晴天の続く今年の夏。夏祭りの日も綺麗に晴れた。
夏矢先輩との待ち合わせ場所は今日も我が家の玄関前。待ち合わせ時刻は十六時。
……本当はもう少し日が落ちてからでも良かったのだが、その理由に夏矢先輩の日焼けを上げると、夏矢先輩は「吸血鬼じゃないんだから」と大笑いした。
腹でも抱えそうな勢いだったので、「でも夏矢先輩、夏祭り会場ではさすがに日傘を差せないんですよ?」と少しむくれながら抗議すると、夏矢先輩は「悪かった、悪かった」と両手を合わせて謝り、それから「長袖シャツを羽織ればそれなりに紫外線は防げるだろ?」と言った。
待ち合わせ時刻の十分前。宣言通りにシャツを羽織って夏矢先輩が、優雅に車を降りてくる。その拍子に、爽やかな水色のシャツの裾がひらりと揺れた。
「じゃあ二人とも楽しんできてね」
と、夏矢先輩が開けたドアの向こうから、響矢さんがそう声をかけてくれる。「はーい、ありがとうございます!」と僕が返事するとドアが閉まり、響矢さんの乗る車はそのまま発進していった。
夏矢先輩は玄関前で待機していた僕の格好を確認すると、驚いたように目を丸くした。
「浴衣、着たんだな」
「はい。いっつも夏祭りのときは浴衣を着てるんですよ」
さっちゃんのお母さんが、行事に合わせた格好を子どもにさせるのが大好きな人だから。僕もさっちゃんとりゅーくんに合わせて、夏祭りのときには浴衣を着ていた。
もちろん今日はデート(仮)だからこそ、浴衣を選択してみたのだが。
……浴衣と言っても、女子が着るような華やかなものではない。数匹の金魚が柔らかな象牙色の生地での中で泳ぐ、ごくシンプルなもの。
それでも夏矢先輩は眩しいものを見るように目を細め、「似合ってる」と手放しで褒めてくれた。そして己の服装を見つめて、反省の色を示す。
「しまった、俺も浴衣を着てくればよかったな」
「構いませんよぉ、夏矢先輩はいつでもかっこいんですから。浴衣は僕が着たくて着てるだけですし」
それに、浴衣でないだけで、夏矢先輩も服装にいつもより気を遣ってくれていた。
綺麗めのスタイルは変わりないけれど、普段は見ない金色のアクセサリーが、夏矢先輩の首元や耳元でキラキラ輝いている。
特に耳元を彩る、小さい金のイヤリングに目を奪われた。ころっとかわいい小さな丸。
――ド派手な赤髪のハーフアップと、見た目だけはバチバチにピアスを開けていそう夏矢先輩だが、実はピアス穴が一つもない。 「ピアスはつけないんですか? 似合いそうなのに」と一度訊いたことがあるのだが、「耳に穴開けるのって怖いだろ?」と想像だけで怯え切っていたし、「じゃあイヤリングは?」と訊いても「落としそうで怖い」と乗り気じゃなかったのに。
「……夏矢先輩が耳に何かつけてるの、珍しいですね。でもとっても似合ってて、かっこいいです」
僕がにっこり笑って褒めると、夏矢先輩は気恥ずかしそうに「あ、うん」と頷いた。
照れを誤魔化すように、手で何度も何度も丸い飾りをこすりながら、夏矢先輩が種明かしをする。
「……前に佐倉が、俺にはピアスが似合いそうだって言ってくれただろ? それで何かつけてみようと思って。……だけどさすがにピアスを開けるのは怖かったから、イヤリングにしてみた」
「え‼」
瞬間、表わしようのない衝撃が、全身を駆け抜けた。体温が急激に上昇していく。
「それってその、僕のためってことですか?」
モジモジしながら訊ねると、夏矢先輩はさらに恥ずかしそうな顔で頷いて、でも誤魔化さず、ちゃんと肯定してくれた。
「……ちなみに、昨日買ったばかりだ」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で放たれたトドメの一言に、僕は危うくキュン死――いやドキドキで殺されるところだった。
心臓が暴発しないよう、必死に胸を押さえつつ、僕は思う。
夏矢先輩も夏矢先輩なりに、気合いを入れて、ちゃんとデートの心構えで来てくれたんだと。
(す、好き……!)
