Four sides, for the sides.

「カンニングしています!」
 初夏の中間考査、一日目。
 今は二時限目の数学が実施されている最中で、教室の中は静かだった。その静寂を掻き消すような真っ直ぐな声に、僕を含めたクラスメイトたちが一斉に振り向いた。当然、試験監督の教師も驚いた様子で声のした方に目をやった。
 声を上げたのは、学年の委員長である朝比奈美鈴だった。朝比奈さんは左斜め前にいる平塚静香に人差し指を向けていた。
 平塚さんは朝比奈さんの指摘に肩を竦めて、否定するでもなく机の上を凝視することに終始していた。
 割れ物でも扱うみたいに、教師が平塚さんに訊いた。
「カンニング、したのか?」
 固唾を飲んで見守る教師に、平塚さんは馬鹿正直に頷いた。
 平塚さんの言葉に、教室の中がざわついた。
 平塚さんが犯行を認めたとき、僕は平塚さんみたいな人でもカンニングをするんだ、と思った。というのも、平塚さんは普段大人しく、目立つようなタイプではない。積極的に発言をするわけでもないけれど、教師から見れば模範的な生徒だったように思う。
 それに、個人的に平塚さんの人格に対して尊敬している部分があった。
平塚さんは学校では少数の友人と交流しているイメージがあり、そのコミュニティ外の人に対して平塚さんの人の好さが知れ渡る機会が少ない。そのため、学校外で平塚さんがお婆さんの荷物を持ってあげるところや、雨に打たれる捨て猫に傘を差してあげて自分がずぶ濡れになる光景を見かけたことがある僕にとっては、他のクラスメイトたちよりも今回の件は相当に意外なことだった。
 ただ、考えてみれば平塚さんが優しい人物であることと、不正を働かないことを同じ物差しで測ることがそもそもの間違いだったのかもしれない。気前はいいけれど、異性関係で節操がない人だっている。それぞれの性格が両立するとは限らない。
 そんな僕の平塚さんに対する考慮なんて当然他の人には無関係なわけで、教師は平塚さんを立ち上がらせた。
「みんなは一旦テストを続けていてくれ。すぐに別の先生を呼ぶから」
足を震わせる平塚さんはまるで何かの被害者のようで、僕たちにそう言い残した教師と一緒に教室を去って行った。
 しばらくは教室内がざわざわしていたけど、たった今不正によっておそらくは職員室送りになったクラスメイトのことを思うと怖気づいたのか、騒がしさは比較的速やかに鳴りを潜めた。何事もなかったかのように、クラスメイトたちは必死にテストに食らいつくような姿勢を見せ始めた。
 僕は興味本位で後ろを振り返った。平塚さんのカンニングを告発した朝比奈さんが気になったのだ。彼女は他のクラスメイトと同様、平然とした様子で再びテスト用紙と向かい合っていた。まるで今回の件を告発した張本人とは思えなかった。朝比奈さんにとって、こうした正義を誰かにかざすことは当然なのだろう。きっと彼女は、そういう生き方をしてきた。
 僕は再び机に視線を戻して、テストの続きに取り組んだ。
 哀れだな、と思った。
 去年、この高校に入学してから一度も学年で一番以外を取ったことがない。そして、おそらく高校二年生になって初めてのこのテストでも、一番を取ることができるだろう。
 カンニングをするほど、僕にはこのテストに価値があるとは思えなかった。それは、このテストが再来年の大学入試に役立たないだろうという意味でもあるし、カンニングをするほどの難易度だとは思わなかったという意味でもある。
 結局、中間考査を終えて翌日から、平塚さんは一週間の停学になった。
 ただ、停学処分期間が過ぎても、しばらくの間平塚さんは登校してこなかった。無理もないことだろうと思った。挙句の果てには自主退学でもするんじゃないかと思っていたけれど、平塚さんは全科目のテスト結果が返却された頃におずおずと教室に姿を現した。
 ちょうど廊下に学年順位が掲載されていたお昼休みに平塚さんが教室に向かって来るのが見えた。クラスメイトたちは平塚さんの姿を確認すると、学年順位で盛り上がっていた会話をぴたりと止めた。平塚さんは下を向いたまま誰とも目を合わせることなく教室に入って行った。見るからにやつれていて、衰弱しているのが分かった。
 僕は改めて学年順位表を見上げた。

一位 柊木逸   891点
二位 朝比奈美鈴 823点
三位 秋丘真由美 795点

 全科目を合計すると900点満点。
 正直、このテストにおいて科目合計で十点以上失点する意味が分からなかった。だから、平塚さんはやっぱり無駄なことをしたものだとつくづく思った。せっかく天賦の人格者だというのに勿体ない。そう思えてならなかった。
「柊木くん」
 自分の名前が呼ばれることは珍しいことだった。
 振り返ると、平塚さんを追い込んだ張本人である朝比奈さんがそこにいた。
「ほんと、あなたにはいつも驚かされるわ。この私が懸命に努力しても、どうしてもあなたには追い付けない」
 朝比奈さんはいつも学年順位が掲載されると、こうやって僕に話しかけてくる。彼女の意図が見えず、僕は肩を竦めてみせた。
「そろそろ、どうやって勉強しているのか教えてくれてもいいんじゃない?」
 朝比奈さんは鋭い眼光を突き付けながら、僕に言った。
「どうやってと言われても、親が塾に通わせているからとしか言いようがないね」
「それは私も同じよ。でも、明らかに私とあなたとでは差がある。その差を生じさせているものが何か知りたいの」
「さぁ、どうだろうね。通っている塾の質とかじゃない?」
 僕がそう言うと、朝比奈さんの背後から同じクラスの霧島海斗が姿を現した。長髪かつ金髪で、胸元がはだけたチャラい奴だ。ヤンキーみたいな素行の悪さを聞いたことはあまりないけれど、先輩に喧嘩を売られることはたまにあるというのを風の噂で聞いたことがある。そして、県内トップの進学校には相応しくない風貌に、教師たちが手を焼いているのをよく見かける。
