まだ、第一志望じゃない

金曜日。
六時間目の総合の授業が始まる前、先生が教室に入ってきた。
「今日はちょっと予定を変えて、これやります」
そう言って先生が配ったのは、一枚の白い紙だった。
「え、なにするのー?」
周りからそんな声が上がる。
先生は教卓の前に立って、少し笑った。
「17歳の自分に手紙を書いてもらいます。みんなにとって二年後。
高校二年生になって、文理選択も終わってて、夢に向かって進んでる頃かな?」
クラスメイトの一人が、
「私はダンス頑張ってると思う!」
と、言った。
「彼氏できてたりしてー」
と、別の子が笑いながら言う。
教室に笑い声が広がる。
みんな17歳の自分を想像できているんだ。
私は配られた白い紙に目を落とした。
17歳。
二年後の私は、何をしているのかな。
どこの高校にいて、何を好きになっている?
将来、何になりたいと思っている?
......分からない。
二年後ってまだ先のような気がする。
でも考えてみればたったの二年で、今までの中学校生活くらい。
それなのに、私には未来の自分を想像できなかった。
私はシャープペンシルを持って、紙の一番上に、
『17歳の私へ』
と書いた。
でも、その先は書けなかった。
周りからシャープペンシルを走らせる音が聞こえていた。
「高校は絶対バレー部入る!」
「私はソフトテニス続けたいなー」
「二年後の私ちゃんと勉強してるかな?」
そんな声が、聞こえてくる。
私はもう一度紙を見た。
『17歳の私へ』
その下は、真っ白だった。
何を書けばいいんだろう。
「高校はどこ?」
そう書こうとして、手が止まる。
まだ決まっていない。
「将来の夢は?」
それも書けない。
「高校生活は楽しい?」
それだって、分からない。
私はシャープペンシルの先を紙に当てたまま、動かせずにいた。
そのとき、
「すずちゃん、進んでる?」
先生が話しかけてきた。
私は、何も答えられなかった。
数秒、フリーズしていたと思う。
でも、何か言わなきゃ。
それだけを考えて、やっとのことで
「二年後の私が想像できなくて」
「そっかー。とりあえず分かるところだけ書いてみたら?」
「はい、そうします」
それしか、言うことができなかった。
分かるところも何もない。
だから、書けないのだ。
三十分ほど、ずっと考えているうちに、チャイムが鳴った。
STも終わって、書記の仕事をしているとき。
「すずちゃん、いつもありがとね」
「いえ、それが仕事なので、!」
「まだ17歳への手紙、悩んでる?」
先生がそう、聞いてきた。
「はい...自分が行きたいなって思う高校はあるんですけど、第一志望も決められないし、夢もまだなくて。
だから自分がどこの高校に行って何をしてるのか、何も分からなくて」
先生は頷きながら、私の話をしっかり聞いてくれた。
「英検とかも何もないし、今日だってみんな17歳の自分を想像できてて。
なんか周りは進んでいってるのに私だけ置いてかれてる気がして」
「お母さんたちだって、自分で決めていいよって言ってくれたんです。
でも、それが私には、自分で決めなさいって言われているようにも聞こえて。
自分で選べるのって幸せなことだと思ってます。
お母さんたちが私を困らせたいわけじゃないことも分かってる」
「それでも、私には自分で決めなきゃいけないって言われてるような気がして」
私は俯いた。
「もうどうしたらいいんですか?」
私は正解が知りたかった。教えてほしかった。
自分じゃ決められない。
正解はこれだよって、導いてほしかった。
だから最後どうしたらいい?って聞いた。
でも、先生はそんな私の期待に応えてはくれなかった。
「そんなに悩んでるってことは、それだけ真剣に向き合ってるってことだよ。
多分だけど、親御さんもすずちゃんには、すずちゃんの人生を送って欲しい、そう思ってるんじゃないかな」
「あとね、これだけは覚えておいて。
すずちゃんの選択を誰がなんと言おうとすずちゃんが三年間、笑って楽しく過ごせる。
それが一番だから」
私はその言葉を聞いても分からなかった。
どこでも楽しいと思う。
でも、自分が三年間そこで過ごしている姿を思い浮かべられない。
「ありがとうございます。もうちょっと、考えてみます」
そう言って、私は教室を出た。
結局、答えは見つからなかった。
先生が悪いわけじゃない。
ちゃんと話を聞いてくれた。
でも。
「三年間、笑って楽しく過ごせるところ」
それが分からないから、困っているのだ。
どこの学校でもきっと、友達ができて、行事があって、くだらないことで笑ったりもするんだと思う。
でも、それなら。
どこを選んでもいいことになる。
廊下から窓の外を見ると、校庭には部活動をしている人たちの姿が見えた。
あの人たちは、第一志望、決まっているのかな。
何になりたいんだろう。
そんなことを考え、空を見る。真っ青な空に白い雲が自由気ままに浮かんでいた。
雲を見ると落ち着く。
雲はどんどん流れていって、形だってすぐ変わっていく。
心のモヤモヤが晴れていくように。
だから、私は空を見上げるのが好き。
でも、最近の私の心の中は雲ばっかりだ。
全然流れていってくれない。一筋の太陽の光も差さない。
どうして私は、みんなと違うの?
