「さっちゃん! 真壁先輩と両想いになる方法教えて~!」
わからないことはなんでも、運命共同体のさっちゃんに訊ねるに限る。昔から、三人寄れば文殊の知恵というし。まあ、三人目がいないんだけど。
そんなわけで、その日の部活後、僕はカバンも置かずに佐築家に向かい、ノックもなしにさっちゃんの部屋に突撃した。
さっちゃんの部屋は、さっちゃんの真面目な性格を反映して、いつも清潔に整えられている。
窓際にはベッド。部屋の中央に敷かれた円形のラグマットの上には、小型のローテーブル。壁際には教科書や参考書などの学校関係のものが並べられた棚と、漫画や雑誌で埋まった棚。それから中学で陸上をやっていたときの名残の筋トレグッズが、部屋の隅にひっそりと置かれ、薄く埃をかぶっていた。
くつろいだ様子でベッドに腰かけ、漫画雑誌を読んでいたさっちゃんは、部屋に押しかけてきた僕を見るなり、これ以上なく不愉快そうに顔を歪めた。
「くだらねぇこと言ってんじゃねぇよ。あと勝手に入ってくんな」
鍛え上げられた腹部の上に漫画雑誌を置いたさっちゃんが、「今すぐ帰れ」と気怠そうにドアを指で指し示す。
僕はさっちゃんの目の前の床――ラグマットの上にちょこんと腰を下ろし、「やだなぁ、さっちゃん」と笑い飛ばす。
「固いこと言わないでよ。ていうか、僕が律儀に一回一回ノックするようになったら、別人みたいで怖くない?」
「うぜぇこと言うなよ」
悪態をつきながらも、一応話を聞いてくれる気はあるらしい。さっちゃんがベッドの上で、姿勢を整え直す。
「――で?」
「うん?」
ベッドの高さ分、高いところにいるさっちゃんが、どこか呆れたように僕を見下ろす。
「真壁先輩と両想いになる方法教えてくれってなんだよ。俺が知ってるわけねぇだろ。おまえと一緒で恋愛経験ゼロだわ」
つかようやく自覚したのな、とつけ足され、僕は「おやぁ?」と目を見開いた。
「……さっちゃん、もしかして僕より早く気づいてたの?」
僕でさえ、この感情をさっき認めたばかりなのに。
するとさっちゃんは、「おまえなぁ」と呆れ果てたように息を吐いた。胸に手を当ててみろ、とさっちゃんが真顔で言う。
「自分の性格よく考えてみろよ。興味ないやつ――つぅか家族と佐築家以外のやつにはとことん興味ないおまえが、自分からせっせと真壁先輩のところに通ってんだぞ? 行きの通学路や校内で会ったら数年ぶりに飼い主に出会った犬みてぇに嬉しそうな顔するし、最近の話題はほぼ真壁先輩についてのプチ情報だし……。これで真壁先輩がおまえの『特別』じゃないとか、ありえねぇだろうが」
違うとか抜かしたらぶっ飛ばすぞ、と言わんばかりのテンションだった。容赦なくズバズバと指摘され、僕は「うぅ、おっしゃる通りです……」とうなだれてみせる。
さすがさっちゃん。僕がさっちゃんを覗いているとき、さっちゃんもまた僕を覗き返しているのだった。
なんて、そんな下らないことを考えたとき。
さっちゃんが、鋭く目をすがめて斬り込んできた。
「ま、おまえが日焼け絶許部にせっせと通ってる理由の一つは、俺から距離置くためだけどな」
「…………」
――本当に、僕がさっちゃんを覗いているとき、さっちゃんもまた僕を覗き返しているね。
おかしくて、思わずふっと笑ってしまう。一度笑みがこぼれてしまうと止まらなくなって、僕は「あははは!」と笑いながら、さっちゃんの目を真正面から見つめ返した。
さっちゃんの黒い瞳に映る僕は、さも愉快そうに笑ってる。なんだかちょっと、底意地の悪い悪魔みたいだ。自分でもそう思うのだから、さっちゃんの目には余計に悪魔的に見えていることだろう。
「なぁんだ、気づいてたんだ、さっちゃん」
意味不明なまでにおかしそうな僕に、さっちゃんが少し、ほんの少しだけ怯えた様子を見せる。
かわいいねぇ、ほんと。はじめに触れてきたのはさっちゃんなのに。
健気でかわいいさっちゃんが、怯えながらも懸命に言葉を絞り出す。
