第七話
結局、四人の先輩の意思は固く、流石の真田先輩も「うん」と言わざるを得なかったみたいだった。
「夏のインターハイ、頑張れよ」
それだけを残して、先輩達が去った後、剣道場には何とも言えない空気が流れていた。
だけど僕はそんなことよりも――
背中から弁木先輩の温もりと重みが消えたことが、寂しくて仕方なかった。
(カムバック、弁木先輩!)
さっきまで背中にあった胸板の感触を思い出しながら、僕は心の中で叫ぶ。
(……本当は、ヴァニラより、シトラスの柔軟剤の方が好きだったんだけど、多くを望んじゃダメだ。明日はシトラスでありますように!)
そんなことを思いながら、僕も立ち上がる。
今日もいつもと変わらない稽古が始まるんだ。そう思って、少し憂鬱な気分に浸っていると、
「悪い。先生と話もしたいし、今日の練習は無しでいいか?」
真田先輩が、手にした退部届の束を見下ろしながら言った。
誰も異論を唱えなかった。
剣道大好き、練習命の弁木先輩も何も言わなかった。
もしかしたら――弁木先輩も、思っている以上にショックだったのかもしれない。
剣道場を出ようとした時、ふと振り返る。
そこには、高いところに据え付けられた小さな神棚に向かって、背筋を伸ばし正座する真田先輩の背中が見えた。
真田先輩は小学校から剣道を始め、大人に混じって何度も入賞を果たしている、剣道界隈では有名な選手だ。
ずっと剣道と共に在った真田先輩に言わせれば、僕の大好きな弁木先輩も、まだまだ青いらしい。
真田先輩も、弁木先輩も、僕にとっては雲の上の人のような存在には変わりない。
部室に戻るまでの廊下を、弁木先輩の、真っ直ぐに前を見据える横顔を見ながら思う。
こういう時、弁木先輩を支えられたらなって思う。
だけど、僕なんかでは支えられるはずもなかった。
常に退部届を胸に抱え「痛いのが嫌だから辞めたい」なんて言う僕では――。
部室に戻っても、弁木先輩は何も話さなかったし、僕も何も言えなかった。
静かに制服に着替え、襟を整えていた時。
「なぁ、何か食って帰らないか?」
弁木先輩から、初めて寄り道することを誘われた。
僕は、瞳を輝かせると、二つ返事で頷いた。
もはや店は、帰り道でなくてもいい。むしろ一緒にいられる時間が長くなるなら、地球の裏側にだって行きたい。
僕は胸元に入れていた退部届を、意気揚々とロッカーに捩じ込んだ。
そして、カバンを背負うと、それこそ飛び跳ねるような軽やかな足取りで部室の外に出る。
弁木先輩にとっては、四人の先輩の離脱はショックだったのかもしれない。
だけど、よくよく考えてみたら――四人の先輩がいなくなったところで、僕には何の支障もない。
これっぽっちも寂しいとも思わない。
だって、穴が空く隙間もないほどに、僕の胸は弁木先輩のことでみっちみちだからだ。
むしろ僕にとっては、辞めてくれたことに感謝しそうな勢いだった。
だって、初めて弁木先輩に、学校帰りに「何か食って帰らないか?」なんて、誘ってもらったんだから!
誘われたことの方が何倍も嬉しかった。
四人の先輩と天秤に掛けたって、何十倍も重い大切なことだった。
だけど――。
弁木先輩に誘われて部室を後にしたこの後。
僕はまたしても、退部届を提出するチャンスを失っていただなんて、知る由もなかった。
結局、四人の先輩の意思は固く、流石の真田先輩も「うん」と言わざるを得なかったみたいだった。
「夏のインターハイ、頑張れよ」
それだけを残して、先輩達が去った後、剣道場には何とも言えない空気が流れていた。
だけど僕はそんなことよりも――
背中から弁木先輩の温もりと重みが消えたことが、寂しくて仕方なかった。
(カムバック、弁木先輩!)
さっきまで背中にあった胸板の感触を思い出しながら、僕は心の中で叫ぶ。
(……本当は、ヴァニラより、シトラスの柔軟剤の方が好きだったんだけど、多くを望んじゃダメだ。明日はシトラスでありますように!)
そんなことを思いながら、僕も立ち上がる。
今日もいつもと変わらない稽古が始まるんだ。そう思って、少し憂鬱な気分に浸っていると、
「悪い。先生と話もしたいし、今日の練習は無しでいいか?」
真田先輩が、手にした退部届の束を見下ろしながら言った。
誰も異論を唱えなかった。
剣道大好き、練習命の弁木先輩も何も言わなかった。
もしかしたら――弁木先輩も、思っている以上にショックだったのかもしれない。
剣道場を出ようとした時、ふと振り返る。
そこには、高いところに据え付けられた小さな神棚に向かって、背筋を伸ばし正座する真田先輩の背中が見えた。
真田先輩は小学校から剣道を始め、大人に混じって何度も入賞を果たしている、剣道界隈では有名な選手だ。
ずっと剣道と共に在った真田先輩に言わせれば、僕の大好きな弁木先輩も、まだまだ青いらしい。
真田先輩も、弁木先輩も、僕にとっては雲の上の人のような存在には変わりない。
部室に戻るまでの廊下を、弁木先輩の、真っ直ぐに前を見据える横顔を見ながら思う。
こういう時、弁木先輩を支えられたらなって思う。
だけど、僕なんかでは支えられるはずもなかった。
常に退部届を胸に抱え「痛いのが嫌だから辞めたい」なんて言う僕では――。
部室に戻っても、弁木先輩は何も話さなかったし、僕も何も言えなかった。
静かに制服に着替え、襟を整えていた時。
「なぁ、何か食って帰らないか?」
弁木先輩から、初めて寄り道することを誘われた。
僕は、瞳を輝かせると、二つ返事で頷いた。
もはや店は、帰り道でなくてもいい。むしろ一緒にいられる時間が長くなるなら、地球の裏側にだって行きたい。
僕は胸元に入れていた退部届を、意気揚々とロッカーに捩じ込んだ。
そして、カバンを背負うと、それこそ飛び跳ねるような軽やかな足取りで部室の外に出る。
弁木先輩にとっては、四人の先輩の離脱はショックだったのかもしれない。
だけど、よくよく考えてみたら――四人の先輩がいなくなったところで、僕には何の支障もない。
これっぽっちも寂しいとも思わない。
だって、穴が空く隙間もないほどに、僕の胸は弁木先輩のことでみっちみちだからだ。
むしろ僕にとっては、辞めてくれたことに感謝しそうな勢いだった。
だって、初めて弁木先輩に、学校帰りに「何か食って帰らないか?」なんて、誘ってもらったんだから!
誘われたことの方が何倍も嬉しかった。
四人の先輩と天秤に掛けたって、何十倍も重い大切なことだった。
だけど――。
弁木先輩に誘われて部室を後にしたこの後。
僕はまたしても、退部届を提出するチャンスを失っていただなんて、知る由もなかった。