どうして、みんなみたいに決められないの?
そんな自問自答を繰り返しながら、校門をくぐった。
帰り道。
美羽からメッセージが届いた。
『今日、帰ったら課題やらなきゃ〜』
私は、
『私も』
と返した。
少しだけスマホを見つめる。
昨日まで喧嘩していたのが嘘みたいに、今日は普通に話せた。
それだけで、少し安心した。
でも、胸の奥に引っかかっているものは、まだ消えていなかった。
家に帰って、弟たちと少し話をして、夕飯を食べた。
自分の部屋に戻る。
そうすると、机の上に置かれた一枚の紙が目に入った。
『第二回進路希望調査』
その文字を見ただけで、胸が重くなる。
第一志望。
第二志望。
第三志望。
いくつかの高校の名前を書いては消した跡。
その中に、私が行きたいと思っている高校もある。
ちゃんと、行きたいと思える場所はある。
なのに。
どうして一つに決められないんだろう。
どうして「ここに行きたい」と言い切れないんだろう。
私は椅子に座った。
今日の先生の言葉を思い出す。
――三年間、笑って楽しく過ごせる。それが一番。
「分かんないよ」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「そんなの、行ってみないと分かんない」
言った瞬間、自分でも驚いた。
目の奥が熱くなった。
私は慌てて顔を伏せる。
泣くほどのことじゃない。
そう思った。
たかが進路だ。
まだ中学生で、高校に入るまで時間はある。
なのに。
一度こぼれた涙は、止まらなかった。
「......なんで?」
何に泣いているのか、自分でも分からない。
第一志望が決められないから?
資格がないから?
夢がないから?
周りがどんどん進んでいるように見えるから?
二年後の自分さえ想像できなかったから?
先生から答えをもらうことができなかったから?
全部だった。
今まで、ひとつずつなら大丈夫だと思っていた。
進路はまだ決まってない。
資格はこれから取ればいい。
夢だって、そのうち見つかる。
そう思っていた。
でも。
全部が重なったら、息ができなくなるくらいに苦しかった。
私は机に突っ伏した。
「私だって...」
声が震える。
「私だって、ちゃんとしたいよ」
何をちゃんとしたいのか分からない。
ただ、みんなみたいに。
「私はここに行きたい」
って言いたかった。
「将来はこれになりたい」
って言いたかった。
「これを頑張ってきた」
って言えるものが欲しかった。
でも、私には何もない。
そう思った瞬間、また涙が溢れた。
何もない。
何も決められない。
何もわからない。
このまま高校に入ったら?
高校で三年間過ごして、それでも何も見つからなかったら?
大学に行って、それでも何になりたいか分からなかったら?
その先もずっと、何も見つからなかったら?
「......やだ」
初めて、はっきりと言葉になった。
何が嫌なのか、自分でも分からなかった。
ただ、この先もずっと、こんなふうに何も分からないままだったらと思うと、怖かった。
私は顔を上げた。
涙でぼやけた机の上に、進路希望調査が置かれている。
その紙には、まだ空欄が残っていた。
私はその空欄を見つめた。
何かを選んだ瞬間に、選ばなかった未来が消えてしまう気がする。
もし選んだ先にも何もなかったら?
