Four sides, for the sides.

「カンニングしています!」
 美鈴の正義感のこもった声に、俺は高揚した。
 美鈴が真っ直ぐな瞳でクラスメイトの平塚静香の方を見ていた。俺は美鈴の横顔に見惚れた。
 教師は美鈴の告発に困惑しながらも、教室から平塚を連行して行った。
 しばらくはクラスメイトたちがざわついていたが、やがて静まった。
 隣を見ると、美鈴はすでに問題に取り掛かっていた。当然のことをしたまでだと言わんばかりの表情に見えたが、俺の気のせいなのか少しばかりの陰りがあるように思えた。そのことを気掛かりには思ったが、今度は余所見をする俺の方が美鈴に告発される可能性があったため、仕方なく問題用紙に向き合うことにした。
 テスト後、俺は今日の出来事で上機嫌なまま美鈴と肩を並べて帰った。ここ数日ゲーセンでずっと粘って向き合い続けたユーフォーキャッチャーで獲得したキーホルダーを美鈴に渡してみると、勉強をサボった俺を咎めながら嬉しそうに受け取った。自分の好きなキャラクターを見つめながらあどけない表情をする美鈴は反則的に可愛かった。
 俺は朝比奈美鈴に恋をしている。
 小学4年生の時、俺は美鈴が通う小学校に転校してきた。
 金に不自由していないかわりに女にだらしなかった親父の姿を見ていた俺は、真面目に生きることが馬鹿らしいことだと思っていた。どうしようもない人間でも、成功者になることがで きる。俺の親父は、俺にとって風刺的な存在だった。
 だから俺は、美鈴が必死になって風紀を乱すクラスメイトたちを正そうとすることが理解できなかった。
「ちょっとあんたたち、ちゃんと掃除しなさいよ!」
「あんたがしっかり勉強しないと、このクラスの平均点が下がっちゃうでしょ!」
「こら! 順番抜かししない! 早乙女くんが先にブランコの前で並んでたでしょ!」
 毎日、美鈴の糾弾する金切り声が耳に届いて、正直なところ鬱陶しかった。
 何をそんなに必死になっているのだろうか。一々指摘したところでキリがない。子どもだけではなく大人でさえ俺の親父みたいにどうしようもない人間がごまんといる。そのご立派な正義感を持ち続ける限り、美鈴はストレスを抱え続けながら誰かに指摘し続けることになる。
 寄り道をするのが日課だった俺は、暇になる放課後になって美鈴のことを頻繁に考えた。自分とは正反対の属性を持つ美鈴のことを考えることで、いくらか時間を潰すことができた。
 ある日の放課後、ランドセルを背負った美鈴がゲーセンのユーフォーキャッチャーのショーケースを覗き込んでいる姿を見つけた。あんな優等生でもゲーセンに来ることがあるのかと意外に思ったが、あまりにも熱心に見つめる眼差しに興味を抱いた。美鈴の視線の先をたどると、プリキュアのぬいぐるみが並んでいた。
 美鈴は名残惜しそうにゲーセンを後にした。
 俺はなんとなく、先ほどまで美鈴が立っていた位置に向かった。特に意味はなかったが、小銭を取り出してアームを起動させた。暇つぶしのためにユーフォーキャッチャーは何度も利用したことがある。操作精度に関しては、そこら辺の大学生よりも自信があった。
 案の定、三回ほどアームを動かしただけで美鈴が凝視していたぬいぐるみを手に入れることができた。ただ、美鈴のために手に入れたわけじゃない。ただの気まぐれだった。せっかく取ったからランドセルの中に押し込み、格闘ゲームの筐体と戯れながら時間を潰した。
 そんな出来事も忘れかけていたある日、美鈴が学校を休んだ。理由は体調不良だった。俺は担任から今日の分の授業プリントを美鈴に届けるように頼まれた。美鈴の家から一番近いのが俺だったらしい。面倒だとは思ったが、どうせやることもなかった。大人に反発する方が面倒だと判断した俺は、素直に頷いた。この街の土地勘もかなり養われていたため、道に迷うこともないだろう。
 放課後になってすぐに美鈴の家に向かった。さっさと用件を済ませて遊びに行こうと思った。インターホンを鳴らすと、美鈴にそっくりな女の人が出てきた。
「あら、どちら様?」
「美鈴さんのクラスメイトです。今日の分のプリントを届けに来ました」
「あらあら。わざわざごめんなさいね。よかったら上がって。あ、お医者さんには風邪じゃないって言われたから」
 面倒な提案だとは思ったが、断る理由も勇気もなく、俺は美鈴の家にお邪魔することにした。リビングに通されると、テレビの音が聞こえてきた。
「行けぇ! キュアアクアー!」
 赤ん坊の隣でサイリウムを振りながらテレビに叫ぶ美鈴の姿がそこにあった。呆気に取られていると、クライマックスシーンなのか美鈴は勢いよく立ち上がり、プリキュアが敵を倒すビームを放つのに呼応してサイリウムをテレビに向けた。覚えられないような技名を叫んだ後、満足そうに赤ん坊を抱きかかえた。
「正義は勝つ!」
 そう言いながらくるくると回転しだした美鈴は、俺と目が合うと途端に硬直した。見る間に顔を赤くする美鈴に、俺は手を挙げた。
「よう」
「なっ、なっ、なんで」
「元気そうでなにより」
 固まる美鈴の後ろで、青髪のプリキュアが誇らしげに微笑んだ。
 そこで、俺は数日前にゲーセンで手に入れたぬいぐるみのことを思い出した。ランドセルの中から取り出して、それを美鈴に渡した。
「えっ、これ、ゲームセンターで見たキュアアクアだ!」
「朝比奈がゲーセンでそれを熱心に見てたから」
「……見てたの?」
「たまたまな」
「私のために?」
 本当は気まぐれだったが、説明したところで理解してもらえそうになかったため、頷いておくことにした。
「ありがとう」
 どうして俺が美鈴のためにこんなことをしたのか不思議そうにしながらも、美鈴は屈託のない笑顔でぬいぐるみに頬をこすりつけた。意外と、そういう表情もするんだな。
