二時間近く走った頃、山梨県の看板をくぐった。
家族旅行以外で、こんな遠くまで来たことは初めてだった。
住んでいる町と景色が違う。
あかりの灯ったラーメン屋の、広い駐車場でバイクは停まった。
店に入ると熊澤は迷わず、食券機の味玉付きの大盛りのボタンを押す。
「俺も同じのにする」
言いながら財布を出そうとしたが、「無理矢理付き合わせてるから」と言って熊澤は俺に払わせなかった。
油でぬるついたカウンターに並んで腰を下ろし、俺はコップを二個出して水を注ぐ。
「金が必要だから一生懸命バイトしてるんだろう?」
どうして何かにつけて俺に奢ってくれるのか不思議だった。
「別に、一生懸命なんてやってねぇよ。学費と生活費は叔父さんが出してくれているんだ。アパートの家賃も」
以前聞いた、叔父さんの家に馴染めなかったという話を思い出す。
熊澤はこんなにも優しいのに。
理解されない彼を思うと、悔しさが込み上げてくる。
その気持ちを言葉にしたいのに、うまく言えそうになくて俺は下を向いた。
「はい、味玉大盛り二つ。お待たせしました」
カウンター越しにラーメンを渡される。
熊澤は割りばしで麺の半分ぐらいを持ち上げて、ふうふうと息を吹きかけると、ほとんど一気に吸い込んだ。
やっぱり一口がデカい。はふはふ言いながら、チャーシューにかぶりつく。
夢中になるのもわかる。ここのラーメンは本当にうまかった。
熊澤と一緒に食べると余計おいしい。
「あー、うまかった。腹がいっぱいになったら眠くなってきたな」
店を出ると熊澤が大あくびをした。
空には無数の星が輝いている。
「どうするんだ、もう帰るんだろ?」
来た道を戻るとして一時間以上かかるだろう。
「いや、目的はここじゃねぇんだ。まだ大事な用がある。少し先でちょっと休憩しようぜ」
――大事な用? もう深夜だというのに?
次にバイクが停まったのは路肩の広場のような場所だった。
「ここで仮眠しよう」
「え、ここでっ!?」
目の前にはあずまやがある。
一応簡易的な壁と屋根があるから野ざらしではないものの、本来は寝る場所なんかじゃない。
「休憩するには悪くない場所だぜ。すぐそこに公衆便所もあんから」
熊澤はいそいそと靴を脱いで、ベンチへ横になってしまった。
「おい、こんなところで野宿して大丈夫なのかよ?」
「野宿じゃねぇ、ちょっと休憩するだけだ……」
目を閉じたまま答えた熊澤は、次の瞬間にはもう寝息を立て始めていた。
まったく……と呆れながらも、俺は反対側のベンチへ横になる。
こんな場所で眠れるはずがない。
星がきれいだ。俺の住む町とは見える星の数が違う。
すぐ近くで虫の鳴く声が聞こえる。
もしかして、熊澤は俺と一緒の布団で寝るのが嫌だったから野宿することを思いついたんじゃないか。
バカだな、俺。
熊澤の部屋に泊まりたがったりして。
俺たちはただの友達なんだ。
一緒に寝ようなんて言わなきゃよかった。
もしかして熊澤は俺のこと気持ち悪いと思ったんじゃないか?
涙が滲んできて、両目の上に右腕を乗せた。
眠れないと思っていたのに、気付いたら記憶が途切れていた。
「おい、そろそろ行くぞ」
肩を叩かれて目を覚ました。
周囲はまだ暗い。
腕時計を見るとまだ3時半だ。
「もう?」
「ああ。今から行けばちょうどいいはずだ」
こんな時間に一体どこへ行くというのだろう。
大体、熊澤はいつだって無口すぎる。
最初は「行きたいところがある」と言い、それはラーメン屋だと教えてくれた。
なのに、いざラーメンを食べ終わると本当の予定はまだこれからだと言った。
山梨かぁ……。まさか、富士の樹海へ向かおうとしているんじゃないのか。
田中が俺と岡部のことを警察に話したら、あの夜のことがバレるかもしれない。
そうなれば遺体が見つかるのも時間の問題だろう。
だから熊澤は、もうすべてを諦めたんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎって、急に不安になった。
冷たい明け方の空気を切って、バイクはどんどん山道を上がっていく。
山に向かっているのは確実だ。
バイクがどこかに到着した。薄暗くてよく見えないが、想像していた樹海とは少し違う。
明かりに照らされた看板に目をやる。
そこは温泉だった。
「お、温泉……!?」
こんな朝早い時間に?