もし高校に入っても、大学に行っても、何も見つけられなかったら?
そのとき私は、何を選んだことになるんだろう。
ここまできて、やっと分かった。
私が怖かったのは、第一志望を決められないことじゃなかった。
資格や夢がないことでも、周りに置いていかれることでもない。
もちろん、それも怖かった。
だけど、本当に怖かったのはーー
高校を選んで、その先へ進んだとき、そこに何が待っているのか分からないことだった。
どれだけ考えても、未来の自分が見えない。
選んだ先で、何も見つからなかったら。
頑張ったのに、やりたいことが見つからなかったら。
間違った道を選んでしまったら。
私は、ずっとそのことを怖がっていたんだ。
「......正解が、欲しかったんだ」
声に出してみると、ひどく幼い言葉に聞こえた。
この高校を選べば大丈夫。
この道を選べば、きっと幸せになれる。
そう言ってくれる人がいたら。
私は安心して、その道を選べたのに。
でも、そんなことを言ってくれる人なんていない。
だって、誰にも私の未来は分からないから。
お母さんにも。
お父さんにも。
先生にも。
美羽にも。
もちろん、今の私にも。
分からない。
私はしばらく泣いた。
気づけば、外はすっかり暗くなっていて、その日、私は泣き疲れて眠りに落ちた。


翌朝、目が覚めても、昨日のことは夢じゃなかった。
枕元には、昨日泣いたまま眠ってしまったせいで、少し湿った跡が残っていた。
目が腫れていたから、今日学校がないことに少しだけホッとした。
私はしばらく天井を見つめていた。
昨日、あれだけ泣いたのに。
第一志望は決まっていない。
資格もない。
将来やりたいことも分からない。
何一つ、変わっていない。
着替えて、一階に降り、顔を洗ったり、ご飯を食べる。
部屋に入って、机に置いてある進路希望調査と資格確認書、そして、昨日の17歳へ手紙。
その三枚の紙を見る。
それらから目を逸らしたくなる。
でも、提出日が近づいている。
書かなきゃいけない、と思って、椅子に座る。
資格確認書が初めに目に入る。
資格欄は、昨日と同じだった。
何もない。空欄。
でも、昨日ほど、その空欄に恐怖はなかった。
何も資格がないことじゃなくて、この先、進み続けても何も見つからないことが怖かったんだって気づいたから。
次に、進路希望調査。
まだ、どれが正解かわからない。
でも、今の私が一番知りたい場所ってどこだろう?
美羽の言葉を思い出す。
「嫌なところもあるよ。でも、それ以上に行きたいって思った」
私は一校ずつ、
私がこの高校に行ったら、三年間楽しい?
分からない。
将来やりたいことが見つかる?
分からない。
この高校が正解?
これも分からない。
そんな質問を繰り返していくうちにもっと知りたい、と思った学校があった。
昨日までの私なら見つけられなかった。
でも、今の私なら見つけられた。
私はシャープペンシルを持つ。
第一志望。
その四文字を、もう一度見る。
昨日まで、この欄が怖かった。
一つ書いたら、他の三つを捨てることになる気がした。
だけど、今は少しだけ違う。
一つを選ぶことは、他の三つが間違いだったと決めることじゃない。
今の私が、今の私なりに選ぶだけ。
私は、ゆっくりとペン先を紙に置いた。
第一志望:海星高校
書き終わった文字を、しばらく見つめる。
海星高校なら、まだ何も決まっていない私でも、いろんなことを見つけられそうだと思ったから。
学校案内を見て、いろんな授業や活動があることを知った。
興味を持ったことに挑戦できる場所がある。
将来何になりたいのか分からない私にとって、それは少しだけ安心できることだった。
ここに行けば、夢が見つかる。
そんな保証があるわけじゃない。
それでも、ここでなら何かを見つけられるかもしれない。
そう思えた。
それだけで、今の私には十分だった。
でも、資格確認書の欄は空っぽだった。
それでいい。たぶん。
夢も未来も分からないけど。
今の私には、まだ何もない。
それはきっと白いキャンバスみたいなものなんだと思う。