言いようのない興奮があふれてほとばしる。
大丈夫かな、僕。夏祭り会場に移動してもいないのに、ときめきの過剰摂取でもう死んでしまいそうだ。
夏祭りまでは、のんびり歩いて二十分。
鮮やかな橙色の光に抱かれた夏祭り会場は、まだ開始直後だというのに、大勢の人であふれていた。
中学校のグラウンドが舞台なので、出店は四百メートルトラックの形に添うように、楕円の形で並んでいる。
トラックの中は、簡易テーブルが並べられた休憩スペースとして利用されているため、移動できる場所は意外と狭い。そのため、親子連れやカップル、友人同士など、様々な組み合わせとひっきりなしにすれ違う。
実は先ほどさっちゃんとりゅーくんともすれ違いそうになったが、気づいたさっちゃんが回れ右してくれたので助かった。ありがと、さっちゃん。
底抜けに陽気な空気の中を、からんころん、と軽やかに下駄を鳴らしながら歩くだけでも楽しくってたまらないが、夏祭りと言えばやはり屋台だ。
お好み焼きに焼きそばの入ったビニール袋を下げながら、弾んだ声で隣を歩く夏矢先輩に問いかける。
「夏矢先輩、次何買います? 僕、リンゴ飴がいいです!」
「わかったわかった、わかったから、そんなにはしゃぐな」
苦笑してたしなめる夏矢先輩も、祭り特有の雰囲気に包まれて気分が高揚しているのか、そうは言いつつテンションが高い。
長身というだけで目立つのに、その上ずば抜けた美貌を持つ夏矢先輩は、大衆の中でも目立ちに目立ちまくっていた。かわいくって綺麗な女性たちからどれだけ熱心な秋波を送られても、夏矢先輩の視線は僕にピン止めされて動かない。そのことがとても嬉しくて、まるで夢のように感じた。
リンゴ飴を無事ゲットしたところで、一旦休憩することにした。トラック中央の休憩スペースで、お好み焼きと焼きそばを半分こしながら食べる。夏矢先輩はリンゴ飴は要らないと言ったので、僕だけデザートにリンゴ飴を食べた。
思ったよりも硬い飴に苦戦する僕を、夏矢先輩は真正面から、ずっと微笑みながら見守ってくれて。……夏矢先輩が自覚しているのかは不明だったけど、僕を見つめるその顔に、あまりの愛おしさが籠もっていたから、僕は急に満ち満ちてしまって、結局半分以上リンゴ飴を残してしまった。
残ってしまったリンゴ飴はビニール袋に入れて、また屋台巡りを再開する。おなかは満たされたので、今度は射的やヨーヨーすくいといった、ゲーム系の屋台をひたすら巡った。
僕も夏矢先輩もゲームはうまい方ではないから、景品はほとんどゲットできなかったけれど、とにかく楽しくてしょうがなかった。
「はぁ~~、楽しかったな」
「はい、とっても楽しかったですね!」
目的の屋台を一通り回り終わったので、満足した僕たちはそろそろ帰宅することにした。
時刻は午後七時半過ぎ。夏矢先輩がこれから二時間以上かけて自宅に帰ることを考えると、頃合いだった。
楽しくて満たされた気持ちと同時に、寂しくて名残惜しい気持ちを抱えながら、会場を出る。会場を少し離れれば、静かな夜道が広がっている。
あれやこれやと笑顔で感想を言い合って進む。そうして、広いグラウンドのある公園の前に差しかかかったとき。
「あっ!」という中学生くらいの男の子の悲鳴に近い声が聞こえたかと思うと、公園のグラウンドからぴゅっと勢いよくサッカーボールが飛び出してきて、公園正面の家の塀にパァンと派手な音を立ててぶつかった。
ボールはそのままコロコロコロ……と道路に転がり、思わず立ち止まってしまった僕たちの、否、夏矢先輩の足元で狙い澄ましたように停止した。
え、何これ、なんでサッカーボール?
