Four sides, for the sides.

「カンニングしています!」
 私の声が、テスト中の教室に響き渡った。
クラスメイト全員が、こちらを注目した。不正を働いた張本人である平塚さんは、親に叱られることを恐れた子どもみたいに背を丸めた。
 そんな平塚さんの姿を見て、自分の胸が少し痛むのを感じた。
 私は間違っていない。不正をした人間に百パーセントの非があるはずだった。それなのに、どうして怖くなってしまったのだろう。
 今までも、真っ当な学生生活を送らない同級生たちを糾弾してきたはずだった。時には規則を破る上級生たちにも口出ししてきた。けれど、今回に限っては私が正義を振りかざした相手の系統が今までの人たちとは違った。
 目の前で怯える平塚さんからは、一切の悪意が感じられなかった。偶然道を踏み外してしまったところで私に目をつけられた。そんな印象を受けた。
 カンニングをしている人物が平塚さんだと気づく前に、私はほとんど反射的に告発していた。直後に平塚さんによる犯行だと気づいた時には、担任の真中先生が、私が指さした平塚さんが不正をした人物であることを認識していた。
 普段大人しい平塚さんのことだから、何か理由があるのではないか?
 そんな疑問と後悔が押し寄せてきそうになって、私はかぶりを振った。
 どんな理由であれ、不正をすることに正当な理由なんてあるはずがない。
 どれだけ追い込まれての行動だったとしても、それは全て自分の準備不足が招いた結果。
 なのに、どうして。
 どうして自分が被害者みたいな悲痛な顔をするの?
 不正をしたのはあなたでしょう? 平塚さん。
 まるで私が悪者みたいじゃない。
 涙を目に滲ませながら震える平塚さんは、真中先生と共に教室を出て行った。去り際、真中先生がテストを続けるように私たちに伝えた。
 私は、間違っていない。
 教室でのざわめきは、すぐに収まった。
 自分の身体が震えているのが、自分が取った選択に疑問を持っているからだと認めたくなくて、私は問題用紙と睨めっこした。すっかりテストに集中し始めたクラスメイトたちの中で一人、尚も私に視線を向けてくる人がいた。明確に後ろを振り返って私のことを見ているけれど、これは不正を働いているわけではないだろう。
私は柊木くんからの視線を感じたまま、気づかないフリをして問題を解き進めた。
 定期考査期間はお昼頃には解散になる。
 帰り支度をしながら、平塚さんの席をなんとなく眺めた。
 結局、今日のテストが終わっても、平塚さんが教室に戻って来ることはなかった。
「美鈴、なにボーっとしてんの?」
 小学生時代からの幼馴染である海斗が、何やら機嫌良さそうに私に話しかけてきた。その様子になんとなく腹が立つ。
「校則も守れないような不良が話しかけないでくれる?」
「相変わらず辛辣ですなぁ。俺たちの仲じゃん」
「私、ルールを守らない人が一番嫌いなの」
「幼馴染ですから、それは良く存じ上げております」
 いつもの調子でおどけながら海斗がへらへらと笑った。
 どうして、ホッとしてるんだろう。海斗の笑顔がいつも通りだから?
 私がしたことが間違ってないことを証明するみたいに、海斗の笑顔から今まで通りの日常を感じたから、私は安堵した?
「ありゃ? どうしたの俺の顔ジッと見つめて。見惚れるくらいイケメン?」
「……ムカつく顔」
「このご時世でルッキズムはまずいですよお姉さん」
 私の許可を得ることなく、海斗は私の後をついて来た。とはいっても、幼馴染ということもあって帰る方向は一緒だった。
 海斗は特に今日の事件について触れることなく、いつも通り程度の低い話を聞かされ続けた。海斗は私が軽蔑することを分かっていながら、平気で下品な話をしてくる。私だって年頃のレディなのだから、そういった話を異性からされることは気分が良くない。全く、この男は昔からデリカシーがない。
「あ、そういやさ、昨日こんなのゲットした」
 海斗は徐に鞄からキーホルダーを取り出した。
「じゃん! 美鈴の好きなプリキュア!」
「……キュアアクアね」
 海斗が手にした青髪のキャラクターは、私のお気に入りの子だった。中学生の委員長で、曲がったことが嫌い。その性格がプリキュアに変身する足枷にはなったけれど、自分が大切にしているものを肯定してくれている気がして、私はキュアアクアの言動が好きだった。
「わざわざ私のために買ってくれたの?」
「いやいや、ゲーセンのユーフォーキャッチャーで取ったんだよ」
「……テストの前日に遊んでたわけ?」
「ま、俺、要領良いから」
「答案回収した時、空欄だらけでしたけど?」
「あちゃー、見られちゃってましたか」
 海斗が舌をちょろっと出しながら頭を掻いた。
 ほんと、どうしてこうもいい加減なくせに偏差値七十オーバーの高校に進学できたのだろう。でも、私と海斗が社会に出た時にはきっと、海斗の方が上手く立ち回るんだろうな。アバウトで寛容な海斗は、特定の人から気に入られるだろう。かたや私には、人から好かれるような可愛げがない。実際、海斗が物好きなだけで私の周りで友人と呼べるような存在ができたことがなかった。それはきっと、今日みたいに自分の正義を振りかざさずにはいられない私の性格が原因なのだろう。
「美鈴って可愛いところあるよな」
「……は?」
「ほら、未だにプリキュアとかアンパンマンの映画観に行くじゃん」
「ちょ、ちょっと。誰かに聞かれたらどうするの!」
「いや、同じ制服の奴がいないから言ったんだけどさ」
「私には七つ下の妹がいるから」
「てことは、小4か。音葉ちゃん、そんな歳になったんだな」
「その付き添いで行ってただけ。それも、昔の話」
「でも、美鈴も好きなんでしょ? サイリウム持って映画に行くところ見かけたことあるよ」
「…………」
「なんで隠すのかね。公にしたら、普段眉間に皺を寄せてる顔とのギャップで友達できるだろうに」
「サラッと失礼なこと言わないでくれる?」
「冗談だって」
 私が口を尖らすと、海斗が大げさに笑い声をあげた。
「でも、俺としてはむしろ好都合だけどね。美鈴の交友関係が狭い方が」
「……あんた、私に不幸になってほしいわけ?」
「んいや、そういうわけじゃないけどさ。ほら」
 海斗が突然、私の方へと顔を近づけてきた。思わずドキリとする。
「その方が、俺が美鈴を独り占めできるじゃん」
「ま、またそういう気障なことを」