これから自分の色を使って、たった一枚だけの絵を描いていく。
どんな絵になるかは、まだ分からない。
でも、「何もない」と「何もできない」は、きっと違う。
もう一つ、残っている白い紙。
私はそれを手に取った。
『17歳の私へ』
その下は、真っ白だった。
昨日、そこまで書いて止まった紙。
朝から何度も見た白い紙。
昨日までの私なら、この白さが怖かった。
何も書けない。
何も分からない。
何も決まっていない。
そんな自分が、そのまま紙に映されているような気がして。
でも、今は少しだけ違った。
私はシャープペンシルを持ち直す。
17歳の私は、どこにいるんだろう。
海星高校にいるのかな。
それとも、別の高校にいるのかな。
そんなことを考えて、少しだけ笑った。
まだ分からない。
今日、海星高校を第一志望に書いたけれど、それだって絶対に変わらないとは言えない。
もしかしたら、これから別の高校を好きになるかもしれない。
誰かの言葉で、気持ちが変わるかもしれない。
それでいいのだと思う。
だって私は、まだ何も知らない。
まだ、何も決まっていない。
だったら、これから知っていけばいい。
私はゆっくりと、紙に文字を書いた。
『やりたいことは、見つかりましたか?』
一文字ずつ書いていく。
『高校生活は、楽しいですか?』
少し考えてから、続ける。
『今も、美羽と仲良くしていますか?』
その文字を書いたところで、昨日のことを思い出した。
「私だって、迷ってるよ」
美羽の声が、頭の中に浮かぶ。
昨日までは美羽が、いや、みんなが私より先を歩いているように見えていた。
でも、きっと違った。
みんな見えないものを抱えながら、それでも歩いている。
私だけが立ち止まっていたわけじゃない。
ただ、私は周りの人の足元しか見ていなかったのかもしれない。
私はもう一度、紙を見る。
『私は、ちゃんと心から笑えていますか?』
『今の私は、迷い続けています。
正解が何か、正解である道を進むのが幸せなのか、幸せとは何か、それでさえ分かりません。
そして、今のあなたも正解が何かだなんて分からないと思います。
きっと、迷いながら進んでいると思う。
でももし、あなたの進んできた道が正解じゃなくても、私はあなたが幸せって思えていたら嬉しいです。
正解であることが幸せなのなら、あなたがこれまでの私を正解に変えてください』
そして、最後に一つだけ書き足す。
ペン先が止まる。
その問いの答えを、私は知らない。
今の私には、未来の私の気持ちなんて分からない。
でも。
分からないからこそ、聞いてみたかった。
二年後の私が、この手紙を読んだとき。
今とは違う何かを見つけているかもしれない。
夢ができているかもしれない。
まだ何も見つかっていないかもしれない。
それでも、そのときの私が、自分の人生を自分なりに歩いていてくれたらいいと思った。
私は手紙を読み返す。
短い手紙だった。
それでも、昨日の私には書けなかった。
白い紙を前にして、何も書けなかった私が。
今は、少しだけ未来の自分に言葉を渡せている。
机の横には、進路希望調査と資格確認書が置いてある。
第一志望の欄には、海星高校と書かれている。
資格確認書は、空欄のまま。
夢も、まだない。
未来だって、見えない。
それでも。
何もない。
そう思っていた昨日とは、少しだけ違う。
何もないなら、これから書いていけばいい。
何も決まっていないなら、これから決めていけばいい。
きっと、全部を一度に決める必要なんてない。
私は手紙を折りたたんだ。
封筒に入れる前に、もう一度だけ表を見る。
『17歳の私へ』
二年後の私。
あなたは、どんな人になっていますか。
私はまだ、分からない。
でも。
少しだけ、楽しみにしてみようと思う。
そう思いながら、私は白い封筒に手紙をしまった。
まだ、これでいい。
だって私は、まだ中学生だから。
まだ、知らないことばかりだから。
まだ、何者でもないから。
だからきっと。
これからなんだ。
私が一番あなたに聞きたいと思ったことはーー

「あなたは今、幸せですか?」