 そんな彼が、朝比奈さんの肩に手を置いて馴れ馴れしい口調で言った。
「そりゃあ、才能じゃん?」
 朝比奈さんは霧島くんの言葉を受けて、額に血管を浮かび上がらせた。
「私だって神童と呼ばれていたのよ。才能の差があるなんて、認めない」
「神童にもグラデーション的なものがあるんだよ。同じく神童の俺にも分かる。柊木は本物だよ」
 にやりとしながら僕をそう評した霧島くんは、慰めるように朝比奈さんの背中を押して教室に戻ろうとした。
「誰が神童ですって? 今回も下から数えた方がはやいじゃない」
「あははー、こりゃ手痛い指摘」
 霧島くんは朝比奈さんを教室に押し込みながら一瞬だけ僕を振り返るとウインクしてきた。
 僕は霧島くんのことが苦手だった。その風貌とは相反したような不気味さを彼から感じることがある。けれど、その不気味さを具体的に言語化することもできない。ただ、ことわざを引用するとすれば、能ある鷹は爪を隠す、という言葉が霧島くんには似合うだろう。
 午後の授業では、僕は一定の間隔で平塚さんの様子を窺った。平塚さんはげっそりした表情で授業を聴いていた。二週間近く休んでいたこともあって授業についていくことができるのだろうか、と思った。
 どうして僕は、平塚さんのことを気にしているんだろう。
 ふと、平塚さんの様子を眺めながらそんなことを思った。
 それから一週間くらいの間、平塚さんは登校したり休んだりを繰り返していた。平塚さんの友人は距離感が難しいのか、平塚さんに話しかける様子を見せてはいたけれど、お互いに気まずくなったのか平塚さんが誰かと話している姿を見かけることがめっきりなくなった。
 そんなある日、事件が起きた。
 カンニング事件をクラスメイトたちが忘れかけていた午後の授業で、突然平塚さんが吐いた。机の上が吐瀉物まみれになり、教師が慌てて授業を中断しようとした。
 どうしてそんなことをしようとしたのか、自分でも上手く説明できない。けれど、僕は反射的に立ち上がって教師に言った。
「僕が平塚さんを保健室に連れて行きます」
 僕の提案に、教師は狼狽えながらも「助かる」と許可を下した。
 僕は平塚さんの席に向かった。
「立てる?」
 訊ねると、平塚さんは小さく頷いた。
「僕の肩に手を回して」
 平塚さんは僕の言葉に従うことを躊躇った後、今度は首を横に振った。
 平塚さんの手を見ると、吐瀉物で汚れていた。僕の肩に手を回すことに後ろめたさを感じたのかもしれない。
「大丈夫だから」
 僕は無理やり平塚さんの腕を僕の肩に回した。
 それから平塚さんを立ち上がらせて、一緒に教室から出た。
「吐きたかったら吐いていいから。後で僕が処理しておく」
「……ありがとう」
 か細い声で、平塚さんはお礼を言った。そして、平塚さんは肩を震わせながら涙を零した。
「迷惑かけてごめんなさい」
「体調不良なんて自然の摂理だよ」
 僕の言葉が気休めになるかは分からなかった。ただ、それから少しして平塚さんの涙は止まった。僕たちは保健室に向かい、保健室の先生に平塚さんを託した。
 教室に戻る前にトイレに寄って、鏡で自分の制服が汚れていないか確認した。平塚さんは気遣って僕の肩に手を触れないようにしていた。そのため、僕の制服には汚れが一切ついていなかった。
「首に、痣があったな」
 平塚さんの長い髪で今まで気づいていなかったけれど、平塚さんを支えようとした時、首に紫色の痣があるのが視界に入った。
 鏡に映った自分の首に触れながら、停学の間に平塚さんが自死しようとした光景が浮かんできた。平塚さんにとっては、カンニングしたという事実が自殺するに値することだったのだろう。自分が不正を働いた事実を絶対に知られたくない人がいたのか、あるいは単に周囲から不正を働くような人間だという目を向けられることを恐れたのか。
 あの一件以来、僕は平塚さんのことばかり考えている気がする。その理由が、自分でも釈然としない。
 それから数日、平塚さんは吐くほどではないにしろ、授業中に体調不良を訴えることがあった。その度に、僕は平塚さんを保健室に連れて行った。クラスメイトたちからすれば、僕の行動の真意が分からなかったことだろう。当の本人にも分からないのだから無理もない。
 ある日の休み時間、トイレから戻って教室に入ると、朝比奈さんと霧島くんが話しているのがなんとなく目に入った。すると、霧島くんが不意にこちらに視線を向けてきたことでばっちりと目が合ってしまった。
 彼はにやりと妖しい笑みを浮かべると、僕の方へと近づいてきた。そのことを気味悪く思っていると、霧島くんが僕の肩に手を置いた。
「平塚のこと軽蔑しないの?」
 一瞬、耳を疑った。
 どうしてそんなことを僕に言うのだろうと考えてみて、僕が平塚さんを保健室に連れて行く光景を見られているからだと思い至った。
「別に」
「平塚のこと好きなん?」
「どうしてそうなるの?」
「そうでもなけりゃあ、カンニングした奴のこと気遣わないでしょ」
「別に気遣ってるつもりはないよ」
「じゃあ、なんでいつも平塚を保健室に連れて行くんだよ」
「……さぁ、なんでだろうね」
「やっぱり好きなんじゃん」
「まぁ、そうだね。少なくとも君よりは」
 僕がそう言うと、霧島くんは「かっはー」と額に手を当てながら笑った。
「そういえば、平塚がC棟の校舎で女子たちに詰められてたよ。行ってあげた方がいんじゃない?」
 霧島くんの報告に、僕は何故か動揺した。
 霧島くんは僕の背中を叩くと「期待してる」とどこか嬉しそうに言った。
 期待してるって、何にだよ。
 そう心の中で呟いてから、僕は教室を後にした。
 教室に戻って来てすぐに教室を出たということは、霧島くんの報告を受けて行動を起こしたと証明しているようなものだ。けれど、そんなことはどうでもよかった。
 C棟の校舎は美術の移動教室でしかほとんど生徒からは用がなされない。そのため、人の出入りが一番少ない。
 静かな校舎を二階まで駆け上がると、女子たちの声が耳に届いた。