「あたりまえだろ。おまえは考えもなく、自分から好んで部活に入る玉じゃない。協調性がなさ過ぎて、集団行動とか壊滅的に嫌いだし、向いてないことを自覚して積極的に避けるタイプだからな」
「そうだよ。さすがさっちゃん、僕のことよくわかってる。でもこうでもしないと、さっちゃんも僕から離れられなかったでしょ?」
なまじ仲の良い幼馴染みだから。家族同士もべったりだから。
片方が部活にでも入らないと、物理的な距離が作れなかった。
とはいえ、今までずっと一緒にいたから、こうして頻繁に会いに来ちゃうんだけどさ。
「ねぇさっちゃん」
僕は正座し直して、さっちゃんに語りかける。悪魔的な笑みを消し、真面目な表情で。
「さっちゃんはさぁ、ずっとあのときのこと、自分のせいだって思ってるでしょ」
「…………」
さっちゃんは答えない。答えられないのだ。それがさっちゃんの中での強固な「事実」だから。
さっちゃん自身が言葉にできなくても、さっちゃんの長い睫毛は肯定を示すように、微かに震えた。
「でも僕は、それこそ何回も言ってるけど、さっちゃんのせいだなんて思ってないよ。本当に、これっぽちも。だって悪いのは僕たちじゃなくて、僕に的外れなやっかみ向けてきたあの人たちでしょ」
「…………おまえ、第一志望、晴光じゃなかっただろ」
さっちゃんの声は震えて、とても苦しそうだった。
今にも泣き出しそうに歪んだ顔。そんな顔しなくていいって、僕はずっと言っているのに。
「それを言うならさっちゃんだって第一志望晴光じゃなかったし、陸上部だって結局辞めちゃったじゃん。まぁ陸上の方は足の速さを買われて強引に入部させられただけで、さっちゃんが望んで入ったわけじゃなかったけど」
それでもさっちゃんは他の誰よりも真面目に練習に取り組んでいたし、充分すぎる結果を出していた。
はじまりは強引ではあったけれど、たぶん、さっちゃんは走るのが嫌いではなかったと思う。親兄弟よりもさっちゃんの一番近いところにいるという自負のある僕がそう思うのだから、それはきっと間違いではなくて。
でもあの夏の日から、さっちゃんはそれなりに好きだったはずの「走ること」を一切やめてしまった。
……ミーンミーンとうるさいくらいにセミの鳴く、暑い暑い夏の日だった。あの夏の日のことは嫌になるくらい鮮明に記憶に残っている。残っているから、僕はすっかりセミの鳴き声が嫌いになった。本当は夏という季節だって嫌い。真壁先輩と出会えたから、マシに感じているだけで。
お互い様だよ、と少しおどけてみせながら僕は言う。
「僕が諦めた部分もあるし、さっちゃんが手放したものも確かにある。でも僕たちはお互いに納得して選んだでしょう? 僕たちのことを知る人がほとんどいない晴光に行くことを。……僕は後悔してないよ。そりゃ長距離通学は疲れるけどさ。おかげで日焼け絶許部に入れたし、真壁先輩にも出会えたし」
「……………………」
さっちゃんはしばし沈黙した。自分なりに感情の整理を試みたようだったけれど、結局は納得しきれないというように、長く深い溜息をついた。
「結果論だろ」
吐き捨てるように、さっちゃんが言う。さっちゃんの傷は、僕なんかよりずっと深く、心の奥の奥まで荒らしてる。
「いいでしょ、『今』が幸せなら。『今』が積み重なって未来になるんだから、一瞬一瞬を楽しく生きていかないと。あんまり考え込みすぎると、そのうちハゲるよ」
「うるせぇ。……つか、改めて考えなくても、おまえに恋された真壁先輩がかわいそすぎるわ」
少しだけ調子の戻ってきたさっちゃんが、軽口を叩きはじめる。
そうだよ、さっちゃん、その調子。早く元に戻ってね。
……さっちゃんの傷には触れようと思えばいつでも触れられるけど、治療の仕方は未だによくわからない。鋭い爪で裂かれたように残る心の傷の治療は、心というものが目に見えないからこそ難しかった。
僕にできるのは、さっちゃんのせいじゃないと言い続けることと、ほんの少しだけ距離を置くことだけ。
でも他でもない半身の僕がやるからこそ、いつかこの努力が実を結ぶと信じてる。信じたい。