 成り行きでその日は美鈴の家でご馳走になることになった。家族と食卓を囲むなんて、随分と久しぶりだった。お袋が二年前に姿をくらませてから、親父は仕事で家を空けたままで俺と会話することはほとんどなくなっていた。かわりに俺に通帳を持たせてくれたが、自炊することもなくコンビニの弁当で食事を済ませることがほとんどだった。だから、俺は給食の時間が割と好きだった。誰かと積極的に会話することもなかったが。
 手の込んだカレーを食べながら、俺は舌鼓を打った。コンビニ弁当のカレーとは一味違う。昔お袋が作ってくれた料理がふと頭に浮かんだ。
「明日はカレーの残りね」
「えー、唐揚げが良い!」
「もう。美鈴は子どもっぽいんだから」
「そんなことないもん」
 学校では学級委員まで務めているが、やっぱり自分の親と話す時には幼い顔をするものらしい。普段クラスメイトたちに見せる刺々しい表情は見当たらず、口調も柔らかい。
「海斗くんは何が好きなの?」
「……秋刀魚の塩焼き」
「もしかして、お肉より魚派?」
「はい」
「良いわねぇ。美鈴にも見習ってほしいわ」
「何よそれ!」
 美鈴は頬を膨らませながら母親に抗議した。
 夕飯を済ませてしばらくしてから、俺は美鈴の家を去った。まるで自分の家庭環境とは違っていて、蛍光灯とは別の明かりが家に灯っている気がした。
 自宅に着くと、いつもは真っ暗な玄関に親父の靴と女物の靴が並んでいた。リビングの方から男女のいちゃつく声が聞こえてきた。生理的嫌悪を覚えながら、俺はリビングには立ち寄らずに二階にある自分の部屋に向かった。
 自分の家なのに気持ちが悪い。まるで自分の居場所じゃないみたいだった。美鈴の家の温もりが恋しく思いながら、俺はベッドの上で目を閉じた。
 その日のことがきっかけとなって、俺と美鈴は学校でも放課後でもなんとなく話すようになり、気づけばお互いに名前で呼び合うようになっていた。正反対な性質を持っている者同士だと思っていたが、不思議と美鈴の隣にいると精神が落ち着いている自分がいた。俺だったら諦めてしまうような状況も、美鈴は正そうとする。とっちらかった状況に美鈴は正義を持ち込んで秩序をもたらす。そのことを興味深く思うと同時に、心地よく感じていた。
「海斗の家に行ってみたい」
 美鈴の提案に、俺は渋った。
 今日はいつも以上に家に帰りたくない理由があった。
 珍しく俺が起きている時間帯に、親父は昨日帰ってきた。そして、俺に告げた。
「新しいお母さんができそうだ」
 その言葉を受けた時、俺の頭には今まで親父が家に連れ込んだ無数の女の人たちの顔が浮かんだ。そのどれもが、親父と交わっている時の気持ち悪い顔だった。誰が俺の母親になろうと、俺にとっては迷惑な話でしかなかった。
「あ、嫌だった?」
 美鈴が申し訳なさそうにした。
「……いや、大丈夫。行こうか」
 俺の言葉に安心したように、美鈴は笑顔を浮かべた。
 一旦、美鈴は自分の家に荷物を置いて、母親に俺の家に行くことを告げた。
 美鈴と合流してから目的地に向かった。電気の消えた我が家の前で、美鈴は物珍しそうにしていた。
「お家、大きいね」
 本当は、そんなことが言いたいわけでもなかっただろう。
 俺は美鈴を後ろに玄関を開けた。その瞬間、嫌な予感がした。誰かの香水の匂いがした。もちろん、女の人が使うようなやつだ。
 思わず美鈴を振り返った。美鈴は玄関を見渡しながら「広いね」と言った。この匂いに何も疑問を持っていない様子に胸を撫でおろした。考えてみれば、俺は美鈴に母親がいないことを言っていなかった。
 やっぱり家から出てもらおうかと思っていると、玄関に靴がないことに気づいた。少なくとも、今はこの家には誰もいない。つまり、この香水の残り香は、もしかすると割とさっきまで親父と女の人が家にいたことを示しているのではないかと思った。タイミングが良くてホッと息を吐いた。
 美鈴をリビングのソファまで案内した。玄関の匂いがあったため香りが充満しているのではないかと思っていたが、気にならない程度だったため安心した。
「ランドセル置いてくる」
 美鈴にそう言い残して、俺は二階の部屋に向かった。
 電気を点けないままランドセルを部屋に放り投げてリビングに戻ろうとすると、背後から誰かに口を塞がれた。驚いた俺はそのままベッドへと押し倒された。
 鼻息を荒くした女の人が、恍惚とした表情で俺を見下ろしていた。俺に覆い被さる女の人の長い髪が頬を撫ぜてくる。そこから玄関で感じた香水と同じ匂いがした。靴を隠して、俺のことを待ち伏せていたのか。
「やっぱ、顔整ってるね」
 女の人は舌なめずりをすると、俺の服を捲った。
 この人には見覚えがあった。親父が家に連れ込んでいる女の人の一人だった。
 女の人が俺の腹に口づけをした。全身が総毛立った。恐怖で身体が動かない。そして、口は手で塞がれて声が出ない。
「可愛い」
 女の人は一方的に俺の上半身に口づけをし続け、その度に脈打つ俺の身体を弄んでいる様子だった。
 下半身に女の人の手が触れた時、ようやく俺は自分の身が本格的に危険にさらされていることを悟った。俺の口を塞ぐ女の人の手に、俺は嚙みついた。女の人は短く悲鳴を上げた。その隙を狙って俺は美鈴の名前を叫んだ。
 美鈴は一階から「どうしたの?」と心配そうな声で俺に呼びかけた。
「くそっ」
 女の人は忌々しそうに部屋の外を睨みつけながら、一目散に部屋を飛び出して行った。
「きゃあああ」
 美鈴の悲鳴が一階から聞こえた。俺は急いで美鈴のもとに駆けつけた。
 美鈴が玄関の前で腰を抜かしていた。
「美鈴、女の人は?」
 俺の質問に、美鈴が震える手で玄関の方を指さした。
「そこから、出て行った」
 目に涙を浮かべる美鈴を見て、俺は申し訳ない気持ちになった。俺が一人でなんとかしていれば、美鈴を怖がらせずに済んだのではないかと思った。
「あれって、強盗?」
 美鈴の疑問に、俺は頷いた。なんとなく、本当のことを言わない方が良いと思った。
「怖かったね」
 美鈴が震える手で俺を抱きしめた。そして、俺の頭を撫でた。
「無事でよかった」
 恐怖による震えでぎこちないながらも、美鈴の誠実な気持ちが後頭部に伝わってきた。
 あれ、俺なんで泣いてるんだ?