「だって本心だし」
 海斗は飄々とした様子で、いつもこういったことを口にする。毎回、海斗から発せられる不意打ちの言葉に慣れることがない。
 私と海斗の帰路が分かれるいつもの三叉路で解散した後、私は家に帰った。遠ざかっていく海斗の背中に「ちゃんと勉強しなさいよ!」と声を掛けたけれど、海斗はこちらを振り返ることなく手を振った。
 まだ誰も帰っていない自宅に着いて、手洗いうがいをしてから自分の部屋に向かった。すぐに机の上で参考書を開いて、明日のテストに備えて勉強を始めた。本当はこれ以上勉強してもすでに準備は完璧だから点数の向上は見込めない。けれど、詰めの甘さを幾度となく経験してきた。同じ過ちを繰り返して苦い思いをするのは愚かなことだ。私は残念ながら、天才じゃない。昔は神童と呼ばれたけれど、それはあくまで小学生までの話だ。私は参考書に必死に食らいついた。
 窓からの光だけで視力を得ていた私は、いつの間にか部屋の中が暗くなっていることに気づいた。急いで電気を点けて部屋を出ると、すでに音葉とお母さんが帰ってきていた。
「あ、ちょうどよかった。もうすぐご飯だから」
 お母さんが優しい笑顔で私に言った。
 お母さんは私と顔がそっくりだけれど、性格は正反対だった。細かいことが気になる私に対して、お母さんは大らかだ。でも、お母さんが大らかになったのは二年前からだった。それまでは、私や音葉が間違ったことをしたら手をあげるほど、躾に厳しかった。散々厳しくしてきたくせに、二年前から手のひらを返したように不気味なほど温和な性格になった。自分が間違ったことをしたくせに、それをきちんと叱らないことに私は苛立つことが何度かあった。親が自分の間違いを指摘してくれないようになったため、私は自発的に間違ったことをしないように気をつけるようになった。
 音葉がリビングでプリキュアを観ていた。ちょうど、海斗が私にくれたキュアアクアが登場するシリーズだった。
 正義が悪を倒すという構図は、見ていてスカッとする。昔から、プリキュアやアンパンマンが好きだった。
 友達とは呼べない人たちだったけれど、昔から委員長の役を任されてきたことで、クラスメイトたちから頼られてきた。都合の良い時にしか求められることはなかったけれど。
 小学生時代には滑り台の順番を守らない人に泣きつかれて規則を破った人を糾弾し、中学生時代にはバスの並ぶ順番を無視した人にもつっかかることがあった。ただ、見ず知らずの女子中学生にそんなことをされた男の人に「あ?」と威圧的に返されたことがあった。プライドだけは高いくせに、私は誰かに反撃されることには弱かった。そんなときに、海斗が間に入ってくれることがあった。中学生の時にはすでに身長が180近くあったガタイの良さで、相手が怯えた。しかも、その頃からすでに金髪だった。でも、海斗がそういった場面で声を荒げたところを見たことがなかった。
 夕飯を食べ終えて音葉がお風呂に入った頃合いで、お母さんが確認するように私に訊いた。
「そういえば、今日学校から電話があったんだけど」
「え、この家に?」
「えぇ。学校から電話が掛かってきたことなんて一度もなかったから私も驚いたんだけど……」
 お母さんがそこで言い淀んだと同時に、思い至った。
 今日のカンニングの件だ。
 別に悪いことをしたわけじゃないのに、むしろ良いことをしたはずなのに、私は鼓動が速まった心臓の音を誤魔化すように口早になった。
「あー、分かった。私がカンニングを指摘した件でしょ」
「そうなの。大丈夫だったの?」
 お母さんが何故か心配そうに私に訊いた。
 大丈夫って、何が?
 指摘した側の私が心配される必要はないはずだった。
 つまり、お母さんは私ではなく、カンニングを指摘された平塚さんの心配をしているということ?
「相手の子、気弱だったりしない?」
 気弱だったとしたら、なんだって言うの?
「正義感が強いところは美鈴の良いところだけど、たまに行き過ぎちゃうことがあるから」
 どうして、私の行動を褒めるんじゃなくて、説教されなきゃならないの?
「もちろん、カンニングする方に非があるのは間違いないのよ? でも、極度の緊張状態なら、誰でも間違いを犯すことはあって」
「うっさい!」
 私は耳を塞ぎながら、自分の部屋へと駆けだした。
 どうして、そんなこと言うの?
 私が間違ったことをしたのなら、いくらでも説教を受けても構わない。でも、私がしたことは正しかったはず。どんな物語でも、最後は正義が勝つ。不正を見逃すことが正義だとでも言うの?
「美鈴。もっと大人になって」
 二年前にお母さんから言われた言葉。今までお母さんから教え込まれてきたことが否定されて、裏切られた気持ちになった。
 階段を駆け上がる音を聞きつけた音葉が、部屋から出て様子を見ようと顔を出してきた。
「どうしたの? お姉ちゃん」
 不思議そうに首を傾げた音葉の首を絞めそうになって、私はすんでのところでとどまった。
「あんたのせいよ!」
 代わりに、音葉の両肩を掴んで激しく揺らした。
「あんたがあんなことしたせいで、お母さんはあんなふうになっちゃった! あんたのせいで、お母さんは壊れたの! お母さんを返してよ!」
「……お姉ちゃん」
「あんたなんか、プリキュアを観て良い人間じゃない!」
 音葉とプリキュアを観ていたのは、二年前までだった。
 当時小学2年生の音葉のクラスでいじめの告発があった。
 いじめられている子からの証言で、音葉がいじめをするグループの一人として名前が挙がった。でも、私はその事実を断固として認めなかった。音葉がそんなこと、するはずがない。お母さんも、自信満々に音葉が冤罪だと言い切っていた。
 音葉がそんな道を外すようなことをするなんて、ありえない。あれほどお母さんから厳しく言われ続けて、誰かを貶めるようなことをするはずがなかった。音葉ではなく、いじめられている子の方が悪役。私はそう信じて疑わなかった。
 ところが、お母さんが音葉と学校に赴き、被害者側の家族と話し合いをした時から歯車が狂い始めた。
 学校から帰ってきた二人に、私は音葉の無罪がどうやって証明されたのかを聞きたくてワクワクしながら話し合いの結果を訊ねた。
 その時のお母さんの笑顔は、今でも忘れない。
「お母さんね、音葉と一緒に、相手の子と親に頭を下げてきたの」
 耳を疑った。
 どうして、間違った方の人間に頭を下げないといけないの?