「体調不良で被害者ぶってるつもり?」
 物陰からひっそりと廊下を覗くと、クラスメイトの女子三人が、壁に追いやられた平塚さんを囲っていた。驚いたことに、その三人は平塚さんと懇意にしていたはずの友人たちだった。
 女子たちは平塚さんの髪の毛を引っ張っていた。
 平塚さんは痛そうに顔を歪めていたけれど、抵抗する様子はあまり見受けられなかった。そのことが僕の心臓を握り潰すようで、いてもたってもいられなくなった。
「何してるの」
 僕は努めて冷静なふうを装い、女子たちの方へ向かった。
「カンニングするような奴だよ」
 女子の一人がそう歯向かってきた。
「そうだとして、人に手を出して良い理由にはならないと思うけど」
 僕がそう指摘すると、女子たちは面白くなさそうな顔をした。
「柊木ってこいつのこと好きなの?」
「だから保健室に付き添ってあげてたんだ」
「勉強にしか興味ないと思ってたぁ」
 口々にそう言われた僕は、ポケットからスマホを取り出した。
「一応録音してるけど、それでも続ける?」
 動画撮影にしているため、今僕が手にしているスマホの画面には、未だに平塚さんの髪を掴む女子たちの姿が映っている。
 女子たちはしまったといった顔をして、舌打ちをした。
「これ以上平塚さんに危害を加えないなら、表沙汰にはしない」
 女子たちは僕の脅迫に苦い顔をしながら、仕方なさそうに平塚さんから離れた。それから、こちらを振り向くことなく僕の隣を通り過ぎて行った。
 俯きながら佇む平塚さんに近づくと、目を赤くしているのが分かった。
「教室に戻る?」
 平塚さんは俯いたまま何も言わない。
 僕と平塚さんの間に下りた沈黙に、チャイムの音が横槍を入れてきた。
 平塚さんがビクッと肩を震わせた。
「じゃあ、しばらくここにいようか」
 提案すると、平塚さんはゆっくりと頷いた。
 空いている教室に入って、僕と平塚さんは隣り合って座った。
 誰もいない教室の役割を奪うように、僕と平塚さんは静けさを保ったままだった。どうして僕は平塚さんの隣にいようと思ったのか、自分でも説明できないでいた。ただなんとなく、平塚さんのことが気になっている。だからといって、気の利いた言葉をかける気にはならない。
 ただただ、平塚さんと肩を並べて座っている時間を過ごしていた。校舎中でみんなが授業を受けている最中に教室を出歩いたことのない僕には、この静けさが新鮮だった。
「あの」
 平塚さんが口を開くとは思っていなかった僕は、少々驚きながら振り返った。平塚さんは躊躇いがちに僕を見てから俯いた。
「戻らなくていいの? 授業、始まってるよ」
「それは平塚さんにも言えるよね」
「あ……ごめんなさい」
「いや、謝るようなことじゃないけど」
 平塚さんはどこか怯えたように背中を丸めた。カンニングをした一件で、随分と自己肯定感が下がったらしい。他愛のない話をするにしても、どこか罪の意識がついてまわっているようだった。
「平塚さんって、授業についていけてる?」
「……え」
「ほら、しばらく休んでたでしょ。この学校はそれなりに授業の進みが速いから。塾に通ってるなら大丈夫かもしれないけど」
「……塾は、辞めたんだ」
 震えた声が、頼りなく僕の耳に届いた。
「じゃあ、尚更厳しい状況なんじゃない?」
 僕の質問に、平塚さんは答えなかった。
「よかったら、僕と一緒に勉強する?」
「えっ……」
 目を丸くしながら、平塚さんは僕の方を振り返った。
「僕の家、親が不在の時間が長いんだ」
「……どうして」
 今の平塚さんの疑問は、僕の家に親がいない時間が長い理由を訊くためのものではなかっただろう。そう解釈した僕は、平塚さんの疑問に答えた。
「僕、平塚さんのことが気になっているんだ」
 思ってもみなかった返答だったのか、平塚さんは混乱したように口をパクパクさせた。
「もしよかったらだから、当然強制するつもりもないよ」
「…………考えて、おきます」
「うん」
 再び、僕と平塚さんの間に沈黙が下りた。でも、不思議と居心地の悪い静けさではなかった。
 僕としては平塚さんとこうやって肩を並べ続けたいところだったけれど、そういうわけにもいかないため、授業の終了を告げるチャイムが鳴る前に立ち上がった。
 平塚さんは突然立ち上がった僕の制服の袖を掴んだ。思わず振り返ると、平塚さんが不安げな表情を浮かべながら口を結んでいた。
「あのさ」
 僕の呼びかけに、平塚さんは肩を跳ねさせた。
「このまま教室に戻るのも気まずくない?」
「…………」
「今から保健室に行こうよ。僕と平塚さんが一緒に行けばいつもと変わらないわけだしさ」
 平塚さんは驚いたように口を開けてから一度俯き、再び僕を見上げた。
「……柊木くんは?」
「僕は教室に戻るよ」
「……それだと、柊木くんが」
「先生には事情は伝えておくから大丈夫だよ。もちろん、虚偽の事情にはなるけど」
 申し訳なさそうに平塚さんは眉を下げた。
「それに、今日の授業に出席しなくても、僕が教えるから。正直、そこらへんの教師より教えるの上手いと思うよ」
 おどけながら僕がそう言うと、平塚さんはクスクスと笑った。
 平塚さんの笑顔に、僕の心臓が一瞬、高鳴った。今まで平塚さんのことを特別視したことなんてなかったけれど、少なくとも今の胸の高鳴りは、僕が平塚さんに対して他の誰にも抱いたことのない感情を持ったということだ。この感情の正体が、僕には分からなかった。
「連絡先、交換しようよ」
「……え?」
「公の場で誰かと話すのはまだ難しいだろうから、携帯でなら気後れせずにやり取りができるかと思って。どうかな」
「……うん」
 平塚さんは携帯を取り出すと、僕の方へと差し出してくれた。自分の携帯を平塚さんの携帯に重ねながら、平塚さんが少しは僕に心を開いてくれているんじゃないかと思って表情が崩れそうになった。破顔しそうになるのを必死に堪えながら、携帯に平塚さんの連絡先が追加されているのを確認した。