 美鈴はただ、あの女の人を強盗だと勘違いして俺を宥めてくれているだけだ。それなのに、美鈴に抱きしめられたことで、それまで俺が親父や愛人に抱いてきた気持ちを受け止めてくれているような気がしてしまった。それは同情でもなく、共感でもなく、正義だった。本当のことを話せば、美鈴なら怒り心頭で親父やあの女の人を糾弾してくれるだろう。そんな確信があった。でも、美鈴をそんな危険な状況に陥れるわけにはいかない。
「辛かったね。大事な家に怖い人が忍び込んで来るなんて。もう、大丈夫だから」
 家に帰って来る度に、リビングからうんざりするような甘い匂いがしてきた。なまめかしい声が響いてきた。自分の居場所が汚されていくような、自分の居場所が奪われていくような、そんな気分を毎日感じていた。
 辛かったのかな、俺。確かに、漠然と毎日が怖かった気はする。でも、もはや自分がどう感じてきたのか分からない。
 玄関の鍵を締めて二人で震えながら部屋にいると、玄関のドアが開く音がした。またあの女の人が戻って来たのかもしれないと鼓動が速まった。
「ここにいて」
 美鈴に言い残して部屋を出た。恐る恐る玄関の様子を見に行くと、親父がいた。
 親父は俺に気づくと、少し驚いたような顔をした。
「帰ってたのか」
「……親父も今日は早いな」
「海斗が知らないだけで、いつもこの時間には一旦帰って来てるぞ」
 何故この時間に帰って来るのか訊こうとしたところで、俺は口を閉じた。思い返してみれば、親父と愛人が交わっているところを学校から帰って来た時によく目撃していた。気まぐれで真っ直ぐに家に帰って来た時は大体鉢合わせてしまう。だから俺は、確実に誰も家にいないタイミングを狙って帰るために、小学生の就寝時間に家に着くようにしていた。
「あのさ。さっき女の人が来てたよ」
 俺の言葉に、親父は目を見開いた。
「……あいつ、帰ったのか?」
「うん」
 俺が家に帰って来た時、玄関に靴がなかったことを思い出した。美鈴に悲鳴まで上げられて逃げ出したため、もしかすると裸足で外に出たんじゃないかと思った。
 靴箱を開いてみると、案の定女物のヒールがあった。これでは確かに、逃げるには適さない。
 親父がヒールを睨みつけていた。
「その人、俺を襲おうとした」
「……それで失敗して逃げたのか」
 親父は深い溜息を吐きながらしゃがみ込んだ。
「通りで小児系犯罪の記事を集めてたわけだ。最初から、海斗狙いで俺にすり寄ったのか。舐めた真似しやがって」
 怒りに打ち震えながら、親父は俺を睨んだ。殴られるのかと思ったが、親父はすぐに残念そうに落胆した。
「まぁ、いい。あいつのことは忘れよう。今夜また新しい母親候補を探すさ」
「……夜は仕事じゃないの?」
 てっきり、この時間に帰って来るのは仕事の休憩時間で、家から出たらまた仕事を再開するものだとばかり思っていた。事実、親父は前に俺にそう言っていた。
 そのことを忘れているのか、親父はなんとでもないように言った。
「夜は取引先も閉じてるんだから仕事なんてするわけないだろ。一応、うちはホワイトを売りにしてるからな。アフターファイブは夜のお楽しみにしないと」
 親父の言葉に俺はショックと恥ずかしさを覚えた。俺は親父の言葉を鵜呑みにして、深夜まで働いているのだとばかり思っていた。だから俺は一人で夕飯をとっているつもりだった。ふたを開けてみれば、親父は女の人たちと交流を図っていただけ。いよいよ虚しくなった。
 親父は立ち上がろうとしたところで、驚いた顔をして俺の背後に向かって声を掛けた。
「君は、誰だ?」
 その言葉で振り返ると、美鈴が神妙な面持ちでこちらを見ながら佇んでいた。今の会話を聞かれてしまっていたかと頭を抱えていると、美鈴は無言で中腰のままの親父の方へと近づいて行った。
 パン、と乾いた音が玄関に響いた。
 親父は何が起こったのか分からないといった表情で、赤くなった頬に手を添えた。
 美鈴が涙を流しながら手を振り切り、親父に向かって叫んだ。
「こんなの、間違ってる」
 明確に目の前の相手を刺す意志を示す声だった。
「あんたの恋愛事情は知らないけど、どうして我が子が帰って来るかもしれない家に女の人を呼び込むの?」
 親父は自分が小学生から説教を受けていることをまるで自覚していないような顔をした。
「何よりも、女の人から襲われたと海斗から説明があった時、真っ先に海斗の心配をしなかったことが許せない!」
頭蓋骨を金槌で叩き割られたような衝撃があった。美鈴に言われるまで、親父が俺を心配するなんて発想が微塵もなかった。
「こんなところ、家なんて呼ばない」
 親父は美鈴の言葉に真顔になった。
「海斗に謝って」
「…………」
「謝りなさい」
 毅然とした態度を取る美鈴に根負けしたのか、親父は俺に向き直って頭を下げた。
「すまなかった」
 親父の謝罪に、俺は何も返すことができなかった。
 玄関に気まずい静寂が訪れた。
 やがて親父は何も言わずに外に出て行った。美鈴がその後を追いかけようとして、俺は止めた。
「あいつ、何も分かってない。謝罪にも誠意がこもってなかった」
「いいんだ」
 あの親父が誰かに頭を下げるなんて、久しくしていなかったはずだ。美鈴はやっぱりすごい奴だ。
「許せないよ。海斗をあんなふうに扱うなんて。海斗が家に帰りたがらない理由が分かった」
 悔しそうにそう言いながら、美鈴は涙を流した。俺は美鈴を抱きしめた。
「ありがとう。俺のために本気で怒ってくれたのは、美鈴だけだ」
 いつの間にか視界が濁っていた。今日だけで二回も涙を流してしまった。俺の心はとうに壊れているとばかり思っていた。
 美鈴が俺の頭を撫でた。この時、美鈴に何があっても、俺は美鈴の味方であり続けると誓った。美鈴の正義を愛することに決めた。いや、愛してしまった。