「失礼だなぁ~! っていうか、話を元に戻すけど、真壁先輩と両想いになる方法教えてってば!」
「だから俺が知るわけねぇだろ! つかおまえさ、なんでよりにもよって真壁先輩に恋するんだよ。初恋のハードル高すぎだろ。あんなモテたことしかないような人に恋するなんて」
「恋は理屈じゃないから仕方ないんだよ! 本能一本勝負なんだから! 好きになったものは大好きなの!」
「……おまえ、他人に興味ない割には、面食いだもんな」
何を一人で勝手に呆れているんだ、さっちゃん。呆れたいのはこっちだよ。僕が面食いになってしまったのは、ほぼ一〇〇パーセント君のせいだと言うのにさ。
さっちゃんは客観的に見て、あの真壁先輩と張るほどの美形中の美形で。
僕は鏡で自分の顔を見るより、そんなさっちゃんの顔を見て生きてきたんだから、そりゃあ世界の見え方は狂っちゃうってもので。
摩訶不思議なことに、さっちゃんは他人からイケメン認定されている自覚はあるクセに、僕がさっちゃんの顔をイケメンと捉えている自覚はない。
だから抗議しても全然ピンと来てくれないから、この件については僕はなけなしの優しさで黙って呑み込んであげることにしていた。
ベッドの上から僕を見下ろしていたさっちゃんの顔に、ふと影が差す。
なぁに、さっちゃん。まだ何かを悩んでいるの?
そんなことを思ったら、さっちゃんが真顔で恐怖の質問を投げかけてきた。
「……おまえさ、俺と付き合いたいと思う?」
「はぁ~~~~⁉」
仰天するあまりのけぞりそうになった。と同時に、全身に鳥肌が立つ。問いを聞いただけで吐きそうなほど気持ちが悪い。
てかいつもなら、さっちゃんの方が激しく否定するくせに。
え、さっちゃん、僕が見てない間に頭でも打っちゃったの? 大丈夫? 病院行く? ってか絶対どうかあるから病院行こ‼
「――僕とさっちゃんが付き合ったら、それはもう精神的近親相姦じゃん‼」
直後、右隣のりゅーくんの部屋からゴッという鈍い音――何かに体をぶつけたような音が聞こえてきた。次いで「痛ててて……!」という悲痛な声も。
ごめんね、りゅーくん。変なワードを訊かせちゃったことについては、あとで謝りに行くよ。行くけど、今は様子のおかしいさっちゃんの対処が先だ。
僕がエイリアンを見る目でさっちゃんを凝視しているのも構わず、さっちゃんは「ああ、俺も同意見だ」と真顔のままあっさり頷いてくた。
「こ、肯定するなら訊かないでよ……!」
どうしよう。今、人生で一番さっちゃんに対して恐怖を感じている。
さっちゃんは何が言いたいんだと思っていたら、さっちゃんがなぞなぞみたいな謎の言葉を投げかけてきた。
「でも真壁先輩は俺と同じだぜ?」
「……?」
手元にある情報が少なすぎて、さっちゃんの言葉の意味が読み解けない。
ねぇさっちゃん、さっちゃんはどうしてそんなに憂いげな顔をしているの?
「おまえマジで気づいてねぇの? 真壁先輩と俺はほぼ同じ。気づいたときにはたぶん、俺の方がびっくりしたけど。……あ、だから真壁先輩に恋すんなって話じゃねぇよ? 俺がおまえのことを実は好きでしたって話でもねぇ。そんなことは天地がひっくり返ってもありえねぇけど……」
さっちゃんはそこで一度言葉を切り、それから淡々とした表情と声で続けた。
「真壁先輩は俺と同じだから、対応の仕方間違えんなよって話。自分で言うのもなんだけど、俺みたいなタイプは脆いからな。……ま、もうすぐ夏休みだし、夏休みの間は日焼け絶許部はどうせ休みだろ? 休みの間にゆっくり今後の対応考えれば?」
「え、」
「夏休み」という言葉に、僕の頭と身体が凍りつく。
ちょっと待って、ちょっと待って。真壁先輩と会うのが楽しすぎて、頭からすっぽ抜けてたけど。
僕は急いで勝手知ったるさっちゃんの部屋の壁掛けカレンダーに目を走らせた。真面目なさっちゃんは、行事予定をちゃんとカレンダーに赤文字記入している。
さっちゃんの書き込みによれば、あと二週間で期末テスト。それが終われば夏休み。
真壁先輩に会えなくなる(かもしれない)期間が、すぐそこまで近づいてきていた。
