部員非募集! 「日焼け絶許部」で恋をする♡

「……もうなんとなく気づいてるだろうけど、俺は昔、サッカーをやってて、」
「はい」

 夏矢先輩は視線を落とし、自分の靴のつま先を見つめて語る。

「それも趣味とか遊びの領域じゃなくて、本気でやってた。将来はプロになるんだって、絶対サッカーで生きていくんだって、そう思って、勉強とか友達とゲームすることとか、そういうサッカー以外のことは全部捨てて、文字通り全身全霊で打ち込んでた。幸運にも才能はあって、色んな大会でMVP取って、有名チームの監督からも、『君は将来は絶対プロになれる』って、お墨付きもらえてて。――……でも、中二の春の試合中に、靱帯を、断裂して、」

「…………」
「靱帯やる前にも、色々怪我してたから。結局それがダメ押しになって、サッカーをやめないといけない状況になってしまって」
「はい」

 夏矢先輩の、押し殺した口調が切ない。未だに割り切れていないから、感情を押し殺すしかないのだと察してしまう。

「……はっきり言って、絶望した。はじめてサッカーボールに触れた四歳のころから、ずっとサッカーだけをやってきたから。これからもサッカー一本でやっていくつもりだったから。思わぬところで強引に糸が断ち切られて、どうしていいか本気でわからなくなった。――だって俺はサッカーのために、サッカー以外のことすべてを、捨ててきたのに」
「…………」
「わからなくなって、人生に本気で絶望して、そこから二ヶ月くらい引きこもった。カーテンも開けない真っ暗な部屋で、朝から晩まで布団をかぶってすすり泣いてた」

 そこまで言うと、夏矢先輩は唐突に左袖をまくって、眩しいライトの下に、雪のように白く清らかな肌をさらした。そうして右手を使い、どこかぎこちなく、その肌を上から下へそっと撫でていく。

「……今となっては信じられない話だろうけど、サッカーやってたころの俺は、誰に会っても真っ先に『黒いね』って言われるくらい、真っ黒に日焼けしてたんだ。焼けやすい体質に加えて、日焼け止めもろくに塗らなかったから、そりゃあまあ真っ黒になるのは当たり前だったんだが。――サッカーに捧げた時間が長くなるにつれて少しずつ濃くなっていく肌の色に、いつからか俺は一種の誇らしさを感じるようになってた。これだけ肌が焼けるまで頑張ったんだって、そう思うと誇らしくてたまらなかった。……――日焼けは俺の、サッカーにおける努力の証明で、サッカー選手としての象徴だった」

 夏矢先輩の声がじわじわと震え出したかと思えば、その瞳からついに涙がこぼれた。涙は先輩の頬を流れ、顎を伝って、地面に滴り落ちていく。 
 ……もらい泣きしてしまいそうだったけれど、懸命に我慢した。だってこれは、僕が泣いていい話じゃない。
 しばらく両手で顔を覆い、下を向いて静かに泣いていた夏矢先輩だったが、やがて乱暴な仕草で涙を拭うと、震える声のまま続けた。

「だから、引きこもってしばらく経つと、自分の真っ黒に焼けた肌を見るのがどうしようもなく辛くなってきた。真っ黒な肌を見るたびに、サッカーをやってた記憶が否応なしに引きずり出されてしまうから。……でも肌は、特に腕の肌は、どうしたって目に入るから、見るのを避けられなくて、避けられないのがまた辛くて……」

 ……顔は鏡やガラスなど、反射するものを避けさえすれば見ずに生きていける。だけど腕は、指は、生きている以上絶対に、どうしようもなく視界に入ってくる。毎日毎日絶対に、防ぎようなく。
 ……たかが皮膚一枚、されど皮膚一枚。夏矢先輩は自分の肌色に、どれだけ心を掻き乱されたのだろう。
 想像するだけで、胸がえぐられるように痛んだ。