 その後、美鈴が大人たちにこのことを知らせようとしたが、俺はそれを必死に止めた。仮に誰かが児童相談所に連絡をして動きがあった場合、誰かに保護されて今の学校に通えなくなってしまえば美鈴と一緒にいることができない。一向に納得しない美鈴をなんとか説得して、事なきを得た。
 美鈴は約束をすれば必ず守る。全く心配していなかったと言えば嘘になるが、翌日学校に行った時には昨日のことが話題に挙がることはなかった。俺は密かに安堵していた。
 俺は美鈴と一緒にいるために、それ以降の学生生活を送った。美鈴の喝があってから、親父は家に誰かを連れ込むことはなくなっていた。バツが悪いのか、親父が俺に話しかけてくることはそれまで以上になくなった。ただ、寂しさは全くない。俺には美鈴がいる。そう思えた。
 美鈴は教師や同級生の間で神童と呼ばれていた。塾にも通っていたため、同年代の奴らとは比にならないくらい利口だった。俺は目立つのが嫌でいつもテストではわざとミスをするが、美鈴は俺とは違い曲がったことが嫌いな性格であるため、素直に満点ばかり取っていた。
 私立の中学校に通うかもしれないと思って美鈴に探りを入れていたが、近所にある県内トップの公立高校で委員長を務めていた知り合いがいるらしく、その高校に通うと決めていた。親父に私立の中学校に通わせてもらうように頼むのは憚られたため、俺は内心安堵していた。
 そのまま美鈴と同じ中学校に進学した。勉強は嫌いだったため家では一切手をつけなかったが、美鈴と同じ高校に通うためには公立であるため内申点が必要だった。ある程度の内申点を稼いでおくために、授業は聴いて提出物もこなした。そのおかげで内申点には問題なく、受験生になってから本格的に勉強を始めた。自分で言うことにはなるが、俺は美鈴に負けず劣らずの才能を持っていると自負している。正直なところ、美鈴と同じ高校に受かることは難しくなかった。
 ただ、一つ問題が起きた。
 美鈴の妹が小学校でいじめに加担しているという噂が流れた。しかも、本人がその事実を認めたというのだ。情報源は不明だが、おそらくは小学校に弟か妹のいる誰かが噂を流したのだろう。その噂が広まってから如実に美鈴は肩身を狭そうにしていた。いつも風紀を正そうとする委員長として振舞っていただけに、美鈴は弱っていた。
 ある日の放課後、二人で下校していると、美鈴が自嘲するように笑って言った。
「普段偉そうにしてるくせに、自分の身内から不届き者が出るなんて、笑えるよね」
 これまで美鈴には噂の真偽を確かめてはこなかったが、今の発言は噂を肯定しているもので間違いない。
「なんか、最近家に居づらいんだよね。家族との距離感が変わっちゃった」
「つい最近まで妹とプリキュアの映画観に行ってたのにな」
 俺の余計な一言を咎めるように、美鈴が俺の腹を殴った。
「音葉だけじゃなくて、お母さんまでおかしくなっちゃった」
 美鈴の母親も今回の件で堪えたのだろう。美鈴と同じく正義感に溢れた人だから、自分が育てた子どもが曲がったことをして心が折れてもおかしくはない。
 噂が学校を巡り始めてから、美鈴は俺を家に呼ばなくなった。自分が正義を執行できない空間に、いつも正義を執行している対象を招きたくはないのだろう。
 翌日、俺は美容室に寄ってから学校に遅れて登校した。
 教室のドアを開けると、教師は目を丸くした。クラスメイトたちがざわざわと騒いだ。
「お前、その髪」
 金髪になった俺を見てあんぐりと口を開けた教師に、俺は言った。
「染めてきました。似合いますか?」
「ば、馬鹿野郎!」
 教師は俺の襟足を掴むと、そのまま生徒指導室まで連行した。生活指導の教師にこっぴどく叱られて教室に戻ると、美鈴が俺の頭を叩いた。
「あんた、何やってんのよ!」
「そういう年頃だから」
「馬鹿じゃないの! 規則は規則! ちゃんと明日までには黒に戻しなさい!」
 美鈴の鋭い指摘に、俺は思わず笑みをこぼした。
 美鈴はこうでなければ。久しぶりに威勢の良い美鈴を見ることができた気がした。時々威勢が良すぎて見ず知らずの大人に喧嘩を売って冷や汗を掻くこともあるが。その時は俺が仲裁に入るようにしている。
 満足した俺は翌日から髪の色を戻した。内申点に響く可能性があったため、教師に逆らうことを恐れたのだ。
 髪の色を戻したのに、その日一日でかなり目立ってしまったらしく、上級生から頻繁に絡まれるようになった。喧嘩を吹っ掛けられることが多々あったが、俺の方から手を出してしまえば進学に影響が出てしまう可能性がある。一方的に自分の顔に痣をつくることに終始した。
 美鈴の前ではそれからもちょいちょい悪ふざけをした。一緒に入ったコンビニで酒を買おうとしてみたり、煙草臭いカラオケで滞在した後に美鈴とあって喫煙を疑われてみたりといった要領だ。我ながらしょうもないことをしているとは自覚していたが、その度に美鈴がイキイキと怒る姿を見る度に、本当の美鈴の姿が垣間見えている気がした。少しでも負い目を感じずに自分が正しいと思ったことを突き通してほしかった。美鈴の妹が不正をしたと学年に知れ渡ってから、美鈴はどこか遠慮した様子だった。実際、ルールを破った奴らを指摘しても、妹のことを引き合いに出されて悔しそうに押し黙る美鈴の姿を見てきた。やがて、美鈴が自分の正義を殺す日が来るんじゃないかと焦った。だから俺は、こんなくだらないことをしてでも美鈴の正義を枯らしてほしくなかった。
 幸い、冬休み前の出来事だったため美鈴が中学を卒業するのも時間の問題だった。美鈴の正義が萎んでしまうことはなかった。その上幸運なことに、5人で受けた県内トップ高校に受かったのは、美鈴と俺だけだった。つまり、美鈴の邪魔をする奴は誰一人いなくなった。
