕は、後悔していない」
 向かいに座る二人が驚いたように目を見開いた。私は思わず柊木くんの顔を見た。
「朝比奈さんがあの時、平塚さんのカンニングを指摘していなければ、僕と平塚さんがこうやって仲良くなることはなかった」
 柊木くんはそう言うと、空になったグラスを持って立ち上がった。
「あくまで僕はだけど、これで良かったと思ってる」
「……付き合うことになったの間違いじゃねえの?」
 霧島くんを見下ろしながら、柊木くんが顔を赤くした。
「やっぱしな」
「うるさい」
 柊木くんがドリンクを注ぎに行くのを見送っていると、霧島くんが私に訊いた。
「平塚の今の気持ちはどうなの?」
 先ほどまでと違って、霧島くんは真面目な顔をしていた。どこか、私の回答を待ち侘びているように見えた。
「……自業自得とはいえ、かなり苦しかった」
 朝比奈さんの顔に動揺の色が見えた。
「でも、あの出来事がきっかけで、楽になった」
 霧島くんが目を輝かせながら私の言葉の続きを待っていた。
「実は、ずっと辛かった塾もやめることができた。私がやったことが許されるわけでも、ましてやなくなるわけでもないけれど、あの出来事がきっかけで、憑き物がとれたというか。あ、でも、反省していないってわけじゃなくて」
 言葉を慎重に選びながら、ドリンクを選んでいる柊木くんに視線を向けた。
「ずっと見失っていたものに、気づくことができた。朝比奈さんのおかげで」
 息を止めていたみたいに、朝比奈さんが深く息を吐いた。
 隣では、霧島くんが神妙な顔で朝比奈さんのことを見つめていた。それはまるで、朝比奈さんのことを見守っているような眼差しだった。柊木くんが私のことを見ている時と似ている気がした。もしかして、霧島くんは朝比奈さんのことが……。
 柊木くんがドリンクバーから戻って来てからは、ほとんど霧島くんだけが喋り続けていた。気のせいか、ファミレスを出る頃には朝比奈さんの表情が柔らかくなっている気がした。
 ファミレスで解散してから、私と柊木くんは並んで帰った。
「僕が席を外している時、平塚さんは何て言ったの?」
 席を外している時というのは、柊木くんがドリンクバーに向かった時のことだろうか。ということは、わざとあのタイミングで飲み物を注ぎに行ったのだろうか。
「朝比奈さんのおかげで、大切なことに気づけたって伝えたよ」
 柊木くんは私の言葉を咀嚼するように空中を見上げながら、目を細めて言った。
「むかつく」
「え?」
「霧島くんにしてやられた」
 何故か不機嫌そうにする柊木くんの横顔に、私は思わず笑ってしまった。
「何さ」
「別にー」
 つい最近までは、自分のせいで不機嫌になってしまったんじゃないかと不安になっていた。けれど、柊木くんならどんな表情をしても愛おしく思えた。これが、本当に人を好きになるということなのかもしれない。
 夏休みに入ると、すぐに補講があった。
 柊木くんと一緒に補講を受けたおかげで、確認テストもすぐにクリアできた。夏休みが始まって一週間もしないうちに補講を終えると、今度は夏休みの宿題に手を出した。柊木くんとファミレスに宿題を持ち寄って、数日で全て終わらせた。私一人の力では絶対にこなせない速度だった。柊木くんからすればなんとでもないことないはずなのに、私が柊木くんを賞賛すると照れたように顔を背ける。すごく可愛い。
 塾に通う必要もなくなった夏休みは、驚くほどに余白があった。柊木くんは塾のない日を選びながら、私と遊びに行く日をすり合わせてくれた。
『平塚さんが普段休日にすることを一緒にしたい』
 夏休みに入って最初にした約束の内容は、柊木くんの要望によって決まった。
 そんなことでいいのか確認したけれど、それがいいんだという返答がきた。困惑しながらも、私は柊木くんを連れて街を歩いた。
「買い物に行くの?」
「ううん」
「もしかして、街を歩くのが趣味?」
「うーん、そうでもないかな」
「平塚さんはいつも何を考えながら過ごしてるんだろう」
