「──気がついたら、私は歩道橋の上にいました。どうしてそんなところにいたのか分かりません。前後が全く思い出せないんです」
伊緒は目の前の白衣を着た医師にそう説明した。
医師は60代と思われるベテランで、脳外科が専門だった。MRIで脳を調べてもらうために来たのだが、検査の結果は特に異常なしということだった。
「本当に異常がないんですか? ちゃんと調べてください!」
伊緒の隣で口角泡を飛ばす勢いなのは伊緒の母、茉里花だ。
伊緒は不思議な気持ちで彼女を見た。
歩道橋の上で呆然としていた伊緒を見つけたのは茉里花だった。彼女は伊緒が自殺しようとしているのではないかと思ったらしく、激しく伊緒を抱きしめて「ごめんね、伊緒!」と泣き叫んだ。
「私が悪かった……! 長い間、ひどいことをしてごめん……!」
この人が自分を抱きしめるなんて。伊緒には驚天動地の出来事だった。
聞けば、歩道橋で見つかる1時間ほど前に伊緒が茉里花宛にメールを送っており、その内容がどうやら死を仄めかすものだったらしく、茉里花は慌てて娘の行方を探していたのだそうだ。
しかし伊緒は自分が何故そんなメールを送ったのかも覚えていなかった。そこに恐怖を感じた茉里花が伊緒をこの病院に連れてきた。色々と質問されているうちに、伊緒にはここ一ヶ月くらいの記憶が曖昧になっていることが分かった。だが不思議なことに、検査をしても異常はないという。
「日常生活を送るのは異常がないようなので、おそらく心因性の一時的な健忘症でしょう。ストレスのない生活を心がけていれば、そのうち失われた記憶も戻ってくると思います」
「ストレス、ですか……」
「何か心当たりが?」
「はい。実は一ヶ月ほど前から夫に離婚を迫られておりまして……」
「それが原因の可能性は高いですね。ご主人様にも娘さんの症状をご説明をしていただけますでしょうか」
伊緒はどこか他人事のような気持ちで医者と母の会話を聞いていた。
何か、違う。原因はそんなことじゃない。
ぼんやりとそう思ったが、大人たちにうまく説明ができる気がしなかった。


