生徒会の作業の後、塾へ行った。その帰りはいつも通り、すっかり暗い。
公園の近くの通りに差し掛かった。
ここを通ると、岡部と遭遇したときのことを思い出してしまう。
できることなら近づきたくはない。
けれど、いつも通りの行動をしなければと思い、俺はルートを変えなかった。
公園の前を通ったときだった。
「調子に乗ってんじゃねえぞ、コラ」
公園の中から罵声が聞こえた。
「知らねえよ」
この落ち着いた低い声は――まさか!?
立ち止まって目を凝らす。
街灯の下、熊澤が三人の男に取り囲まれていた。
剣呑な目つきの金髪坊主の男が、熊澤に詰め寄る。
「てめぇ、北高の熊澤だろ。この前の落とし前をつけてやるから覚悟しろ」
「落とし前だと? そっちが勝手に絡んできたんだろうが」
熊澤は両手をポケットに突っ込んで、気だるそうな口調で答えた。
どうしよう。いくら熊澤でも三対一じゃ敵いっこないだろう。
警察に――。ポケットの中のスマホへ手を伸ばしかけて思いとどまる。
岡部のことが頭をよぎった。
困った。どうするか。
熊澤の表情は街灯の明かりの陰で見えない。
三人が一斉に、熊澤に殴りかかった。
「ひぃっ……」
もうダメだ。
俺は見ていられず目を閉じる。
どすっ、バキッと鈍い音が響いた。
熊澤が殴られたのだろう。
「ぐはっ……!」
「テツヤっ……! くそ、熊澤、てめぇっ!」
しかし、聞こえてきた悲痛な声は熊澤のものではなかった。
恐る恐る目を開ける。
その場に立っているのは熊澤ひとり。三人が地面に倒れている。
信じられない。三人まとめてやっつけてしまったのか。
「お、覚えてろよ」
よろよろと起き上がった長髪の男が金髪坊主を抱き起こして、三人一緒に逃げていった。
熊澤は大きなため息を吐いて、ベンチに腰を下ろした。
「出てこいよ、……いるんだろう?」
一瞬俺に言ったのかと思ったが、熊澤が話しかけているのはベンチの横の茂みだった。
少しの間の後、おずおずと一匹の猫が茂みから姿を現した。
太った茶トラ猫だ。ひょいと熊澤の膝の上に飛び乗る。その背中を熊澤の大きな手が撫でた。
猫は嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らして、熊澤の手に顔を擦り付ける。
俺はそっと公園の中へ足を踏み入れた。
「餌付けしてるのか?」
熊澤に近づいて声をかける。
「餌をやったことはない。見ての通り食事は十分に足りているようだし、野良じゃないんだ」
毛並みはきれいだし、よく見ると細い首輪をつけている。
俺の視線に気が付いて、猫は細めていた目を開いた。
満月のように黄色い瞳で俺を見て、「なぅ」と鳴く。
「こいつは撫でてほしくて仕方がないらしい。俺がここへ来るといつもこうだ。衣食は足りていても愛情が足りていないんだな」
俺はそっと熊澤の隣へ座った。
猫は膝の上で丸くなり、今にも眠ってしまいそうなほどリラックスしている。
「さっきの奴ら、知り合いか?」
「知り合いじゃない。何日か前に駅前で絡まれて、殴られたからやり返した」
熊澤はおっとりとしたいつもの顔で、そう話した。
「暴力なんて振るいたくない。でもやり返さないと、サンドバッグだ」
今日だって、突然三人から殴りかかられたのだ。
熊澤はどんな気持ちだっただろう。
「そんな顔するな。俺にとっては、よくあることだ」
猫を撫でていた熊澤の手が、俺の頭に移動した。
猫の毛を撫でるように、俺の髪を優しく梳く。
熊澤は今日もツナギを着ている。学校の外で会うときはいつもこの格好だ。
頭にはタオルを巻いている。
ベンチの下には煙草の吸い殻が落ちていた。
熊澤が吸ったものだろう。