「どうして、二人が謝るの? 謝るのは、嘘を吐いた向こうの方でしょ?」
「何を言ってるの、美鈴」
「何って……」
「音葉は間違いなく、いじめに加担していたわ」
「…………は?」
「だから、こちらが謝った。何もおかしなことはないわ」
「どういう、こと? お母さんも言ってたじゃない。音葉は冤罪だって」
 私がそう言い返したのに、お母さんは一切の曇りがない笑顔で、私に言い放った。
「美鈴。もっと大人になって」
それ以来海斗を自分の家にいれなくなったのは、壊れた家族を見られたくなかったから。
 すっかり変わってしまったお母さんを不気味に思ったお父さんは、それから間もなくして家を出た。
 お母さんは、無邪気な悪意に勝つことができなかった。
 まだ善悪の区別がついていない音葉の意図しない悪意に折り合いをつけることができなかった。自分が育てた子どもの成れの果てが、このザマだった。お母さんは生まれて初めて、自分が間違っている立場に置かれてしまった。だから、まるで今までのことを全てなかったかのように振舞い始めた。
私がお母さんから学んできたことを、全て否定された気分になった。でも、自分の信念を曲げるわけにはいかなかった。お母さんが壊れてしまっても、最後まで子どもの面倒を見る義務を放棄したお父さんが血縁者であっても、アニメの悪役としてこの世に生を受けた妹がいたとしても、私はやっぱり、曲がったことが嫌いなままだった。私は家族よりも、正義を信じることにした。
 部屋に戻っても、勉強する気力がまるで湧かなかった。
 電気を消した部屋のベッドで、私はアンパンマンの抱き枕を抱きしめていた。アンパンマンは顔が濡れると元気をなくしてしまうのに、抱き枕を涙で濡らしてしまう。今日私がしたことは、バイキンマンの行いと同じように悪いことだったのだろうか。今アンパンマンやプリキュアを観ても、きっと私の心は癒されない。むしろ、心が抉られてしまうだろう。アンパンマンやプリキュアは、正しい心を持った人を救う話だ。悪を糾弾する主人公たちが今の私を救いたいと思うのだろうか。私を仲間だと思ってくれるのだろうか。
 平塚さんは、一週間の停学処分となった。
 テスト期間が明けてもしばらくは平塚さんが学校に姿を現すことがなかった。
 そして私がカンニングを指摘して以来、周囲の対応が変わった。友達と呼べるような間柄ではなかったけれど、私のことを委員長と呼ぶ男女が近寄らなくなった。具体的には、私を委員長と呼ぶ授業中常に寝ている男子。それまで事あるごとに私にノートを写させてほしいとお願いしてきていたけれど、あれ以来私にそれを要求してくることがなくなった。私を委員長と呼ぶ放課後に先生からの頼まれ事を私に押し付けてくる女子。猫撫で声を出しながら私に縋ってきていたくせに、一切私を頼ろうとはしなくなった。私と目が合うと、怯えたように背を向けてしまう。
 周りから距離を取られるというほど大げさなことでもないけれど、明らかに私がカンニングを指摘した時から私に向けられるクラスメイトの目が変わった。そのおかげで面倒事を押し付けられなくなったからむしろ楽にはなったけれど。ただ、いい加減な人たちから解放された事実が、まるで私が危険人物として扱われていることの表れのような気がして癪だった。今度はいい加減な自分が私に糾弾されるとでも思っているのだろうか。
「美鈴、ノート写させてくれい」
 一人だけ、例外がいた。
 海斗だけは今までと変わらず私に話しかけてくる。本当はこいつにこそ、私へのダル絡みをやめてほしい。
「また? いい加減しっかり授業を聞きなさい」
「へーい」
「気の抜けた返事ね。毎回言うけれど、ノートを写真で撮ればいいじゃない」
「あー、それはナシ。写真フォルダはえってぃな画像で容量がいっぱいです」
「……最低」
「そもそも写真を見返すの面倒だし。あとは、美鈴の字が好きなんだよ」
「……え?」
「美鈴って性格きついくせに字は無駄に可愛いじゃん? 丸っこくて」
「……余計なお世話よ」
「自分なりのメモも残してるから、こんなこと考えながら写してたのかって考えるのが楽しい」
「変な趣味ね」
 小学生時代からの腐れ縁の幼馴染は、やけに嬉しそうに私のノートを写し始めた。ノートを写してもどうせ見ないでしょうに。でも、そんな相変わらずの光景を見ていると落ち着く。海斗にホッとされられるのは、それはそれで癪だけれど。
 中間考査の順位表が張り出された日。
 私は自分が信じてきた正義がもしかすると万能ではないのかもしれないと思った。
 ひどくやつれた顔で平塚さんが登校してきた。そして、平塚さんの首に紫色の痣があった。その痣が索状痕のように見えて、まさかと思った。動悸が激しくなり、視界がぐらつく。
 平塚さんは私のせいで、自殺未遂をした?
 考えてみれば、私が好きな正義のヒーローたちは、悪に振り切った敵を糾弾している。けれど、私が悪としてレッテルを貼った相手である平塚さんは、完全な悪人ではなく、等身大の女の子だった。そんな子がクラスメイトたちの前で不正を働いたと晒し上げられたらどう思うか。
 自分の存在価値なんてない。
 そう思い込んで、自ら命を絶とうとすることは想像に難くない。
 平塚さんはその日から、登校と欠席を繰り返した。
 やっと安定して学校に通い始めたと思いきや、授業中に嘔吐した。明らかに、自分を追い詰めたことで身体に影響が出ているのが見て取れた。
「美鈴。もっと大人になって」
 お母さんの言葉が不意に私の脳裏を過った。私は思わず頭を抱えた。
 私が、間違っていた?
 お母さんが平塚さんのことを心配していた理由が分からなかったのは、私が大人になりきれていなかったから? あそこで不正を指摘しないことが大人だった?
 大人になるって、どういうことなのだろう。
 今度は私が吐き気に襲われた。必死に腹部をさすった。
「僕が平塚さんを保健室に連れて行きます」
 突然、聞き慣れない声が教室に響いた。
 声のした方を見ると、驚いたことに柊木くんが立ち上がっていた。ということは、今の声は柊木くんから発せられたもの?