 高校に進学してからは、大学受験では指定校推薦や公募推薦でのみ内申点が必要になってくるため、俺は欠点を取らない程度の勉強しかしなくなった。常に授業中は寝ており、髪も染めた。思惑通り美鈴に叱責され続けることはできたが、同時に上級生から絡まれることも増えてしまった。県内トップの進学校でも柄の悪い奴はいる。
「海斗は変わっちゃったね」
「そうか? 美鈴への愛は変わってないけど」
「……またそう言うことを」
「変わったと言えば髪の色くらいで、中身は変わってないと思うけど」
「高校に入るまでは授業をちゃんと聴いてた」
「それは美鈴のためであって」
「どうしてそれが私のためなのよ」
 違った。美鈴のためではなく、美鈴と一緒にいられるように自分のためにしていたことだった。俺を睨みつける美鈴に、俺はウインクした。
 案の定、高校に入っても委員長の座を獲得した美鈴は、負い目も引け目もなく風紀を正していった。傍から見ていて実に痛快だった。美鈴の正義感に溢れた姿は見ていて気持ちが良い。そんな美鈴を困らせるようなことをしているのは主に俺だったが。
 このまま平穏に高校生活が過ぎていくものだと油断していた。美鈴は自分の信条に則って平塚のカンニングを指摘した。しかし、想定外だったのは美鈴が平塚に対して負い目を感じたことだ。美鈴は平塚のことを完全なる悪人と見做すことができなかった。中学の時とは違って、他でもない自分の言動そのものが誰かを傷つけてしまったことで、自分の正義に自信を持てなくなってしまった。見るからに美鈴の様子がおかしくなった。
 生真面目だった美鈴は、それまで自分に雑用を押しつけてきた奴らがこぞって自分を避けるようになったことを深刻に捉えていた。本当は雑用を押しつけられなくなったことを喜ぶべきだったが、美鈴は自分が平塚を糾弾したことで、自分が周りから敬遠されるに値する人物なのだと勘違いしている様子を見せた。他人との交流を絶っている俺はそこに関してはどうすることもできず、俺自身が変わらず美鈴に話しかけ続けるしかできなかった。
 いよいよ頭を抱えたのは、謹慎期間を終えて登校して来た平塚の首に痣があったことだ。あれは間違いなく、ロープで首を吊ろうとした痕だ。
美鈴もそのことには気づいたらしく、ひどく動揺しているのが分かった。このまま平塚の精神状態が悪化して最悪の結末を迎えれば、今度は流石の美鈴も立ち直ることはできないだろう。せっかく登校してきたもののしばらくは休みがちだったため、俺は内心気が気ではなかった。ただ驚いたことに、他人に対して全く興味を示さない奴だと思っていた柊木が、授業中にトラウマから連日体調不良を訴える平塚に寄り添う姿を見せたことで俺は希望を見出した。二人の関係性を利用させてもらうことにした。
 ある日の休み時間、どうやって二人の仲を深めるか考えているところに、美鈴が俺に泣きついてきた。美鈴が歯向かった相手が美鈴を泣かせたのかと怒りが込み上げてきたが、美鈴曰く自分のせいで平塚が人が寄り付かない校舎でクラスメイトの女子たちにいじめられているらしかった。
 これだ、と思った。
 俺は教室に戻って来た柊木に話しかけた。
「平塚のこと軽蔑しないの?」
 ちょっかいをかけるような俺の言葉に、柊木が眉を顰めた。
 これは個人的に柊木のことを苦手に思っているが故の一方的な仕返しだった。
「別に」
「平塚のこと好きなん?」
「どうしてそうなるの?」
「そうでもなけりゃあ、カンニングした奴のこと気遣わないでしょ」
「別に気遣ってるつもりはないよ」
「じゃあ、なんでいつも平塚を保健室に連れて行くんだよ」
「……さぁ、なんでだろうね」
「やっぱり好きなんじゃん」
「まぁ、そうだね。少なくとも君よりは」
 冷静な眼差しで俺を見据えながら、柊木が言い切った。俺は思わず笑ってしまった。
「そういえば、平塚がC棟の校舎で女子たちに詰められてたよ。行ってあげた方がいんじゃない?」
 俺は柊木の背中を叩きながら「期待してる」と囁いた。
 柊木は俺の言葉に反応せず教室から走り去った。その姿を見送るのは、なんとも小気味良かった。俺は生理的に、柊木のことが苦手だったから。きっと、俺は心のどこかで柊木が俺の親父に似ていると思っている。自分にとって合理的であればそれでいい。自分が興味を持っている対象以外は人間とも思っていなさそうな、そんな不気味さが柊木にはあった。
 俺は美鈴を教室に置いて柊木が向かったC棟に向かった。柊木が利用した方とは反対側の階段を使って現場に向かった。柊木が口論で負けることはないだろうと思っていたが、いざという時のために影を潜めながら聞き耳を立てた。案の定、俺の出番はないままクラスメイトの女子三人が追い払われた。それから少し時間を空けて柊木と平塚をC棟に残して教室に戻った。心配そうに戻って来た俺を見つめる美鈴に、俺は親指を立てた。これできっと、事は上手くいく。それにもかかわらず隣の席で不安丸出しな顔を浮かべる美鈴にちょっかいを掛けて、見事に睨まれた。
 翌週からは、あの一件で二人の関係が進展したのか、柊木と平塚が楽しげに話す様子が見られた。それに伴い、平塚が授業中に体調不良を訴えることもなくなった。
「最近、柊木と平塚って仲良いよな」
 隣の席に聞こえるように、わざと声に出して呟いてみせた。案の定、美鈴がこちらを振り返った。
「かなりメンタル回復してるっぽいな」
 俺がそう言うと、美鈴は分かりやすく胸を撫でおろした。
 どういう風の吹き回しで柊木が平塚に興味を持ったのかは分からないが、柊木が積極的に平塚と関わろうとしてくれているおかげで、平塚が変な気を起こす心配は薄れた。上手いこと事が運んでくれたことに、俺は安堵していた。