どうして煙草なんて吸うのか。
熊澤は昔のままのはずなのに、煙草を見るとなんだか距離を感じて俺の胸はざわつく。
「親父が吸ってた煙草だ。寂しい時だけ吸ってる」
言い訳するみたいに、熊澤がそう呟いた。
やっぱり今でも、父親のことが好きなんだ。そう思うと胸の奥がズンと痛む。
「俺の親父、交通事故で亡くなったんだ」
俺は驚いて返事をできないでいた。
田中から聞いた父親がいなかったという話。
まさか交通事故だったとは……。
必死に言葉を探している間に、俺の目からポロッと涙が零れ落ちた。
「おいおい、泣くなよ。もう十年近く前のことだ」
熊澤が呆れたように呟く。
子供の頃、彼が急に引っ越した理由はきっとそれだ。
幼い熊澤は大好きな父親を突然失って、どれほどショックだっただろう。
そう思うと涙が次から次へ溢れてくる。
「泣くなって……」
熊澤の両手が俺の頬を包んだ。両手の親指で涙を払われる。
「もう俺は大丈夫だから」
俺を安心させようと優しい声で呟く。
彼は悪ぶっているわけじゃなく、亡き父との繋がりを求めて喫煙していたのだろうか。
茂みから別の猫の鳴き声が聞こえた。
茶トラは顔を上げ、熊澤の膝からぴょんと飛び降りた。
熊澤は立ち上がって、吸い殻をゴミ箱へ入れた。
その横顔を見ながら、俺はなぜか少しだけ安心していた。
「なあ、今日学校に刑事が来たんだ」
「刑事? 何しに?」
あの男が特殊詐欺の容疑で警察から追われていることを話して聞かせた。
「そうか」
熊澤は一瞬だけ黙った。
けれどすぐに、いつもの穏やかな顔に戻った。
「あんまり心配するな。俺たちのことまで調べがついているわけじゃないだろう」
きっと俺を落ち着かせるためだ。
だから俺もあえて微笑んで見せた。
「うん、そうだよね」
俺たちは公園の前で別れた。
「じゃあな。ちゃんと寝ろよ」
「豪くんも」
熊澤に手を振った。
公園の近くの通りに差し掛かった。
ここを通ると、岡部と遭遇したときのことを思い出してしまう。
できることなら近づきたくはない。
けれど、いつも通りの行動をしなければと思い、俺はルートを変えなかった。
公園の前を通ったときだった。
「調子に乗ってんじゃねえぞ、コラ」
公園の中から罵声が聞こえた。
「知らねえよ」
この落ち着いた低い声は――まさか!?
立ち止まって目を凝らす。
街灯の下、熊澤が三人の男に取り囲まれていた。
剣呑な目つきの金髪坊主の男が、熊澤に詰め寄る。
「てめぇ、北高の熊澤だろ。この前の落とし前をつけてやるから覚悟しろ」
「落とし前だと? そっちが勝手に絡んできたんだろうが」
熊澤は両手をポケットに突っ込んで、気だるそうな口調で答えた。
どうしよう。いくら熊澤でも三対一じゃ敵いっこないだろう。
警察に――。ポケットの中のスマホへ手を伸ばしかけて思いとどまる。
岡部のことが頭をよぎった。
困った。どうするか。
熊澤の表情は街灯の明かりの陰で見えない。
三人が一斉に、熊澤に殴りかかった。
「ひぃっ……」
もうダメだ。
俺は見ていられず目を閉じる。
どすっ、バキッと鈍い音が響いた。
熊澤が殴られたのだろう。
「ぐはっ……!」
「テツヤっ……! くそ、熊澤、てめぇっ!」
しかし、聞こえてきた悲痛な声は熊澤のものではなかった。
恐る恐る目を開ける。
その場に立っているのは熊澤ひとり。三人が地面に倒れている。
信じられない。三人まとめてやっつけてしまったのか。
「お、覚えてろよ」
よろよろと起き上がった長髪の男が金髪坊主を抱き起こして、三人一緒に逃げていった。
熊澤は大きなため息を吐いて、ベンチに腰を下ろした。
「出てこいよ、……いるんだろう?」