 僕と平塚さんはその後保健室に向かい、チャイムが鳴ってから僕は教室に戻った。平塚さんが体調不良でうずくまっているのを見つけてしばらく付き添っていたというでっちあげを教師に伝えたことで、授業に戻らなかったことが咎められることはなかった。僕が教室に戻ってきた時の女子三人の怯えた表情は実に滑稽だった。
 平塚さんの精神が安定してきたのか、翌週は授業中に体調不良を訴えることがなくなった。同時に、僕と平塚さんはプライベートで一緒に勉強するようになった。基本的には僕の方から平塚さんにメッセージを送り、平塚さんからの返答を待つという構図だ。塾がある日以外はほとんど僕から誘うようになり、気遣いからか平塚さんはいつも僕の申し出を受け入れてくれた。もしかすると、夏休み前の期末考査が近づいているため、実際に勉強会を開くことに前向きなのかもしれない。
 放課後、自宅のインターホンが鳴って玄関に向かいドアを開くと、私服姿の平塚さんが立っていた。学校から直接僕の家に二人で行くのが効率的ではあるけれど、二人で下校している姿を誰かに見られることを避けたかった。どうせ家に戻るならと、私服に着替えて厳選した荷物を持って僕の家に来るのが、平塚さんのルーティンになっていた。
「いらっしゃい。あがっていいよ」
「おじゃまします」
 平塚さんは丁寧にお辞儀してから玄関に上がった。それから靴を丁寧に並べると、紙袋を僕に手渡した。
「これ、お家の人と食べてね」
「ありがとう」
 平塚さんは僕の家に来る時にはいつも差し入れを渡してくる。この前は上等な水羊羹だった。
「毎回持ってきてもらうのは申し訳ないから、次からは手ぶらでいいよ」
 平塚さんが持ってくる差し入れはいつもお金のかかったものが多い。そのことが忍びなくて思わずそう言った僕に、平塚さんは微笑みながらかぶりを振った。
「友達の家に行く時も、いつも持って行ってたから」
「……やっぱり平塚さんって良い子だね」
 心の声が漏れると、平塚さんは途端に表情を暗くして首を横に振った。
「私なんて、良い子じゃないよ」
「…………カンニングのこと?」
 僕が訊くと、平塚さんはゆっくりと頷いた。
「元々、今の高校に入れたのだって奇跡なんだ。昔はお母さんが喜ぶ顔が見たくて勉強を頑張ってた。中学時代までは良い成績を取っていた私に期待してくれて、月謝の高い塾に通うようになったの。でも、いつからかそのことがプレッシャーになって、お母さんに怒られるのが怖くて、あんなこと……」
 震える声でそう言いながら、溢れ出る気持ちを抑え込むみたいに、平塚さんは両手で顔を覆った。
 本当に、馬鹿正直な子だな、と思った。
 カンニングする狡さはあるけれど、そもそもの原因は誰かのためだったことも平塚さんらしい。
 平塚さんは必死に涙を拭いながら強がって笑顔を見せた。
「でも、全部言い訳。カンニングをした事実に変わりはない」
 平塚さんは作り笑いをしながら僕の横を通り過ぎようとした。そんな彼女の手を、僕は握った。
「明日から、お昼一緒に食べない?」
「……え?」
 脈絡のない言葉を発したからか、平塚さんは拍子抜けしたように振り返った。
「平塚さん、お昼を食べる時もどこか後ろめたそうにしてるでしょ」
 僕の指摘に、平塚さんは苦しそうに胸元を手で押さえた。
「カンニングはしたけど、僕は平塚さんのことを良く思ってる。だから、些細なことからでも堂々とする練習をしていくべきだと思うんだ。まずは、みんなの前で誰かと楽しそうにお昼を食べるところから。例えば、僕と」
 今の平塚さんには、自分の一挙手一投足全てに対して罪悪感が募っていく負のスパイラルがつきまとっているように見える。自分なんかがって思わないでほしい。
 平塚さんの手が冷たくなるのが分かった。よく見ると、唇が少し震えている。
「ずっと見てきたんだ。平塚さんのこと」
「……ずっと?」
「うん。どうせなら、笑っている平塚さんを見ていたい」
 僕の言葉をどう受け取ったのか、平塚さんは顔を仄かに赤らめながら小さく頷いた。
 平塚さんを部屋に通してからは、平塚さんから質問がある時以外はほとんど声を発さずに勉強に励んだ。正直、教材を一周すればそれ以上の勉強は必要なかったけれど、平塚さんの隣でボーっとしているわけにもいかない。すでに頭に入った参考書を熟読するフリを続けた。そうでもしなければ、平塚さんならきっと手持無沙汰な僕を気遣ってしまう。それに、一緒に勉強することで相乗効果が働き、お互いに作業が捗るという効果もあるらしい。平塚さんにはその効果を感じてほしい。平塚さんが必死に数式をノートに書いている様子を眺めながらそう思った。
「んーっ」
 しばらくして、平塚さんが伸びをした。
「少し休憩する?」
「うん、そうしようかな」
 平塚さんは足を崩した。
「やっぱり、柊木くんは集中力がすごいね。ずっと参考書と向き合ってた」
 本当は読んでるフリをしながら平塚さんを盗み見ていたなんて言えない。
「平塚さんだって、よく集中してたね」
「集中できても、柊木くんとは違って効率よく吸収はできてないけどね」
 平塚さんは仕方ないといった様子で苦笑した。
「はぁ、数学得意な人が羨ましい」
「そういえば、数学の勉強をしていることが多いよね」
「うん。実は私、中学生の時に知能検査をしたことがあるの。柊木くんはある?」
「いや、記憶にない」
 平塚さんは僕の返答に頷いてから続けた。
「どうしても、数学だけが苦手で。理科も計算分野になるとさっぱりだった。お母さんが心配して私に知能検査を受けさせたんだ。いくつか項目があったんだけど、一つだけ大きく平均を下回っている項目があって。知覚推理っていうんだけど、この項目がまさに数学の得手不得手に直結するみたいで。その時、すっごく腑に落ちた。あぁ、やっぱり私は数学が苦手なんだって」
 乾いた笑いを浮かべて、平塚さんは言った。
「知覚推理の数値が、軟体動物と同じなんだって」
「軟体動物……タコとか?」