 ただ、相変わらず美鈴の様子に少し違和感を覚えることがあった。なんとなく、授業中に集中を切らしている姿を見かけるようになった気がしていた。俺の思い過ごしであればいいが、ストイックな美鈴が勉強に集中しないなんてことは今まで一度もなかった。間違いなく、日程が迫ってきた期末考査が原因だろう。テストがあるというだけで、平塚の顔がチラついているんじゃないだろうか。
 意外と繊細な美鈴に頭を抱えていると、驚いたことに美鈴から勉強の誘いを受けた。明日が地球最後の日だったのか。
「気でも触れた? 俺を勉強に誘うなんて正気?」
 最初に口から出た言葉がそれだった。
「嫌ならいいけど」
 俺の反応が気に入らないのか、露骨に不機嫌そうにする美鈴に、俺は思わず苦笑した。
「全然ウェルカムだけどさ」
「そろそろ勉強しないと、自分の首を絞めることになるんだし、海斗もそろそろ勉強に力を入れなさい」
「ま、確かに中間考査は流石に何もしなさすぎたな。ところで、どこで勉強する?」
「それは悩み中」
「俺の家でよければ、来る? 誰もいないはずだから」
 俺が美鈴を家に誘うことが意外だったのか、美鈴は驚いた顔をした後に窺うように上目遣いをした。
「……いいの?」
「何気遣ってんの。どうせ親父が帰って来るの遅いし」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 俺が親父の愛人に襲われて以来、俺は美鈴を自分の家に招いていなかった。美鈴が遠慮しようとするのも無理はなかった。でも、今となっては親父が家に帰って来るのは確実に深夜になっている。問題はなかった。それ以上に、美鈴から誘いを受けたことが素直に嬉しかった。
 期末考査が始まるまで、俺の家で勉強会を開いた。
 授業中は考え事をするような素振りを見せていた美鈴だったが、一緒に勉強している時は普段と変わらない様子で勉強していた。そのことが俺を安心させた。
 一方の俺も順調に勉強を進めた。これまでにないくらい勉強に打ち込んだ。授業をフル無視している分、他の奴らよりもビハインドがある。だが、俺は自分の才能を周りに見せてこなかっただけで、十分に太刀打ちできる。取り返すのは楽勝だった。むしろ周りを出し抜くことができるだろう。たまには美鈴に一泡吹かせてやってもいい気がした。
 期末考査が目前になったある日、気づけば勉強会の途中で眠ってしまっていた。机に突っ伏していた上半身を起こすと、自分の背中で布団が落ちた。美鈴が掛けてくれたのか。
いつの間にか外が暗くなっていて、よだれを拭きながら立ち上がると、美鈴が俺のベッドに横たわって寝息を立てているのに気づいた。普段眉間を寄せている美鈴の寝顔は、いつもより幼く見えた。無防備に俺の前で寝ているのは信頼の証と喜ぶべきか、俺が男として見られていないと嘆くべきか判断しかねた。
 俺は眠っている美鈴に布団を掛けて、ベッドの縁に腰掛けた。美鈴の寝顔を眺めながら頭を撫でた。それから立ち上がろうとすると、美鈴が勢いよく俺に抱き着いてきた。
「私から離れて行かないで!」
 驚いて振り返ると、美鈴は目をきつく瞑りながら涙を流した。
「海斗までいなくなったら、私死んじゃう!」
 俺は美鈴を宥めるために頭を撫でながら、ゆっくりとベッドの上に横たえた。俺は美鈴の手を握った。
 あー、やばい。それは可愛すぎか。
 当の本人は苦しんでいるにも関わらず、美鈴がそんなことを言ってくれたことに対する喜びが心配を上回ってしまった。
 大丈夫。俺にとって、美鈴は全てだ。美鈴が俺にお節介をしてくれたおかげで、俺の世界は色づいた。それ以来、俺は美鈴に全てを捧げると決めたんだ。
 しばらく美鈴の寝顔を鑑賞していると、パチリと目を覚ました。美鈴は俺と目が合うと、急速に顔を赤くして俺の腹を殴った。その日の出来事が気まずかったのか、残念なことに残りのテスト期間は各自で勉強することになった。
 迎えた期末考査初日に、あいつが仕掛けてきた。
 一限目の数学のテスト開始直前に、平塚が倒れた。顔を真っ青にしながら、平塚は気分悪そうに立ち上がろうとした。
 隣で美鈴が苦しそうに胸元に手を当てていた。俺は思わず歯ぎしりした。やっぱり、平塚のことで頭がいっぱいだったから、美鈴は勉強に身が入らない時があったらしい。
 幸い、柊木が手際よく平塚を教室の外に運び出してくれたおかげで、美鈴の視界からトラウマで苦しむ平塚が排除された。
 だからといってすぐに美鈴の調子が安定することもないだろう。無情にも数学のテストが開始された。
 気もそぞろになりながら美鈴の様子を窺っていた。俺の見間違いではないと断言できるほど、シャーペンを握る美鈴の手は震えていた。
柊木は試験の途中で教室に戻って来て、飄々とした様子で問題に着手した。やっぱりあいつは別格だ。あいつにだけは、何があっても勝てそうにない。
試験が終了して隣に視線を移すと、美鈴の答案が目に入った。最後の問題が空欄になっていた。美鈴が一つでもブランクを残すのは初めて見た。
 休憩時間中、美鈴にどんな言葉を掛けようか考えあぐねていると、柊木が美鈴に接触を図ってきた。なんとなく、嫌な予感がした。
「前にどうして僕が一位をとることができるのか聞いてきたよね? テスト中、僕のことを見ていたらその答えが分かるよ」
 柊木の唐突な言葉に、当然美鈴は困惑していた。
「それだと、不正になるわ」
 美鈴の返答が想定内だったのか、柊木は淡々と話した。
「朝比奈さんから僕を見る分には、角度的に不正とは判定されにくいと思うよ。そもそも朝比奈さんの席よりも随分前に僕の席があるんだから。僕の解答用紙を見てほしいんじゃない。僕の姿を見ていてほしいんだ」