わからないことはなんでも、運命共同体のさっちゃんに訊ねるに限る。昔から、三人寄れば文殊の知恵というし。まあ、三人目がいないんだけど。
そんなわけで、その日の部活後、僕はカバンも置かずに佐築家に向かい、ノックもなしにさっちゃんの部屋に突撃した。
さっちゃんの部屋は、さっちゃんの真面目な性格を反映して、いつも清潔に整えられている。
窓際にはベッド。部屋の中央に敷かれた円形のラグマットの上には、小型のローテーブル。壁際には教科書や参考書などの学校関係のものが並べられた棚と、漫画や雑誌で埋まった棚。それから中学で陸上をやっていたときの名残の筋トレグッズが、部屋の隅にひっそりと置かれ、薄く埃をかぶっていた。
くつろいだ様子でベッドに腰かけ、漫画雑誌を読んでいたさっちゃんは、部屋に押しかけてきた僕を見るなり、これ以上なく不愉快そうに顔を歪めた。
「くだらねぇこと言ってんじゃねぇよ。あと勝手に入ってくんな」
鍛え上げられた腹部の上に漫画雑誌を置いたさっちゃんが、「今すぐ帰れ」と気怠そうにドアを指で指し示す。
僕はさっちゃんの目の前の床――ラグマットの上にちょこんと腰を下ろし、「やだなぁ、さっちゃん」と笑い飛ばす。
「固いこと言わないでよ。ていうか、僕が律儀に一回一回ノックするようになったら、別人みたいで怖くない?」
「うぜぇこと言うなよ」
悪態をつきながらも、一応話を聞いてくれる気はあるらしい。さっちゃんがベッドの上で、姿勢を整え直す。
「――で?」
「うん?」
ベッドの高さ分、高いところにいるさっちゃんが、どこか呆れたように僕を見下ろす。
「真壁先輩と両想いになる方法教えてくれってなんだよ。俺が知ってるわけねぇだろ。おまえと一緒で恋愛経験ゼロだわ」
つかようやく自覚したのな、とつけ足され、僕は「おやぁ?」と目を見開いた。
「……さっちゃん、もしかして僕より早く気づいてたの?」
僕でさえ、この感情をさっき認めたばかりなのに。
するとさっちゃんは、「おまえなぁ」と呆れ果てたように息を吐いた。胸に手を当ててみろ、とさっちゃんが真顔で言う。
「自分の性格よく考えてみろよ。興味ないやつ――つぅか家族と佐築家以外のやつにはとことん興味ないおまえが、自分からせっせと真壁先輩のところに通ってんだぞ? 行きの通学路や校内で会ったら数年ぶりに飼い主に出会った犬みてぇに嬉しそうな顔するし、最近の話題はほぼ真壁先輩についてのプチ情報だし……。これで真壁先輩がおまえの『特別』じゃないとか、ありえねぇだろうが」
違うとか抜かしたらぶっ飛ばすぞ、と言わんばかりのテンションだった。容赦なくズバズバと指摘され、僕は「うぅ、おっしゃる通りです……」とうなだれてみせる。
さすがさっちゃん。僕がさっちゃんを覗いているとき、さっちゃんもまた僕を覗き返しているのだった。
なんて、そんな下らないことを考えたとき。
さっちゃんが、鋭く目をすがめて斬り込んできた。
「ま、おまえが日焼け絶許部にせっせと通ってる理由の一つは、俺から距離置くためだけどな」
「…………」
――本当に、僕がさっちゃんを覗いているとき、さっちゃんもまた僕を覗き返しているね。
おかしくて、思わずふっと笑ってしまう。一度笑みがこぼれてしまうと止まらなくなって、僕は「あははは!」と笑いながら、さっちゃんの目を真正面から見つめ返した。
さっちゃんの黒い瞳に映る僕は、さも愉快そうに笑ってる。なんだかちょっと、底意地の悪い悪魔みたいだ。自分でもそう思うのだから、さっちゃんの目には余計に悪魔的に見えていることだろう。
「なぁんだ、気づいてたんだ、さっちゃん」
意味不明なまでにおかしそうな僕に、さっちゃんが少し、ほんの少しだけ怯えた様子を見せる。
かわいいねぇ、ほんと。はじめに触れてきたのはさっちゃんなのに。
健気でかわいいさっちゃんが、怯えながらも懸命に言葉を絞り出す。
「あたりまえだろ。おまえは考えもなく、自分から好んで部活に入る玉じゃない。協調性がなさ過ぎて、集団行動とか壊滅的に嫌いだし、向いてないことを自覚して積極的に避けるタイプだからな」