「……本当に頭がおかしくなってたから、ある夜についに包丁を持ち出して、自分の腕の皮膚を全部削ぎ落とそうとして」

 衝撃の告白に、ひゅっと喉が鳴った。一気に血の気が引く。
 僕の動揺を察した夏矢先輩が、慌てて「悪い、大丈夫だ」と何事もなかったことを示した。

「包丁掴んだ時点で家族に発見されて、全員で羽交い締めにされて止められたから、未遂で終わったよ。血の一滴も出てない」

 ……そう、言葉を紡ぐだけでも引き裂かれるように胸が痛いはずなのに、夏矢先輩が僕を安心させるように無理に笑いかけてくれるから、僕はたまらない気持ちになる。
 こんな優しい人、僕は他に知らない。そして優しいからこそ、ここまで深く傷ついてしまうのだ。

「……まぁ、それで家族に泣かれて。どうしてこんなことしたのって訊かれて、『色が黒いのがいやだ、この肌を見てるのが耐えられない』って答えたら、『それだったら普通に色白になればいいだけの話でしょ! 肌削ごうなんて馬鹿なこと二度と考えないで!』って、姉貴にまた大泣きされて、」
「……はい、」

 相槌を打ちながら、僕はそっと思い返す。夏矢先輩のことをしきりに心配していた夏矢先輩の兄姉のことを。
 片道二時間以上かかる距離を文句も言わずに進んで運転してくれるのは、夏矢先輩の家族があそこまで夏矢先輩に心を砕いているのは、この不安定さを目の当たりにしているからだろう。夏矢先輩の脆さを知っているから、不安で目が離せないのだ。


「――それで、ああそうか、日焼け対策が頑張って色白になればいいんだ。いや、色白になりたいって思った」


 夏矢先輩の声が、夜の公園に響いて溶ける。
 あれだけうるさかったセミたちは、いつの間にか沈黙していた。
 「……佐倉、俺は」と夏矢先輩が僕を見る。その顔には、自嘲の色が広がっていた。

「俺は、色白になることで、サッカーやってたときとは別人になりたかったんだ。色黒のままだとどうしても、サッカーのことを思い出してしまうから。思い出して、死にたいくらいに絶望するから」

 そうして真っ赤な色をした前髪をちょんとひとつまみする。

「髪を赤髪ハーフアップにしたのも同じ理由で。……規則に厳しい運動部じゃ、絶対に許されない色と髪型だから。サッカーをやってたときとは何もかも反対の見た目になりたかった」
「……それで、『日焼け絶許部』ができたんですか?」

 夏矢先輩の頷きが、僕の推測を肯定する。

「そうだよ。理事長の久史さんは俺の祖父と一緒にいつも試合を見に来てくれてて、俺が本気でプロ目指してたのも、怪我でダメになって引きこもってたのも全部知ってて、家族と同じくらい俺のこと心配してくれてたから二つ返事で許してくれた。……日焼け対策するだけなら、別に部活の形にしなくてもよかったんだが……。さっきサッカーボールを間近で見て具合を悪くしたことと矛盾することを言うけど、遠目から、本当に遠目からサッカーを見ることだけは、やめられなくて」

 本当なら自分もあのグラウンドにいたのだと、夏矢先輩は今でもそう思うことをやめられないのだろう。
 ただ単純にサッカーを見たいだけならプロ選手の試合で事足りるのだろうが、夏矢先輩が求めているのはそれじゃない。自分を重ねることのできる、同じ高校生プレイヤーの姿を、いつも追いかけていたかったのだ。
 だから「日焼け絶許部」を作った。
 色白になるために。好きなだけ学校に残って、気の済むまであのグラウンドを眺めていられるように。
 二つの望みをあえて組み合わせて、「部活」の形にした。
 ――これが「日焼け絶許部」の創設秘話。
 今まで全然知らなかった。知るはずがなかった。夏矢先輩の人生でもっとも大きな傷と、直結していたのだから。

「……部員を非募集にしてるのにも、何か大事な理由があるんですよね?」
「大事な理由というか……。自分で言うのも何なんだが、地元じゃ『イケメン天才サッカー少年』で名が通っていたから、サッカーが続けられなくなったあとも、ちょくちょくそのころの話題を持ち出されて、色々言われてて。それが、すごくいやで」

