死にたがりの君に捧げる10の約束


 伊緒さんが何を言っているのか、俺には分からなかった。
 まるで知らない言語でしゃべっているみたいに意味不明だ。
 
 何も考えられない。
 何も受け入れられない。

「待って、伊緒さん……!」

 伊緒さんは微笑んだまま動かない。
「嫌だよ、俺……伊緒さんと離れたくない! 今日でさよならなんて絶対嫌だ!」
 情けないほど涙が溢れてきて、俺の膝を濡らした。


「好きなんだ、伊緒さん……! 死にたいなんて言わないで!」


 俺の叫びは、店中に反響した。
 それはあり得ないことだった。グラスの音や食器の音、肉が焼ける音やおしゃべりの声……あらゆる音で溢れていたはずの焼肉屋の空間から、俺以外の音が消えていた。
 音だけじゃない。
 皿を運ぶ途中の配膳ロボが止まっていた。網の下から燃え上がる炎が止まっていた。ダクトへ吸い込まれる煙が止まっていた。伊緒さんも、微笑んだまま止まっていた。

 俺以外の誰も、何も、動いていなかった。

「何これ……」
「俺が時を止めた」

 背後から声がして、俺は死ぬほど驚いた。
 振り向くと、そこには黒服スーツを着たKがいた。

「K……?」
「楽しいデート中に悪いな。緊急事態で、お前を連れ出したい。こっちの時間は止めといてやるから来いよ」
「何があったの……?」

 俺の頭は混乱しっぱなしだ。少しは説明が欲しかった。
 するとKは面倒くさそうに俺を見下ろして言った。

「お前のお袋さんが倒れた」

 俺の眼球が一点を見つめたまま動かなくなった。

「えっ……?」
「今、病院のベッドの上だ。お前に会いたがってる。連れて行ってやるから、声をかけてやれ」

 伊緒さんだけじゃなく、母さんまで。
 神様はひどい。
 
 どうして俺の大切な人たちを俺から奪おうとするんだろう。
 
「ほら、行くぞ」 

 母さんの運ばれた病院には一瞬で着いた。Kが俺の肩に手を置いて、その直後だ。
 目の前に病室の真っ白なベッドがあって、そこに母さんが寝ていた。腕には点滴の針が刺さっていた。

「母さん……!」
 俺は泣きながら母さんの顔を覗き込んだ。やつれている。肌がカサカサで、よく見ると皺も多い。いつも化粧で必死に隠しているクマやシミが白色電灯の下に晒され、母さんの年齢を浮き彫りにさせていた。

「どうして倒れたりしたの? 何かの病気?」
「ただの過労だ。死に直結するようなことじゃねえから心配するな。しばらく休んでれば治る」
「本当……? 良かった……」
「倫也……」

 母さんが俺の名前を呟いた。寝言なのか、目は閉じたままだ。

「ここにいるよ、母さん」
「倫也……ごめんね……」

 働けなくなったことを悔しがっているのだろうか。母さんの目尻から涙が溢れる。

「こっちこそごめん。母さんに無理ばかりさせて……」
 自分が情けない。
 声を殺して泣く。

「ゆっくり休んでてよ。もう歳なんだから」
 そんなこと言うとまだアラフィフだって怒られるかもしれないけど、事実だから仕方ない。

「母さんだけは自分の命を大切にして」
 
 透明な手で母さんを抱きしめた。
 俺の分まで長く生きてほしい。
 俺のせいでこれ以上自分の命を縮めるようなことをしないで。
 
 心の中で必死に祈った。
 
「俺がいつまでも未練たらしくこの世にいるから……母さんを苦しめているんだよな……」
 仮死状態で、寝ているだけで入院代を湯水のように使う俺の体が憎い。今すぐ生命維持装置を外してしまいたいくらいだ。
 それで、その分を母さんの入院費にしてほしい。

「俺はもう……」

 死んでもいい。
 そう言おうとした時だ。

「あの子の魂、刈り取ろうか」

 Kが言った。俺は驚いて顔を上げた。振り向けば、Kは冷酷な表情をしていた。

「賭けには勝ったんだろ。約束通り、あの子の魂を引き換えにしてお前を今すぐ生き返らせてやるよ。そうすればお袋さんはもっと元気になるぞ」
「……ダメだ!」

 俺は胸ぐらを掴む勢いでKに迫った。

「伊緒さんを殺さないで」
「お前、まだそんな甘いこと言ってんのか。もういいだろ? あの子もそう言ってる」
「俺……気づいちゃったんだよ。伊緒さんに比べて、今まで俺がどんなに幸せな思いをしてきたか」