「そう」
 そういえば、平塚さんがカンニングした科目も数学だった気がする。
「柊木くんは、勉強好き?」
 答えはすでに分かってるとでもいうように、平塚さんが僕に訊いた。
「好きでも嫌いでもないかな」
「……てっきり好きなのかと思ってた」
「昔から母親が僕に参考書を買い与えてたから勉強する習慣がついただけで、僕自身は勉強することについて何ら思い入れはないね」
 平塚さんが自分の手をきつく握るのが視界の端に映った。
「嫌、じゃなかったの?」
「別に何も思わなかった。親に逆らうほど勉強が面倒だったわけでもなかったから」
 母親は自分の思い通りにならないと癇癪を起こす性分だ。だから僕は、昔から大人に口ごたえすることがなかった。そもそも、口ごたえをするほど不満を持ったこともなかった。誰かを敵に回したところで、得することよりも損をすることの方が多い。
 そんな僕の信条に反する出来事が、最近あった。平塚さんに詰め寄っていたクラスメイトの女子たちに宣戦布告した件だ。生まれて初めて、目の前で起きていることを見過ごすことができなかった。少なくとも、あの行動を起こしたことで僕にメリットはないはずだった。
「やっぱり柊木くんは別世界の人だ」
 微笑みながらそう言われて、胸が痛んだ。今の言葉は、明確に僕との距離を感じていることの証明だった。怒りのような悲しみのような粘っこい感情が、僕を突き動かした。
 僕は平塚さんに身体を寄せた。
 不意を突かれた様子で上体を反らした平塚さんに、僕はキスをした。柔らかい感触を唇に感じてから、僕は静かに平塚さんから離れた。
「……どうして」
 呆けたように唇に手を添えている。平塚さんのその姿が愛おしくて、僕は白状することにした。
「平塚さんのことが好きだから」
「……どうして、私なの?」
「どうして……どうしてだろう。明確な理由は分からないけど、きっと平塚さんの人の好さに惹かれたんだと思う」
「……そんなの、ありえないよ。だって私、カンニングしたんだよ?」
「カンニングする側面もあるってだけで、カンニングする狡さだけで平塚さんが構成されているわけじゃない」
 その発言を機に、平塚さんはすっかり黙り込んでしまった。それ以降はお互い勉強に身が入ることもなく、しばらくして解散した。
 困ったことに、翌日から僕が平塚さんにメッセージを送っても無視されるようになった。やっぱり、無理矢理キスするのはご法度だったか。自分の欲望を抑えることができなかった僕の落ち度だ。嫌われても仕方がない。頭では分かっているけれど、正直へこんだ。
 嫌いな人からしつこく接触を図られることがどれほど鬱陶しいことか。そのことを理解している僕は、それ以来平塚さんにアプローチすることはやめた。
 期末考査初日の一限目は数学だった。
 初っ端の科目が数学であることを気掛かりに思って、僕は後ろを振り返った。あと数分で始まる数学のテストに向けて、平塚さんは必死に参考書をめくり続けていた。その様子を見ていた僕は違和感を覚えた。平塚さんの身体が揺れているように思えたのだ。
 嫌な予感は的中し、平塚さんは血の気が失せた顔で倒れた。突然のことに教室がざわめいた。
「大丈夫か、平塚!」
 テスト監督の教師が叫んだと同時に、僕は平塚さんのもとに駆け寄った。僕は平塚さんの腕を僕の肩に回し、教室を後にした。
「おい、もうすぐテストが始まるぞ! 俺に任せろ!」
 僕の背中にそんな言葉が投げかけられた。僕は振り返り、教師に言った。
「開始時間に遅れても間に合いますから、始めておいてください」
 僕はそう言い残し、教室を後にした。
 保健室まで平塚さんを見送らないことには、気が気ではない。
「柊木くん、ごめんなさい」
 平塚さんのか細い声が耳元で囁かれた。
「気にしないでいいよ」
「……テストが近づく度に気分が悪くなって、怖かった」
 平塚さんは静かに涙を流した。
「またカンニングするんじゃないかって思われてるかもって。自業自得なのに」
 すすり泣く声を間近で聞きながら、僕たちは保健室に辿り着いた。保健室の扉を開きながら、僕は平塚さんに言った。
「平塚さんがまたカンニングしようがしまいが、平塚さんのことが好きなことには変わりないよ。少なくとも、僕は」
 保健室の先生に平塚さんを託してから、僕は歩いて教室に戻った。すでにテストは開始されており、僕が戻ってきたことを確認した教師は詫びるように手を挙げた。僕は頷いてからテスト用紙が置かれた自分の席に戻り、解き始めた。問題なく数学のテストは終えた。
二限目の英語のテスト中、僕は後ろを振り返った。すると、朝比奈さんと目が合った。彼女は驚いた顔をした。朝比奈さんが僕の不審な行動に気づいたことを確認してから、僕は隣の席に座る尾林くんの解答用紙を盗み見た。それから素早く後ろを振り返ると、朝比奈さんは信じられないものでも見たような表情で口をあんぐりと開けていた。
 ところが、次の瞬間には僕が朝比奈さんと同じ間抜けな顔をするはめになった。あろうことか、朝比奈さんは不正を働く僕から気まずそうに視線を逸らした。
何をしているんだ。朝比奈さんは間違いなく僕と目が合ったはずだ。なのに、僕のカンニングを指摘しない。らしくもない。どうしてお得意の正義感で僕を糾弾しないんだ。
 誤算に戸惑いながらも、僕は尾林くんの解答用紙を凝視し続けた。
「おい、柊木。何やってるんだ」
 結局、テスト監督の教師に指摘されることになった。
「あ、すみません」
「お前、今何やってた?」
「尾林くんの解答用紙を見ていました」
「……つまり、カンニングしたということか?」
「はい。そうなります。すみません」
 教師は僕の意図が分からずに眉を顰めていた。困惑しながらも、僕を立たせて職員室へと連行した。事情を知った別の教師が慌てて代理の監督として教室に向かって行った。
「お前、どうしてカンニングなんかしたんだ」
「英語の勉強を疎かにしてしまっていたので、分からないところがでてしまったんです」