熊澤は二人分の入場料を払って、ついでにタオルを二枚買った。
脱衣所で躊躇いなく服と下着を脱いで、タオルを腰に巻く。
熊澤と温泉に入るなんて想像していなかった俺は、正直面食らって戸惑った。
「早くしないと間に合わねぇ。先行ってるぞ」
熊澤はいそいそと扉から外へ出て行った。外はまだ真っ暗だ。
一体何に間に合わないのか。
脱衣所の中はなぜか混雑してきた。
もたもたしていると邪魔になるので、俺も服を脱いでタオルを巻いた。
体を洗って石造りの浴槽の方へ向かうと、湯の中から熊澤が俺を手招きした。
「おい、ここだ」
もう辺りが見えるほどぼんやり明るい。
温泉から見下ろす盆地には、町の灯りがきらめいている。
「ほら、もうすぐ」
隣に腰を下ろすと、熊澤は山々の連なる東の空を指さした。
黒い山並みの向こうに強い光が見える。
――日の出だ。
「うわぁ……」
あまりの美しさに、思わず感嘆の声を漏らした。
「すごい、こんなにきれいな日の出を見たのは初めてだ」
熊澤を振り返る。彼は太陽を見ずに、俺の顔を見て優しく微笑んでいた。
俺たちは太陽がゆっくりと上がっていく様子を眺めながら、バイクで冷えた体を温めた。
「あれ富士山?」
山並みからひと際大きく突き出た山を指さす。
「ああ。冬ならもっとくっきり見えるんだけどよ」
「十分すごいよ」
気づくと昼間のように明るくなっていた。
「そろそろ上がるか?」
熊澤はざばっと湯から出る。
「兄ちゃんデカいな。オータニよりデカいんか?」
近くにいた老人が熊澤の背の高さに驚いていた。
「知らねぇっす」
俺は筋肉質な彼の背中の、古傷にばかり目がいってしまう。
湯上りに敷地内の飯屋で卵かけご飯を食べようと熊澤が言った。
ここの定番なのだろう。
風呂から出てきた人のほとんどが同じ朝食セットを頼んでいる。
まさか熊澤と一緒に風呂に入るとは思わなかった。
俺としては気恥ずかしかったのだが。
「どうして温泉に行こうって言ってくれなかったんだよ」
「ん? どうしてって、サプライズの方がいいんじゃねぇかと思ってよ」
卵かけご飯をかき込む彼の表情はいつもと変わらない。
「ここはガキの頃、よく親父に連れられて来た場所なんだ」
俺ははっと息をのんだ。
そんな大事な思い出の場所に、俺を連れて来てくれたのか……。
「それに子供の頃、約束してたんだぜ? 大きくなったら、俺が遠いところに連れてってやるよって。慧人は忘れてたみたいだけどな」
ああ、それが子供の頃の約束だったのか。
「忘れててごめんって」
俺はすっかり忘れていたのに、熊澤はしっかりと約束を果たしてくれた。
昨夜は熊澤が俺と一緒の布団で寝たくないんじゃないかと考えて、憂鬱になっていたのに。
そんなの杞憂だったんだ。
家族旅行以外で、こんな遠くまで来たことは初めてだった。
住んでいる町と景色が違う。
あかりの灯ったラーメン屋の、広い駐車場でバイクは停まった。
店に入ると熊澤は迷わず、食券機の味玉付きの大盛りのボタンを押す。
「俺も同じのにする」
言いながら財布を出そうとしたが、「無理矢理付き合わせてるから」と言って熊澤は俺に払わせなかった。
油でぬるついたカウンターに並んで腰を下ろし、俺はコップを二個出して水を注ぐ。
「金が必要だから一生懸命バイトしてるんだろう?」
どうして何かにつけて俺に奢ってくれるのか不思議だった。
「別に、一生懸命なんてやってねぇよ。学費と生活費は叔父さんが出してくれているんだ。アパートの家賃も」
以前聞いた、叔父さんの家に馴染めなかったという話を思い出す。
熊澤はこんなにも優しいのに。
理解されない彼を思うと、悔しさが込み上げてくる。
その気持ちを言葉にしたいのに、うまく言えそうになくて俺は下を向いた。
「はい、味玉大盛り二つ。お待たせしました」
カウンター越しにラーメンを渡される。
熊澤は割りばしで麺の半分ぐらいを持ち上げて、ふうふうと息を吹きかけると、ほとんど一気に吸い込んだ。
やっぱり一口がデカい。はふはふ言いながら、チャーシューにかぶりつく。
夢中になるのもわかる。ここのラーメンは本当にうまかった。
熊澤と一緒に食べると余計おいしい。
「あー、うまかった。腹がいっぱいになったら眠くなってきたな」
店を出ると熊澤が大あくびをした。
空には無数の星が輝いている。
「どうするんだ、もう帰るんだろ?」
来た道を戻るとして一時間以上かかるだろう。
「いや、目的はここじゃねぇんだ。まだ大事な用がある。少し先でちょっと休憩しようぜ」
――大事な用? もう深夜だというのに?