 普段の気怠そうな声量で話す柊木くんからは想像もつかないようなはっきりとした声だった。
「へぇ」
 隣の席で海斗が感心した様子で微笑んでいた。
 分からなかった。何が正解だったのか。柊木くんがどうして平塚さんの介抱に名乗り出たのか。海斗はなぜその様子を見て微笑んだのか。
 私の疑問をよそに、柊木くんは平塚さんに肩を貸して教室を後にした。
 平塚さんが教室からいなくなって、自分が無意識のうちに胸を撫でおろしているのに気がついた。それから授業は問題なく続けられ、しばらくして柊木くんが教室に戻って来た。
 数日、同じような光景が繰り返された。平塚さんが授業中に体調不良を訴え、柊木くんが平塚さんを保健室に連れて行く。柊木くんが平塚さんを保健室に連れて行ってあげる光景を見る度、私は安心した。
 いつもなら体調不良を訴えて保健室に行くはずの平塚さんが、その日は教室に居続けていた。その様子に心底安心しながら、私にしては珍しく授業を話半分に聞きながら平塚さんの様子を窺っていた。
「柊木って、人間に興味ないと思ってた」
 休み時間になったと同時に、海斗が隣の席からそんなことを私に言った。
「人間って……。平塚さんを保健室に連れて行く様子を見てそう思ったの?」
 海斗は私の疑問に頷いた。
「確かに、柊木くんが授業中に発言してまで誰かのために動くイメージはなかったわね。別に冷たい人だって言いたいわけじゃないけれど」
「勉強マシーンかと思ってた」
「それは言い過ぎ」
 くつくつと喉を鳴らしながら笑う海斗を咎めて、私は教室を出た。
 棟と棟の間にあるレンガ敷のスペースに向かって、私はベンチに座った。辺りを見渡しながら、今日はいないのかとミャーの姿を探した。
 ベンチの下から足首をつつかれて、私は視線を下に向けた。みゃー、と鳴き声を上げながらミャーが私の足に頬をこすりつける。
 ミャーは白い毛並みの猫でみゃーと鳴くから、私が勝手にミャーと命名した。一匹で行動することが当たり前の猫を見ると、不思議と落ち着く。去年からミャーと戯れているうちにいつの間にか仲良くなっていた。
 ミャーが私の膝に飛び乗ってきた。
 ミャーの頭を撫でながら、私は愚痴をこぼした。
「何が正しいのか、最近分からないんだ」
 みゃー、と目の前に広がる景色以外には何も興味がない様子でミャーが欠伸をした。そんなミャーの姿で癒されていると、C棟の窓から平塚さんが見えた気がした。座ったままだと見えにくかったため、ミャーを膝から下ろして立ち上がり目を凝らした。
 同じクラスメイトの女子三人に囲まれて、平塚さんが怯えた様子で佇んでいた。
「何、あれ……」
 自分の目に映る光景が呑み込めなくて、私は思わず呟いた。
 女子の一人が、平塚さんの髪の毛を鷲掴みにした。喉からひゅっと変な音がした。末端の神経までが冷える感覚がして、私は思わず駆け出した。
 あれは明確にいじめだ。本来なら委員長である私が取り押さえるべき現場のはずだけれど、私にはどうしてもあそこに行く勇気が湧かなかった。
 もしも平塚さんがいじめられている理由が私だったとしたら? いや、十中八九私が原因だろう。カンニングをしたことをきっかけとして、平塚さんがいじめられていると考えるのが自然だ。
 咄嗟に、海斗の顔が浮かんだ。
 私は海斗を求めて教室に戻った。幸いなことに、海斗は教室にいた。一人で暇そうに机に肘をついている。
 海斗が驚くのも構わずに海斗を強引に廊下に連れて行った。
「なんで震えてんの? 誰かに何かされた?」
 海斗から低い声で指摘されて、海斗の手を掴む私の手が目視で分かるほど震えているのを認識した。
「誰にやられた」
 普段の海斗からは想像もできないような鋭い目で訊かれて、私は震える声で説明した。
「平塚さんが、C棟の校舎でいじめられてた。私のせいだ」
 海斗の手を強く握ると、海斗が私の頭にポンと手をのせた。
「美鈴のせいなわけないだろ。美鈴は何も間違っていない」
 海斗の言葉で自分の視界が濁った。
 私が小さく頷くと、海斗は「俺に良い考えがある」と言って私を教室に戻した。
「柊木、いねぇかな」
 海斗がそう口にした途端、柊木くんが教室に戻って来た。海斗は柊木くんのもとへと向かって何かを話し始めた。私がいる場所からは二人が何を話しているのかは聞こえなかったけれど、海斗から何かを聞かされたらしい柊木くんは、駆け足で教室を出て行った。海斗は私の方へと近づいてくると、
「多分、もう大丈夫だ」
と言って笑った。
「でも、一応様子を見てくる。美鈴はここで大人しくしておいて」
 海斗の優しい声に頷くと、海斗はもう一度私の頭を撫でてから教室から出て行った。
 チャイムが鳴ったと同時くらいに、顔を青ざめさせたあの女子三人組が教室に滑り込んできた。それから少し遅れて海斗が教室に入って来て、私の隣に座ると親指を立てた。授業が始まってしまったため、私は口の動きだけでありがとうを伝えた。海斗は私のお礼に微笑んだ。
 結局、その授業が終わるまで柊木くんが教室に戻って来ることはなかった。授業が終わってから柊木くんが授業担当の先生に事情を説明している様子が見えた。先生は納得した様子で頷いているみたいだったから、正当な理由として受け取られたのだと思う。
でも、これでいじめの件が公になったら、平塚さんはいよいよ居心地の悪い思いをしてしまうんじゃないだろうか。それで今以上に気が病んでしまったら、私が追い打ちをかけるようなことをしてしまったことになるんじゃないかと思って気が気ではなかった。今の私は、それまで掲げてきた正義の心に従うというポリシーに大きく反していた。保身に走るような考えを持つ、卑しくて狡い矮小な存在だ。そんな自分が心底嫌になる。自分では正しく正義を遂行してきたつもりだったけれど、それは思い過ごしにも程があった。自分を棚にあげて散々周りのせいにしてきたけれど、私こそがヴィランの役に相応しい。
「いてっ」
 そんなことを考えていると、頭に何かがぶつかった。それは机の上にポトリと落ちた。くしゃくしゃになった小さな紙屑だった。それを開いてみると、中には文字が書かれてあった。
『鬼婆みたいな顔してるぞ』
 急速に頭に血がのぼって、私は隣をキッと睨んだ。案の定、これを私に投げつけてきたのは海斗だったようで、声を抑えながらけらけらとお腹を抱えて笑っていた。ムカついたけれど、冷えていた身体の体温が戻ってくるのを感じた。海斗なりに気遣ってくれたのだろう。
 それからは平穏な日々が続いた。
「最近、柊木と平塚って仲良いよな」