「それで、カンニングしたのか?」
「はい」
「……学年で一番を取らねばというプレッシャーに負けたのか?」
「まぁ、そういったところです」
 僕の返答に納得がいかないのか、教師はこめかみを手で押さえながら唸った。
「とりあえず、保護者にも連絡しなくてはならん」
「はい」
「心の準備は大丈夫か」
「はい。ただ、ご存じかとは思いますが、父は単身赴任で母は仕事中です。連絡するなら母になりますが、すぐに出られるかどうかは分かりません。その場合、母が家に戻ってから自分で伝えます」
「……あぁ、分かった」
 教師は沈んだ声で頷き、受話器を手にした。僕の母に電話を掛けたけれど、案の定出ることはなかった。教師は溜息を吐いた。
「いいか。お前の処遇は全科目の点数が無効になることと一週間の停学だ」
「分かりました」
「……やけに聞き分けがいいな」
「それだけのことをした自覚がありますから」
「……あのな、一つだけ聞いていいか」
「はい」
「本当に、カンニングしたのは分からない問題があったからなのか?」
「そうですね」
「……今までのお前の成績や動揺した素振りすら見せない様子を鑑みるに、どうもカンニングしたのには別の意図があるんじゃないかと思えてならないんだ」
「別の意図、ですか」
「そうだ」
「例えば、どんな意図ですか?」
「それは……」
 教師が言葉に詰まった瞬間、電話が鳴り響いた。教師が慌てて受話器を耳に当てると、僕の方にチラチラと視線を送りながら何度も頭を下げた。どうやら、母さんから折り返しがあったらしい。
「柊木、母親が今から学校に来てくれるそうだ」
「そうですか」
「校長先生と担任である俺と、柊木と柊木の母親の四人で話し合うことになる」
「分かりました」
 教師は慌ただしく僕を校長室へと連れて行った。誰もいない校長室で待たされて数十分経つと、校長先生と教師と、母さんが入って来た。母さんは僕のことをギロリと睨むと隣に座った。きつい香水の匂いがした。
 それから無駄に長い時間、教師陣は僕に対して諭すような口調でカンニングをしてはいけない旨を述べた。母さんは肩身が狭そうにただただ頷くばかりで、僕はといえばカンニングしたのは勉強不足による焦燥感が原因だと一貫し続けた。
 ようやく解放されて校長室を出た頃には、すでに一時間半が経過していた。僕と母さんは二人に深く頭を下げてから学校を出た。
 母さんは中断した仕事に戻る前に車で僕を家まで送ってくれた。車中では、母さんが怒りを抑えるのに必死で煙草を吸い続けた。震える声で、母さんは僕に言った。
「一体何やってるのよ、あんたは」
「……ごめんなさい」
「高いお金を払って塾に通わせてあげてるのに、何よこの仕打ちは」
 母さんは舌打ちをしながら次の煙草に火を点けた。
「今になって、どうして勉強をサボったわけ?」
「……理由は特にない」
 ふん、と母さんは鼻で笑った。
「ふざけないでくれる?」
「……別にふざけては」
「あんた、本当はわざとカンニングしたんでしょ」
 何が可笑しいのか、込み上げる笑いを堪えきれずに母さんは噴き出した。
「あんたが物心つく前から、私はあんたの才能を見てきた。塾にも今まで通り通い続けているあんたの成績が急に下がるなんて考えられない。あんたがカンニングしたって先生から聞いた時は耳を疑った。でも、自分のことを話さない不気味なあんたのことだから、何か意図があってカンニングなんてくだらない行動に出たんでしょう」
 他人の気持ちを推し量ろうとする大人がここにもいた。
「意図って、どんな?」
「そんなこと、私が知るわけないでしょ」
 つまらなさそうに母さんは煙草の火を揉み消した。
「あんたもう十七でしょ。来年は受験生なのに、私の努力を水の泡にしないでもらえる? あんたには何が何でも家系で一番の学歴になってもらわないと困るのよ」
 母さんは苛立ちを隠すことなく髪の毛を掻きむしった。直後、合点がいったように「あー、そういうこと」と呟いた。今までに聞いたことのないくらい冷ややかで低い声だった。
「私への当てつけってわけ?」
 信号待ちをしながら、母さんはこちらに冷たい目を向けてきた。
「今まで従順に頷いてきた反動が、無意味な反抗期を迎えて爆発したんでしょ」
 浅はかなことを口にする母さんは、確信めいたようにそう言った。
 何度となく母さんから浴びせられてきた親族で一番になれという言葉。今まで母さんが想定する未来に向かうことに、僕は何ら不満を抱いたことはなかった。けれど、今は明確に、こちらの分が悪くなることを承知の上で母さんに歯向かっている。ただこれは、母さんの野望が気に食わないからではない。僕は川に流される葉であり、母さんは川の流れそのものだった。それが当たり前だったはずだけれど、今の僕は意思を持った魚になったのだ。今までと違って、面倒な状況を生み出すのにふさわしい理由ができた。これは母さんに対する当てつけでもなんでもない。
 僕にとって、母さんに流されて生きていくことが正解だった。それが一番楽だったからだ。けれど、今の僕にとっての正解は、自分がしたいと思ったことを尊重し実行することに変わった。自分の選択が世間から見れば不正解だったとしても、僕の心がこうすることを望んだ。錆びついたみたいに欲のなかった僕の心が、生まれて初めて自分の我を押し通したいと願った。
 色ボケてると揶揄されても構わない。僕は平塚さんともっと仲良くなりたい。同じ大学に通いたい。きっと彼女は文系の学部を受験することになるだろう。もしも大学に行かないのならば、僕も同じ選択をする。平塚さんが専門学校に行くのなら僕も同じ学校に通う。平塚さんが就職するのなら、僕も同じ職場に通う。
「母さん」
 僕の呼びかけに、母さんは反応しない。
「僕、好きな人ができたんだ」
 母さんは額に血管を浮かべたまま、自宅へと車を走らせ続ける。
「その人と同じレールに乗って生きていきたい」