突然の出来事にただ呆然と目を白黒させていると、「すみませーん、ボール、取って下さーい!」と、公園から声がかかった。
見ると、中学校二年生くらいの男の子たちが五人、揃ってこちらを見て、申し訳なさそうに手を振っている。どうやら遊んでいる最中に、蹴ったボールが運悪く公園の外に飛び出してしまったらしい。
「あ、はーい……」
と、未だにどこか呆然としながら、少年たちにサッカーボールを投げ返そうとしたとき。
「うぇっ」と口元を抑えて、夏矢先輩がその場に座り込んだ。
「⁉ 夏矢先輩⁉」
その顔面は蒼白だ。もとの肌色が白い分、顔色が悪いことが一目で知れる。小さく丸まった体は呼吸するのもやっとだというように、小刻みに震えて止まらない。
「あの、大丈夫ですか?」
見知らぬ少年たちにも心配されてしまうほど、夏矢先輩の様子は誰の目から見ても普通ではなかった。
「夏矢先輩、大丈夫ですか? 先輩、」
結局ボールは少年たちが自主回収していった。
僕はしゃがんで、震えて動けない夏矢先輩の背中を必死に擦った。ダンゴムシみたいに丸まって震える背中が切なくて仕方ない。
どうしよう。こういうときは、一体どうすればいいのだろう。
はじめての経験で対処の仕方がわからない。
とにかく心配で、気持ちが千々に乱れて、なんだか泣き出してしまいそうだ。一秒でも早く元気になってほしい一心で背中を擦る。それくらいしかできることがなかったから。
泣きそうな思いで声をかけ続け、背中を擦り続けること約五分。
声を発することもできないでいた夏矢先輩が、ようやく「さくら」と僕の名前を呼んだ。弱々しく、か細い声。
「! 先輩っ、夏矢先輩っ! 大丈夫、ですか?」
ぐしゃっと顔を歪めて応答すると、心配をかけまいと夏矢先輩がまた弱々しく笑った。今にも消え入りそうなほど儚い表情。見ているこっちが辛い。
「悪いな、迷惑かけて……」
「僕のことはいいんですよ! それより、立てますか? ここだと車が来るかもしれないですから、立てるようだったらひとまず公園の中に入りましょう?」
「ん、」
自分を鼓舞するように長い息を吐いて、真壁先輩がなんとか立ち上がった。夏矢先輩の顔はまだまだ全然青かったし、見るからにふらふらしていたけれど、僕の肩を借りることで、なんとか公園のベンチまで辿り着けた。
先ほどの少年たちはボール回収後に去っていたので、公園には僕たち以外いなかった。
不安をかき立てるほどうるさく、セミたちが鳴いていた。欠けた月が、公園のライトが、いっそ眩しいくらいに公園の中を照らしていた。
ベンチに辿り着くなり、夏矢先輩は倒れ込むようにベンチに横になった。僕は夏矢先輩の邪魔にならないよう、その隣のベンチにそっと腰を下ろして、夏矢先輩を見つめる。
この段階になってようやく冷静に頭が回り出した僕は、夏矢先輩に、夏矢先輩のお父さんにここまで迎えに来てもらうかどうかを訊ねた。僕としてはそれが一番いい方法に思えたけれど、先輩は横になったままいやいやと首を振って断固拒否の姿勢を示した。
「余計な心配をかけたくないんだ。もう少ししたら歩いて帰れるようになると思うから、悪いがもう少しだけ付き合ってくれ」
「……わかりました。先輩のためならどれだけでも付き合いますけど、ひとまず僕の両親と先輩のお父さんに『遅くなります』って連絡入れますね。スマホ、ちょっとだけお借りします」
そうして双方に連絡を入れ終わると。
先ほどよりはマシになったのか、夏矢先輩が体を起こした。僕は急いで、夏矢先輩の真横に座り直す。
月光と公園のライトに照らされて浮かび上がる夏矢先輩の顔は、まだ紙のように白くて生気がない。幽霊に魂でも抜かれたみたいで、少し怖い。
