死にたがりの君に捧げる10の約束



 それから一年が経ち、伊緒は高校二年生になった。
 伊緒の母は父と話し合いの末、結局離婚して伊緒たちは母子家庭になった。

 以前は死ぬほど辛いと思い、自分の存在価値を疑いもしていたけれど、生活のために母子で支え合う必要が生まれてからはそういうことで悩まなくなった。
 母の茉里花は離婚を機に以前より逞しくなり、自分で働き始めるようになった。伊緒も家事などで母をサポートするようになり、自然と親子の会話が生まれた。喧嘩もまだ多いけれど、以前とは違って素直に謝ることができる。
 
 遊佐優子とは親友になり、一緒に映画を見たりカラオケに行ったりするようにもなった。
 映画館で巨大サイズのポップコーンを買い、二人でひとつのバケットからポップコーンをつまむ楽しさを伊緒は知った。
 
「青春なんて、くだらないくらいがちょうどいい」

 映画の中の登場人物がそんなことを言った。
 ただ普通に、食べたいものを食べて着たい服を着る。行きたいところに行き、やりたいことをやる。それはまだ真っ白な地図を持っている者にだけ許されている特権なのかもしれない。
 
 日々を楽しく忙しく過ごしているうちに、あの頭の中の声はあまり聞こえなくなった。
 あの声が夢だったのか、現実だったのか、最初から分からなかったけれどそれはますます曖昧になり、思い出すこともなくなっていった。

 高校三年になってからは大学への受験勉強も始まり、さらに記憶は薄くなった。思い出すよりも知識を貯めることに脳の労働力は奪われた。
 将来の夢をリアルに考える機会も増えたが、そこはまだ漠然としていた。
 自分がなりたいものが何なのか分からないまま勉強だけしているのが滑稽なので、早く目標を掴みたくて大学の資料を読み込んだ。

 気になったのは医療系の大学だった。記憶を失ってから何となく病院に関心を持つようになり、忙しそうに働く医師たちや助けを求める患者を見ているうちに、ここでなら自分ももっと誰かに必要とされる人間になれるんじゃないかと思うようになったのだ。
 困っている誰かの助けになりたいなんて、以前の伊緒には考えられない進路だった。



 やがて、伊緒は受験の日を迎えた。
 コツコツと積み重ねた勉強の甲斐があり、伊緒は無事医療系の大学に進学することが決まった。そこには親友の優子も行くことが決まった。
 二人で喜んで、卒業旅行でも行こうと計画していた時のことだ。

「水瀬さん。ちょっといい?」

 二年の時から同じクラスになったある男子から呼び出され、伊緒は「水瀬さんのことが気になってるんだ」と告白された。眼鏡をかけた大人っぽい雰囲気の男子で、女子からもわりと人気のある人だった。
 彼は受験が終わるタイミングまでこの告白を待っていたらしい。

「好きな人とかいる?」

 そう聞かれた時、久しぶりに胸がチクッと痛んだ。
「……いないけど」
「じゃあ、一度友達同士を誘ってグループでどこか遊びに行かない? 自分のことをもっと知って欲しいし、水瀬さんのことも知りたいから。遊園地とか、どうかな」
「遊園地……?」
「絶叫系とか、好き? 俺、大好きなんだけど」

 伊緒は遊園地に行ったことはないはずだから、乗ったこともないはずだ。
 けれども、絶叫コースターには心が惹かれた。

「分かんないけど、乗ってみたいかも」
「良かった! じゃあ、一緒に行こうよ。2対2くらいで。どこの遊園地にするか、また相談しよう」

 のちに彼が提案してきたのは、絶叫マシンだけで17箇所もあるという海沿いの巨大な遊園地だった。特に一番怖いと言われているコースターの最大勾配は80度で、レールを支える白い骨格が特徴的だという。
 
 行ったことがあるような気がした。そんなはずはないのに。

 当日、伊緒はクローゼットにしまいっぱなしだったあの服を着て、遊園地に向かった。彼は嬉しそうな顔をして、「今日の水瀬さんめちゃくちゃ可愛いね」と言った。

「可愛くなんか……ないけど、ありがとう」

 伊緒はまた胸がチクリと痛んだ。この感覚は何なんだろうと思いながら。



「私、絶叫苦手だから他のところ見てくるね」
「じゃあ俺も」

 2対2と言われていたのに、優子が伊緒たちに気を使ったのか早々に別行動を取り始め、もう一人の男子も空気を読んで優子と一緒に行ってしまった。
「絶叫が苦手なら仕方ないよね。ここめちゃくちゃ怖いらしいし」
「うん……」

 コースターの列に並んでいる間、伊緒の隣にいる彼はやけに饒舌だった。普段は物静かな雰囲気なのに、少しはしゃいでいるのか場を持たせようとしているのか。伊緒はそれを聞き流しながらずっとドキドキしていた。

 彼にときめいているわけではない。見覚えのある景色が目の前に広がっていたからだ。
 
「大丈夫? 水瀬さん。顔色が悪いけど……絶叫いける?」
「うん」
「怖かったら、手を繋ごうか。少し安心するかもしれない」

 彼が乗り込む直前に手を差し出した。
 その時、久しぶりにあの声がした。
 
『不安だから、手、握ってもいい⁉︎』

「水瀬さん……?」
 彼が不思議そうに伊緒を見る。彼とは違う人の顔が浮かびそうになった時、係員に「早く乗ってください」と急かされた。
 伊緒はコースターに乗り込んだ。彼はそこでも手を差し出したが、伊緒は首を横に振った。

(違う。この手じゃない)

 コースターが走り出す。隣の彼は両手を挙げて激しい重力変化を楽しんでいたが、伊緒は何故かどんどん切なくなっていった。

(この人じゃない)

 自分の隣にいてほしいのは。


 伊緒の瞳から溢れた涙が天空に吸い込まれる。