 美鈴の意見なんてまるで気にしていないみたいに、柊木はそう言い終わると美鈴に背を向けて自分の席に戻って行った。
「なんか不穏だな」
 俺が口にしたその言葉は当たっていた。
 二限目の英語が始まってから、俺は柊木のことを見ていた。さっきの美鈴に対する発言が、どうにも気に掛かっていた。
 その時は突然やってきた。柊木が美鈴の方を振り返ると、隣の席に視線を送った。それから身を乗り出すと、困惑する尾林に構わず解答用紙を凝視し出した。
 柊木の真意に気づいて、俺は冷や汗を掻いた。
こいつには決定的に何かが欠けている。
 思わず美鈴を振り返ると、柊木から視線を逸らしていた。
 柊木は美鈴の正義を利用して、平塚を助けようとしている。柊木が利用しようとしたのが美鈴でなければ、こんなにも不快な気分になることはなかっただろう。
 同時に、柊木の平塚に対する気持ちは本物なのだと分かった。もしかすると俺も、美鈴が平塚と同じ立場にさらされていたら、同じ手段を取っていたかもしれない。ただ、こいつは相当な悪魔だった。外道だった。よりにもよって気を病んでいる美鈴を使おうとしたことが憎い。目的を達成するための手段を全く選んでいない。いや、美鈴がカンニングをしたことで悩んでいることに気づいていなかったのか。柊木にとって平塚以外はマネキンと同じで気にするに値しない存在なんだ。だから、美鈴が純粋に喜んで柊木を糾弾すると疑わなかったのだろう。
「おい、柊木。何やってるんだ」
 教師の声で、柊木の不正が露わになった。
 予想通り、柊木はあっさりと自分の罪を認めた。それもそうだ。周りに自分が不正を働いたと認知してもらうためにわざとカンニングをしたのだから。
 教師は柊木を教室から連行し、別の教師を試験監督として派遣してきた。
 美鈴は終始憔悴した様子で試験に取り組んでいた。
 その日のテストが終わって帰り支度をしている美鈴の顔には生気が感じられなかった。
「あいつ、人のことを自分の思い通りに事を運ぶための駒としか思ってないな」
 苦々しい思いを吐露すると、美鈴が首を傾げた。
「駒?」
「美鈴のことを利用した」
「……利用?」
「……いや、なんでもない。結果的には、こっちにも利があるし」
 美鈴は柊木の真意には気づいていないようだった。
「帰るか」
 慰めの言葉を掛けるつもりだったが、美鈴と同じく気力を削がれていた俺は、そう言うのが精一杯だった。
 結局、期末考査の順位は俺が三位だった。一方の美鈴は9位だ。気が散りながらも、よく一桁を死守したものだ。俺が労いの言葉を掛けても、美鈴はその賞賛を受け取ることはなかった。
 テストの結果が出た頃に、柊木はペナルティである停学期間を終えて登校してきた。当然、自分の体裁なんて気にしていないため、クラスメイトたちからの視線に物怖じする様子はなかった。あいつにとっての最優先事項は、どこまでも平塚だった。正直、才能の塊である柊木が平塚を好きになる要素なんて見当たらなかった。平塚から滲み出る素朴さが好みなのだろうか。
 柊木は復帰してからも、相変わらず平塚と仲睦まじくつるんでいた。その様子に、美鈴は救われていた。柊木が平塚と仲良く昼飯を食べようとするところを見計らって、俺はちょっかいを掛けに行った。
「期待してた以上だった」
 俺がそう言うと、柊木は不快そうに顔を歪め、平塚を連れて教室から出て行ってしまった。
 あと僅かで夏休み期間に突入するという頃合いで、意外なことに柊木が俺に話かけてきた。
「霧島くん」
「……おう、柊木か」
 ちょうどトイレから出たタイミングで声を掛けられたため、意表を突かれて返事が少し遅れた。あと、苦手な奴の顔を見て一瞬怯んだというのもある。
「柊木と平塚の恋のキューピッドに何の用?」
 俺の挑発には答えず、柊木は言った。
「僕と平塚さんの仲を取り持ったのは、朝比奈さんのためなんだよね?」
 長い前髪の奥に潜む目が鋭かった。全てを見透かしたようなこいつのこの目が、俺は嫌いだった。
 俺を責めるような様子は見受けられなかった。美鈴のような正義でもなんでもなく、ただ自分の仮説が合っているのか答え合わせをするような口調で、柊木は俺に訊いていた。
「なんのことやら」
「僕と平塚さんが仲良くすることによって、朝比奈さんの後悔が和らぐと思ったんだろ?」
 俺が思っている以上に、こいつはいかれていた。思わず拳に力がこもった。
 こいつは、美鈴がカンニングを指摘したことを気にしていることに気づいていた。気づいていながら、美鈴を利用したのか。考えてみれば、美鈴に自分の不正を仄めかさずとも、教師に不審がられるだけで良いはずだった。美鈴が自分の不正に気づいても、平塚のことが頭にあって指摘してこない可能性があることくらい、柊木なら思い至っていたはずだ。つまりこいつは、美鈴への仕返しも兼ねてあんなことをしたのか。
 俺は気づかれないように歯ぎしりをしてから、平静を装って柊木を見据えた。
「そういう柊木こそ、平塚と同じ罪を分かち合うことで平塚の罪の意識を軽減しようとしたんだろ? 同じ罪を犯している奴が側にいれば、多少は自分の罪が軽いものだと錯覚することができるからな」
 俺の推論に、柊木は口の端を上げた。
「やっぱり君はいけ好かない。能力があるくせに、そんなものなんて持ち合わせていないふりをしている」
「クレイジーなお前に言われたくないな。それに、俺はできないふりをしてるんじゃない。面倒だからしないだけだ」
 柊木は俺の言葉に何も返さなかった。自分の確認したいことが確認できて、自分の言いたいことを言い切ったことで満足したのだろう。これ以上俺が何を言ってもこいつが興味を示すことはない。