 それはそうだろう。大怪我を負った部分に塩を塗り込むような行為、僕だったら絶対に許さない。
 僕はそこで気づいた。

「あ……! だから部員を非募集にしてるだけじゃなくて、話しかけてくる人全員を無視して、周りに人を寄せないようにしてたんですか?」

 絶対に誰にも、過去の話題に触れてほしくなかったから。徹底的に人を拒絶していた。
 見破られた夏矢先輩は、ほんの少しだけ気まずそうな顔で頷いた。

「そうしないと、またどこかのタイミングで誰かに掘り出されて、話題に上げられてしまうから」

 じゃあ、どうして。

「……そこまで徹底してたのに、どうして僕だけは日焼け絶許部に入れてくれたんですか?」

 揺れる瞳を夏矢先輩に向けると、夏矢先輩は数秒沈黙したのち、非常に言い辛そうな顔で答えた。

「佐倉は、その、ものすっごい時期外れに俺のところにやってきたから、噂に疎いんだろうなって思って」
「な、なるほど」
「うん。……だからきっと、俺の過去なんて絶対知ることもないんだろうって思ったし、なんというか、その、真壁夏矢という人間に執着があるようには見えなかったから」

 「日焼け対策」にしか興味がなさそうだったから、僕は受け入れられた。夏矢先輩の目から見て、害になりえない人間だと判断されたから。でも。これもまた、結果論だけど。

「…………でも結局、僕が一番夏矢先輩に執着してますよ? 恋人の座を狙ってるくらいですし」

 「そうだな、結局そうなっちゃったな」と夏矢先輩は笑って、それから膝の上にあった僕の両手を握った。まるでお別れの挨拶をするみたいなその仕草に、いやな予感がする。

「今日二人で出かけてみてわかったけど、俺は佐倉が好きだよ。恋愛の意味で好きだ。夏祭りでやりたいことを好きなようにやって楽しそうに笑ってた姿もかわいくてたまらなかったし、具合の悪い俺にいやな顔一つせず付き合ってくれたところも素敵だと思った」
「――――」

「でも約束を覆して悪いけど、恋人になるのはやめておこう」

 夏矢先輩が大きく息を吸う。そして悲しみに歪んだ顔で笑った。僕が人生で見た中で、一番下手くそな笑顔。

「――話を聞いていてわかったと思うけど、俺は今でも過去と決別できてない、未練がましい、情けない男だから。佐倉に好きになってもらえる資格なんて、本当にないんだ。だからもっとちゃんとした人と、幸せになってほしい」
「…………」

 夏矢先輩がやっぱり僕のことを好きではないと自覚して、断る口実としてそう言ったのなら、僕は許せた。
 でも違うから、違うからこそ許せない。
 本気で僕のことが好きなくせに、勝手に僕を諦めようとする先輩の姿勢に、どうしよもなく腹が立つ。ふつふつと、腹の底から怒りが湧く。
 マグマのようにドロドロと熱く燃えたぎる怒りと衝動に突き動かされるまま、僕は吐き捨てた。

「勝手なこと言わないで下さい。僕のこと何も知らないくせに」
「さく、」

 射殺さんばかりの目で夏矢先輩を睨み上げる。


「――僕が暴力事件の犯人にされてたことも、知らないくせに」


「――っ!」

 夏矢先輩が息を呑む。こぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いて驚き、固まっている。
 そうだろう、だって僕の方こそ徹底的に隠してきた。僕の――僕とさっちゃんの抱える大きな傷。
 僕は畳みかける。

「本当に少しも不思議に思いませんでした? なんで僕とさっちゃん二人して、わざわざ二時間以上もかけて、県外の高校に通ってるんだろうって。近隣にもっと人気で通いやすい高校があって遠距離するメリットなんて正直少しもないのに、どうしてって。――理由は単純です。事件のせいで、同じ中学校出身者がいるところには死んでも通いたくなかったから。だから僕たちは話し合って話し合って話し合って、県外に出ることにしたんです」

 県外の高校で、一番通いやすくて元の志望校に近い雰囲気を持っていたのが晴(せい)光(こう)だった。晴光を選んだのなんて、本当はそれだけの理由だった。
 僕は先輩に気づかれないように嘆息する。