 急ブレーキのかかる音がした。慣性によって僕の身体が前のめりになった。
 窓の外を見ると、いつの間にか家の前に着いていた。
 母さんの方を振り返ると、心底軽蔑するような目で僕を見下ろしていた。
「きもちわる」
 その言葉を発して以来、驚くほど母さんは僕に無関心になった。自分が想像していた以上に僕が馬鹿で愚かな存在だと思い知ったのだろう。母さんは僕を見限り、最低限度の生活を提供するだけで、一切僕のプライベートに口を出さなくなった。
 母さんは子どもの僕から見ても利口で打算的な人だった。父さんとは見合い結婚で結ばれたそうだ。母さんは将来性のある人との結婚を望んだ。自分の親族から落ちこぼれとして扱われてきた母さんは、ハイスペックな配偶者と家族になることで自分の価値を上げ、生まれてくる子どもの知能が高くなる見込みを高めたかったのだそうだ。見返すために、父さんや僕を自分の鎧にした。ただし、母さん自身も自分の存在価値を高めるために仕事に精を出した。今ではある程度の役職についているらしい。
 そんな人生観を持つ母さんからすれば、せっかくの才能をドブに捨てるような考えを口にする僕が理解できず、悍ましいものに見えたとしてもおかしくはなかった。どこまでも、母さんは芯が通っていた。だから、僕があのタイミングであの発言をすることで、こうなることを期待していた。これで、僕は自分がやりたいようにできる。
 停学期間中のある日、僕はベッドの上で仰向けになりながら携帯画面を眺めていた。そこに映し出されているのは、平塚さんの連絡先だった。溜息を吐きながら携帯を枕元に放り出して寝返りを打ったタイミングでインターホンが鳴った。舌打ちをしながら玄関に向かってドアを開くと、平塚さんが立っていた。
「どうして平塚さんがここに?」
「あ、えっと、体調大丈夫かなと思って」
「……平塚さんは僕が休んでいる理由は知ってるよね?」
「えっ。う、うん、知ってる、よ」
「体調には問題ないよ」
「そ、そっか。ならよかった」
「よかったら上がっていく?」
「あ、うん。迷惑じゃない?」
「全然。好きな人が自分の家に来るなんて、普通嬉しくない?」
「す…………」
 平塚さんは顔を真っ赤にして口をパクパクさせた。照れた表情の平塚さんが可愛くて、僕は思わず笑ってしまった。
 平塚さんを僕の部屋に通すのは久しぶりのことだった。平塚さんは落ち着かない様子で、まるで初めてこの家に来たみたいにそわそわしていた。先ほどから、チラチラとこちらに視線を送っては何かを躊躇うように開きかけた口を閉じるという動作を繰り返している。
「何か訊きたいことでもあるの?」
「へ? あ、えっと、その……」
 尻すぼみする自分の言葉をなんとか拾い上げて、平塚さんは僕に向き直った。
「今回の英語、難しかったよね」
「……平塚さんも受けたの?」
「保健室で受けさせてもらったの」
「なるほどね。確かに難しかった。僕がカンニングするくらいには」
 分かりやすくカンニングという言葉に平塚さんが動揺を見せた。おどおどするその姿が小動物のようで、平塚さんに気づかれないようにこっそり笑った。
「あの……柊木くんはすごい人だから、今回は難しかったかもしれないけど、次はきっと大丈夫だから!」
 平塚さんが僕の両手を握ってきた。
「……え、信じてるの?」
「……へ?」
「問題が分からなかったから僕がカンニングしたっていう話」
「……え、違うの?」
 純真無垢そのものな目を向けられて、僕は噴き出してしまった。
「ど、どうして笑うの?」
「僕が分からない問題なんてみんなも分からないんだから、カンニングしてもしょうがないでしょ」
「……そ、それなら、どうしてカンニングなんか」
 混乱する平塚さんに僕は言った。
「学校に行ったらさ、一緒にお昼食べてくれない?」
「……お昼?」
「そう。一人で食べるの、気まずいからさ」
「それはもちろん、いいけど……」
 要領を得ない僕の言葉に、平塚さんは素直に頷いてくれた。
「やったね。結局、学校で平塚さんとお昼食べたことなかったから」
「そうだね。いや、それはそれとして、どうして」
 平塚さんの言葉を遮るように、僕は平塚さんにキスをした。今度は長い時間、キスし続けた。僕は平塚さんの後頭部に手を回した。平塚さんは僕の背中に両手を回し、お互い顔の位置を定めた。
 満足することは一生ないのだろうけど、僕は一先ず平塚さんから離れた。平塚さんが肩を揺らしながら僕のことを見つめていた。
「好きだよ、平塚さん」
 僕の告白にギクリとして平塚さんは息を呑んだ。
「よかったらこれからも、仲良くしてくれると嬉しい」
「……わ、私の方こそ」
 羞恥心から俯いた平塚さんの額に、僕は軽くキスをした。
 停学期間が明けてから登校すると、クラスメイトたちが僕に視線を集めた。奇妙なものでも見るような目だった。学校に来るのが億劫になった平塚さんは当時、周りからこういう目で見られることを恐れていたのか。
 すでに着席している平塚さんと目が合った。心配そうに僕のことを見つめている。心配は無用だと示すために、僕は平塚さんにウインクをした。
 念願のお昼休みになって、僕はうきうきで自分の椅子を平塚さんの席に持って行った。平塚さんは周りの目を気にするように教室の中を見渡した。
「あの、柊木くん」
「なに?」
「食べる場所は教室でいいの?」
「え、どうして?」
「その……他の人の目とか気にならない?」
「特に気にならないけど」
「それなら、いいんだけど……」
 煮え切らない様子に首を傾げていると、誰かが僕の肩を叩いた。見上げると、霧島くんがにやにやしながら僕を見下ろしていた。
「……平塚さんの言う通り、教室は嫌かも」
「連れないこと言うねぇ」
「何か用?」
「お礼を言いに来たんだ」
「……君に何かした記憶はないけど」
「期待してた以上だった」
 霧島くんは文脈にそぐわないことを言ってから、僕の背中を叩いて自分の席へと戻って行った。全くもって気味の悪い奴だ。