 その二人を眺めながら、海斗がボソッと言った。
 自分の願望で脚色された光景かもしれないと思っていたけれど、海斗がそう言うなら他の人からも同じように見えているだろう。
「かなりメンタル回復してるっぽいな」
 海斗が目を細めながら平塚さんについて言及した。
 その言葉を聞いて、私はホッとした。
 夏休み前の最後の砦である期末考査が迫ってきていた。
 去年からずっと、私は一位を取りに全力を出してきた。けれど、柊木くんが一位の座からおりたことは一度もなかった。
 今回も例にもれず、私は全力で勉強に励んでいた。天才なんて認めない。努力こそが何よりも正義であり、正解だ。高校に入学するまで私は周囲から神童だの天才だのと評されてきたけれど、私はただの秀才だ。他の人には見えないところで血の滲むような努力をしてきただけ。自分でそう自負できるほど、私は勉強に命を捧げてきたつもりだった。
 だからこそ、焦りが募っていた。テストに向けて勉強していると、カンニングを指摘したあの日の光景がちらつく。カンニングをしていた人が平塚さんだったと気づいた時のこと。動揺して泣きそうになった平塚さんの表情。教室から連行される弱々しい平塚さんの背中。その光景がちらついて、勉強していると無性に不安になってしまうことがある。塾に通っていても、授業に集中できない時が増えた。
 定期考査前は、塾でも学校の勉強をしていいことになっている。定期考査期間がまだ先の人たちは授業が進み、定期考査が近づいている、あるいは定期考査期間中の人は自習室を使って勉強する。いつもは自習室を使うところだけれど、人生で初めて一人で勉強することに心細さを覚えた。そんな私は、血迷った選択をしてしまった。
「気でも触れた? 俺を勉強に誘うなんて正気?」
 放課後、私と同じく部活に入っていない海斗に一緒に勉強しようと提案すると、海斗が「青天の霹靂」と大げさに笑った。
「嫌ならいいけど」
 不気味なものと遭遇したみたいな目で見られると流石に腹が立つ。ぶっきらぼうにそう言ってみせると、海斗は困惑しながらも頷いてくれた。
「全然ウェルカムだけどさ」
「そろそろ勉強しないと、自分の首を絞めることになるんだし、海斗もそろそろ勉強に力を入れなさい」
「ま、確かに中間考査は流石に何もしなさすぎたな。ところで、どこで勉強する?」
「それは悩み中」
「俺の家でよければ、来る? 誰もいないはずだから」
 海斗の方から自分の家に招待しようとしたことが意外だった。海斗の家庭環境はお世辞にも良いとは言えない。物心がついた頃から父子家庭だった海斗は、父親が何度も見知らぬ女の人を家に呼んでは行為に及ぶ光景を見てきた。小学生時代に海斗と知り合った時から、海斗は自分の家に帰りたがらなかった。それは今でも同じようで、ゲームセンターやカラオケで時間を潰して極力家に帰る時間を遅くしている。
「……いいの?」
「何気遣ってんの。どうせ親父が帰って来るの遅いし」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 図々しいんじゃないかと思いながらそう言うと、海斗はいつものような愛想の良い笑顔ではなく、幼馴染にだけ見せる人懐っこい笑みを浮かべた。
 勉強道具は全て鞄の中に入っていたため、私たちは学校を出た足で海斗の家に直接向かった。
海斗の家は大きく、二人暮らしにしては寂しい間取りだった。海斗の父親が名の知れた企業の社長さんだというのは、小学生時代に聞いた。金銭面では不自由したことがないらしく、毎日外出して遊ぶお金があるのも実家が太いかららしい。お金を与えておけば海斗から文句を言わないと思っているのか、早いうちから海斗専用の口座を持たせてくれているらしい。口座を確認すれば、いつの間にか預金額が膨れ上がっているのだそう。
けれど、金銭面が満ち足りていても、家族との繋がりが希薄な海斗の心は欠乏感があるのではないか。心が荒んでしまっているのではないか。そんな気がしてならない。いつもポーカーフェイスを浮かべているから、海斗の本心は見えないけれど。
「適当にくつろいでおいて」
 海斗は私を部屋に通すと、徐に制服を脱ぎだした。
「ちょ、ちょっと何してんのよ!」
 狼狽しながら目元を手で隠すと、海斗が愉快そうに笑った。
「今更なんだよ。美鈴の家で一緒に風呂に入ったこともあんじゃん」
「そ、それは昔の話!」
「家ではラフな格好でいたいんだよ」
 上裸になった海斗は、白地の薄いシャツに着替えた。シャツ越しにも筋肉質な海斗の身体が見えた。
「……あんたって、部活入ってないよね? どうやって鍛えてるの」
「ん? あー、毎日学校帰りにジムに寄ってる」
 家に帰る時間を引き延ばすのに、今はジムにも通っているのだろうか。あるいは、本当に鍛えたいがためにジムに通っているのかもしれない。幼馴染の体格の変化が、月日の経過を強く感じさせた。
「んじゃ、早速始めますか。分からないところあったらご指導よろしく」
 海斗は首を左右に傾けながら関節を鳴らした。気合を入れている様子だった。
 一人だと私がカンニングを指摘した日のことが頭にチラつくけれど、海斗と一緒に勉強しているとその現象に苦しむことはなかった。やっぱり、誰かと一緒に勉強すると考え事が減るみたいだった。私は何度か海斗の顔を盗み見て、自分が一人ではないことを確認しながら勉強を進めた。
 結局、海斗は一度も私に質問することはなかった。
 普段は何事にも力を抜いて取り掛かる海斗は、誰よりもポテンシャルが高い。自分にも人にも厳しい私から見ても、海斗には才能がある。だからこそ、もったいないと思う。あらゆることに全力で取り組めば、海斗なら何者にでもなれるだろう。
「どうした? 俺のこと見つめて」
「……なんでもない」
「さっきからチラチラ俺の方見てるの気づいてますからね」
「……見てない」
「嘘つけ。見てたろ」
「見てない」
 私が譲らない性格なのを知っている海斗は苦笑した。優等生の私の方よりも不良の海斗の方が大人っぽく見えるのが癪だった。
 むしゃくしゃ気持ちをなんとかして晴らそうとしていると、海斗が着手しているワークが目に入った。パッと見ただけでも、正確に回答しているのが分かる。授業中寝ているはずの海斗が驚くべき速さで今回のテスト範囲で出題される内容を吸収できている証拠だった。
「あんた、私よりも地頭いいんだから、せっかくの才能を無駄にしないで」