『おまえマジで気づいてねぇの? 真壁先輩と俺はほぼ同じ』

 ――ねぇさっちゃん。僕はやっとさっちゃんの言っていた意味がわかったよ。

 さっちゃんが答えをくれる前に、解がわかってしまった。夏矢先輩とさっちゃんは本当に、鏡に映したようによく似ていた。今まで気がつかなかった自分を、「大馬鹿者」と嘲笑いたくなるほどに。

「……まあでも、好きで事件になったわけじゃありませんけど。事の発端は、僕の生まれたときからの幼馴染みである佐築(さつき)晃(こう)太朗(たろう)――さっちゃんでした」

 さっちゃんを責める気は一欠片もないけれど、きっかけがさっちゃんだったことは事実だった。
さて、何をどう話したものか。どう話しても、決して面白い話にはならないのが辛いところだ。

「……さっちゃんは中学時代、陸上部に所属したんです。最初は僕と同じ帰宅部だったんですけど、足の速さを見込まれて、陸上部の顧問に強引に入部させられて。でも根が真面目なので、入ったからにはって毎日頑張ってました。さっちゃんの努力ともともとの素質はすぐに噛み合って――、中学二年に上がるころには全国レベルの選手になってました」
「…………」

 突然こんな話を聞かされても困るだけだろうに、優しい夏矢先輩は黙って耳を傾けてくれる。

「それ自体は純粋に喜ばしいことですけど、そのせいで陸上部が、『学校一のイケメンで、陸上エリートの佐築くんのいる部!』みたいな感じで、学内で変に持ち上げられるようになっていって。……それで陸上部のやつらが調子に乗って、やたらと偉ぶり出したんですよ」

 当時のことを思い出しただけで、勝手に溜息が漏れていく。本当に、吐きたいほど下らなかった選民意識。

「さっちゃんはそういう曲がったこと大嫌いなんで、さっちゃんに嫌われないようこそこそ隠れて、さっちゃんの意志に反してさっちゃんの周りを管理しようとしはじめて。……ああ、この表現はちょっと違いますね。正確には、さっちゃんの周囲を自分たち陸上部で固めようとしたんです」

 全国区の成績を持つだけでなく、超絶美形の夏矢先輩でさえ手放しで賞賛するほどの端正な顔立ちを持ったさっちゃんは、本人にその自覚がないまま、学内の王さまとして祭り上げられていた。誰も彼もがさっちゃんの関心を買おうと必死だった。陸上部のやつらは部活が同じだというだけで、そんなさっちゃんの一番近くにいる権利があると思い込んでいた。
 さっちゃんは馬鹿じゃないけど、あのころは部活を頑張りすぎていたから、なかなか気づけなくて。

「……それで、幼馴染みの佐倉が目をつけられたのか?」

 夏矢先輩が、おそるおそるといった調子で訊ねてくる。

「正解です。……と言いたいところですが、ちょっと違います。僕が目をつけられたのは、僕がさっちゃんの幼馴染みだからじゃなくて、誰の目から見てもさっちゃんの特別だったからですよ」

 さっちゃんとは結局、中学三年間クラスが違った。でもさっちゃんは校内で僕を見つけると必ず寄ってきたし、テスト期間で陸上部が休みのときは必ず一緒に登下校していたし、大会のたびに応援しに来いよと誘ってきたし、何よりさっちゃんが「さっちゃん」呼びを許すのは、僕に対してだけだった。

 さっちゃんは僕と違って友達付き合いを頑張ろうとするくせに、硬派ゆえの潔癖さで、歳の近い者に対しては男女問わず下の名前で呼ぶことを許さなかった。
 つまり「佐築」と呼ぶのはOKだが、「晃太朗」はダメで、「さっちゃん」なんて愛称で呼ぶのはもってのほか。
 一度ふざけて「さっちゃん」呼びした同級生がいたが、ブチ切れたさっちゃんは彼女が誠心誠意謝ってくるまで、彼女のことを睨み倒していた。……さっちゃんもあれでなかなかに苛烈なところがある。さすが僕の幼馴染み。
 まあその一件もあって、みんなが「晃太朗」とか「晃(こう)」とかもっと親しく呼びたいのを必死に我慢する中で、ただ一人「さっちゃん」と呼び、それが許されていた僕は、悪い意味で目立ち続けていた。
 僕は大袈裟に肩を竦めてみせる。