 俺は伊緒さんの無でしかいられなかった表情を思い出す。
 
「親は片親だったけど、充分に愛情を注がれてきた。友達思いの友達を持って、毎日不安のない生活をして来られた。それに比べて伊緒さんには多分何もなかった。経済的な不安はなかったかもしれないけど、夢や希望、日常的に感じる幸福はほとんどなかったんだ」

 友達とゲームしたり、オシャレしたり、パフェを食べたり、遊園地に行ったり……。
 伊緒さんにはその楽しみ方を知る術もなかった。
 俺が当たり前に楽しんでいた人生を、彼女はまだほとんど知らない。
 くだらないと彼女にバカにされた日々にこそ本当の幸せがあることを、彼女は知らない。

「だから……伊緒さんの人生はここで終わっちゃいけないんだ。せめて俺が今まで感じていた些細な幸せの分くらいは味わうべきだ。伊緒さんに死なないでほしいんだよ。俺の分まで幸せになってほしい」
「幸せって何だ」

 Kは逆に俺の胸ぐらを掴んだ。

「カッコつけたこと言ってんじゃねえよ。あの子はきっとこう言うぞ。『私の幸せを、お前の価値観で決めつけんな』」

 Kの思いがけない反撃に、俺はちょっと狼狽えた。

「あの子は賭けに負けたから死ぬんじゃねえぞ。お前がいない世界に取り残されるのが嫌だからだ。お前の言う些細な日常に、お前がいなくなるのが嫌だからだ。そのくらいお前を好きだから──お前に生きててほしいからだ!」

 伊緒さん……。

 俺と手を繋いで、恥ずかしそうにしていた彼女の横顔を思い出した。
 
 ──あなたといると、苦しいの。だから早く消えてなくなりたい。早くあなたと離れて、楽になりたいの。


 あれは、自分の代わりに俺に生きていて欲しかったから?
 君は嘘つきだ。
 いつも、いつも。

 いつだって、嘘の中に本当の優しさを隠して。


 涙が溢れて、頬を伝う。その冷たさはもう感じない。
「分かってたんだ……」
 それでも涙が止まらない。

「ずっと分からないフリしてたけど……俺、本当は……いつかこうなる気がしてた。伊緒さんは優しいから、自分を犠牲にしてしまいそうな気がしてた」

 初めて会った時からずっと、伊緒さんの魂があたたかいことを俺は知っていた。
 そこに惹かれていた。
 知らないうちに、ずっと……俺は伊緒さんのことが好きだった。

 でも知らなかった。
 両思いになることが、こんなに辛いことだったなんて。


「K。お願いがあるんだ」
 俺はKの手にそっと自分の手を乗せた。

「もう少しだけ、俺たちに時間を貸して。伊緒さんと最後までやり遂げたいことがあるから」
「例の約束か」
「うん。それが終わったら……伊緒さんの記憶から俺を消して」

 Kは怖い顔で俺を見下ろした。

「俺のいない世界が嫌だっていうなら、もともと俺がいたことを忘れちゃえば何も辛くない……だろ?」
「お前……本気か?」
「やっぱ俺、伊緒さんが好きだから。伊緒さんが俺のこと好きだって分かったら、なおさら伊緒さんに死んでほしくないよ」

 Kの眼差しに負けないように、俺は強い意志で彼を睨み返した。

 やがて、俺の胸ぐらを掴んでいたKの力が緩んだ。
 彼は舌打ちをしながら俺を突き飛ばし、タバコを取り出して咥えた。病人がいるのに構わず火をつける。

「記憶を無くせる?」
「まあ……できねえこともねえけど」
「じゃあお願い」
「本当にいいのか、それで」

 伊緒さんは俺を忘れる。
 そして、いつか誰かに愛されて、幸せの意味を知る。
 俺がいなくても……。
 それでいいよな。

「うん。いいよ」
 

 頷いたその瞬間、俺の体は焼肉屋に瞬間移動していた。

 騒がしい音と、目の前の伊緒さんが動き出す。彼女は俺を見て少し目を丸くした。

「どうしたの?」
「え?」
「泣いてる」

 ポタポタと膝の上にこぼれ落ちる涙。
 俺は照れ笑いしながら涙を拭いた。

「だって、伊緒さんがさよならなんて言うからだよ」
「……ごめんね」
 珍しく素直に、伊緒さんが謝った。
「私、あなたを泣かせてばかりだね」
「そうだよ。ひどいよ、伊緒さん」
「出会わなければ良かったかな」
「それは違う」

 俺は伊緒さんに会えて良かった。
 さよならと言われて泣けるほど、好きな人に会えて良かった。
 言葉にはせず、俺は無理やり微笑んで席を立った。
 

「行こうか、カラオケ。伊緒さんの十八番を聞かせてよ」