伊緒さんは自分の高校へ行き、普通に授業を受けてから自宅に寄り、ゲーム機を持って俺の待つ病院の前に来てくれた。
彼女にとっては今日が最後の授業となるつもりだから、真剣に受けてきたという。
「死ぬまでにやりたいことリストをまだ完成させてないのは私だけみたいだった。先生に催促されたわ」
「そっか。ごめんね、ギリギリまで付き合わせて」
「いいの。どうせ提出できないし」
ほろ苦い気持ちになる。
あのリストが今まで俺たちを繋いでくれた。真面目な伊緒さんはそれを完成させるため、道端で泣いていた俺のところに戻ってきてくれたんだ。
彼女の宿題をちゃんと提出させてあげないとな。
出会った時と同じ時間帯だけど、一ヶ月遅れの空は暗く、もう空には紙のように白い月が浮かんでいた。
◇
「お見舞いに来てくれたの? ありがとう!」
母さんの病室を覗くと、意外と元気な笑顔が俺たちを迎えた。
腕にはもう点滴の管もついていない。今は外れているだけかもしれないけど。
「すみません。こんな時ですが、借りていたものをお返しに来ました。お見舞いの品じゃなくてごめんなさい」
「いいの、そんなの。気を遣わないで。病人みたいにされているけど本当にもう元気なのよ。明日には退院するつもりだから」
おしゃべりな母さんはしきりに「会社の人が大袈裟で」とか「みんなに迷惑かけちゃって」とか伊緒さんに関係ないことをしゃべり続ける。
「もう、自分の話はいいから、こっちの話を聞いてよ」
俺は呆れて呟いた。これだからおばさんは。
「藤牧くんのお母さん」
伊緒さんが真面目な顔で呼びかけた。
「藤牧くんから、伝言があります」
伊緒さんの言葉に、母さんのマシンガントークがやっと止まった。
「『いつも迷惑かけてごめん。心配かけてごめん。お願いだから、無理をしないで自分の体を労って。自分のために生きていて』」
母さんの瞳に涙が浮かんだ。その視線の先に俺がいた。
途端に母さんの表情に驚きが浮かぶ。
俺と母さんの目と目が合っていた。
「倫也……そこにいる?」
「母さん……見えるの⁉︎」
俺は驚いて、母さんの寝ているベッドに手をついた。
「見えるんですか? 彼が」
伊緒さんが聞く。
「やっぱりいるの……? ぼんやりと影みたいな感じで見えるんだけど……」
俺が見えるということは、母さんが死を意識しているってことだ。
俺なんか、見えない方がいいのに。
「水瀬さん、これどういうこと?」
「死にかけている人とか、死にたいと思っている人には見えるそうです。私には彼がくっきりと見える。それで彼から伝言を頼まれたんです」
「そうなの……」
母さんは納得したような顔をしていた。
「実は、昨日の夜ね。倫也をこの病室で見たような気がしたの。声は聞こえなかったけど、泣いていたような気がして……。私も弱気になっていたのね。自分が死んで、その代わりに倫也の目を覚まさせてくださいなんて祈っちゃったのよ」
母さんがぼんやりと俺を見つめる。
「でもね、そのあとで健次郎に怒られたの。『お前が死んだら誰が今後の倫也の生活を支えるんだ。あいつを一人にさせるな』って……」
「健次郎……?」
俺は驚いて復唱した。
だって。その名前は。
「健次郎さんって?」
「ああ、健次郎は、あの子の父親の名前。あの子が6歳の時に亡くなったの。今から11年前だから……当時35歳か。あの時のまま、若い姿で……倫也と一緒にいた。黒いスーツを着ていたわ」
俺が昨夜一緒にいたのは、死神だ。
死神K。
Kは……健次郎の頭文字?
「これが健次郎よ」
母さんは自分のスマホに保存していた一番古い画像を見せてくれた。
遊園地の栗色の木馬から落ちないように必死でしがみついている俺と、その隣の白い木馬に、咥えタバコで笑いながら跨っている30代半ばの男。
「写真は苦手だからあんまり写りたくないって言ってね、残っていたのはこれだけ。倫也を撮るフリをしてこっそり撮ったの」
「この遊園地……私、昨日行きました。倫也くんと」
伊緒さんは驚き顔でこっちを振り向いた。
「あら、そう。やっぱり健次郎がずっと見守ってくれていたのかしらね」
母さんは優しい瞳で微笑む。
俺は写真に写った若い男から目が離せなかった。
──運が悪かったなあ。可哀想に。俺にもお前くらいの年の子どもがいるから同情しちゃうわ。
──嘘つけ! あんたそんな歳じゃないだろ。
死神の姿で初めて会った時のあれ、冗談じゃなかったのかよ。
「……父さん」
……とうさん。おとうさん。
なんだ、倫也。
めいーごー、のりたい。
何度目だ? 俺は絶叫が乗りたいんだっつーの。
いいから、つれてって。
おとうさん。
……何で忘れていたんだろう。
あそこは、俺の大好きだった遊園地じゃないか。
小学生に上がるまで何度も連れて行ってもらっていた。子供向けのエリアから離れたがらない俺に、父さんは渋々といった様子で一日中付き合ってくれたんだ。
あの時の優しい父さんの笑顔が記憶の底に浮かぶ。
「昨日……健次郎に、倫也を連れて行かないでって頼んだの。そうしたら、あの人は『分かった』って。だからきっと倫也はそのうち目を覚ますと思う。私もこんなところで呑気に寝ている場合じゃないわ。早く仕事に戻らなきゃ」
母さんの目はキラキラとして、生命のエネルギーを感じさせた。
母さんを元気づけるために、父さんは嘘を言ったのかな。
父さんの真意は分からない。
だけど……母さんが元気になってくれるなら、俺も嘘をついたと思う。
伊緒さんに、俺が死ぬつもりだっていうことを隠しているように。
彼女の記憶を消すつもりだっていうことを黙っているように。
俺たちはやっぱり親子だ。
「ありがとう、母さん。元気な母さんが大好きだよ。俺も父さんも、母さんを永遠に愛してる」
これは、本当の気持ち。
伊緒さんに伝えてもらったら、母さんは「倫也ったら」と言いながら笑って、泣いた。
「バカね。そんな感謝はいいから、早く戻ってきなさい」
俺は泣きながら頷いた。
「うん。ごめんね、母さん」
◇
病院からの帰り道はすっかり暗くなっていた。焼けたようなマゼンダ。滲んだ群青。
昨日の深夜の街並みよりは、全然明るいけど。
伊緒さんはずっと黙っていた。何か考え事をしていることは一目瞭然だった。
「伊緒さん」
「……何?」
「あとひとつで終わるけど……もう何も後悔はない?」
伊緒さんには心残りがひとつだけあるはずだ。でも俺はズバリとは言わない。天邪鬼な伊緒さんは、それを俺に言われると実行したくなくなっちゃうからだ。
「5分だけ……ひとりにして」
「うん。分かった」
俺が離れると、伊緒さんはスマホを取り出して長い間画面とにらめっこをしていた。そしてようやく何か文章を作り、誰かに送った。
終わった時、彼女は空を見上げてため息をついた。
そんな彼女の美しい横顔に星が降る。
「もういいよ」
「終わった?」
「うん」
直接会って言わなかったのが彼女らしい。多分、彼女が素直になるためにはその方が良かったんだろう。
俺の心からも錘がひとつ外れたようだった。
これでお互いにもう、思い残すことはなくなった。