「悪いな。驚かせて。……というより、情けないところ見せて」
軽い口調を装ってはいるが、その声も表情も普段よりずっと硬かった。
僕は夏矢先輩の方に体を向け、すぅっと大きく息を吸って問うた。
「……あの、昔何があったんですか?」
自分から訊ねておきながら拒絶されるのが怖くて、どうしようもなく怖くて、ベンチの上に置いた指先がカタカタと震えた。
……急に飛んできたサッカーボール。
サッカーボールが飛んできてから急に様子のおかしくなった夏矢先輩。
そしていつも一つだけ開け放たれている部室の――旧理科室の窓。
あの窓からはグラウンドがよく見えて。
夏矢先輩は最初に僕が突撃しに行ったときも、僕が入部してからも、気がつくとあの窓の外を見ている。ぼんやりと、深い喪失の漂う表情で。
――車の窓から差し込む日光さえ許せないような人が、たった一カ所だけとはいえ窓だけ開け放って、自分の体に燦然と日光が降り注ぐのも構わず窓の外を眺め続けているのだ。その行為に、意味が存在しないはずがなかった。
……点と点はすでに繋がりかけていたけれど、それでも直接訊ねたのは、他ならぬ夏矢先輩の口から教えてほしかったからだ。
夏矢先輩のことが好きだからこそ、夏矢先輩の抱える深い喪失を、傷を、直接僕に教えてほしかった。そしたらちゃんと、夏矢先輩に正面から寄り添うことができると思ったから。
夏矢先輩は困ったように眉を下げて、ほんの少しだけ俯いた。けれど先ほどの状態を見られては、もう隠し通すことはできないと思ったのか、今度は先輩が目を閉じて深呼吸する。夏矢先輩も僕と同じくらい、いやそれ以上に緊張しているみたいだった。
深呼吸を終えた夏矢先輩は、ぱっと目を開け、そうして残酷なまでに明るい月明かりとライトの下、静かに過去を語りはじめた。
夏矢先輩との待ち合わせ場所は今日も我が家の玄関前。待ち合わせ時刻は十六時。
……本当はもう少し日が落ちてからでも良かったのだが、その理由に夏矢先輩の日焼けを上げると、夏矢先輩は「吸血鬼じゃないんだから」と大笑いした。
腹でも抱えそうな勢いだったので、「でも夏矢先輩、夏祭り会場ではさすがに日傘を差せないんですよ?」と少しむくれながら抗議すると、夏矢先輩は「悪かった、悪かった」と両手を合わせて謝り、それから「長袖シャツを羽織ればそれなりに紫外線は防げるだろ?」と言った。
待ち合わせ時刻の十分前。宣言通りにシャツを羽織って夏矢先輩が、優雅に車を降りてくる。その拍子に、爽やかな水色のシャツの裾がひらりと揺れた。
「じゃあ二人とも楽しんできてね」
と、夏矢先輩が開けたドアの向こうから、響矢さんがそう声をかけてくれる。「はーい、ありがとうございます!」と僕が返事するとドアが閉まり、響矢さんの乗る車はそのまま発進していった。
夏矢先輩は玄関前で待機していた僕の格好を確認すると、驚いたように目を丸くした。
「浴衣、着たんだな」
「はい。いっつも夏祭りのときは浴衣を着てるんですよ」
さっちゃんのお母さんが、行事に合わせた格好を子どもにさせるのが大好きな人だから。僕もさっちゃんとりゅーくんに合わせて、夏祭りのときには浴衣を着ていた。
もちろん今日はデート(仮)だからこそ、浴衣を選択してみたのだが。
……浴衣と言っても、女子が着るような華やかなものではない。数匹の金魚が柔らかな象牙色の生地での中で泳ぐ、ごくシンプルなもの。
それでも夏矢先輩は眩しいものを見るように目を細め、「似合ってる」と手放しで褒めてくれた。そして己の服装を見つめて、反省の色を示す。
「しまった、俺も浴衣を着てくればよかったな」
「構いませんよぉ、夏矢先輩はいつでもかっこいんですから。浴衣は僕が着たくて着てるだけですし」
