それから二日間、伊緒さんは俺の前に姿を現さなかった。
待ち合わせ場所の屋上にはもちろん、学校も休んでいるようだった。
俺と会うのが嫌になったくらいで、学校まで休むとは考えられない。
次第に俺は、彼女の身に何か起きたんじゃないかと心配するようになった。
そういえば、伊緒さんのお母さんは家事をしないって言っていたから、伊緒さんは自分の食事をコンビニやスーパーの惣菜などで買って食べているようだった。彼女のことだから、自分を労るようなバランスの取れた食事をしているとは思えない。
もしそんな不健康な食生活を続けていて体調が悪くなったのだとしても、彼女にはつきっきりで看病をしてくれる人がいない。
お母さんは自分の娘のことよりも若いホストにご執心だと伊緒さんが言っていた。
あの時はただ自分の親との違いにびっくりしていたけど、これってネグレクトっていうやつだよな。伊緒さんは親に虐待を受けているんじゃないか?
今頃気づくなんて、俺はバカだ。
ますます心配になってきて、居てもたってもいられなくなってきた。
「……来ちゃった」
目の前に聳える、鉄壁の要塞こと伊緒さんのタワーマンション。
伊緒さんが学校を休んだ3日目の夕方、俺はとうとう彼女の居宅にやってきてしまった。
外からチラッと覗くだけだ。元気な姿を確認するだけ。何でもなければいい。人感センサーに反応しない俺は、自動ドアも開かないしエレベーターのボタンを押すこともできないので、外壁に沿って24階まで浮遊する。
でも俺は一つだけ忘れていた。このタワーマンションの窓はマジックミラーになっていて、中が見えないってことだ。窓に映るのは俺の背後の美しい夕焼けだけ。光が反射して、眩しくて何も見えない。
どうしよう……。
困り果てていた時、伊緒さんちのリビングの中からイライラしたような大人の女性の声がした。
「あんたまだそれやってたの? 今朝からずっとじゃない。学校も休んで、下らないゲームばっかり。頭が腐ったの?」
ゲーム?
窓に耳をくっつけて、できるだけ中の音を拾う。下手すりゃガラスを突き抜けちゃうから、慎重に。
すると、『スペースガールズ大戦〜戦場に咲いた花たちへ〜』略してスペガの戦闘ミュージックが流れているのがわずかに聞き取れた。
「伊緒さん……!」
まさか……休んでいたのは、俺のゲームをクリアするため……?
一瞬の驚きとじわじわやってきた喜びを感じていると、再び伊緒さんのお母さんと思われる女性の声がした。
「いい加減にやめなさいよ! 何よ、私への当てつけなの⁉︎ あんたまで私をバカにして……! ねえ、無視しないでよ!」
「やめて!」
唐突にゲーム音楽が消えた。どうやら伊緒さんのお母さんがゲームの電源を切っちゃったみたいだ。
「こんなもの、どこから手に入れたの?」
「……どこからだっていいでしょ」
伊緒さんはいつもの淡々とした声だ。その声が聞こえただけでもホッとする。
「男ができたの? 彼氏の趣味に合わせようってわけ?」
「そんなんじゃない」
「無駄よ。あんたみたいに可愛くない子、どんなに努力したってどうせ誰にも愛されやしない」
……なんて酷いことを。
俺は自分の耳を疑った。
それが自分の娘に言う言葉なのか?
思わず飛び込んでいって反論したくなったけど、ぐっと堪える。
伊緒さんの母親の攻撃はまだ続いている。
「いつだってブスッとしていてつまらない子ね。どうしてあんたみたいな子が楽しくやってて、私ばっかり辛い目に遭うの?」
「別に……楽しくなんかない」
「楽しんでるじゃない! 嘘ばっかりつかないでよ!」
「……そう?」
伊緒さんは冷たい声を出す。
「あなたこそ、パパのお金でやりたい放題楽しくやってるじゃない。どこが不幸なの?」
伊緒さんの言葉で、リビングの中は真空になったみたいに音が消えた。
「お金目当てで私を無理やり生んだくせに、うまくいかなかったら私のせい? だからパパは帰ってこなくなったのよ」
「……っ当に可愛くない!」
何か固いものが床に叩きつけられる音がして、誰かが去っていく足音がした。伊緒さんは大丈夫だろうか。確認したいけど、今入って行ったら盗み聞きしていたことがバレてしまう。
「いつまでそこに張り付いてるつもり?」
すると、窓のそばで伊緒さんの声がした。
「知らないようだから教えてあげる。マジックミラーは、中にいる人間からは外が丸見えなのよ」
「あっ……!」
つまり、俺が聞き耳を立てていた姿も伊緒さんからは見えていたということだ。
「入ったら? 今、ちょうど誰もいなくなったから」
「……ごめん」
なんて言ったらいいのか分からず、とりあえず謝りながら彼女の家のリビングに入った。
床にはテレビのリモコンが電池を飛び散らせていた。伊緒さんが拾い上げながら原形に戻している。
「何に対して? 覗き? 聞き耳? 私にバカヤロウって言ったこと?」
「俺、いっぱいやらかしてるな……」
「全部、気にしなくていい。私も気にしてないから」
「いや、伊緒さん……大丈夫じゃない、でしょ?」
あんなことを毎日言われ続けていたら死にたくもなるよな。
彼女は背を向けたまま、淡々として言う。
「大丈夫よ。あの人、昔からああなの。もう慣れたわ」
「慣れなくていいよ、そんなこと。慣れちゃいけないよ……」
「だったらいちいち傷ついていればいいの?」
振り向いた彼女は無表情だった。
「そんなの疲れるわ。人の感情に振り回されて、こっちが悩むなんて馬鹿げてる。そういうのはゲームの中だけで充分よ」
伊緒さんはテレビをつけて、ゲームを再開した。
場違いに明るくて可愛い女の子の歌声が流れる。
「リリカの好感度下げるたびにやり直してたから時間がかかった」
メニュー画面が開くと、リリカの好感度も親密度もマックスになっていた。伊緒さんがデータを削除する前の状態に完全復活している。
「うそ……!」
俺は驚いて、思わずソファーを突き抜けて伊緒さんに駆け寄った。
「伊緒さん、ありがとう! 嫌いな女子を攻略するのって大変だったよね⁉︎ 俺のために……頑張ってくれてありがとう!!」
「……うざ」
伊緒さんはプイッと横を向いた。
「さっさと終わらせたかっただけよ。あなたと一刻も早く離れたいから」
「理由はどうでもいいよ。ありがとう、これで拓巳にやっと返せる!」
「拓巳……?」
「友達から借りたゲームなんだ、これ。死ぬ前にどうしてもエンディング見てから返したくてさ。だから……ありがとう」
びっくりしすぎて涙が出てきた。
そのままそっぽ向いていてくれたら良かったのに、伊緒さんはゆっくりとこっちを向いた。さっきまで目の奥で鋭く光っていた棘が少しだけ丸くなっているように見える。
「さっさと座れば? エンディング、見たいんでしょ」