「そんなに私に興味あるの?」
「そりゃあ、好きな人だからね」
 柊木くんのストレートな言葉。
 いつも私がドキドキさせられてばかりで悔しかった。
 私は勇気を振り絞って、柊木くんの手を握った。柊木くんがびっくりした顔で私の顔を見てきた。その表情を見て、してやったりな気分になった。
「私ね、周りの目を気にして生きてきた。人から嫌われたら死んじゃうんじゃないかって怖かった。もちろん、人から嫌われることが直接死ぬことに繋がるわけじゃないって頭で分かるんだけれど」
 柊木くんはただ耳を傾けて私の言葉を聞いてくれていた。
「ずっと他人軸で生きてきたから、本当の意味で自分が何かや誰かを好きになることがなかった」
 柊木くんの手を握る力を強めながら、私は柊木くんの頬にキスをした。
「生まれて初めてなの。誰かに捨てられたくないと思うんじゃなくて、誰かを手放したくないと思ったのは」
「……嬉しいこと言ってくれるね」
 耳まで真っ赤になった柊木くんの肩に、私は頭を乗せた。
今まで私は相手のことを知ろうとしてきたけど、私のことを知ろうとする人はいなかった。柊木くんのおかげで、人から興味を持たれることが愛情表現の一つだと知ることができた。
私と柊木くんは、近くの公園に向かった。
 段ボール箱から顔を出す猫に、柊木くんは興味津々だった。
 猫に近づいて頭を撫でると、私の手をペロペロと舐めてきた。その様子を後ろから見ていた柊木くんが、感心したように言った。
「仲が良いみたいだね」
「うん」
 私はポシェットから銀のボウルを取り出した。そこにキャットフードを入れて、少し水を混ぜた。
「お食べ」
 猫は鼻をひくひくさせると、美味しそうに食べ始めた。夢中になって食べ続ける猫の頭を撫でていると、柊木くんが私の隣で屈んだ。
「捨て猫?」
「うん。捨てられてる子を見かけると、放っておけなくて」
「平塚さんが猫と触れ合ってるの、見かけたことがある」
「え、本当?」
「うん。あと、お婆さんの荷物を持ってあげてるところも」
「……そう、だったんだ」
「きっと、平塚さんのそういう姿を見ていたから、気になってたんだと思う」
 柊木くんは恐る恐る猫の頭を撫でた。不器用な手つきに、柊木くんの人間らしさを感じた。
「私、小学校に入学する前くらいに捨てられたの。この街に」
 私の告白に、柊木くんが勢いよくこちらを振り返った。
「私の親は、本当の親じゃない。だから、また捨てられるんじゃないかって怖かった。友達をつくるもの怖かったんだ。誰かから突き放されることが、トラウマになった」
 餌を食べ終わって満足そうに欠伸をする猫の顎をくすぐりながら、私は続けた。
「捨てられている子を見つけると、多分無意識のうちに同じ境遇だった当時の自分を重ねてしまうんだと思う。この子以外にも、捨て猫がいる場所がたくさんあるの」
 私が立ち上がると、柊木くんもゆっくり立ち上がった。
「私は休みの日に、捨て猫がいるスポットを巡ってるんだ。ここみたいな公園はあと三つくらいあって、他には使われなくなった工場にも知り合った猫がいる」
「……一日で、全部回るの?」
「うん」
「了解。お供させてもらうよ」
「ありがとう」
「お礼を言うのは僕の方だよ。静香の気持ちを教えてくれてありがとう」
 ……今、何て言った?
「今、名前で呼ばなかった?」
「うん。呼んだよ。次は静香の番」
「……恥ずかしいな」
「僕だって恥ずかしかったさ。ほら、はやく」
 自分が先に名前で呼ぶことができたからか、得意げに促してきた。
 私は深呼吸してから、ずっと一緒にいたい人の名前を呼んだ。
「じゃあ、次の場所に行こう。逸」
 逸は満足したのか、私の手を握った。
 私は逸の手を引きながら歩き出した。
 この先どうなるのかは、やっぱりまだ分からない。きっと、これから先も私は間違いを犯していく。もし間違えるのだとしても、今度は誰かのためであったらいいなと思う。
 たとえそれが、他の誰かにとっては不正解であっても。