 中学時代、私は学年でトップの成績を誇っていた。一方で海斗は勉強らしい勉強をしたことがないのにそこそこの成績を取っていた。少なくとも、私が一切勉強せずに挑んでも取れないほどの点数だった。そのことに腹を立てた私は、海斗に聞いたことがあった。
「あんたが勉強してる姿見たことないんだけど」
「美鈴の言う通り、勉強したことないな」
「じゃあ、それでどうしてそれほどの点数が取れるの?」
「自主的に勉強はしてないけど、授業は聞いてるから」
「……授業で取り扱われなかった問題も出るでしょ」
「でも、それって授業で習ったことの応用じゃん?」
 なんでもないようにそう言ってみせた海斗に、私は驚愕した。ただの応用だと言ってのけた問題の中に、必死に勉強した私ですら点を落としたものも含まれていたからだ。
 ただ、その時は少なくとも授業を聞くという姿勢は持っていた。けれど、授業を聞くだけでは要領だけで賄えなくなったのか、高校に入学した途端に海斗は授業すら聞かなくなった。いつも授業中に寝ているところを先生に怒られるのが日常茶飯事になっていた。
「高校受験の時だって、私とはかけ離れた成績だったあんたは、たった一年足らずでこの高校に受かった。三年間、必死に勉強した私がやっとの思いで到達した高校だったのに」
 海斗は才能がある上に要領も良い。そのくせに、その能力を発揮することを億劫にしている。そのことが、いつも鼻についていた。
「確かに、俺はこう見えても頭が良いからな。少なくとも、高校に入学するまでは俺に勝るポテンシャルを持ってる奴はいなかったな」
 海斗の言う通り、周りの生徒たちは、それまでノーマークだった海斗がダークホースのように突然追い上げて県内トップの公立高校に受かったことに驚いていた。つまり、海斗以上に才能を秘めた人物が周りにはいなかったということだろう。そして、海斗の才能に劣るのは私も含まれていた。
「でも、柊木。あいつは本物だな」
 戦々恐々とした表情で、海斗は遠くを見つめた。
「まともそうな見た目してるのに、本当はタガが外れてる。ああいう奴が、一番怖い」
 海斗が誰かについて言及することは珍しいことだった。そして、誰かのことを評価することも、私の記憶にはないくらい珍しかった。
「美鈴。そこの計算間違えてる」
「……え?」
 海斗に指摘されて、自分のノートに視線を落とした。海斗の指摘通り、長い途中式の一部で符号ミスがあった。消しゴムで該当箇所を消して訂正しながら、私は海斗の方を振り返った。海斗はすでに勉強を再開していた。やっぱり海斗には勝てそうにない。諦観めいた笑みを浮かべながら、私も勉強を再開した。
 期末考査が始まるまでの間、私は海斗の家にお邪魔して一緒に勉強する日々を過ごした。ある時に海斗の家で眠ってしまう失態を犯してしまい、私は強制的に残りのテスト期間は一人で勉強することにした。
 期末考査初日、事件が起きた。
 一限目の数学のテスト開始直前に、平塚さんが倒れた。顔色を悪くした平塚さんを見て、私は取り乱しそうになった。間違いなく、平塚さんが倒れた原因が私にあったからだ。数学のテスト中に私からカンニングを指摘された時のことを思い出して、平塚さんは卒倒した。カンニングを指摘した側である私でさえ期末考査に向けて勉強する時にあの時のことがフラッシュバックしたのだから、不正を指摘された側である平塚さんは尚更今日を迎えることを恐れていただろう。
 動悸が激しくなった私は、胸元を押さえながら必死に深呼吸した。倒れたクラスメイトのもとに駆けつける余裕なんてなかったし、駆けつける権利が私にあるのかも分からなかった。ありがたいことに、その後すぐに柊木くんがいつもみたいに平塚さんに肩を貸して教室を後にした。
 静かになった教室で数学のテストが始まった。
 しばらくの間、手が震えてテストに集中することができなかった。柊木くんが教室に戻ってきた頃に我に返って慌てて問題に取り掛かった。時間が足りずに、最後の問題が解けない状態で解答用紙が回収された。最後まで問題を解くことができなかったのは、人生で初めてだった。きっと、テストが開始してしばらくしてから教室に戻ってきた柊木くんは全ての問題を解くことができただろう。教室を出る前に柊木くんが先生に放った言葉を思い出した。
 二限目の英語のテストが始まる前の休み時間。
柊木くんが私の席に訪れた。そして、初めて柊木くんが私に話しかけてきた。
「前にどうして僕が一位をとることができるのか聞いてきたよね? テスト中、僕のことを見ていたらその答えが分かるよ」
 突然の提案に私はたじろいだ。
「それだと、不正になるわ」
 なんとなく、カンニングという言葉を避けていた。
「朝比奈さんから僕を見る分には、角度的に不正とは判定されにくいと思うよ。そもそも朝比奈さんの席よりも随分前に僕の席があるんだから。僕の解答用紙を見てほしいんじゃない。僕の姿を見ていてほしいんだ」
 柊木くんはそう言い残すと、自分の席へと戻って行った。
「なんか不穏だな」
 隣の席で、海斗が微妙な顔をしながら言った。
「……不穏って?」
「前に言ったように、タガが外れてる奴の行動は怖い。予測が利かないから」
 海斗は机に肘をついて柊木くんの方に視線を向けた。
 私には、柊木くんが私にあんなことを言った意図も、海斗がどうして柊木くんを恐れているのかも、分からなかった。
 英語のテストが始まって数分間、私はチラチラと柊木くんの後ろ姿に視線を合わせた。不正をするつもりは全くないはずなのに、慣れないことをしているだけで悪いことをしている気がする。ただでさえ数学のテストでこけたのだから、私は英語のテストに集中するべきだった。けれど、休み時間中に言われた柊木くんの言葉に惑わされて、私は何度も柊木くんの姿に気を取られていた。
 突然のことだった。
 柊木くんは一度こちらを振り返った後、不意に隣の席に座る尾林くんに視線を向けた。と思いきや、露骨なまでに身を乗り出して尾林くんの解答用紙を覗き見ようとした。
「えっ……」
 咄嗟に出た声が掠れていたおかげで、周りの人には気づかれなかった。私は口元を手で押さえて、もう一度柊木くんの方を見た。すると、柊木くんと目が合った。柊木くんの表情はどこか楽しそうで、私に何かを期待しているようだった。
 柊木くんの言葉が頭の中で反芻された。
「前にどうして僕が一位をとることができるのか聞いてきたよね? テスト中、僕のことを見ていたらその答えが分かるよ」
 柊木くんは常習的にカンニングを繰り返していた? だから、いつも成績を上位に維持することができていた?