「ごめん、平塚さん。場所を移そう」
「え、あ、うん」
 僕と平塚さんは棟と棟の間にあるスペースのベンチで腰掛けた。ここに移動したことで、二人きりでお昼を食べているような感覚になった。悪くない気分だった。
「そういえば、平塚さんは夏休みに何か予定ある?」
「うーん、多分ないと思うな。塾もやめちゃったから」
「なら、一緒にどこか遊びに行こうよ」
「……うん」
「あ、ごめん。嫌だった?」
「あ、ううん。そういうわけじゃないんだけど」
 平塚さんは弁当箱に視線を落としたまま口を開いた。
「私なんかが、楽しんでもいいのかなって」
「……そうなると、僕も楽しむ権利がないことになるね」
「あっ、いや、柊木くんは違うよ!」
 平塚さんが慌てて胸元で手を振った。
「何が違うの? 僕は平塚さんと全く同じ罪を犯した」
「それは……そうだけど」
「僕、平塚さんの水着が見てみたい」
「えっ……えぇぇ」
 自分の身を抱き寄せながら平塚さんが顔を赤くした。
「私、泳げないし」
「浅瀬で遊べばいいよ」
「日焼けしちゃうかも」
「日焼け止めを塗ろう。肌の色が気になるなら、夏休みの前半に行けば二学期には元に戻るよ」
「……水着見られるの、恥ずかしい」
「それって、僕を男として見てくれてるってこと?」
 いつもみたいに揶揄いながら平塚さんの顔を覗き込もうとすると、平塚さんが僕から顔を逸らした。やりすぎたかと思っていると、なんと顔を赤く染めた平塚さんが頷いた。
「……え、本当に?」
「私、運動部じゃないから身体しっかりしてない……」
 両手で顔を覆いながら、平塚さんが言った。
「……流石に可愛すぎるよ、それは」
 平塚さんが僕を意識してくれていることが分かって嬉しく思ったけれど、なんだか僕の方まで恥ずかしくなってしまった。
「まぁ、連絡先も交換していることだし、また予定を合わせようよ。海じゃなくてもいいからさ」
 首まで赤くなった顔で、平塚さんは首肯した。
 夏休みまで残すところ数日になって、期末考査の結果が返却され始めた。もっとも、カンニングで全教科無効になった僕には関係がないことだった。
 テスト返しの時、平塚さんは毎教科緊張した面持ちで答案を受け取っていた。その度に、僕は平塚さんのテストの出来を確認しに行った。特に数学のテスト返却では平塚さんの顔が真っ青だった。極端に緊張していたのだろう。
「どうだった?」
「柊木くんと勉強したおかげで、いつもより良い点数が取れたよ」
 安堵したのか、平塚さんは深く息を吐いた。
「僕は何もしてないよ。平塚さんの実力」
「ううん。柊木くんがいなかったら、前向きに勉強できなかった。ありがとう」
 真っ直ぐに見つめながら、平塚さんが微笑んだ。照れ臭くなった僕は思わず顔を逸らした。
 休み時間になって、平塚さんが担任に呼び出された。心配になって後をつけると、教師は困ったように僕に一瞥をくれてから話し始めた。
「平塚。中間考査の点数が無効になったことは覚えているな?」
 責められていると思ったのか、平塚さんが怯えたように頷いた。
「期末考査の出来は上々だったが、このままでは進級に影響が出る。救済措置として、夏休みに補講を行う。それに出席するように」
「……はい。ありがとうございます」
 呼び出された理由が補講への参加命令だったことに安心したようで、平塚さんは胸を撫でおろしてから頭を下げた。
 一方の僕は、補講なんて参加したことがなかったため、そんな邪魔者に夏休みが削られるなんて考えてもみなかった。
「先生。僕も補講あるんですか?」
「……お前は中間考査で十分な成績を確保した。期末考査の点数が無効になっても尚足りるくらいに」
 分相応な処置を下せないことで、教師はバツが悪そうに頬を掻いた。
「僕も補講に参加します」
「……どうしてだ」
「理解漏れがあったことでカンニングに走ってしまいました。なので、今回の単元を学びなおしたいんです」
 胡散臭そうに僕を見つめたものの、生徒のやる気を削ぐ行為は教師としてできないらしい。仕方なさそうに「分かった」と言い残し、教師はその場を後にした。
「もしかして、私のため?」
 教師の姿が見えなくなってから、平塚さんが僕に訊いた。
「一緒にやれば、すぐに片付くよ」
「……ごめんね」
「どうして謝るの?」
「柊木くんの貴重な時間を奪っちゃうことになって」
「平塚さんと一緒にいられるなら、なんだっていいよ」
 そう言って教室に戻ろうとすると、背後から抱き着かれた。
「ひ、平塚さん?」
 動揺しながら振り返ろうとすると、僕を抱きしめる力が強まった。
「私、人を好きになる資格、あるのかな」
「……資格?」
「私なんかが柊木くんのこと好きだなんて、罰が当たると思う」
「平塚さんで罰が当たるなら、僕は極刑に処されるだろうね」
 平塚さんが僕を解放した。名残惜しい体温を背中に感じたまま、僕は振り返った。平塚さんが涙を流しながら、僕に微笑んだ。
「私、柊木くんのことが好きです」
 面と向かって平塚さんから告白をされて、僕は分かりやすく舞い上がった。今すぐに駆け出して叫びたい気分になった。
「こんな私だけど、柊木くんの彼女にしてくれませんか?」
「喜んで。僕も平塚さんのことが好きです」
 今度は相対した状態で、どちらからともなく抱きしめ合った。
 初めて、自分に手放したくないものができた。
 初めて、自分の我を押し通す理由ができた。
 初めて、幸せだと感じることができた。
 初めて、恋に落ちることができた。
 流されて生きてきた僕に、初めて大切な人ができた。
 これから先もずっと、僕は平塚さんと生きていきたい。
「やばい、泣きそうだ」
 思わず呟くと、平塚さんが僕の頭を撫でた。
「私も」
 お互いに顔を合わせると、二人して目を閉じた。
 三回目のキスに困惑は含まれていなかった。
 間違っていたって構わない。
 誰にどう思われたって関係ない。
 僕は平塚さんを好きになったことを、誇らしく思う。