それに、浴衣でないだけで、夏矢先輩も服装にいつもより気を遣ってくれていた。
綺麗めのスタイルは変わりないけれど、普段は見ない金色のアクセサリーが、夏矢先輩の首元や耳元でキラキラ輝いている。
特に耳元を彩る、小さい金のイヤリングに目を奪われた。ころっとかわいい小さな丸。
――ド派手な赤髪のハーフアップと、見た目だけはバチバチにピアスを開けていそう夏矢先輩だが、実はピアス穴が一つもない。 「ピアスはつけないんですか? 似合いそうなのに」と一度訊いたことがあるのだが、「耳に穴開けるのって怖いだろ?」と想像だけで怯え切っていたし、「じゃあイヤリングは?」と訊いても「落としそうで怖い」と乗り気じゃなかったのに。
「……夏矢先輩が耳に何かつけてるの、珍しいですね。でもとっても似合ってて、かっこいいです」
僕がにっこり笑って褒めると、夏矢先輩は気恥ずかしそうに「あ、うん」と頷いた。
照れを誤魔化すように、手で何度も何度も丸い飾りをこすりながら、夏矢先輩が種明かしをする。
「……前に佐倉が、俺にはピアスが似合いそうだって言ってくれただろ? それで何かつけてみようと思って。……だけどさすがにピアスを開けるのは怖かったから、イヤリングにしてみた」
「え‼」
瞬間、表わしようのない衝撃が、全身を駆け抜けた。体温が急激に上昇していく。
「それってその、僕のためってことですか?」
モジモジしながら訊ねると、夏矢先輩はさらに恥ずかしそうな顔で頷いて、でも誤魔化さず、ちゃんと肯定してくれた。
「……ちなみに、昨日買ったばかりだ」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で放たれたトドメの一言に、僕は危うくキュン死――いやドキドキで殺されるところだった。
心臓が暴発しないよう、必死に胸を押さえつつ、僕は思う。
夏矢先輩も夏矢先輩なりに、気合いを入れて、ちゃんとデートの心構えで来てくれたんだと。
(す、好き……!)
言いようのない興奮があふれてほとばしる。
大丈夫かな、僕。夏祭り会場に移動してもいないのに、ときめきの過剰摂取でもう死んでしまいそうだ。
夏祭りまでは、のんびり歩いて二十分。
鮮やかな橙色の光に抱かれた夏祭り会場は、まだ開始直後だというのに、大勢の人であふれていた。
中学校のグラウンドが舞台なので、出店は四百メートルトラックの形に添うように、楕円の形で並んでいる。
トラックの中は、簡易テーブルが並べられた休憩スペースとして利用されているため、移動できる場所は意外と狭い。そのため、親子連れやカップル、友人同士など、様々な組み合わせとひっきりなしにすれ違う。
実は先ほどさっちゃんとりゅーくんともすれ違いそうになったが、気づいたさっちゃんが回れ右してくれたので助かった。ありがと、さっちゃん。
底抜けに陽気な空気の中を、からんころん、と軽やかに下駄を鳴らしながら歩くだけでも楽しくってたまらないが、夏祭りと言えばやはり屋台だ。
お好み焼きに焼きそばの入ったビニール袋を下げながら、弾んだ声で隣を歩く夏矢先輩に問いかける。
「夏矢先輩、次何買います? 僕、リンゴ飴がいいです!」
「わかったわかった、わかったから、そんなにはしゃぐな」
苦笑してたしなめる夏矢先輩も、祭り特有の雰囲気に包まれて気分が高揚しているのか、そうは言いつつテンションが高い。
長身というだけで目立つのに、その上ずば抜けた美貌を持つ夏矢先輩は、大衆の中でも目立ちに目立ちまくっていた。かわいくって綺麗な女性たちからどれだけ熱心な秋波を送られても、夏矢先輩の視線は僕にピン止めされて動かない。そのことがとても嬉しくて、まるで夢のように感じた。
