結論から先に言うと、伊緒さんのカラオケはひどかった。
100点どころか90点すら出せない状況だった。
理由は簡単だ。
伊緒さんは、歌を知らなかったから。
古い歌も新しい歌も全然知らなくて、覚えることも興味がないということだった。
青春を謳歌する歌は説教くさくてたまらないし、愛を歌った歌は嘘くさい。家族への思いを歌った歌でさえ、家族にいい思い出のない彼女には他人事で全く共感できないから、歌詞に気持ちを乗せて歌うことができない。
歌は心とよく言うけれど、本当にそうだと思う。
「これ……無理じゃない? 100点出すとか、不可能なんだけど」
「うーん。現実的に言うとそうだね……。俺も出したことないし」
「は? あんた、自分ができないことを私にやらせようとしたわけ?」
「できてたらやりたいことリストに入れてないよ!」
伊緒さんの歌を聞いていて気づいたんだけど、伊緒さんは決して歌が下手なわけじゃない。声も決して悪いわけじゃない。
感情を込めることができさえすれば、練習次第で90点台に行くことは可能だと思った。
「じゃあ一曲だけ、集中して練習してみようよ。これなんかどう? 感情が入りそう」
「『糸』……?」
「ちょっと古い歌だけど、名曲なんだよ。いろんな人がカバーしてる。伊緒さんが歌いやすいバージョンもきっとあるはずだよ」
縦の糸と横の糸で織りなす布はいつか誰かをあたためるかもしれない。
『糸』は、そんな、大きな人間愛を綴った歌だ。
「縦の糸が俺で、横の糸が伊緒さんだと思って歌ってみてよ」
「何それ。キモい」
「キモいって言うな! こっちは真剣なんだから!」
お互いにこれが最後だと分かっているから本音もぶつかり合う。
その一曲にだいぶ時間を費やし、「一回勝負ね」と言って、伊緒さんは本番で一度だけの全力歌唱をした。
縦の糸。
横の糸。
方向はまるで違うのに、重なり合ってやがてひとつの意味になる。
今の俺たちみたいに。
震えながら必死に搾り出す彼女の声に、ただ心が打たれて涙が止まらなかった。
キモいと言われても仕方ない。どうしようもなく彼女の歌が心に沁みたんだ。
AIの採点では抑揚がなく、ロングトーンもなく、ピッチもズレていて点数はやっぱり100点には届かなかった。でも俺の採点では満点だ。
カラオケで100点を出すって、こういうことだ。
彼女はまたきっちりと俺との約束を果たしてくれた。
「ありがとう、伊緒さん! 最高だったよ」
「……下手だったよ」
「上手い下手は関係ないんだ。俺の中で最高だったから。今まで聞いたどんな『糸』より、一番良かったよ」
本心でそう言うと、伊緒さんは恥ずかしそうにうつむいて、ソファーの上に置いてあった丸いクッションを拾い上げた。
「地縛霊シール、ここに貼って」
「え? なんで」
「いいから、貼って」
シールを貼り付けると、俺の胸に伊緒さんがクッションを押し当てた。何をする気だろうと思ったら、そのまま彼女はクッションをぎゅっと抱きしめた。
「い、伊緒さん……」
まるで伊緒さんが俺の胸に抱きついているみたいだった。
「勘違いしないで。今、顔を見られたくないだけ……」
小刻みに震えている彼女が、クッションに顔を押し付けて嗚咽を堪えているのを感じた。
「分かってるよ」
俺も涙を堪えながら、透明な腕で彼女をそっと抱きしめた。
いつまでもそばにいて、こうしていてあげたかった。
小さなおひとり様用のカラオケルームの片隅で。