「でもそれってしょうがないことだと思いません? ……――だって僕たち、生まれたときからの幼馴染みなんですから」

 誕生日さえたった三日しか変わらない、隣の家の幼馴染み。
 物心つく前から一緒に遊んで泣いて笑って喧嘩して。ずーっと隣にいて、思い出のほとんどを共有し続けてきた幼馴染み。兄弟で半身で半身で。さっちゃんの実弟であるりゅーくんでさえ、僕たちの間にはとてもじゃないが割り込めないと首を振る。
 自分たちでさえよくわからない。どうしてこんなにもがっちり噛み合ってしまったのか。ひょっとしたら、前世で双子だったりしたのだろうか。
 そんな馬鹿なことを思いながら、僕は静かに目を伏せた。

「でもその理屈は彼らには通用しなくって」

 僕とさっちゃんで外見のタイプや学校でのポジションが違いすぎたのも災いした。
 クールな美形で陸上部の大エースで学校の王さまであるさっちゃんと、一見すると地味で大人しげな外見で、自ら進んで周囲と関わろうとしない姿勢から、変人扱いされていた僕。スクールカーストの最上位と最底辺。
 彼らからするとカースト底辺の僕は、王さまの傍には決して侍ってはいけない人間だった。だから僕を排除しに走った。

「僕とさっちゃんってずっとクラスが違ったので、さっちゃんは気づけなかったんですけど、中二の後半くらいから、さっちゃんと同じ陸上部の人たちに呼び出されるようになって、色々言われました。『佐築くんから離れて』、とか、『幼馴染みってだけでそんなべったり佐築くんにくっついてて恥ずかしくないの?』とか」

 僕が脅しめいた忠告を綺麗に無視していると、そのうちさっちゃんとの関係性を疑われ出した。こんなにもしつこく「忠告」しているにも関わらず、さっちゃんと離れようとしないのは、さっちゃんと付き合っているからなのではないかと。

「……前に『佐倉って本当(ほんと)人の気持ちわかんないよね』とか、『感情ってものがないんじゃないの』とか言われたことがあるって話をしたと思いますけど、これ、この呼び出しのときに言われた言葉なんです。『あんたが佐築くんの傍にいることで不快になってる私らの気持ち、ちゃんと考えろよ』って。それを聞いたとき、僕は本当に、何言ってんだろって思いました」

 さわさわと、夜風に吹かれた公園の木々が音を立てる。空のてっぺんで、お月様が白々しく光ってる。
 僕はあのとき、エイリアンに遭遇したような気持ちになった。きっとどれだけ言葉を重ねたって、理解し合うことは永遠に不可能だろうと、そう感じた。
 さっちゃんと離れるかどうかは僕が自分で決めることで、彼らの指図で離れるなんてありえなかった。僕たちはそんな軽い関係じゃない。

「……別に誰に理解してもらえなくても構わないんですけど、僕とさっちゃんって幼馴染みっていう以上に、半身なんですよ。もちろん結局は他人だから、考え方も全然違うんですけど、なんだかんだ一つの魂を分け合って生まれてきたみたいな感覚があるんです。互いの一番しっくりくる相手、みたいな。でもこれは決して恋じゃない。だって、自分で自分に恋はできないでしょう? だからどれだけ距離が近くても僕はさっちゃんに恋しないし、さっちゃんもそう。――だけど恋できないほど近い距離にいる大切な相手だから、他人の指図で離れるなんてことしてやらない」
「…………」
「そんな僕の態度が気に入らなかったんでしょうね。物を隠されたりとか、俗に言うイジメみたいなことをされだして」
「……そのこと、ちゃんと佐築くんに言ったのか?」
「まあ、途中からは報告だけはしてましたよ。報連相って大事じゃないですか。……最後の、大事な夏の大会が近かったので、注意とかはしなくていいって言いましたけど」