「そうだよ。さすがさっちゃん、僕のことよくわかってる。でもこうでもしないと、さっちゃんも僕から離れられなかったでしょ?」
なまじ仲の良い幼馴染みだから。家族同士もべったりだから。
片方が部活にでも入らないと、物理的な距離が作れなかった。
とはいえ、今までずっと一緒にいたから、こうして頻繁に会いに来ちゃうんだけどさ。
「ねぇさっちゃん」
僕は正座し直して、さっちゃんに語りかける。悪魔的な笑みを消し、真面目な表情で。
「さっちゃんはさぁ、ずっとあのときのこと、自分のせいだって思ってるでしょ」
「…………」
さっちゃんは答えない。答えられないのだ。それがさっちゃんの中での強固な「事実」だから。
さっちゃん自身が言葉にできなくても、さっちゃんの長い睫毛は肯定を示すように、微かに震えた。
「でも僕は、それこそ何回も言ってるけど、さっちゃんのせいだなんて思ってないよ。本当に、これっぽちも。だって悪いのは僕たちじゃなくて、僕に的外れなやっかみ向けてきたあの人たちでしょ」
「…………おまえ、第一志望、晴光じゃなかっただろ」
さっちゃんの声は震えて、とても苦しそうだった。
今にも泣き出しそうに歪んだ顔。そんな顔しなくていいって、僕はずっと言っているのに。
「それを言うならさっちゃんだって第一志望晴光じゃなかったし、陸上部だって結局辞めちゃったじゃん。まぁ陸上の方は足の速さを買われて強引に入部させられただけで、さっちゃんが望んで入ったわけじゃなかったけど」
それでもさっちゃんは他の誰よりも真面目に練習に取り組んでいたし、充分すぎる結果を出していた。
はじまりは強引ではあったけれど、たぶん、さっちゃんは走るのが嫌いではなかったと思う。親兄弟よりもさっちゃんの一番近いところにいるという自負のある僕がそう思うのだから、それはきっと間違いではなくて。
でもあの夏の日から、さっちゃんはそれなりに好きだったはずの「走ること」を一切やめてしまった。
……ミーンミーンとうるさいくらいにセミの鳴く、暑い暑い夏の日だった。あの夏の日のことは嫌になるくらい鮮明に記憶に残っている。残っているから、僕はすっかりセミの鳴き声が嫌いになった。本当は夏という季節だって嫌い。真壁先輩と出会えたから、マシに感じているだけで。
お互い様だよ、と少しおどけてみせながら僕は言う。
「僕が諦めた部分もあるし、さっちゃんが手放したものも確かにある。でも僕たちはお互いに納得して選んだでしょう? 僕たちのことを知る人がほとんどいない晴光に行くことを。……僕は後悔してないよ。そりゃ長距離通学は疲れるけどさ。おかげで日焼け絶許部に入れたし、真壁先輩にも出会えたし」
「……………………」
さっちゃんはしばし沈黙した。自分なりに感情の整理を試みたようだったけれど、結局は納得しきれないというように、長く深い溜息をついた。
「結果論だろ」
吐き捨てるように、さっちゃんが言う。さっちゃんの傷は、僕なんかよりずっと深く、心の奥の奥まで荒らしてる。
「いいでしょ、『今』が幸せなら。『今』が積み重なって未来になるんだから、一瞬一瞬を楽しく生きていかないと。あんまり考え込みすぎると、そのうちハゲるよ」
「うるせぇ。……つか、改めて考えなくても、おまえに恋された真壁先輩がかわいそすぎるわ」
少しだけ調子の戻ってきたさっちゃんが、軽口を叩きはじめる。
そうだよ、さっちゃん、その調子。早く元に戻ってね。
……さっちゃんの傷には触れようと思えばいつでも触れられるけど、治療の仕方は未だによくわからない。鋭い爪で裂かれたように残る心の傷の治療は、心というものが目に見えないからこそ難しかった。
僕にできるのは、さっちゃんのせいじゃないと言い続けることと、ほんの少しだけ距離を置くことだけ。
でも他でもない半身の僕がやるからこそ、いつかこの努力が実を結ぶと信じてる。信じたい。
「失礼だなぁ~! っていうか、話を元に戻すけど、真壁先輩と両想いになる方法教えてってば!」