一瞬俺に言ったのかと思ったが、熊澤が話しかけているのはベンチの横の茂みだった。
少しの間の後、おずおずと一匹の猫が茂みから姿を現した。
太った茶トラ猫だ。ひょいと熊澤の膝の上に飛び乗る。その背中を熊澤の大きな手が撫でた。
猫は嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らして、熊澤の手に顔を擦り付ける。
俺はそっと公園の中へ足を踏み入れた。
「餌付けしてるのか?」
熊澤に近づいて声をかける。
「餌をやったことはない。見ての通り食事は十分に足りているようだし、野良じゃないんだ」
毛並みはきれいだし、よく見ると細い首輪をつけている。
俺の視線に気が付いて、猫は細めていた目を開いた。
満月のように黄色い瞳で俺を見て、「なぅ」と鳴く。
「こいつは撫でてほしくて仕方がないらしい。俺がここへ来るといつもこうだ。衣食は足りていても愛情が足りていないんだな」
俺はそっと熊澤の隣へ座った。
猫は膝の上で丸くなり、今にも眠ってしまいそうなほどリラックスしている。
「さっきの奴ら、知り合いか?」
「知り合いじゃない。何日か前に駅前で絡まれて、殴られたからやり返した」
熊澤はおっとりとしたいつもの顔で、そう話した。
「暴力なんて振るいたくない。でもやり返さないと、サンドバッグだ」
今日だって、突然三人から殴りかかられたのだ。
熊澤はどんな気持ちだっただろう。
「そんな顔するな。俺にとっては、よくあることだ」
猫を撫でていた熊澤の手が、俺の頭に移動した。
猫の毛を撫でるように、俺の髪を優しく梳く。
熊澤は今日もツナギを着ている。学校の外で会うときはいつもこの格好だ。
頭にはタオルを巻いている。
ベンチの下には煙草の吸い殻が落ちていた。
熊澤が吸ったものだろう。
どうして煙草なんて吸うのか。
熊澤は昔のままのはずなのに、煙草を見るとなんだか距離を感じて俺の胸はざわつく。
「親父が吸ってた煙草だ。寂しい時だけ吸ってる」
言い訳するみたいに、熊澤がそう呟いた。
やっぱり今でも、父親のことが好きなんだ。そう思うと胸の奥がズンと痛む。
「俺の親父、交通事故で亡くなったんだ」
俺は驚いて返事をできないでいた。
田中から聞いた父親がいなかったという話。
まさか交通事故だったとは……。
必死に言葉を探している間に、俺の目からポロッと涙が零れ落ちた。
「おいおい、泣くなよ。もう十年近く前のことだ」
熊澤が呆れたように呟く。
子供の頃、彼が急に引っ越した理由はきっとそれだ。
幼い熊澤は大好きな父親を突然失って、どれほどショックだっただろう。
そう思うと涙が次から次へ溢れてくる。
「泣くなって……」
熊澤の両手が俺の頬を包んだ。両手の親指で涙を払われる。
「もう俺は大丈夫だから」
俺を安心させようと優しい声で呟く。
彼は悪ぶっているわけじゃなく、亡き父との繋がりを求めて喫煙していたのだろうか。
茂みから別の猫の鳴き声が聞こえた。
茶トラは顔を上げ、熊澤の膝からぴょんと飛び降りた。
熊澤は立ち上がって、吸い殻をゴミ箱へ入れた。
その横顔を見ながら、俺はなぜか少しだけ安心していた。
「なあ、今日学校に刑事が来たんだ」
「刑事? 何しに?」
あの男が特殊詐欺の容疑で警察から追われていることを話して聞かせた。
「そうか」
熊澤は一瞬だけ黙った。
けれどすぐに、いつもの穏やかな顔に戻った。
「あんまり心配するな。俺たちのことまで調べがついているわけじゃないだろう」
きっと俺を落ち着かせるためだ。
だから俺もあえて微笑んで見せた。
「うん、そうだよね」
俺たちは公園の前で別れた。
「じゃあな。ちゃんと寝ろよ」
「豪くんも」
熊澤に手を振った。