 話を聞いたさっちゃんは激怒して、その足で殴り込みに行こうとしたけれど、それは僕が止めた。
 彼らのためではなくて、僕の大事な幼馴染みのためだった。

『あのねぇ、大丈夫だよ、さっちゃん。僕が鋼メンタルなの、さっちゃんが一番良く知ってるじゃん。報告したのは万が一に備えてであって、今さっちゃんに守ってほしいからじゃないよ。――今年全国で入賞できそうなんでしょ。今問題起こしたらまずいって』

 僕の言葉に、さっちゃんは渋々頷いた。
 全部結果論だけど、あのとき説得しなければ、さっちゃんがあそこまで傷つくことはなかったのだろうか。
 きっとそれは神様にしかわからないこと。

「……僕、彼らもそこまで馬鹿じゃないと思ってたんですよ。大事な夏の大会も近かったし、何より高校受験の年だったし、問題起こしたらまずいって、どんな馬鹿でもわかるじゃないですか。一足す一より簡単なことなのに」
「……うん」
「……さっちゃんの、最後の夏の県大会予選、見に行ってあげたんです。さっちゃんは順当に勝ち上がって、『ああよかったね』って思いながら帰って。その二日後、塾の帰りに、彼ら陸上部の人間に出くわして」

 ミーンミーンとうるさいくらいにセミの鳴く、暑い暑い夏の日だった。男子もいたし女子もいた。濃厚な悪意がそこにあった。
 彼らは焦れていたのだ。何度やっても、僕がさっちゃんから離れていかないから。

「……最初から計画してたみたいで、腕を掴まれたと思ったら、そのままあれよあれよと路地裏に引きずり込まれて、暴行されかけて、」
「っ!」

 殴られて蹴り飛ばされた。
 もちろん僕は必死に抵抗した。
 ――「暴行」という言葉には二つの意味がある。一つは暴力を振るうこと、もう一つは他人を無理矢理犯そうとすること。
 この場合の暴行は、そのどちらの意味も含んでいた。
 これからの方が長いはずの人生の中でも、決して忘れることはできないだろう。笑いながらズボンを引きずり下ろそうとしてきた、あの男の顔。「あはは!」と愉快げに笑う女子たちの声。
  ――僕は必死に抵抗した。参考書や問題集で重いカバンで全力で相手を殴り返し、蹴り返して、必死の思いで逃げ出した。
 だけど話はそこで終わらなかった。

「その次の日、彼らが学校に訴え出たんです。僕に暴力振るわれたって」
「はぁ⁉ 恥知らずにもほどがあるだろ!」
 
 夏矢先輩が、もう我慢できないというように怒り出す。
 僕だって、まさか彼らがそんな手段に出てくるとは思わなかった。この事件が明るみに出て困るのは、大会を控えた彼らの方だと思っていたから。
 でも。

「カバンを振りかぶって殴り返したときに、当たりどころが悪くて、相手の一人の骨にヒビが入ったんです。病院のレントゲン写真まで持ってこられたので、一気に僕が不利になってしまって」

 僕だってあちこちを打撲していたが、教師たちは僕の訴えには耳を貸してくれなかった。

「僕らの学年で一番力を持っていた教師が彼ら陸上の顧問だったのも災いしましたし、何より古いタイプの教師ばっかりだったので、暴行されかけたので必死で反撃しただけだと説明しても、『男子が男子を襲おうとするはずがない』って、まともに取り合ってくれなくて。僕がクラスで浮いてるのは知られてたので、馴染めなさと受験のストレスから突発的に暴力行為に走ったことにされて。……さっちゃんの取り巻きにきな臭いことされてるっていうのは伝えてたし、僕がそういうことしない人間なのをちゃんとわかってくれてる両親は僕を信じて精一杯学校や彼らの保護者と戦ってくれたんですけど、結果は覆らなくて。――――でも、この件で一番ダメージを受けたのは、僕じゃなくてさっちゃんで」

