「どうしたの? 伊緒さん、大丈夫?」
心配そうな表情の遊佐に目の前で呼びかけられて、伊緒は現実に戻ってきた。
その目から涙が一筋こぼれ落ちて、彼女は自分に驚く。
涙。
どうして。
「ごめんね、下の名前で呼ぶの、早すぎたかな⁉︎ 距離感バグってたかな、私。ごめんね、ごめんね」
「ううん。遊佐さんのせいじゃない」
伊緒は指先でそっと涙を拭いた。
「記憶なくしたせいで情緒不安定になってるみたい」
「そうなの? 大丈夫……?」
「うん」
『伊緒さん』と誰かに呼ばれていたことがあったような気がする。そう呼ばれると、胸がザワザワする。
「私の名前はちゃんもさんもつけなくていい。伊緒でいいよ」
「伊緒……うん! 分かった! じゃあ私のことも優子って呼んで」
「優子?」
「ゆさゆうこ。ゆが多いから、私はあんまり好きじゃないんだよね、自分の名前。でもみんな遊佐遊佐って言うから、伊緒には下の名前で呼んでほしい!」
「……分かった。じゃあ、優子」
「ひゃあああ〜! 感動!」
いちいち変なリアクションをする優子と一緒にいるうちに、伊緒の心はだんだんとほぐれていった。
彼女の提案通り、それから毎日昼食を一緒に食べるようになり、休み時間もたいていは二人でおしゃべりをした。おしゃべりと言ってもほとんど優子の一人語りのようなもので、推しの声優の話や好きなアニメや小説の話などを熱くおすすめされることが多かった。
「今度一緒に私の推しが出ている映画、観に行かない? 観てもらえば良さが分かるから!」
「私……映画館は行ったことがないの」
「えーっ! 私はお気に入りの映画で4、5回リピートして観ちゃうこともあるよ!」
「同じ映画なのに?」
「だって観るたびに感動ポイントが違うんだもん」
「ふーん」
「ねえ、伊緒はどんな映画が好き?」
好きな映画と聞かれて、咄嗟に『真実の口』の像が伊緒の頭に浮かんだ。
何だっけ。あれ。
口の中に手を入れると嘘つきは噛みちぎられてしまうって言われているイタリアの名所。
何故か色がなく、白黒の映像でそれが思い出された。
断片的なシーンを優子に説明すると、
「なんか、古い映画でそういうシーンがあったような気がする」
と彼女は言った。
「古い映画が好きなの?」
「分かんない」
映画自体ほとんど観ないのに、なぜそんなものを思い出したのかも分からない。
「水瀬」
そこへ、担任の白石先生がやってきて伊緒に声をかけてきた。
「死ぬまでにしたいことリスト、今日が締め切りなんだが。書けたか?」
「あ、いえ……」
「途中まででいいから出してくれるか?」
「はい」
伊緒はしまった、と心の中でつぶやいた。
宿題のことをすっかり忘れていて、ひとつも書いていないような気がしたのだ。用紙もリュックのそこにクシャッと入れてしまったからシワだらけのはずだ。
一応リュックの中を弄ると、それらしいプリントが見つかった。
無くしたと言ってしまえばよかったと後悔しても遅い。伊緒はおそるおそるその紙を白石に渡した。
白石はそれをみて、笑みを浮かべた。
「お。ちゃんと書いてあるじゃないか」
「え? 見せてください」
書いた覚えがないのに、伊緒の筆跡でリストが7つまで埋まっていた。
・絶叫コースターに乗る
・カラオケで100点出す
・オシャレをして街を歩く
・めちゃくちゃ高いパフェを食べる
・やりかけのゲームをクリアする
・一人焼肉で腹いっぱい食う
・見たことがない映画を観る
「へえ……水瀬にしてはやけに俗っぽいな」
「私も見たーい! 見てもいいですか?」
いいよと言っていないけれど、優子が覗き込む。
「え、可愛いじゃないですか! 全部今すぐ実行できそう」
「ちゃんとお前が考えたのか? 水瀬」
「は、はい……。多分」
『こんなくだらないことがあなたのやりたいこと?』
『ダメ? 一晩中考えたんだけど』
また伊緒の頭の中で自分と会話する誰かの声がする。
自分の知らない誰かの声は、さっきと同じ人の声だった。
すると、優子が笑いかけながら言った。
「まるでデートプランみたいだね」
「デート……」
呟いた伊緒の脳内にふと、ジェットコースターの上の景色が流れた。
『俺、飛んでっちゃうかもしれない。不安だから、手、握ってもいい⁉︎』
(何これ。知らない)
かぼちゃのモンブランと季節のフルーツが乗ったパフェも。
『伊緒さんには自分をもっと大切にしてほしいな』
(知らない)
『縦の糸が俺で、横の糸が伊緒さんだと思って歌ってみてよ』
『何それ。キモい』
(知らない。知らない……)
続け様に押し寄せてくる知らない誰かの声と記憶の断片に、伊緒は思わず頭を抱えた。
「大丈夫か、水瀬」
「伊緒……どうしちゃったの?」
「すみません……頭、痛くて……早退してもいいですか」
伊緒は頭を抱えたまま呟いた。
現実の世界と知らない記憶が混ざり合い、感情がおかしくなりそうだった。このまま普通に授業を受けられる気がしない。
「分かった。じゃあ、お大事に。リストは預かっていくな」
「あ、待って」
伊緒は白石が持って行こうとしたリストを強引に取り戻し、ペンを取り出してその下に付け加えた。
・友達にありがとうを言う
・親にごめんなさいを言う
これで9項目。
あとひとつ。
最後のひとつは──なんだっけ。
そのひとつだけが、どうしても思い出せない。
「ごめんなさい。これだけで……」
「うん。分かった」
リストの提出が終わると、伊緒は魂が抜けたような感覚になった。
とてつもない喪失感がそこにはあった。
「大丈夫? 伊緒。一人で平気?」
「うん。大丈夫。またね」
心配そうな優子に胸の高さで手を振って、伊緒は通学リュックを背中に教室を出た。
何か、大切なことを忘れている。
一瞬思い出したあのパフェは何? ジェットコースターはどこの? クローゼットの服はどこで? 鏡に映る自分は、いつからピンクの髪に?
それらはさっき提出したあのリストとリンクしているような気がした。
そして気がついたら、伊緒はまた歩道橋の上にいた。
記憶を失った場所だ。
母と和解した。それも何故なのか分からない。あんなにお互い嫌い合っていたのに。
母は伊緒がメールを送ったと言っていた。
歩道橋の欄干に肘を乗せ、スマホのメールアプリを開く。
そこには自分が打った覚えのない言葉が残されていた。
『お母さんへ。
ある人に言われて、気がついたんだけど、
私はお母さんのことが大好きだったみたいです。
私を産んでくれてありがとう。
お母さんが産んでくれたおかげで、私はたったひとつだけ生きる意味を見つけられました。
ずっと可愛くない娘でごめんね。
一人にさせちゃうけど、ごめんね。
お母さんは病気なんかしないで、いつまでも元気でいてください。
さよなら』
「ある人って、誰だよ……」
スマホの画面にポタリと伊緒の涙が落ちた。
「知らないってば……こんなの……」
スマホを握りしめたまま、伊緒は欄干に泣き崩れた。


