田中がカツアゲされていたことは翌日にはすっかり忘れていた。
勉強と生徒会活動で俺の毎日とても忙しいのだから。
それから数日経った塾の帰り。
俺は自宅に向かって、静かな夜の住宅街を歩いていた。
前から一人の男がやってくる。
街灯の下ですれ違う直前、視線が合った。
「あ、お前……っ!」
男が呟いた。派手なシャツを着て金のネックレスをしている。
先日、田中をカツアゲしていたあの男だった。
背中に嫌な汗が伝う。
「この前はよくも邪魔してくれたな」
男は怒りに顔を歪め、こぶしを握った。
「お前せいで、俺は……」
指をポキポキ言わせながら、近づいてくる。
どうしよう。
「ひ、人違いです。俺はあなたのことなんて知りません」
なるべく毅然とした口調で返事をした。ここで怯えては相手の思うつぼだ。
「人違いなもんか! 忘れたとは言わせねぇぞ、クソガキが!」
まずいことになった。
こうなったら逃げるしかない。俺は一目散に走り出した。
「おい、待てコラ!」
怒鳴る男を無視して、俺は暗い公園の中へ足を踏み入れる。
男を撒こうと必死に走った。苦しい。息が切れる。
公園の奥には長い階段がある。その階段を上がって少し行ったところに交番があるのだ。
ひとまずそこへ逃げ込もうと考えた。
喉が渇き、心臓が張り裂けそうだ。
「逃げ切れると思うなよ!」
男はしつこく追いかけてくる。
俺はさらに足を速め、階段を駆け上がった。
捕まったらどうなるかわからない。
もうすぐ上がりきろうというとき――。
「待てって言ってんだろ!」
男の手が俺のカバンを掴んだ。
――っ!
死に物狂いでカバンを引っ張るが、男の手はビクともしない。
恐怖に息が止まりそうだった。
「大人しくしろ、クソガキが! 手間とらせやがって!」
男が拳を振り上げた。
――殴られる。
「うああああぁぁ!」
俺は無我夢中で叫びながらスクールバッグを振り回した。
その拍子に俺はカバンを離してしまったのだ。
「あ……っ!」
全体重をかけてカバンを引っ張っていた男の体は、後ろへ傾いた。
ここは階段だ。後ろには何もない。
「うあ!」
何かに捕まろうと伸ばされた男の手が空をかいた。
まるでスローモーションのようだった。
男は倒れて、階段をごろごろと転がり落ちる。
ぜえぜえ息をしながら、俺はその様子を見ていた。
辺りはシーンと静まり返る。
地面へ落ちた男は、うつ伏せの状態で倒れた。
起き上がる気配はない。
俺はカバンを投げ出し、大急ぎで男を追いかけた。
「お、おいっ……!」
声をかけながら肩を叩く。
返事がない。
下はアスファルトだ。頭を強く打ちつけたのだろう。
「おいって!」
俺は体を仰向けにさせた。
しかし男は目を見開いたまま、動かない。
「しっかりしろよ!」
首や手がくたりと力なく、まるで人形のようだった。
――息をしていない。
「……う、……嘘だろっ!」
腰が抜けその場にへたり込み、足で尻をずって後ずさりした。
――し、死んでる……!?
頭が真っ白になった。はあはあと自分の吐く呼吸が周囲に響く。
ど、どうしよう……。
俺が、殺したのか?
近くに落ちたカバンを見つけて、這って行った。
震える手で中からスマホを取り出す。
よかった、壊れていない。
まず救急車だ! ……いや、警察か。
ドクドクと鼓動する心臓が口から飛び出そうだった。
110番しようとした手を止める。
いや、待て。連絡したら、そのあとどうなる?
俺がこの男を突き落として殺したんだ。
いや、違う。わざとじゃない。殺すつもりなんてなかった。
俺は一方的に因縁をつけられ、追いかけられたんだ。
……だけど、その説明はちゃんと信じてもらえるだろうか?