リンゴ飴を無事ゲットしたところで、一旦休憩することにした。トラック中央の休憩スペースで、お好み焼きと焼きそばを半分こしながら食べる。夏矢先輩はリンゴ飴は要らないと言ったので、僕だけデザートにリンゴ飴を食べた。
思ったよりも硬い飴に苦戦する僕を、夏矢先輩は真正面から、ずっと微笑みながら見守ってくれて。……夏矢先輩が自覚しているのかは不明だったけど、僕を見つめるその顔に、あまりの愛おしさが籠もっていたから、僕は急に満ち満ちてしまって、結局半分以上リンゴ飴を残してしまった。
残ってしまったリンゴ飴はビニール袋に入れて、また屋台巡りを再開する。おなかは満たされたので、今度は射的やヨーヨーすくいといった、ゲーム系の屋台をひたすら巡った。
僕も夏矢先輩もゲームはうまい方ではないから、景品はほとんどゲットできなかったけれど、とにかく楽しくてしょうがなかった。
「はぁ~~、楽しかったな」
「はい、とっても楽しかったですね!」
目的の屋台を一通り回り終わったので、満足した僕たちはそろそろ帰宅することにした。
時刻は午後七時半過ぎ。夏矢先輩がこれから二時間以上かけて自宅に帰ることを考えると、頃合いだった。
楽しくて満たされた気持ちと同時に、寂しくて名残惜しい気持ちを抱えながら、会場を出る。会場を少し離れれば、静かな夜道が広がっている。
あれやこれやと笑顔で感想を言い合って進む。そうして、広いグラウンドのある公園の前に差しかかかったとき。
「あっ!」という中学生くらいの男の子の悲鳴に近い声が聞こえたかと思うと、公園のグラウンドからぴゅっと勢いよくサッカーボールが飛び出してきて、公園正面の家の塀にパァンと派手な音を立ててぶつかった。
ボールはそのままコロコロコロ……と道路に転がり、思わず立ち止まってしまった僕たちの、否、夏矢先輩の足元で狙い澄ましたように停止した。
え、何これ、なんでサッカーボール?
突然の出来事にただ呆然と目を白黒させていると、「すみませーん、ボール、取って下さーい!」と、公園から声がかかった。
見ると、中学校二年生くらいの男の子たちが五人、揃ってこちらを見て、申し訳なさそうに手を振っている。どうやら遊んでいる最中に、蹴ったボールが運悪く公園の外に飛び出してしまったらしい。
「あ、はーい……」
と、未だにどこか呆然としながら、少年たちにサッカーボールを投げ返そうとしたとき。
「うぇっ」と口元を抑えて、夏矢先輩がその場に座り込んだ。
「⁉ 夏矢先輩⁉」
その顔面は蒼白だ。もとの肌色が白い分、顔色が悪いことが一目で知れる。小さく丸まった体は呼吸するのもやっとだというように、小刻みに震えて止まらない。
「あの、大丈夫ですか?」
見知らぬ少年たちにも心配されてしまうほど、夏矢先輩の様子は誰の目から見ても普通ではなかった。
「夏矢先輩、大丈夫ですか? 先輩、」
結局ボールは少年たちが自主回収していった。
僕はしゃがんで、震えて動けない夏矢先輩の背中を必死に擦った。ダンゴムシみたいに丸まって震える背中が切なくて仕方ない。
どうしよう。こういうときは、一体どうすればいいのだろう。
はじめての経験で対処の仕方がわからない。
とにかく心配で、気持ちが千々に乱れて、なんだか泣き出してしまいそうだ。一秒でも早く元気になってほしい一心で背中を擦る。それくらいしかできることがなかったから。
泣きそうな思いで声をかけ続け、背中を擦り続けること約五分。
声を発することもできないでいた夏矢先輩が、ようやく「さくら」と僕の名前を呼んだ。弱々しく、か細い声。
「! 先輩っ、夏矢先輩っ! 大丈夫、ですか?」
ぐしゃっと顔を歪めて応答すると、心配をかけまいと夏矢先輩がまた弱々しく笑った。今にも消え入りそうなほど儚い表情。見ているこっちが辛い。