 戦慄するような憶測が脳内を飛び交った。けれど、すぐにその憶測は否定された。
 仮にカンニングを繰り返していたとして、柊木くんの解答用紙はいつも完璧だった。柊木くんの周辺に座る人たちでは解けないであろう問題も、柊木くんはいつも得点していた。つまり、柊木くんにはカンニングに頼らなくともテストで高得点を取る実力が備わっているはずだった。不正の可能性として他に考えられることは、机の中にカンニングペーパーを忍ばせてあることくらいだった。けれど、私から見て柊木くんの机の中には何も入っていない。
 だとすれば、柊木くんは私に何を伝えたいのだろう。
 私の身体は石化したみたいに動かなくなっていた。身体中の血液が凍ったみたいに全身が冷えた。凍って表面が刺々しくなった血液が心臓を押し広げようと内側から圧迫してくるみたいに、動悸が激しい。冷や汗が額を伝った。
 私は咄嗟に、目の前の現場から目を背けた。
 どんな理由であれ、柊木くんがしていることは間違っていた。だから、私はそのことを糾弾するべきだった。けれど、不正を働いた柊木くんもまた、完全な悪人ではない。少なくとも、私は柊木くんのことを尊敬していた。振り切って糾弾できるほど、私には思い切りがなかった。
 いや、違う。これはただの言い訳だった。
 前回のテストでいつもみたいにかざした正義が平塚さんを追い詰めた。その出来事がトラウマになっていた。
 日々衰弱していく平塚さんを見て、自分がやったことに自信が持てなくなっていた。相手の事情を度外視してまでカンニングを指摘することが正しいことなのか、分からなくなっていた。柊木くんの学力的にカンニングをする必要なんてないはずだった。つまり、柊木くんには何か事情があって……。
「あっ」
 そうか。そういうことだったんだ。
 これは平塚さんを断罪した私に対する当てつけなんだ。
 柊木くんは授業中に体調不良を訴える平塚さんの介抱をしていた。つまり、柊木くんは平塚さんに気がある。自分の想い人である平塚さんをどん底に突き落とした私を恨んで、柊木くんは当てつけのようにもう一度私にカンニングを指摘させようとした。頭脳明晰な柊木くんのことだから、私が平塚さんを糾弾したことを後悔していると気づいていてもおかしくはない。
「おい、柊木。何やってるんだ」
 先生が咎める口調で叫んだ。思わず肩が跳ねた。
 先生が柊木くんにカンニングしているのではないかという疑いを掛けた。すると、柊木くんはあっさりと自分の罪を認めた。それから、二人は教室を後にした。
 教室の中が騒がしくなったけれど、すぐに代理の先生が試験監督として教室にやって来たため、テストは続行された。動揺して震える手をなんとか制御しながら、私は英語のテストを乗り切った。
 その日に実施されたテストを全て終えた頃にはぐったりしていた。心身共に消耗していて、帰り支度をしようと立ち上がった時に足が震えた。
「あいつ、人のことを自分の思い通りに事を運ぶための駒としか思ってないな」
 海斗が珍しく怒りを露わにした表情でそんなことを口にした。
「駒?」
「美鈴のことを利用した」
「……利用?」
「……いや、なんでもない。結果的には、こっちにも利があるし」
 海斗の言っている意味が分からずに首を傾げていると、海斗はいつもの飄々とした笑顔を浮かべた。
「帰るか」
 怪訝に思いながらも海斗の言葉に頷いて、私たちは下校した。
 柊木くんは処分を受けてしばらくの間停学になった。もちろん、残りのテストを受けることはなかった。
 期末考査が終わってしばらくしてから、柊木くんが登校してきた。平塚さんの時とは違って自分が原因で柊木くんに謹慎が言い渡されたわけではなかったため、それほど動揺することはなかった。不可解だったのは、柊木くんがいつもと変わらない様子だったことだ。学年で一位をキープし続けてきたのにもかかわらず、その努力が水の泡になった今の状況に何ら不満を抱く様子を見せていない。何とも言えない不気味さを感じた。それほどまでに、私に復讐したかったのだろうか。私に嫌がらせできるのなら、今までの功績を手放すことなんて彼にとっては容易いことだったのだろうか。
 私への嫌がらせなら、大成功だ。きっと、今回の期末考査は散々な結果になっている。いつもみたいに万全の状態でテストに臨むことができなかった。私に罪悪感を抱かせるだけではなく、テストの点数操作も同時にできたのだから、彼の思惑は成就されたといえる。
 お昼休み、柊木くんが平然と平塚さんの席に赴いて一緒に食事をとりだした。先日の件で悪びれる様子も見せない神経の図太さに呆れていると、隣の席で海斗が立ち上がった。それから二人の方へと近づいて行き、何かを柊木くんに告げた後こちらに戻って来た。すると、柊木くんは不愉快そうな表情を浮かべて平塚さんと共に教室を出て行った。
「柊木くんに何て言ったの?」
 隣の席に戻って来た海斗に訊ねると、海斗は悪戯っぽく笑って言った。
「ありがとうって伝えた」
 思ってもみなかった返答に困惑していると、海斗は何事もなかったかのようにサンドウィッチを食べ始めた。
 それから数日が経って、期末考査の結果が返却された。
 案の定、結果は悲惨なものだった。廊下に張り出された順位表には、上位に常連として載っていた柊木くんの名前はもちろん、私の名前も掲示されていなかった。今回の順位表は、どこか味気なかった。

一位 秋丘真由美 1023点
二位 峰本朱里  1005点
三位 霧島海斗  997点

「やっぱり、やればできんだよねぇ、俺」
 両手を後頭部で組みながら、海斗が得意げに言った。
 普段授業を聞いていないくせに、テスト数日前から勉強を始めた海斗は学年でトップ3に入った。
「美鈴は9位か」
「落ちぶれたものね」
「おっと。自虐されるとは」
「言い訳なんてしない。結果が全てだから」
「今回のテスト、集中できなかったんだろ」
「それも実力のうち」
「本当なら、美鈴が一位だったはずだ」
「いいえ。私は八人に負けた。それだけのことよ」
 柊木くんの私への嫌がらせは、成功した。
 海斗には強がって見せたけれど、内心では荒波が立っていた。自分のプライドが、自分を内側から責めてくる。海斗が口にしていたような言い訳が、奥底から湧いてくるのが分かる。必死に喉元から出そうになる言い訳を押し殺した。
 それから夏休みを迎えるまでの間、私はテストもないのにテスト期間中以上に勉強に励んだ。気が立っていた私は、湧いてくる怒りの矛先を勉強にぶつけた。勉強に関して取り返すためには、勉強をするしかない。今度は柊木くんが順位表に載ろうと絶対に私が一位になってやる。それに、才能だけで三位にまでのし上がった海斗にも腹が立つ。コツコツと努力を続けてきた私と違って不真面目な海斗が余裕綽々でその座を奪ってくる。それがひどく気に入らない。挙句の果てに、勉強する度に怯えた平塚さんの顔が脳裏を過る。そのせいで、勉強に集中できないことが増えた。焦りが心の奥底に堆積していって、硬化していく。