次にバイクが停まったのは路肩の広場のような場所だった。
「ここで仮眠しよう」
「え、ここでっ!?」
目の前にはあずまやがある。
一応簡易的な壁と屋根があるから野ざらしではないものの、本来は寝る場所なんかじゃない。
「休憩するには悪くない場所だぜ。すぐそこに公衆便所もあんから」
熊澤はいそいそと靴を脱いで、ベンチへ横になってしまった。
「おい、こんなところで野宿して大丈夫なのかよ?」
「野宿じゃねぇ、ちょっと休憩するだけだ……」
目を閉じたまま答えた熊澤は、次の瞬間にはもう寝息を立て始めていた。
まったく……と呆れながらも、俺は反対側のベンチへ横になる。
こんな場所で眠れるはずがない。
星がきれいだ。俺の住む町とは見える星の数が違う。
すぐ近くで虫の鳴く声が聞こえる。
もしかして、熊澤は俺と一緒の布団で寝るのが嫌だったから野宿することを思いついたんじゃないか。
バカだな、俺。
熊澤の部屋に泊まりたがったりして。
俺たちはただの友達なんだ。
一緒に寝ようなんて言わなきゃよかった。
もしかして熊澤は俺のこと気持ち悪いと思ったんじゃないか?
涙が滲んできて、両目の上に右腕を乗せた。
眠れないと思っていたのに、気付いたら記憶が途切れていた。
「おい、そろそろ行くぞ」
肩を叩かれて目を覚ました。
周囲はまだ暗い。
腕時計を見るとまだ3時半だ。
「もう?」
「ああ。今から行けばちょうどいいはずだ」
こんな時間に一体どこへ行くというのだろう。
大体、熊澤はいつだって無口すぎる。
最初は「行きたいところがある」と言い、それはラーメン屋だと教えてくれた。
なのに、いざラーメンを食べ終わると本当の予定はまだこれからだと言った。
山梨かぁ……。まさか、富士の樹海へ向かおうとしているんじゃないのか。
田中が俺と岡部のことを警察に話したら、あの夜のことがバレるかもしれない。
そうなれば遺体が見つかるのも時間の問題だろう。
だから熊澤は、もうすべてを諦めたんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎって、急に不安になった。
冷たい明け方の空気を切って、バイクはどんどん山道を上がっていく。
山に向かっているのは確実だ。
バイクがどこかに到着した。薄暗くてよく見えないが、想像していた樹海とは少し違う。
明かりに照らされた看板に目をやる。
そこは温泉だった。
「お、温泉……!?」
こんな朝早い時間に?
熊澤は二人分の入場料を払って、ついでにタオルを二枚買った。
脱衣所で躊躇いなく服と下着を脱いで、タオルを腰に巻く。
熊澤と温泉に入るなんて想像していなかった俺は、正直面食らって戸惑った。
「早くしないと間に合わねぇ。先行ってるぞ」
熊澤はいそいそと扉から外へ出て行った。外はまだ真っ暗だ。
一体何に間に合わないのか。
脱衣所の中はなぜか混雑してきた。
もたもたしていると邪魔になるので、俺も服を脱いでタオルを巻いた。
体を洗って石造りの浴槽の方へ向かうと、湯の中から熊澤が俺を手招きした。
「おい、ここだ」
もう辺りが見えるほどぼんやり明るい。
温泉から見下ろす盆地には、町の灯りがきらめいている。
「ほら、もうすぐ」
隣に腰を下ろすと、熊澤は山々の連なる東の空を指さした。
黒い山並みの向こうに強い光が見える。
――日の出だ。
「うわぁ……」
あまりの美しさに、思わず感嘆の声を漏らした。
「すごい、こんなにきれいな日の出を見たのは初めてだ」
熊澤を振り返る。彼は太陽を見ずに、俺の顔を見て優しく微笑んでいた。
俺たちは太陽がゆっくりと上がっていく様子を眺めながら、バイクで冷えた体を温めた。
「あれ富士山?」
山並みからひと際大きく突き出た山を指さす。
「ああ。冬ならもっとくっきり見えるんだけどよ」
「十分すごいよ」
気づくと昼間のように明るくなっていた。
「そろそろ上がるか?」
熊澤はざばっと湯から出る。
「兄ちゃんデカいな。オータニよりデカいんか?」
近くにいた老人が熊澤の背の高さに驚いていた。
「知らねぇっす」
俺は筋肉質な彼の背中の、古傷にばかり目がいってしまう。
湯上りに敷地内の飯屋で卵かけご飯を食べようと熊澤が言った。
ここの定番なのだろう。
風呂から出てきた人のほとんどが同じ朝食セットを頼んでいる。
まさか熊澤と一緒に風呂に入るとは思わなかった。
俺としては気恥ずかしかったのだが。
「どうして温泉に行こうって言ってくれなかったんだよ」
「ん? どうしてって、サプライズの方がいいんじゃねぇかと思ってよ」
卵かけご飯をかき込む彼の表情はいつもと変わらない。
「ここはガキの頃、よく親父に連れられて来た場所なんだ」
俺ははっと息をのんだ。
そんな大事な思い出の場所に、俺を連れて来てくれたのか……。
「それに子供の頃、約束してたんだぜ? 大きくなったら、俺が遠いところに連れてってやるよって。慧人は忘れてたみたいだけどな」
ああ、それが子供の頃の約束だったのか。
「忘れててごめんって」
俺はすっかり忘れていたのに、熊澤はしっかりと約束を果たしてくれた。
昨夜は熊澤が俺と一緒の布団で寝たくないんじゃないかと考えて、憂鬱になっていたのに。
そんなの杞憂だったんだ。