 ここにきてはじめて、声が震えた。
 さっちゃん、さっちゃん、僕の半分。

「……事件のことを知ったさっちゃんは、すぐに職員室に乗り込んでいって、『僕の言ってることの方が正しい』って訴え出てくれました」

 あのときのさっちゃんは、見たことがないくらい強い怒りに全身を支配されていた。火山が爆発するように激しく怒りの感情を剥き出しにして、真っ向から教師たちと戦ってくれた。
 でもやっぱり、結果は覆らなくて。

「――それでさっちゃんはその場で退部届けを叩きつけました」
「っ」
「……馬鹿ですよねぇ。こんなことをする人間とはもう一緒に走りたくない、って。不本意とはいえ結局中学生活のすべてを陸上に賭けてきて、県大会の予選もちゃんと勝ち抜いたのに。全国入賞も間違いなしって言われてたのに」

 勝ち誇った顔をしていた彼らは、ここにきてはじめて動揺を見せた。邪魔な幼馴染みを排斥しようとした結果、彼らの王さまであるさっちゃんが、部を去ることを決意してしまったから。
 それは彼らのもっとも望まないことだったが、すでに学校中に話が広まっていた手前、ついた嘘を引っ込めることもできなかった。

「どんなに撤回するよう言われても、さっちゃんは譲らなくて、僕の手を引いて、職員室を出て。一緒に家に帰ったあと、『ごめんな』って死ぬほど謝られました」
「…………」
「こんなことを言うと嘘だって、強がりだって思われるかもしれないんですけど、暴行されかかったことは本当に僕のトラウマにはなってないんですよ。最後までされてたらどうだったかわかりませんけど、幸いにも未遂だったので、いやな思い出ではあるけれど、トラウマまではいかない、みたいな。――でもさっちゃんが、死ぬほど自分を責めちゃって、」

 半分を自認する幼馴染みが自分のせいで暴行されかけた挙げ句、暴力事件の犯人に仕立て上げられてしまったから。

「さっちゃんの方が、学校行けなくなっちゃって」

 正確には、部屋から出てこれなくなった。いつかの夏矢先輩と同じように。

「僕もまあ、もう学校行くの面倒だったし行きたくなかったので、毎日学校じゃなくてさっちゃんの部屋に通って、さっちゃんとたくさん話し合って、二人で地元から離れた晴光に行こうって決めました」

 地元から遠い学校に行くと決めたら、さっちゃんの精神状態はだいぶマシになった。
 絶対に誰も僕たちの知らないところへ行きたかったから、二人して猛勉強した。その甲斐あって、無事受かって。
 高校生になったら何しようねって、晴光の入学式の直前まで、ずっと話してた。
 さっちゃんは部活はもうこりごりだ、特に陸上なんて絶対しねぇと吐き捨て、僕は高校デビューの一環でアイくんみたいな雪のように白い肌を目指してみようかなんて笑って決めた。
 そしてもう一つ、入学前に僕が勝手に決めていたこと。

「協調性のない人間だって自認してたので、中学までは部活に入ってなかったんです。でも高校では、良さげな部活があったら入部しようって思ってました。――さっちゃんと距離を置かなくちゃって思ったから」
「…………」
「……さっちゃんは本当に僕の半分なんです。だから距離を置くだなんてこと、今まで考えたこともなかった。そりゃあさっちゃんと僕は別人だから、どこかで絶対に道はわかれるだろうって思ってましたけど、まだまだ先だって呑気に構えてました。――でも、僕にまた何かあったら、僕じゃなくてさっちゃんの方が深く傷ついちゃうんだろうなって思ったから、早めに距離を取った方がいいんだろうなって、そう思ったんです」

 夏矢先輩、と、僕は夏矢先輩を見上げて笑った。試すように訊ねる。

「僕がアイくんに憧れて、色白になりたいのは本当です。でも僕は結局のところ、さっちゃんのために日焼け絶許部に入ったんです」
「佐倉、」

 夏矢先輩が、それ以上は言わなくていいというように、僕の名前を呼んだけれど。僕は引き返さなかった。

「ねぇ夏矢先輩。僕は暴力事件の犯人にされたことがあって、その上幼馴染みのために夏矢先輩の大事な大事な日焼け絶許部に入部してる。こんな僕に、幻滅しました?」
「するわけないだろう!」
 