信じてもらえたとして、俺が人を殺したのは事実じゃないか。
もしかして、俺は逮捕されるのか?
目の前が真っ白になり、キーンと耳鳴りがした。
両親の顔が頭に浮かぶ。
いつも俺を期待してくれている父と母。
俺がこんなことをしてしまったと知ったら……。
こんな知らないチンピラのために、俺の人生がめちゃくちゃになるなんて。
――どうしよう。どうしたらいい?
頭を抱えてしゃがみ込んだ。
誰かっ! 誰か助けてぇ……!
心の中で叫んだ。そのとき。
「おい」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、ツナギを着た背の高い男が俺を見下ろしていた。
「えっ、え……っ」
熊澤豪だった。
胸がドクンと高鳴る。それと同時に心臓が凍り付いた。
み、見られた。よりによってこんなところを……。
絡み合った視線を逸らせなかった。
熊澤と目があったのは初めてだ。
彼はゆっくりと口を開いた。
「あんた、……カイチョーだろ?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「へ?」
「うちの学校の、生徒会長だろうって聞いてんだ。俺は二年E組の熊澤だ」
まるで面識がない者に対する口ぶりだ。
やっぱり、俺が勝手に幼なじみの豪くんと重ねているだけなのだろうか。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺はぽかんと口を開けて熊澤を見た。
「たまたま、そこのベンチで煙草吸ってたんだ」
彼はどこから見ていたのだろう。
感情の読めない顔だ……。もしかして何も知らないかもしれない。
「じ、実は、通りかかったら人が倒れていたんだ。今から救急車を呼ぼうと思って。君も手伝ってくれないか?」
とっさに出た嘘を並べた。
熊澤の瞳はじっと俺を見下ろしている。
「死んでんだろ」
俺はごくりと唾を呑む。
熊澤は低く落ち着いた声で続けた。
「階段で揉み合っていたが、そいつとは知り合いなのか?」
――全部、見られてた。
言い逃れできない。頭から血の気が引いた。
勉強と生徒会活動で俺の毎日とても忙しいのだから。
それから数日経った塾の帰り。
俺は自宅に向かって、静かな夜の住宅街を歩いていた。
前から一人の男がやってくる。
街灯の下ですれ違う直前、視線が合った。
「あ、お前……っ!」
男が呟いた。派手なシャツを着て金のネックレスをしている。
先日、田中をカツアゲしていたあの男だった。
背中に嫌な汗が伝う。
「この前はよくも邪魔してくれたな」
男は怒りに顔を歪め、こぶしを握った。
「お前せいで、俺は……」
指をポキポキ言わせながら、近づいてくる。
どうしよう。
「ひ、人違いです。俺はあなたのことなんて知りません」
なるべく毅然とした口調で返事をした。ここで怯えては相手の思うつぼだ。
「人違いなもんか! 忘れたとは言わせねぇぞ、クソガキが!」
まずいことになった。
こうなったら逃げるしかない。俺は一目散に走り出した。
「おい、待てコラ!」
怒鳴る男を無視して、俺は暗い公園の中へ足を踏み入れる。
男を撒こうと必死に走った。苦しい。息が切れる。
公園の奥には長い階段がある。その階段を上がって少し行ったところに交番があるのだ。
ひとまずそこへ逃げ込もうと考えた。
喉が渇き、心臓が張り裂けそうだ。
「逃げ切れると思うなよ!」
男はしつこく追いかけてくる。
俺はさらに足を速め、階段を駆け上がった。
捕まったらどうなるかわからない。
もうすぐ上がりきろうというとき――。
「待てって言ってんだろ!」
男の手が俺のカバンを掴んだ。
――っ!