「なぁ、美鈴。今日どっか遊びに行かない? テストも終わったし」
 学校が終わって呑気に誘ってきた海斗の笑顔が妙に腹立たしい。
「行かない」
「ありゃ、何か怒ってる?」
「別に」
「……どうした? 何かあったか?」
 海斗が心配そうに私の肩に手を置いた。
「触らないで!」
 思わず叫んで海斗の手を跳ねのけた。すると、海斗の胸ポケットから煙草が落ちた。
「あ、やべ」
 慌てて煙草を拾い上げると、海斗はそれを胸ポケットにしまって口笛を吹き始めた。
 海斗は確かに不良だけれど、煙草を吸っている姿を見たことはなかった。煙草を吸ったことがないから喫煙者の気持ちは分からないけれど、ストレスを軽減するために嗜む人がいると聞いたことがある。もしかすると、海斗は人知れず家庭環境で心が荒んで煙草に手を出したのかもしれない。
 そんなことに思考を巡らせていると、海斗が奇妙そうに私を見ていた。
「怒らないんだな」
「……海斗がこんなことするなんて、何か理由があるんじゃないの?」
「今までだったら、理由なんて関係なくこういうことは注意してただろ?」
 痛いところを突かれて、私は言葉に詰まった。
「あとさ、気づくことない?」
 そう言いながら、海斗が私に近づいてきた。目の前に顔を近づけてくる。
 海斗の顔が、いつもより赤い。熱でもあるのだろうかと思ったけれど、遅れて不快な臭いが鼻腔を襲ってきた。
「あんた、お酒飲んだの?」
「あったりー」
 陽気におどける海斗に、沸々と怒りが湧いてきた。ただし、この怒りは存分に私情を挟んだもので、法律を破ったことに対するものではなかった。
「昼休みに学校を抜け出して、家の冷蔵庫から持ち出して来ましたぁ」
 未だかつて、海斗が私に対してここまでの悪ふざけを披露したことはなかった。それほどまでに、海斗には気に病んでいることがあるのかもしれない。
 どんな顔で海斗を見ていたのか、自分では分からない。海斗は一向に口を開かない私を見て、突然落ち着いた様子で言った。
「いつもみたいに怒ってよ」
「……え?」
「なんか遠慮してるでしょ。自分の正義が正しいのか迷ってる感じがする」
「…………」
「俺、美鈴に救われたからさ」
「……え?」
「昔から誰にでも物怖じせず正義を振りかざす美鈴に、俺は惚れたんだ」
 海斗が照れ臭そうに頭を掻いた。けれど、照れ臭いから顔が赤らんでいるのか、アルコールで頬が朱色に染まっているのか、分からなかった。
「カンニングした奴が悪いに決まってるだろ」
「ちょっ」
「悪人が被害者ぶってるくらいで自分の信念曲げてんじゃねえよ」
 海斗の言葉が深く自分の胸に突き刺さった。
「美鈴の言動は、間違いなく誰かを救ってきた。俺は美鈴のことを、誇らしく思ってる」
 聞いたことがないくらい海斗の言葉には力がこもっていた。
「あー、くそ。やっぱり酒は飲むもんじゃねえな。後で絶対後悔するやつだ、これ」
 わしゃわしゃと頭を掻きむしる海斗は勢いよくしゃがみ込んだ。
 それから海斗は私を見上げると、降参したように白状し始めた。
「本当は、一緒に遊びに行って煙草を吸うつもりだったんだよ。俺の私生活がどうしようもなければ、美鈴がまた怒ってくれるんじゃねえかと思って」
 親がいない間に洗い物を済ませて得意になった子どもみたいな顔で、海斗は続けた。
「柊木や平塚に美鈴の正義感を踏みにじられた気がして悔しかったんだ。だから、俺がどうしようもない奴だったら、美鈴の正義が再燃してくれるんじゃないかって思ったんだ」
 言いたいことを言い切ってすっきりした顔をしながら、海斗は立ち上がった。
「俺のエゴもあるかもしれないが、美鈴には自分の正義を貫いてほしい」
 海斗がそう言って私の肩を掴もうとした。
「ふざけんな」
 怒気を含めた私の言葉に海斗の動きが一瞬止まった。
「ふざけんなあああああ」
 思い切り叫びながら、私は海斗の顔を平手打ちした。
 アルコールが全身に回って力が入らないからか、海斗は体勢を崩して尻もちをついた。
「人を舐めるのも大概にしろよ!」
「み、美鈴……」
「言っておくけど、今怒ってるのはあんたが規則を破ったからじゃないから」
 海斗は私がどうして怒っているのか分からずに頬をさすりながら首を傾げた。
「そんなめちゃくちゃなことばっかりする奴の才能に私の努力が負けてるのが許せないの!」
「…………」
「こんな不純な気持ちを抱えたまま、私は誰かに正義をかざしたりはしない」
「……美鈴」
「これは自分が侮辱されたことに対する仕返しだから」
「……ごめん」
 珍しく本当に反省しているらしい海斗を見て、海斗の意図も汲まずに最初から誘いを突っぱねたことを思い出した。
「でも、ありがと」
「……え?」
「私のためを思ってくれて」
「……おう」
「でも、煙草もお酒も法律違反」
「……すんません」
「今から交番に行こう」
「えっ」
 海斗の手を掴もうとすると、素早く手を引っ込められた。
「え、何してるの?」
「いや……流石に警察に突き出すのはやりすぎかと」
「私の正義に惚れたんでしょ?」
「そ、それは……わりぃ。自分だけは情けをかけてもらえると高を括っていました」
「随分と都合が良いのね」
 私は無理やり海斗の手を掴んで立ち上がらせた。
 どこか怯えた様子で海斗が私の表情を窺った。
「警察に行くのは冗談だから」
「……それは朗報だ」
 安心した様子で海斗は笑みをこぼした。
 海斗の言葉で自分に対する自信を少しだけ取り戻せた。海斗を安心させるために発したこの言葉はそのことに対する対価だった。
「海斗」
「……どうした」
「今度、私の家来る?」
「…………いいのか?」
 海斗が意外そうに私の言葉に反応した。
 私はずっと、家族に対して正しいと思うことを押し殺してきた。壊れてしまったお母さんに私が何を言っても無駄。倫理観が欠如した音葉を諭そうとしても無駄。そうやって、家の外では守っていた信条を、一番身近な家族の前では捨て去ってしまっていた。
 海斗が私の正義を好いてくれていることは知っていた。だから、外では気丈に自分を貫く私と、家の中では自分を押し殺している私のギャップを海斗に見られたくなくて、海斗を家に招くことがなくなっていた。一貫性のない私を見られることを恥じていた。そんな私は、もはや外においても自分が信じてやまない正義を錆びつかせてしまっていた。その現実を、海斗が私に突きつけてくれた。だから私は、自分の気持ちを押し殺す不条理を手放すことにした。
 私よりも不安そうにする海斗に、私は言った。
「私のこと、見ていてほしいの」
 海斗が僅かに目を見開くのが分かった。
 外での私を正してくれた海斗に、今度は家庭での私を見守ってほしいと思った。
 海斗が側にいてくれる限り、私は自分の正義を信じることができる気がした。