 柊木は俺の横を通り過ぎてトイレに向かおうとした。俺は柊木の背中に向けて言ってやった。
「このまま平穏に夏休みを迎えられるといいな」
 柊木は動きを止めたが、こちらを振り返ることはなかった。
 俺も柊木も、お互いを利用し合っていた。利害関係は一致していたため、相手のやることに口を出すつもりはない。ただ、俺と柊木はこれからも注意し続ける必要があるだろう。言い方を選ばずに言うと、自分の想い人のメンテナンスに明け暮れる必要がある。
 平塚の心理的ダメージはかなり和らいだと言える。だが、油断していたら再び自己嫌悪に陥る可能性があるだろう。一方で美鈴の方は、未だに自分の正義に対して枷を課している節がある。美鈴が自分を貫くことに対してブレーキとなっていることを外す作業が必要だ。ただし、俺も柊木も自分の想い人以外に興味はない。相手がどうなろうと、自分の大切な人のためなら利用する。俺は平塚本人の口からもう大丈夫だという言葉を言わせたかった。美鈴が心置きなく自分の正義を信じられるように。
 夏休み前に、ちょっとしたハプニングが起きた。
 美鈴に怒ってもらうためにアルコールやニコチンに手を出したら、美鈴の正義感とは別の劣等感を刺激してしまったらしく、手痛いビンタをくらってしまった。その代わり、俺なりに美鈴のことを考えていると察してくれたらしく、なんと美鈴の家に招待してもらうことになった。不覚にも泣きそうになった。
 夏休みに入ってすぐに、俺は美鈴の家に赴いた。
 美鈴は緊張した顔で俺を家に招き入れた。俺の方まで緊張してしまった。
「あら、海斗くん。久しぶりね。随分と変わったわね」
 気さくに話しかけてきた美鈴の母親は、前に目にした時よりも随分と雰囲気が丸くなっていた。それが二年前から成長した美鈴の妹の不祥事が原因だと考えても、むしろ過ごしやすいと感じるに相応しいと思えた。そう思えるほど杜撰な人間ならば、美鈴はどれほど楽だっただろうか。
「お邪魔します」
「あ、海斗兄ちゃんだ!」
「おう、久しぶり。でかくなったな」
「えっへへー」
 屈託のない笑顔を浮かべる美鈴の妹からは、邪気が感じられなかった。そもそも、二年前には善悪の区別もついていなかったのだろう。本人がいじめをしたという自覚を持つのも難しい話だ。この様子だと、自分が美鈴と母親を苦しめたことは微塵も理解していないだろう。
「……これ、どうしたの?」
 美鈴がリビングの端に散らばる破片を指さした。
 美鈴の母親が驚いたように口元を押さえた。
「気づいてなかった。音葉がやったの?」
「お皿割っちゃったから、端っこに寄せてた」
 まるで問題と捉えていない口ぶりだった。
「怪我しなかった? 大丈夫?」
 美鈴の母親が心配そうに美鈴の妹の手を覗き込んだ。
「うん!」
 心配されたことが嬉しかったのか、満面の笑みで美鈴の妹が微笑んだ。
「音葉、私にも見せて」
 隣にいた美鈴が静かにそう言った。
「はい!」
 何故か得意げに両手を差し出した自分の妹に、美鈴は手を振りかざして思い切りビンタした。
 生活音を吹き払うような乾いた音がリビングに響いた。美鈴の妹は呆気に取られた顔をしていた。それから遅れて目に涙が滲んだ。
「自分が割ったのだから、自分で片付けなさい」
 美鈴が冷たく言い放った。
「放置していたら、自分のせいで誰かが怪我するかもしれないでしょ」
 声を上げるのも怖いのか、美鈴の妹はしゃくり上げながら美鈴を見上げていた。
「ちょ、ちょっと美鈴!」
「お母さんも」
 美鈴は口を挟もうとした母親を睨みつけた。
「大人なんだから、自分の子どもが間違ったことをしたらしっかりと怒るべきじゃない? それを怠るのなら、それは教育放棄と同義」
 美鈴の吐き捨てるような言葉に、美鈴の母親は口を噤んだ。
 美鈴は俺の手を掴むと、静まり返ったリビングから出て自分の部屋に向かった。当てつけのように勢いよくドアを閉めると、潤んだ目をこちらに向けながら俺に抱き着いてきた。
「ごめん、頑張ったから許して」
 美鈴は俺の胸に顔を預けて肩を震わせた。
「久しぶりに、音葉とお母さんに口出しした」
 声を震わせながら、美鈴は続けた。
「怒ることを放棄したお母さんの姿を見たくなくて、そのせいで道徳心が壊れた音葉を自分の家族だと思いたくなくて、いつも問題が起きたら見ないふりしてきた」
 美鈴は俺の服をくしゃりと握りしめた。
「でも、海斗が一緒にいてくれたから、勇気を出した」
 胸元で震える美鈴の頭を、自分が施しうる最大の慈愛を込めて撫でた。
 曲がったことが嫌いな美鈴でなくとも、この家庭が異常であることが一目で分かった。美鈴は自分の信じる正義を見失わずに居続けた。学校では委員長をしている。ずっと孤独に、自分の正解を見失わないために家庭を切り捨ててきた。でも、今は自分の家族と向き合おうとしている。俺はすっかり諦めてしまったことに、美鈴は立ち向かおうとした。立派だった。
 カンニングの件がきっかけではあったかもしれないが、美鈴はずっと、自分の身内が持たない正義を、自分が身内にすら向けることができないジレンマを抱え続けてきた。あの一件があって外で堂々と正義を掲げる権利が自分にはないのではないかと追い詰められるようになった。俺にできることは、外界で美鈴の邪魔をする要因を取り払うことだ。
 先日、俺は柊木と平塚をけしかけて美鈴と話をする場を設けた。その時に、俺は平塚からカンニングを指摘されたことで今があるという言葉を引き出した。その言葉がどうか、美鈴が自分を貫くための言質となることを願うばかりだ。
 俺はこの先もずっと、美鈴の障壁を取り除くために生きていくつもりだ。俺の一生をかけて、美鈴に歪で傍迷惑な恩返しをしていきたい。