「悪いな、迷惑かけて……」
「僕のことはいいんですよ! それより、立てますか? ここだと車が来るかもしれないですから、立てるようだったらひとまず公園の中に入りましょう?」
「ん、」
自分を鼓舞するように長い息を吐いて、真壁先輩がなんとか立ち上がった。夏矢先輩の顔はまだまだ全然青かったし、見るからにふらふらしていたけれど、僕の肩を借りることで、なんとか公園のベンチまで辿り着けた。
先ほどの少年たちはボール回収後に去っていたので、公園には僕たち以外いなかった。
不安をかき立てるほどうるさく、セミたちが鳴いていた。欠けた月が、公園のライトが、いっそ眩しいくらいに公園の中を照らしていた。
ベンチに辿り着くなり、夏矢先輩は倒れ込むようにベンチに横になった。僕は夏矢先輩の邪魔にならないよう、その隣のベンチにそっと腰を下ろして、夏矢先輩を見つめる。
この段階になってようやく冷静に頭が回り出した僕は、夏矢先輩に、夏矢先輩のお父さんにここまで迎えに来てもらうかどうかを訊ねた。僕としてはそれが一番いい方法に思えたけれど、先輩は横になったままいやいやと首を振って断固拒否の姿勢を示した。
「余計な心配をかけたくないんだ。もう少ししたら歩いて帰れるようになると思うから、悪いがもう少しだけ付き合ってくれ」
「……わかりました。先輩のためならどれだけでも付き合いますけど、ひとまず僕の両親と先輩のお父さんに『遅くなります』って連絡入れますね。スマホ、ちょっとだけお借りします」
そうして双方に連絡を入れ終わると。
先ほどよりはマシになったのか、夏矢先輩が体を起こした。僕は急いで、夏矢先輩の真横に座り直す。
月光と公園のライトに照らされて浮かび上がる夏矢先輩の顔は、まだ紙のように白くて生気がない。幽霊に魂でも抜かれたみたいで、少し怖い。
「悪いな。驚かせて。……というより、情けないところ見せて」
軽い口調を装ってはいるが、その声も表情も普段よりずっと硬かった。
僕は夏矢先輩の方に体を向け、すぅっと大きく息を吸って問うた。
「……あの、昔何があったんですか?」
自分から訊ねておきながら拒絶されるのが怖くて、どうしようもなく怖くて、ベンチの上に置いた指先がカタカタと震えた。
……急に飛んできたサッカーボール。
サッカーボールが飛んできてから急に様子のおかしくなった夏矢先輩。
そしていつも一つだけ開け放たれている部室の――旧理科室の窓。
あの窓からはグラウンドがよく見えて。
夏矢先輩は最初に僕が突撃しに行ったときも、僕が入部してからも、気がつくとあの窓の外を見ている。ぼんやりと、深い喪失の漂う表情で。
――車の窓から差し込む日光さえ許せないような人が、たった一カ所だけとはいえ窓だけ開け放って、自分の体に燦然と日光が降り注ぐのも構わず窓の外を眺め続けているのだ。その行為に、意味が存在しないはずがなかった。
……点と点はすでに繋がりかけていたけれど、それでも直接訊ねたのは、他ならぬ夏矢先輩の口から教えてほしかったからだ。
夏矢先輩のことが好きだからこそ、夏矢先輩の抱える深い喪失を、傷を、直接僕に教えてほしかった。そしたらちゃんと、夏矢先輩に正面から寄り添うことができると思ったから。
夏矢先輩は困ったように眉を下げて、ほんの少しだけ俯いた。けれど先ほどの状態を見られては、もう隠し通すことはできないと思ったのか、今度は先輩が目を閉じて深呼吸する。夏矢先輩も僕と同じくらい、いやそれ以上に緊張しているみたいだった。
深呼吸を終えた夏矢先輩は、ぱっと目を開け、そうして残酷なまでに明るい月明かりとライトの下、静かに過去を語りはじめた。