死に物狂いでカバンを引っ張るが、男の手はビクともしない。
恐怖に息が止まりそうだった。
「大人しくしろ、クソガキが! 手間とらせやがって!」
男が拳を振り上げた。
――殴られる。
「うああああぁぁ!」
俺は無我夢中で叫びながらスクールバッグを振り回した。
その拍子に俺はカバンを離してしまったのだ。
「あ……っ!」
全体重をかけてカバンを引っ張っていた男の体は、後ろへ傾いた。
ここは階段だ。後ろには何もない。
「うあ!」
何かに捕まろうと伸ばされた男の手が空をかいた。
まるでスローモーションのようだった。
男は倒れて、階段をごろごろと転がり落ちる。
ぜえぜえ息をしながら、俺はその様子を見ていた。
辺りはシーンと静まり返る。
地面へ落ちた男は、うつ伏せの状態で倒れた。
起き上がる気配はない。
俺はカバンを投げ出し、大急ぎで男を追いかけた。
「お、おいっ……!」
声をかけながら肩を叩く。
返事がない。
下はアスファルトだ。頭を強く打ちつけたのだろう。
「おいって!」
俺は体を仰向けにさせた。
しかし男は目を見開いたまま、動かない。
「しっかりしろよ!」
首や手がくたりと力なく、まるで人形のようだった。
――息をしていない。
「……う、……嘘だろっ!」
腰が抜けその場にへたり込み、足で尻をずって後ずさりした。
――し、死んでる……!?
頭が真っ白になった。はあはあと自分の吐く呼吸が周囲に響く。
ど、どうしよう……。
俺が、殺したのか?
近くに落ちたカバンを見つけて、這って行った。
震える手で中からスマホを取り出す。
よかった、壊れていない。
まず救急車だ! ……いや、警察か。
ドクドクと鼓動する心臓が口から飛び出そうだった。
110番しようとした手を止める。
いや、待て。連絡したら、そのあとどうなる?
俺がこの男を突き落として殺したんだ。
いや、違う。わざとじゃない。殺すつもりなんてなかった。
俺は一方的に因縁をつけられ、追いかけられたんだ。
……だけど、その説明はちゃんと信じてもらえるだろうか?
信じてもらえたとして、俺が人を殺したのは事実じゃないか。
もしかして、俺は逮捕されるのか?
目の前が真っ白になり、キーンと耳鳴りがした。
両親の顔が頭に浮かぶ。
いつも俺を期待してくれている父と母。
俺がこんなことをしてしまったと知ったら……。
こんな知らないチンピラのために、俺の人生がめちゃくちゃになるなんて。
――どうしよう。どうしたらいい?
頭を抱えてしゃがみ込んだ。
誰かっ! 誰か助けてぇ……!
心の中で叫んだ。そのとき。
「おい」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、ツナギを着た背の高い男が俺を見下ろしていた。
「えっ、え……っ」
熊澤豪だった。
胸がドクンと高鳴る。それと同時に心臓が凍り付いた。
み、見られた。よりによってこんなところを……。
絡み合った視線を逸らせなかった。
熊澤と目があったのは初めてだ。
彼はゆっくりと口を開いた。
「あんた、……カイチョーだろ?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「へ?」
「うちの学校の、生徒会長だろうって聞いてんだ。俺は二年E組の熊澤だ」
まるで面識がない者に対する口ぶりだ。
やっぱり、俺が勝手に幼なじみの豪くんと重ねているだけなのだろうか。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺はぽかんと口を開けて熊澤を見た。
「たまたま、そこのベンチで煙草吸ってたんだ」
彼はどこから見ていたのだろう。
感情の読めない顔だ……。もしかして何も知らないかもしれない。
「じ、実は、通りかかったら人が倒れていたんだ。今から救急車を呼ぼうと思って。君も手伝ってくれないか?」
とっさに出た嘘を並べた。
熊澤の瞳はじっと俺を見下ろしている。
「死んでんだろ」
俺はごくりと唾を呑む。
熊澤は低く落ち着いた声で続けた。
「階段で揉み合っていたが、そいつとは知り合いなのか?」
――全部、見られてた。
言い逃れできない。頭から血の気が引いた。