「だから俺が知るわけねぇだろ! つかおまえさ、なんでよりにもよって真壁先輩に恋するんだよ。初恋のハードル高すぎだろ。あんなモテたことしかないような人に恋するなんて」
「恋は理屈じゃないから仕方ないんだよ! 本能一本勝負なんだから! 好きになったものは大好きなの!」
「……おまえ、他人に興味ない割には、面食いだもんな」
何を一人で勝手に呆れているんだ、さっちゃん。呆れたいのはこっちだよ。僕が面食いになってしまったのは、ほぼ一〇〇パーセント君のせいだと言うのにさ。
さっちゃんは客観的に見て、あの真壁先輩と張るほどの美形中の美形で。
僕は鏡で自分の顔を見るより、そんなさっちゃんの顔を見て生きてきたんだから、そりゃあ世界の見え方は狂っちゃうってもので。
摩訶不思議なことに、さっちゃんは他人からイケメン認定されている自覚はあるクセに、僕がさっちゃんの顔をイケメンと捉えている自覚はない。
だから抗議しても全然ピンと来てくれないから、この件については僕はなけなしの優しさで黙って呑み込んであげることにしていた。
ベッドの上から僕を見下ろしていたさっちゃんの顔に、ふと影が差す。
なぁに、さっちゃん。まだ何かを悩んでいるの?
そんなことを思ったら、さっちゃんが真顔で恐怖の質問を投げかけてきた。
「……おまえさ、俺と付き合いたいと思う?」
「はぁ~~~~⁉」
仰天するあまりのけぞりそうになった。と同時に、全身に鳥肌が立つ。問いを聞いただけで吐きそうなほど気持ちが悪い。
てかいつもなら、さっちゃんの方が激しく否定するくせに。
え、さっちゃん、僕が見てない間に頭でも打っちゃったの? 大丈夫? 病院行く? ってか絶対どうかあるから病院行こ‼
「――僕とさっちゃんが付き合ったら、それはもう精神的近親相姦じゃん‼」
直後、右隣のりゅーくんの部屋からゴッという鈍い音――何かに体をぶつけたような音が聞こえてきた。次いで「痛ててて……!」という悲痛な声も。
ごめんね、りゅーくん。変なワードを訊かせちゃったことについては、あとで謝りに行くよ。行くけど、今は様子のおかしいさっちゃんの対処が先だ。
僕がエイリアンを見る目でさっちゃんを凝視しているのも構わず、さっちゃんは「ああ、俺も同意見だ」と真顔のままあっさり頷いてくた。
「こ、肯定するなら訊かないでよ……!」
どうしよう。今、人生で一番さっちゃんに対して恐怖を感じている。
さっちゃんは何が言いたいんだと思っていたら、さっちゃんがなぞなぞみたいな謎の言葉を投げかけてきた。
「でも真壁先輩は俺と同じだぜ?」
「……?」
手元にある情報が少なすぎて、さっちゃんの言葉の意味が読み解けない。
ねぇさっちゃん、さっちゃんはどうしてそんなに憂いげな顔をしているの?
「おまえマジで気づいてねぇの? 真壁先輩と俺はほぼ同じ。気づいたときにはたぶん、俺の方がびっくりしたけど。……あ、だから真壁先輩に恋すんなって話じゃねぇよ? 俺がおまえのことを実は好きでしたって話でもねぇ。そんなことは天地がひっくり返ってもありえねぇけど……」
さっちゃんはそこで一度言葉を切り、それから淡々とした表情と声で続けた。
「真壁先輩は俺と同じだから、対応の仕方間違えんなよって話。自分で言うのもなんだけど、俺みたいなタイプは脆いからな。……ま、もうすぐ夏休みだし、夏休みの間は日焼け絶許部はどうせ休みだろ? 休みの間にゆっくり今後の対応考えれば?」
「え、」
「夏休み」という言葉に、僕の頭と身体が凍りつく。
ちょっと待って、ちょっと待って。真壁先輩と会うのが楽しすぎて、頭からすっぽ抜けてたけど。
僕は急いで勝手知ったるさっちゃんの部屋の壁掛けカレンダーに目を走らせた。真面目なさっちゃんは、行事予定をちゃんとカレンダーに赤文字記入している。
さっちゃんの書き込みによれば、あと二週間で期末テスト。それが終われば夏休み。
真壁先輩に会えなくなる(かもしれない)期間が、すぐそこまで近づいてきていた。