 鋭い声を上げて、夏矢先輩が怒った。
 そのまま腕が伸びてきて、肩でも掴んで怒られるのかと思ったら、がっと強く抱き締められた。たくましい胸板に押し潰されそうになる。
 体同士がぶつかってすれた衝撃で、夏矢先輩のチェーンのネックレスがじゃらりという音を立てた。

「そんな訊き方するな! 佐倉が悪いことなんか、一個もないだろ! ……俺が情けないせいで、言いたくなかったことを言わせてしまって、ごめん」 
「…………夏矢先輩、それはちょっと、違いますよ」

 僕は夏矢先輩の背中に腕を回した。夏矢先輩を慰めるように、今度が自分からぎゅっと先輩に抱きつく。

「そりゃ最初は勢いでしたけど、そもそも夏矢先輩が自分の傷について話してくれなかったら、僕は死んでも口を割りませんでしたよ。――先輩が僕に先輩の一番弱いところを見せてくれたから、なんだかんだで僕も話す気になったんです」
「……佐倉、」
「どうせなら、傷ごと愛し合いたいじゃないですか。傷がついたからこそ、今の僕たちになったんですし」

 胸の奥から勝手にぽろっと出てきた言葉だったが、自分ですごく納得がいった。
 傷となる出来事が起こって良かったか、と訊ねられたら、僕は全力で首を横に振って否定する。傷なんてない方が良い。つけられない方が良い。理不尽による苦しみの味なんて絶対に知らない方が良いし、知る必要もない。
 でも傷は一部でも愛して認めてやらねば、一生ただの傷のまま、心をひりつかせるだけで終わる。逆にほんの少しでも肯定できるところを認めれば、その分だけ前に進める。
 僕は夏矢先輩の耳元にくちびるを寄せて囁いた。

「怪我でサッカーを辞めなかったら夏矢先輩は一生『日焼け絶許部』なんて作らなかったでしょうし、僕もあの事件がなかったら、わざわざ県を越えてまで晴光には来ようとは思いませんでした」

 僕の言葉のその先を、夏矢先輩が引き取る。

「互いに傷つかなかったら、俺たちは一生出会わなかったってことだな?」
「その通りです!」

 きっと僕に出会うことのない代わりに、自由にサッカー続けられていた世界線で生きられていたのなら、そっちの方がずっとずっと幸せに決まっていたと思うけど。
 その道はもう閉ざされてしまったのだから、今はただ、この出会いを喜ぼう。祝福しよう。感謝しよう。
 天災のように襲いかかってきた出来事によって方向転換を余儀なくされたからこそ結びついた、この縁に。

「そうだな」

 どこか晴れ晴れしたような、夏矢先輩の声。
 僕を抱き締める腕に、一層の力が籠もる。

「ずっとずっと、失ったものばかり数えてきたけど。サッカーと別れざるを得なかった代わりに、得た物も確かにあるんだよな。――佐倉は、その得られた物の一番大切なものだよ」
「僕もです! 夏矢先輩に会えて、本当によかった!」

 互いに少しだけ体を離して、「えへへ」と笑いながら見つめ合う。見つめ合っているうちに、夏矢先輩の瞳が熱いものに変わって。
 夏矢先輩のご尊顔が近づいてきた、と思ったら、ちょん、と、軽くくちびるが触れ合った。
 蝶が花に止まるような軽やかさで、その軽やかが物足りなくて、僕は甘えるように夏矢先輩の首に腕を巻きつけておねだりした。

「もう一回、今度はもう少し長いの、しません?」
「いや、ダメだ。浴衣で色っぽい佐倉にこれ以上したら理性が持たなくなる……」
「そ、そうですか……」

 頑張って誘惑してみようとしたけれど、あけすけな先輩の言葉の前に赤面で撃沈する。

「…………それに、もう帰らないとな」

 本当に名残惜しそうな響き。

「…………じゃああの、せめて手を繋いで帰りません?」

 まだ触れ合っていたくてドキドキしながら折衷案を出すと、先輩はすぐ乗ってくれた。
 そうして僕たちは固く手を握り合いながら、今度こそ帰途についたのだった。